写真・言葉・書で時代を飾る、藤原新也さんの「書行無常展」が開催

11月の5日より27日まで、藤原新也さんの「藤原新也の現在 書行無常展」が開催されている。

■藤原新也の現在 書行無常展
2011年11月5日(土)~27日(日)
東京都千代田区外神田6-11-14
3331 Arts Chiyoda
http://3331.jp

かねてよりおいらも注目しているアートのスポット「3331 Arts Chiyoda」が会場となっている。

たしか昨年の頃より、雑誌「プレイボーイ」誌にて連載されていた新也さんの「書」にまつわるアート活動がテーマとなっていて、これまでのどんな展覧会にも似ていないつくりになっているという印象をもった。

テーマは「諸行無常」ならぬ「書行無常」である。新たに「書」というテーマを引っさげて行なった展覧会なのか? 或は関係者が企画して新也さんに提案して実現したものなのかは定かではない。

はっきりしていることの一つは、以前の新也さんのどの写真展とも異なっているのは、写真家から行動家へと少しばかり、依って立つ立ち位置を動かしたということだろう。写真家・新也さんとしての顔以上に行動家、活動家としての顔が前面に出て来ているのであり、新しい出会いであったという印象を強く抱いている。

藤原新也さんの新境地を築いた名著「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

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清々しい掌編小説のような物語が重なり合って、特異な本の世界が築かれている。テーマをあえて述べるならば、「生」と「喪失」とでも云えようか? 古くから作家・藤原新也さんが追求してきた最も重要なテーマだが、その表現方法やスタイルは少々意外な感じがする。それくらいに、以前の作品群とは異質の味付けが施されているのだ。

云わば敗者の視線でこの世を解き明かす試みとでも云えようか。作家自身の市井の人々との交友が、その素材として選ばれている。新也さんの世界観が新しい素材を得て、新しい物語を紡ぎだしている。表面的なインパクトは影を潜め、代わりに立ち昇ってくるのは充溢した生の存在感だ。極めて強く共感される生の存在感が匂い立っているような、不思議な物語が詰まった、稀有な一冊なのである。

改めて記すが、藤原新也さんといえば、写真家、或いはエッセイスト、ジャーナリスト等々の顔を持つ、マルチな才能を発揮して活動を続けるアーティストである。生と死に対する洞察力は、我が国の文化人の中でも抜きん出ており、写真やドローイングという作業を通してそのイメージを可視化させている。その手技、方法論に驚かされるばかりでなく、彼の底流に流れる思想性が滲み出ていて、感動させずにはおかない。

ときに「真実」と一体として存在する世界の「闇」を、独特のイメージとして現出させたりもする。漆黒の闇を写し取ることに関していえば、藤原新也氏以外のアーティストは存在感を失っていく。世界に唯一人ともいえるくらいに、漆黒の闇の表現者としては稀有なアーティストなのだ。

藤原新也「死ぬな生きろ」を読んで思う

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藤原新也さんが上梓した新刊本「死ぬな生きろ」は、出版界のみならず様々なジャンルの人々に衝撃的に受け止められているようだ。その最たるターゲット、矛先となっているのが写真界。

「写真はアナログに限る」「フィルムの良さはデジタルには適わない」等々のアナログ至上主義の風潮は未だに根深いものがあるが、新也さんはあっさりとそうした風潮をしりぞける。

藤原新也さんは、昨今のデジタル写真の世界に対しても、積極的に関与していこうという強い意識を感じ取るのである。その為の様々な実験や研鑽を積み重ねている。その成果が新刊本「死ぬな生きろ」に凝縮されている。

さらにまた新しい試みとして「書」に取り組んでいる姿が読者にインパクトを与えている。これまでエッセイ、ドキュメント、等々のスタイルで大きな足跡を築いてきた彼だが、まったく新しい「書」という表現のジャンルを取り入れることにより、藤原さん自ら新しい表現スタイルに挑戦する意思を公にしたとも云える。余計な「意味」というものをぎりぎりまでに排除することで浮かび上がってくるもの、それを表現と呼んで良いのかわからないが、固陋な出版業界に新鮮な風を吹かせていることは明らかな事実なのである。

1978年藤原新也さんが「逍遥游記」で木村伊兵衛賞受賞。

おいらがまだ多感な時代、この1冊に出逢ってまさに震えていたことを想い出す。何か魂を震撼させるに足るオーラが、書籍の後ろから立ち上ってくるのを感じていた。「逍遥游記」(朝日新聞社)から立ち昇るかの巨大な視野から発せられるオーラが、おいらの心の中を射抜くようにして聳え立っていた。

前にも後にもこの体験に勝る写真との邂逅は無かったといってよい。太宰さんの小説文学とはまた異質なものであった。どうしてこんな写真が撮れるのだろう? おいらの疑問は解明されること無く現在も続いているのである。じゃんじゃんっと。

藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。

藤原新也「渋谷」少女たちの世界観

藤原新也さんの「渋谷」を読了した。

この本に登場する人物は多くない。主に3人の少女と、写真家藤原新也さんとの交流にスポットが当てられており、それ以外の人物や事象については、たぶん意識的にであろう、あえて脇役の役をあてがえられている。3名の少女にスポットを当てた新也さんの想い入れは相当なものだったろうと推察されるのである。

おいらがルポライターとして、渋谷あるいは青山、六本木、原宿、等々の街中に行き交う少女たちを取材・執筆していたのは、かれこれ20年近くの時を隔てたときであった。当時の少女たちはと云えば、軽々しく高校中退を語って自らを主張していたり、あるいはメディアにはびこる軽薄な語彙を身にまとっては、自らをアピールしていた。そんな現象をおいらは「メディアキッズ」と称しながらの、取材体験が続いていたのだ。

「高校生の崩壊」(双葉社)という1冊にまとめたそのドキュメントは、教育の現場における「崩壊」をテーマとしていた初めての書籍である。その嚆矢となるべき1冊であった。良い意味での軽さ、織田作之助流のいわゆる軽佻浮薄さを、おいらは好意的に受け止めて、レポートを書いていたという記憶を持っている。だが確実に、「渋谷」の登場人物たちは変貌を遂げたのだろう。藤原さんでなければ決して表現・証言し得なかったであろうやり取りを目にする度に、渋谷は大変な事態に突入しているであろうことを想うのである。

藤原新也「黄泉の犬」を読む〔3〕

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センセーショナルな新也さんの一枚。この撮影の舞台裏を「黄泉の犬」で明かしているが、ネタ晴らしになるのでそれには触れないことにする。

藤原新也の「黄泉の犬」を読了した。これまでに読んだ彼のどの書よりも能弁であり、饒舌である。ときに雄弁家の本だと感じさせる程の、滑らかで情熱的なスピーチを聴いている気分にさせてしまうくらいだ。

ときに彼の本はといえば、その韜晦な筆致によって、おいらを含めたファンによって支持されていたはずである。だが何なのだろう? この隔たりに感じる思いは?

古今東西、芸術家は誰しもが多面的な資質を持ち合わせているものである。新也さんの場合もこれにもれないケースのひとつなのだろう。そにしても、これほどオープンな、過去の彼自身の著作の裏側をもあらわにしてしまうような潔さ。

彼はこのレポートを、大手出版社の大衆雑誌「週刊プレイボーイ」に選んだのだという。大衆的な読者に対して、彼の云いたかった、メッセージしたかったことは、ほとんど漏らすことなきく表現されていると云ってよいのだろう。まだまだ藤原新也は変わり続ける。そして成長し続けているのである。天晴れ!

藤原新也「黄泉の犬」を読む〔2〕

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昨日「薄っぺらい」と書いていたこと、本日は藤原新也さんの本を読んでいたら、「スカスカ」という言葉がえらい勢いで表現されている。こちらの方が妥当であると思い、これからは「スカスカ」という表記に変えようかと思ったのです。

閑話休題である。

藤原新也という凄い人を、おいらは過去に一度だけ、じかに触れたことがあった。それは確か「ノアノア」という、藤原さんのドローイングをまとめた書籍が出版された頃のことである。詳細はまたまた思い出せないのだが、90年代のある時期ということにてご勘弁願いたい。

「メメント・モリ」をはじめとする藤原さんの著書には事細かに目を通していた当時のおいらであった。そして、彼が個展を開くという情報を目にして、そのたしか銀座のある画廊へと足を運んでいたのでした。銀座の画廊はといえば、おしなべて広くない。すなわち作品やら作家やら、オーディエンスやらが、狭い空間に密集してしまうものなのであるが、そこに居た藤原さんの確固たる存在感には圧倒されたのだ。大きなキャンバスをその画廊に広げて、藤原さんは筆を走らせていたのです。じっくりとキャンバスを睨む彼の目線はその途中に入り込むことさえできないくらいにとても光っていた。おいらは大好きな藤原さんに交わす言葉もなく、その場を味わいつつ後にしたのであった。そんなことをある美術出版関係者に話したところ、「ああ、インスタレーションだね」という、あっけない答えが返ってきた。「うーむ」。おいらは次の句を継ぐことさえできなかったのである。

「黄泉の犬」の第2章を読み進めていくに連れ、そんな情景が頭を過ぎって離れなくなってしまったので、ついつい書き記してみたかったという次第なりなのです。今宵は「黄泉の犬」の細部には立ち入りたくないような、いささか個人的な気分にてキーボードを走らせているのです。

ところで全く別なブログに関する話題です。ブログの巨匠ことかもめさんが、オリンパスの一眼レフデジタルを買って、盛んに魅力的な作品アップをしていますので、紹介しておきますです。藤原さんがかつて愛用していたと同じ「オリンパス」のカメラを使い、その手さぐり的な手法が瓜二つなのではないかと思ったなり。

http://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/

翻って想えば、おいらもまたオリンパスの「OM1」なる機種を父親から譲り受けて使っていたことがあったのです。一眼レフカメラでいながらコンパクトであり、レンズの描写力もまた一流である。そうしたことからの愛用機種であった。

藤原新也の21世紀エディション「メメント・モリ」

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藤原新也というア-ティストは凄い人である。漆黒の闇を写し取ることの出来る稀有なアーティストなのである。

もはや古いニュースなのであるが、昨年の冬に、彼の代表作「メメント・モリ」の新バージョンが発行された。「21世紀エディション」と帯文に記された当書は、あまり注目されることも無く、ひっそりと書店に並んでいた名著である。

「メメント・モリ」-何度この言葉をつぶやいたことだろうか。すべて思春期に遭遇した藤原新也さんの一冊に依っている。彼岸の国から響いてくる言葉とともに、現代へワープしたかのごとくに写る風景写真のかずかずに、今更ながらに心惹き込まれている。いささかなさけな話であるが、心が癒されたいときなどこの本を開いてみずから慰めていることなど多し。特別なる一冊也。

藤原新也「黄泉の犬」を読む〔1〕

オウムのほかに、「旅」もまたテーマだと思われる。

オウムのほかに、「旅」もまたテーマだと思われる。

一昨日の日記に対するコメントで、mimiさんが藤原新也さんの「黄泉の犬」を推薦してくれていたので、ネットで調べてみたところ、つい先日にはその文庫本が発売されたばかりであることを知る。初本の単行本発行が2006年10月であるから、3年2ヶ月ばかりを経ての文庫本化ということになる。それ自体は少しも驚くことなどない。早速、銀座コアという銀座5丁目に聳えるビル内の書店にて購入する。そして帰宅途中の電車内にて読み進めていたと言う訳である。

一読して、ぐいぐいと引き込まれるのである。テーマがオウム真理教に関わる類いのノンフィクション(というか、おいらが好きな言葉で云えば「ルポルタージュ」なり)であることに、二重の意外性を覚えつつページをめくった。第一章「メビウスの海」を読み進めつつ確信するに、これは紛うことなき一流のルポルタージュである。

冒頭のテーマがオウム真理教に関連するのであるから、作者も読者も、また間を取り持つ編集者たちも身構えているのだろうことは容易に察しがつく。さらには、麻原しょうこうの実兄へ、身一つでの突撃取材を試みたりするのだから、話題性も衝撃度も充分である。

思うに、我が国の現役ルポライター(これは和製英語であるからにして、おいらの好きな言葉なり)の誰が、この藤原新也の、ぐいぐい引き込んでいく筆致なりで感動を与える作品を書き得たであろうか? 例えてみれば、一時期は「ニュージャーナリズム」の旗手などとも持て囃されていた吉岡忍の作品のどこが、この一冊に匹敵するくらいのインパクトを与え得るものであったかを問えば、おいらの答えは決まっているのである。所詮、吉岡忍などの書いたものなど取るに足らないものであると。

余談であるがその昔、知ったかぶりの後輩が吉岡忍を称して「ニュージヤーナリズム」を云々した挙句に、「小林さんも読んだほうが良いですよ」と、アドバイスまでしてくれた。そして読んだらもう、その薄っぺらさに呆然としたことなど、蘇って思い出すなり。

という訳にて、今宵のおいらは、第一章「メビウスの海」(p87)までを読み終えると、文庫本を外套のポケットに仕舞い、いつもの行きつけの居酒屋に駆け込んだのでありました。そして酔っ払って帰ってから、本の表紙などスキャニングして、結構大儀な作業なのでありました。

第2章「黄泉の犬」からは、明日以降また気合を入れて読み進めていく覚悟なのです。