鰯の旨味や栄養素をじっくり味わえる「イワシのつみれ鍋」

魚が旨い季節の秋になると、鰯(イワシ)が特段に旨くなる。この時期に脂や栄養がたっぷり乗った美味なる「マグロ」や「カツオ」にありつけられるのも、イワシが居るからこそではある。

弱い魚と書くことからも想像するように、魚類の世界の中では他の種からの食物ともなっている。いわば食物連鎖の基礎を担っているとも見ることが出来るのである。

幼魚のころからシラスやちりめんじゃこ、煮干し、等々として食されてきた。成魚となっても生で食されることは多くはなくて、干して目刺しや丸干しとして食されている。ちなみにおいらはイワシの丸干しが大好物なのだが、実はこれには痛風の原因物質たる「プリン体」が多く含まれているために、禁忌的食物となっている。たまには食べるが、大量に食することが出来ないのであります。

最もポピュラーな青魚として、動脈硬化症を予防する成分に注目が集まっている。脳梗塞、心筋梗塞を事前に防ぐ食材としては、青魚がナンバー1である。健康な血管を維持することがすなわち健康な身体を保つことにつながっているのであり、EPA、DHAといった特別な栄養素は青魚からとるしかないのだ。たかがイワシとは決して云うまい。

自民の総裁選で出てきた平成の妖怪こと安部晋三で、橋下維新の風が止まった

民主、自民ともに代表選、総裁選というイベントをこなして出てきたのは、平成の妖怪こと安部晋三という政治家的エリートのボンボンであった。改めて記すまでもなくこのボンボンは、かつて我が国最高権力者の位の身に在りながら「お腹が痛い」という某難病に罹患していることを口実にしてその座を投げ出した人物である。

「病気ならば仕方ないだろう」等々の厚意的コメントがマスコミを蹂躙した中にあっても、「たかがお腹の病気ごときで仕事を投げ出すな」「男が最高権力を去るときは死ぬ時だ」「2度と政治の世界に顔を出すな」といった辛辣な評価が渦巻いていたことも確かなのであった。

それでも今回復活の舞台を得たのは、日本国民の国民性が寛大だからだということには決してならない。何やら昭和の妖怪こと岸信介の亡霊が孫の安部晋三に取りついてしまったと見るのがある種の邪推だがそれでも極めて妥当な推量かと思われる。

橋下徹の野望もついにここに来てはてりといった状況をイメージさせる。

本年の政局は橋下徹の大阪維新劇場で幕を上げたが、維新劇場が妖怪を取り込むことなどできずに終わって、出てきた平成の妖怪こと安部晋三に蹂躙される羽目に陥っている。あと数回は風を吹かすことは可能であろうが、橋下的維新の風はここにきて止まりつつある。当人が望むような神風を惹き起こすことが出来なかったことは確かである。

秋の夜風が染みる今宵は「上海火鍋」が食べたくなった

先日の台風襲来から、いよいよ秋の気候となったようである。秋の夜風が染みる今宵は、ふと「上海火鍋」が食べたくなって、高円寺の「大将3号店」に足を向けていた。

ラム肉、ネギ、ニラ、モヤシ、鶏肉団子、春雨の6点がセットになって一通りの具材が揃っており、火鍋スープはと云えば鶏がらベースに唐辛子やラー油やらにより辛目に調合されており、丸ごとの大蒜も入って味覚の奥行きも在る。決して居酒屋のやっつけ的メニューでないことは請け負いである。

火鍋とうたっているにしてはそれほど激辛ではなく、程よい辛味が身体にしみていた。

鍋の最後は中華麺で〆たのだが、具の旨味を吸って程よくマイルドになっている火鍋スープをごっくりと飲み干してみれば、どっと辛味から来る汗が押し寄せていたのだった。

■大将 3号店
東京都杉並区高円寺北2-9-6

「タコの天ぷら」は残念ながら「タコの唐揚げ」に負けるのだ

地元の居酒屋にて「タコの天ぷら」という不思議的奇異なメニューを目にしたので、とりあえずは恐い物見たさ的好奇心にて注文してみたのだった。

おいらは実はこれまでに「タコの唐揚げ」というある程度の逸品的メニューに遭遇してから大いにその「タコの唐揚げ」に入れ込んでいたことがあったのである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3981

嘗て書いたのは、タコの唐揚げは一般的な茹で蛸よりも食味が豊富であり美味いというようなことをかいたのだつたが、今回の「タコの天ぷら」に接しては、まるでそんな気にはならないのだった。すなわちこんなメニューは邪道的であるというと。

何故に唐揚げよりも天ぷらが駄目なのかについては、色々な分析が可能である。

その一つには、天ぷらの衣が繊細すぎていてタコに絡まないということ。どういう風にか衣をまとわっているが、そのどこかにほころびが見えているのだ。そしてその二つ目の理由は、衣がタコにマッチしないということだ。あまり深い物理学的理由は判然としないのであるが、それでもどうしてもタコの身は天ぷらの衣にはそぐわないということを、強烈に知りいったと云うべきなのであろう。

タコは唐揚げには適するが、天ぷらには適しないということを、これから証明していきたい。

土鍋で「松茸ご飯」を作った。やはり松茸はご飯との相性が抜群

折角活きの良い松茸を入手したにもかかわらず、昨日はネット上で出ていた「松茸のホイル焼き」なるものに気持ちを奪われ、昨日は調理法を誤ってしまったのではあった。ここは基本に立ち返り、「松茸ご飯」で味わい直すことにした。さらにはこれもまた昨日の反省の一部となるが、出汁や調味料の分量は極々控えめにして、松茸の香りに期待することにした。

土鍋にさっと研いだお米を入れ、3~5㎜程度にスライスした松茸を載せて、ガスの火に掛ける。「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、ふつふついったら火をひいて、赤子が泣いても蓋取るな」というご飯焚きの基本を踏襲しつつ、蒸気を発する鍋に耳をすませていると、否応なくも香ってきたのが、待ち望んでいた松茸の香りであった。とても品のある、植物性の特長的な香りではあり、他の食材に置き換えることが不可能な、まさにオンリーワン的芳香であると云えよう。動物性食材では決してこんな特別な芳香に出くわすことなどはなかった。松茸は特別な秋の食材であることを改めて認めざるを得なかった。

土鍋で炊いた「松茸ご飯」の松茸は、サクサクとしてその食感も極上のものではあり、ご飯と一体化して逸品料理と成立するのだ。おこげの味わいもまた格別である。炊き込みご飯は数多あれども、ご飯との相性的にこの松茸ご飯を超えるものには出合ったことが無い。栗も他の茸も、野菜たっぷりの五目的炊き込みご飯も大好きだが、ただご飯との相性といったポイントで判断するならば、松茸の炊き込みご飯に敵わないのではないだろうか。

昨日も書いたが、今回の松茸は韓国産と云うことであり、国産のような高価な値は付けられてはいなかった。それかあらぬか色々な調理法を試してみたくもなっていたのではある。「松茸ご飯」を作って余っていた1本の松茸は、ガスコンロの上で火にあぶり「焼き松茸」にした。とても強い芯の噛み応えはこれまた松茸ならではのものであった。

今季初の松茸料理は「松茸のホイル焼き」

上野のアメ横で松茸を購入した。店員に確かめたところ韓国産ということである。未だ傘が開く前のもので、身はしっかりと太っている。見るからに旨そうな気配がしていた。

焼き松茸がもっとも美味しい調理法だということは判っているが、本日はちょっと浮気して「松茸のホイル焼き」というものをつくってみたのだ。たぶんおいら史上、初の試みであった。

通常の茸のホイール焼きのレシピで出汁と醤油の量が多すぎたせいか、松茸の香りや味がしぼんでしまったようであり、やはり失敗のようではあり、少々後悔が残っている。未だ残りがあるので明日はやはりというのか、松茸ご飯か焼き松茸を作って味わおうと決めたのだった。

さり気なく刊行されていた村上春樹さんの「ねむり」

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村上春樹さんの「ねむり」を読んだ。眠ることが出来なくなった女性の一人称による告白形式の小説である。

刊行されたのは2010年11月。「1Q84 BOOK 3」が発刊されて、「BOOK 4」の刊行が期待されていた当時のものである。つい先日に同書刊行の存在を知り、購入して読み進めていたものであった。

とはいってもこの作品は、春樹さんが1989年に書いて発表した「眠り」をリライトした作品である。この最新の時期のオリジナルという訳ではない。同書のあとがきにて春樹さんは書いている。いわく、

「そのときのことは今でもよく覚えている。僕はそれまでしばらくのあいだ、小説というものを書けずにいた。もう少し正確に表現するなら、小説を書きたいという気持ちにどうしてもなれずにいた。その原因はいくつかあるが、大まかに言ってしまえば、当時僕がいろんな面において厳しい状況に置かれていたため、ということになるだろう。」

村上春樹さんにとってこの作品については、当時の特別な、何かしらよくない事情が介在していたようなのである。そんなときに執筆されて発表されていたのが「眠り」という作品であった。この「眠り」は当時に執筆された「TVピープル」という作品とともに、文庫版にて収録されている。

今年もまたノーベル文学賞の受賞に期待がかかる村上春樹さんの、最新発表作である。これがきっかけであれなんであれ、春樹さんのノーベル文学賞受賞を、ファンとしてこの季節には、たっぷりと願っている。

下町流「元祖酎ハイ」の琥珀色の正体に興醒め

下町の餃子系居酒屋で、メニューにあった「元祖酎ハイ」の名前につられ思わず注文して飲んでみた。

出てきたグラスを眺めると、透明なはずの酎ハイの色味がほのかな琥珀色に染められている。焼酎の代わりにウイスキー等の洋酒を用いているのかと予想して口に含めるが、洋酒の気配も感じさせない。焼酎のキリリと締まった喉ごしも無きに等しかった。

「元祖」とうたう割にそのインパクトは薄かったのである。アルコール度も低めなのだろう。むかしはよく飲んでいたそのほろ苦い味わいが喉に伝わってこないので、少々がっかりしていたのだ。今では多種類販売されている「サワー」の類と違い「酎ハイ」の魅力はと云えば、炭酸と焼酎の出会いが生み出すほろ苦さなのだ。そもそもこれがなけれは「酎ハイ」の名前に値しないものなのである。

まったく合点がいかなかったおいらは、店の親仁に「この琥珀色の正体は何なのか?」と尋ねてみた。するとかえってきたのが「元祖酎ハイの素というのを使っているのです」という答えなり。う~む、素朴過ぎるこの答えに、一瞬間うろたえてしまったおいらではあった。

ネットで早速調べたところ、おやじが「元祖酎ハイの素」と語った正体が「天羽の梅」という名前で販売されている代物だということが判明した。原材料に「梅」は一切使っておらずに合成着色料、保存料を多量に用いた飲料物であったと知り、興醒め至極なのではあった。

タイ国の代表的味覚「トムヤムクン」をヌードルで味わう

タイの国民的料理と云えばまずは「トムヤムクン」のスープ料理を連想する。何度か飲料に浴することとなったが、これを日本で調理するのはほぼ不可能と感じさせる、辛味と酸味を主とした、複雑な風味が特徴的なスープ、複雑な味覚の料理だ。

タイ料理専門店にて、この「トムヤムクン」スープにルードルが入った「トムヤムクンヌードル」にありつく機会を持ったのだった。

独特の風味と味覚をもたらすのは、ひとつに海老の独特な調理法にある。そもそもその語源をたどれば、「トム」は煮る、「ヤム」は混ぜる、「クン」はエビのこと。エビ入りトムヤムスープという意味であり、特に海老の身から取り外した殻を、バイマックルー、プリッキーヌ、カーといった香辛料をチキンスープで煮て作ったスープがベースとなってタイ料理の基本が作られている。

更にそのスープをベースにして、タイ料理の多くが提供されている。今回食した「トムヤムクンヌードル」もそのひとつだ。

漁業が盛んなタイ国の料理の中でも群を抜いて、このトムヤムクンスープが世界の食通の舌をうならせているのである。我が国とはだいぶ異なる食文化の発展的形態である。

それだからこそう~ん!と感嘆させる、世界に冠たるスープが存在するのではある。

秋の茸料理のニューウエーブこと「茸の塩辛炒め」に意外性の舌鼓

涼しい秋の風が吹き去っていることで、秋の季節感が染みてくる。

元々は秋の食味を味わせてくれるのが、秋の茸のいろいろなのだ。という訳で、しめじ茸等の茸の美味い料理を味わったので、記しておきます。

茸とネギとを炒めた後に、イカの塩辛にて味付けをしたものである。イカの塩辛が塩味を引き立てつつ、ピリッとしたアクセントを加えている。

これはまさに秋の茸料理のニューウエーブと云ってよく、いずれ近いうちに、もっと大量の茸類を使って、更に美味しい茸料理を自宅調理したいと思っていた。

岩海苔の磯風味がはえるラーメンデパート宮城の「ファンモン麺」

これまで何度かレポートしている、八王子のラーメンデパートこと宮城の「ファンモン麺」を食した。

八王子の観光大使を務めている「ファンキーモンキーベイビーズ」がプロデュースした麺料理となっており、時々は口にしたくなるような特別な魅力を有している、逸品料理の一つとして考えている。

八王子ラーメンの基本を踏襲した宮城ラーメンをベースに、濃緑の海草のようなもの「岩海苔」がどぼっと載っている。大量の海藻がトッピングされているのであり、この海草こそが、メンバーモン吉がお気に入りの岩海苔なのだ。ファンモンプロデュースによって生まれたのだ。つまり、「ファンモン麺」とは「ファンモンのファンモンによるファンモンのためのメニュー」だということになる。たしかに岩海苔は八王子ラーメンのスープに良く馴染んでいて美味しいのだから、ファンは口コミネットワークなどを経て、益々ファンモンの味に群がるのだろう。

■ラーメンのデパート 宮城
八王子市子安町 4-26-6
電話 0426-45-3858

秋の風味が味わえる「舞茸グラタン」を作った

秋の旬の味はと云えば、秋刀魚や松茸を思い浮かべる。然しながら松茸は高級食材であり、中々食する機会には恵まれないのが現実だ。普段のスーパー店にて手軽に手にして秋味を味わいたいと思いつつ手にしたのが「舞茸」であった。

実は舞茸も季節に依らずに年中出荷されている。おそらくはおいらが購入した舞茸もまた、年中出荷の非天然ものであるのだろう。

少し前まではこの秋の味覚食材は、山中に舞茸狩りに出た人々がこれを見つけるたびに「舞い上がるほどに」嬉しがって狂喜したと云うことから「舞茸」の名前が冠せられたという説があるくらいである。とても貴重であり、かつ栄養価や季節感を高くしていた食材であった。

と云うことで先ずはこの舞茸を食材にして調理したのが、「舞茸グラタン」だったのである。

舞茸をはじめとして茸類はグラタン料理に似合っている。洋風料理でありながら季節感を感じさせるものとしては、この「舞茸グラタン」に勝るものが無いとさえ思えてくるくらいなのである。

味わいは期待を裏切ることなく、舞茸の食感やら秋味とやらを感じさせて満足のものであった。いずれは高級食材の松茸をグラタンにして味わいたいとは考えているが、この舞茸グラタン以上の味わいを経験させてくれるのかについては疑問が残っている。

沖縄料理の「豆腐よう」で一献なのだ

沖縄地方には「島豆腐」という豆腐料理があるのは有名だが、こと我が国の呑兵衛達にとっては「豆腐よう」のほうが有名なのかもしれない。

豆腐ようとは、島豆腐を米麹、紅麹、泡盛によって発酵・熟成させて作り上げる発酵食品である。今回食したものは紅麹は用いられていなかったようで、濃厚な豆腐的チーズ色でしめられていた。

その独特のこってりとした食感は、麹菌発酵の効果で現れたもので、腐ったチーズの様な濃厚な香りを醸している。

こんな今では大衆居酒屋にても提供される料理ではあるが、かつては沖縄琉球王朝の時代には、王族やそれに準じる身分の人でなくては食することの出来ないという、高貴な食物の一つではあった。

初秋に最も脂が乗るという「サンマの刺身」を食した

サンマが美味しい秋になって、サンマの塩焼きより先に刺身を食してしまった。通年より一足早いサンマの味わい。順序も塩焼きを差し置いてのものである。

冷凍システムの進歩により秋サンマが身近となっているのであり、食べ物屋としてみれば単価の低い旬のサンマを、高い値を付けてメニューに載せられるのであり、願ったり叶ったりなのではあろう。

下に氷をひいた特別あつらえの容器に乗せられて提供されていたのである。こんな特別あつらえのサンマはとても瑞々しく、旬の味わいを充分に堪能したのであった。

ところでこの時季こと初秋のサンマは、秋深くなってからのサンマよりも脂の乗りが良いのだと云う。カツオと違って北から南下のルートを旅するサンマは、旅をするにつれてその身の脂身を減らしていくのだという。南下の旅が相当にハードな運動量を必要としているらしく、まさにダイエットの旅だという。

人生ならぬサンマ生のピークをダイエットの旅に費やすサンマの生涯が、何ともドラマティックに感じさせられた今宵なのである。

特別なつまみである「ガツキムチ」に関する考察

ホルモンの一種のガツをキムチ風に漬け込んで出されるこの料理。まっ赤ッかな色が印象的である。そんな「ガツキムチ」を食した翌日は赤い便のキムチを見て過ごすことが必須なのである。

それでも可也旨いのがこの「ガツキムチ」。それだけは認めていてくれ。

便がまっ赤っかになっても、これを食べた痕跡が残るならばこの赤々とした便を保存したい、等とのたまうた人は居なかったようなのであり、これをもって締めとするのです。

原田マハさんの近作「楽園のカンヴァス」は、絵画鑑定ミステリーというジャンルを切り拓いた

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原田マハさんの近作で山本周五郎賞を受賞した「楽園のカンヴァス」を読んだ。先日発表された今季の「直木賞」にもノミネートされており、今年度ナンバー1の評価も高い話題作である。

同書の装幀には、アンリ・ルソーの「夢」という彼の代表的作品がドンと大きく採用されている。注視していると左に全裸の女性が左腕を伸ばして何処かを指差している。彼女の表情やプロポーションはどこか不自然だ。女性の表現はリアリズムから程遠くデフォルメされており漫画的でさえある。また背景には楽園をイメージさせる樹林やら野生動物、野生の果実、等々がカンヴァスの中でひしめいているのだが、現実的イメージを突き抜けて夢想的なイマジネーションを徴表しているのだ。

そもそもアカデミックな美術の教育を受けてないルソーの作品について、欧米美術界の評価は二分されているようだ。「まるで技量の拙い日曜画家による作品」という否定的なものから「近代美術を大きく前進させた巨匠作品」というものまで、毀誉褒貶が極めて激しいのだ。

ちなみにこのポイントに於いて、作家の原田さんのルソーに対する肯定的評価は特別なものがあり、そんな情熱が物語を貫く底流として蠢いていることを感じさせるのである。

この作品とその架空の贋作(「夢を見た」という作品名)をめぐる美術関係者の謎解きを軸にして物語は展開し、近代絵画に於けるルソーの評価が、底流を流れる同ミステリーのテーマとなっている。

「夢を見た」という作品名の贋作に対しては、読み始めた当初はピンと来ない途方もない荒唐無稽なシチュエーションかと思わせたが、読み進めるにつれては、それもありなん。決して荒唐無稽ではない煌めくフィクションだと捉えることが可能となっていた。まさに絵画鑑定ミステリーというジャンルを切り拓いた意欲作品だと云えるだろう。ニューヨークのMoMA美術館にて勤務したことがあり、フリーのキュレーターの資格を持つ作家、原田マハさんが挑んだ、新しいジャンルのエンターティメント作品なのである。

某大衆居酒屋で飲んだ「フグのヒレ酒」にうっとり

ほとんど偶然的に立ち寄った某居酒屋にて「フグのヒレ酒」なるメニューに遭遇。早速飲んでみることにした。

高級料理とは大違いであり、通常のグラスの中には、普通の日本酒の中に焼かれた形跡のある多分フグのヒレなのだろう代物が埋もれていた。埋もれていたという表現は妥当か否かはおいらも自信が無いのだが、あまりにも無防備に配置されていたそのフグのヒレの様相は、その焼き方もいい加減なものとして映りつつ、焦げ目が目に付いていたし、ちゃんとして時間をかけて焼いたという形跡はまるで無かったのである。

出てきた「フグのヒレ酒」のグラスに先ずは鼻先を近づけてにおいをかいでみる。何年か相当昔に経験した「フグのヒレ酒」の面影は無きに等しかった。

それでもおいらは酔いと勢いとにまかせて飲み干していたのだが、飲み干した後味は決して悪くはなかった。飲み終えて見たフグの焼かれたヒレは、食べる気持ちを起こさせるものではなかったが、軽く咬んでみれば、焦げ目の味わいの中に、フグのヒレの焼かれた味わいを舌に感じることが出来たのであった。

という訳で、結論としては、焦げた焦げ目のフグヒレの味わいに大いに埋没して、うっとりと酔っ払ってしまったというおいらなのではある。

ハマグリより小ぶり、アサリより大きくて、身が締まった「ビノス貝」を食した

代表的な二枚貝と云えばハマグリやアサリであるが、ハマグリに似て大きな二枚貝で身が大きな「ビノス貝」を食した。

この名の由来が「ビーナス」から来ているというのであり、見た目の優雅さにも成程と思わせるものがある。

欧米県の中でも特にアメリカではポピュラーな二枚貝の代表である。ハマグリを小降りにしたようで、食感もハマグリを凝縮したように噛み応えも味わいも充分なものがある。

アサリの漁場関係者からは、余計な邪魔者だとして邪険にもされたようである。だがこの身もまた味わい深いものだと知られては、よそ者扱いなどできないのである。

実はこの貝は「成長貝」と呼ばれてもあり、大きくなるとハマグリを追い抜いて10cm以上にも達するというのだ。ハマグリを小さくしたものだとかアサリの邪魔者だとか云った安易な評価は相応しくないのだ。

直木賞受賞作、辻村深月さんの「鍵のない夢を見る」を読んだ

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今回の第147回直木三十五賞受賞作は、辻村深月さんの「鍵のない夢を見る」が受賞したという先日のニュースを聞き、早速、受賞作の中からその代表的一章の「芹葉大学の夢と殺人」を読んだ。

「地方」のという、云わば中央から距離を隔てた人々の日常生活をテーマに、人々の欲望と思いもしない崩壊を描いたという風な評価が踊っていることは、おいらも文芸誌誌上のコメントを読みつつ理解していた。だが然しながら、そんな評価、コメントと、おいらの個人的感想とは、ある程度の距離的違和感が存在していたと云うべきなのだろう。

作家の辻村深月さんといえば、特に読者層の中でも近年の若者層にファンを多くしているという。予め人気者としての直木賞受賞者となった訳である。

そしておいらが受賞作品も読んだのではある。もちろんのこと受賞作品としての完成度や、大衆文学作品としてのドキドキ感、ミステリー性も、申し分なく作品中にてアピールしている。一級的大衆文学作品としての条件は見事に整っている。だが、なんとなく物足りないという印象を受けたのもまた正直なところではあったのである。

余談にはなるが、同賞選考会にては、原田マハさんの新作「楽園のカンヴァス」が候補作にノミネートされていたということであり、おいらはこちらの作品こそは受賞作品に値するものだと考えている。後日、原田マハさんの「楽園のカンヴァス」についても記していきたいと考えているところである。

今年もまた「戻りカツオ」の旨い味わいに出会わしたのだ

今年も戻りカツオが美味しい季節となった。春から夏にかけて北方オホーツク近くの海を漫遊したカツオたちがたっぷりと栄養を蓄えて、日本近海の海へと戻っている。その鮮やか鮮烈な赤みにピンクの刺しが入ったような様は、独特のカツオの脂の乗り方を映している。

脂が乗っても決してくどくなく、かといって白身魚のような自己主張の薄くて他の食材に頼りがちな食味等とも、明らかな一線を画して、カツオ本来の持つ味わいである。そんな戻りカツオに出会ったおいらは、今年もラッキーであったと云えよう。

強烈な海洋魚としての一仕事を終えて、逆に南下のルートを選択させるのだから、それはカツオの生態という現象を超えた自然界の摂理が働いているはずである。

北上してのち南下するというユーターンルートを辿ってみると、黒潮の流れに押されるように北上したカツオたちが北海道沖の海水が冷えて南下に切り替わるポイントに、もっとも想像力を刺激される。潮の流れに逆らって南下のルートを選択する海の猛者たち。彼らはきっと、勝ち誇った道を捨てつつ帰るべき故郷を探す旅に出たのではないかと想像するのだ。