戦後史上最低のぼんくら首相である野田佳彦が日本の政治を壊していく

自らを「どじょう」になぞらえて首相の座を射止めた野田佳彦という政治家は、実はただの無能のぼんくら。我が国戦後史上最低の首相であったといってよい。自民党政権か長く続いた戦後政治史上を眺めても、こんなぼんくら総理は他に、例示することができないくらいだ。

本日は、野田佳彦が国会解散の意向を決めたとニュースにて報道されている。馬鹿を通り越して、尋常な政治的判断さえ出来ない詐欺師と同様の男ではある。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121114-00000067-mai-pol

そもそも野田が首相に推挙された背景には、民主党のなかで最も保守的だという理由が最大のものであった。前任、前々任の首相がそれぞれに民主党の党是を実現できずに敗れ去った後に出てきた、ぽっと出の政治家ではあった。そもそもには野田佳彦に首相にさせるべきではなかったのである。

こんな男にはたとえ1年あまりという短期間であろうが、一時的にも首相という最高権力者の立場に位させた我が国の政治的貧困を憂えるばかりである。

野党から「近いうちに解散する」という言質を取られ、それが元での自爆的解散に出ようとしている。しかも其の自爆の理由が、「嘘つき呼ばわりされたくない」というものだというのであるから、政治の私物化も甚だしいのだ。しかも総選挙の争点にTPPを持ち出すなど、ぼくくらの果ての非道極まるものではある。

今後の政治状況については、ヒトラーや東條英樹的政治化が跋扈する怖れが高まっているのであり、こんな状況下において政権を投げ出す野田佳彦には、戦後史上最低のぼんくら首相の称号が相応しいのだ。

独特の甘さが光る「安納芋」の串焼き

薩摩芋の種類の中でも独特の甘さが光るのが、種子島産の「安納芋」である。生の状態で16度にもなる糖度で人気が非常に高まってきたとされている。蒸しても相当旨いが、先日はこれを串焼きにして味わうことが出来たのだった。

焼いた表面からはプチプチと甘い結晶が浮かび上がっている。塩を少々振っていたのだろう、その安納芋焼きからは、特段の薩摩芋的甘みを感じ取ることが出来た。こんなことは他の芋焼きでは味わうことが出来ないものではある。

薄く塩の味がしていたが、それ以外の味付けは無くして口に運んでいたのであった。その味わいは薩摩芋の中の逸品という印象を与えていた。あまり大量に口にすることなくして串焼きとしての少量の食味が、却ってその味わいを際立たせていたということなのであろう。甘き食物は大量に食するべぎてはないのではある。

関東風の「正統おでん」と呼ぶべきおでんに舌鼓なのだ

関東風のおでんが美味しくなった季節なり。この美味しいおでんのことをふと「正統おでん」と称したくなった。

例えば静岡地方のおでんは「黒おでん」という、真っ黒な出汁にて煮込まれるのであり、牛筋中心の黒出汁に加えた濃口の醤油で煮込まれたそのおでんは、黒々とした出汁を吸って、その身に黒い装いを加えている。黒い出汁が具に染みて味を染みこませるのは分かり易いのだが、分かり易いぶんには出汁の塩味が強すぎるのだ。

醤油の塩味でなく出汁の味で煮込むというのが、関東、関西を問わずのおでんの基本であろう。そして、ハンペン、チクワブ、大根といった白色の具材たちが並ぶおでんの姿はまるで白色系正統おでんの姿そのままであった。

八王子の「農業祭」で、でっかい巨大な農産物に出合う

八王子の「富士森公園」にて「八王子農業祭」が開催された。

http://www.city.hachioji.tokyo.jp/sangyo/nogyo/010205.html

八王子の地元産の農作物が展示されており、それらの様々には「努力賞」「優秀賞」等々のラベルで評価がされていたのだ。

人参、さつま芋、こんにゃく芋、インゲン、ピーマン、ブロッコリー、柚子、梨、ひらたけ、なめこの茸類、等々、そのほとんどが巨大な存在感でしめられていたのたのであり、大きいことはやはり良いことだという評価を肯定的に捉えていたのだ。

もちろんのこと、無農薬や低農薬による農産物の生産は過酷ではあろうがとても有意義な結果を与えてくれるのであり、それらの農産物には拝んでも食べていきたい。

巨大なる農産物は、例えば巨大な南瓜が象徴するような、農産物の豊作をイメージさせているのであり、野菜植物の生命力を表している。こんな大きな野菜に接して、農業が現実的に地元で展開されている八王子農業関係者に対する大きな感謝の思いで一杯になっていた。

農業祭のイベント会場では、牛の乳搾り体験が行われていた。5歳前後の子供達が興味深げに乳搾りをしている光景が目に焼き付いて放れないのだった。

牡蠣が美味しい季節となっている、この時季は「牡蠣鍋」に限る

牡蠣が美味しい季節となっている。こんな時季は「牡蠣鍋」に限るのである。牡蠣が美味しい季節となっている。こんな時季は「牡蠣鍋」に限るのである。

牡蠣は冬季の主役になり得る食材である。社会一般的には「海のミルク」等とも呼ばれるが、コクや味の個性においてミルクの比ではなく優れている。

牡蠣のフライも悪くないが、厚い衣をがぶりと破って食らいつくのは、若い時のみの指向性であり、今のおいらには無いといえる。

だからこその「牡蠣鍋」を十二分に味わえる季節は、今を置いてないということが云えよう。

薄曇り色していた牡蠣のみが、熱湯をくぐっていたその先には、ぷっくりとして白鮮やかな牡蠣の身が、視線を和ませてくれたり、美味しさの手引をしてくれたりと、大活躍なのではある。

死者と生者の再会がテーマの、辻村深月さんの「ツナグ」を読んだ

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今年の直木賞受賞作家こと辻村深月さんの「つなぐ」を読んだ。現在公開中の映画「ツナグ」の原作でもあり、社会的関心が高まっているだけにおいらも書店で買い求めてしまったという1冊ではある。

初めは単なる社会的ブームメントに対する一片の関心であったが、死者と生者、死と生、あるいは、死に向かう生、等がテーマであることを理解しつつ、一片以上の興味で読み進めることとなっていた。

登場人物は、主人公の「使者(「ツナグ」と読む)」こと渋谷歩美の他に、アイドル・水城サヲリ、サヲリとの再会を望むうつ病患者の平瀬愛美、演劇女子高生の嵐美砂と親友の御園奈津、癌で亡くなった母・ツルに会うことを希望する畠田、等々と多種多彩である。最終章では、主人公の歩美が死者への対面を望むというシチュエーションから章のスタートだ。物語は当初の短編集の装いを裏切って、連作長編小説の体を成して、読者の関心を引きずっていくのだった。

死者との再会を可能にすると云えば、青森の潮来が連想されるが、小説の初めから「潮来とはまるで違う」という記述がしつこいほど登場する。日本における土着的神話のイメージを峻拒していきたいという作家の志向を読み取ることが可能であろう。

何冊か読んでいる辻村深月さんの作品世界と同様に、同書もプロットがきっちりとしていて、それなりのレベルに達してエンターティメント性が顕著である。そんなエンターティメントを求める読者であるならば、充分に満足できる作品であろう。

然しながら、おいらは大衆小説のエンターティメントにはほとんど興味が無く、更には、死者との再会と云うシチュエーションは眉唾ものだと云う考えを持っている。或いは死者と生者をつなぐ使者(ツナグ)などは、フィクションの中でも出来の悪い代物だと考えているのだから、この力技が走る作品も、テーマとシチュエーションが空回りしている力技作品の一つであるという以上の評価を抱くことは無かった。

公の場で平気で嘘をつく「田中真紀子」に関する考察

先日からの田中真紀子文部科学省大臣による新規大学不認可未遂騒動が甚大な波紋を生じさせている。

本年度の新設申請していた3大学に対して軒並み「許可しない」という発言をぶち上げて一躍注目を集めていた。だが一週間もしないうちに昨日は一転「許可する」旨のコメントを発していたのであり、その二枚舌的平気で嘘を付くキャラクターが非難の的となっていた。

注目すべきは、彼女が前言を翻して公的に明らかな嘘を付いてからの態度、振る舞いなのだ。大学認可問題で「負けた」はずの田中大臣は、まるで意に介することもなく、自己肯定のコメントを出し続けているのだ。厚顔無恥の極みと云って良い。

ところで世に蔓延する厚顔無恥さについては田中真紀子のキャラクターなのだから、それなりに対応すればよいことであり、敢て論じるべき対象ではないのであり、考察的対象にはあたらない。然しながら現役の政治家でありしかも国務大臣の田中真紀子が発言してテーブルをひっくり返して、その後二枚舌的に取り繕って真逆のコメントを発していたのだから、特殊かつ典型的事例として分析考察すべきであろう対象なのだ。

「人間には敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」という人間観、人生観が、彼女の偏執的発言なった。形作っているということだ。

「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」という認識は、成り上がり的田中家の一員として育った真紀子にとっては当然のごとく培われた思いなのであろう。それを官僚的組織の文部科学省のスタッフにけ当て嵌めてしてしまったことからくる反発を招くこととなった。リアルな家族・使用人的区分けをおおやはけの場にて行なったことの誤謬なのではあった。

昔ながらの「あんかけかた焼きそば」は懐かしさ以上の味わい

ふと立ち寄った郊外の中華料理店で「あんかけかた焼きそば」を食した。フライパンで焦げができるまでじっくり焼いてパリパリになった麺の上に、白菜、人参、竹の子等の多種類の野菜にハム、海老、木耳、マッシュルーム茸、等々のたっぷり具材のあんかけがとても旨く、とても懐かしく感じさせる。

たまに食べればとても旨く感じるメニューだが、我が国ではメジャーな料理ではない。中華店でもメニューの端に乗っているのがほとんどである。油脂たっぷりでカロリーが高そうなことや、ヘルシー志向に似合わないこと等の要因が考えられる。

それでも昔ながらの「あんかけかた焼きそば」にはカロリー過多でも食べたくなる要因が詰まっている。短時間に強烈な炎で調理する中華料理の技法がこの一品には凝縮しているのだから、国際的な伝統料理なのだ。あんかけのとろみで艶やかな大海老を口にすれば、とてもそんなことを実感する。

未だ「iPhone」を売らないのは「iTunes」を使い続けるため

スマートフォンを「iPhone」から「Android」に変えて4ヶ月余りが経った。一度は引退させた「iPhone」が、おいらの生活の中で復活している。「iPhone」が持つ機能の中で捨てられないのが音楽機能であり、鞄に入れて電車内で音楽を聴くこともある。

そもそも「iPhone」の音楽機能はマックの「iTunes」ソフトが基本となっており、これまでCD等からインストールした少なからずの音楽データは、おいらにとっては今尚貴重な財産の一つだ。

先日は地元の量販店にて、「iPhone」「iPod」用の専用スピーカーを購入して聞いている。スピーカーに「iPhone」をドッキングすれば自動充電も行うという優れものである。「Iphone5」のドッグの仕様がこれまでと変更になったため、ここにきて結構な値崩れを起こしており、それならばと少し古い型落ちの一台を買い込んだという訳だ。

中古市場でも「iPhone」の人気は高く、軒並み1万円以上で売れるようだが、それでもこれまで持ち続けているのは「iTunes」を使い続けるためなのだ。「iTunes」がドコモのAndroid機種で使えるようになれば考えるが、今のところは「iPhone」が手放せない。

胃痛なう

朝から胃部に痛みを感じている。はじめは何かの食あたりを疑ったが、下痢等の症状が出ないので、たぶん急性胃腸炎か何かなのだろう。薬局で胃腸薬を購入して飲んだが効き目もほとんどなく、こんな日は安静にして早く就寝するしか手がなさそうである。

北海の海で育つという高級魚の「黒そいの煮付け」

北海の海で育つという高級魚の「黒そい」を煮付けにて食した。

頭部はごつごつとした骨だらけである。ぎょろっとした目の玉がこちらを見ているようであり、流石にギョッとしてくる。

カサゴ目のメバル属なんだそうであり、深海魚の仲間である。白身魚に比較すると、ギュッと締まった身が特徴であり、味もまた濃厚なのである。

北海道の室蘭市ではこの魚を「市魚」として珍重して、地元の追直漁港では養殖もされている。北海道道民の道民魚とも云えるだろう。

淡白ではあるけれどもたっぷりと脂が乗っている。これを煮付けにするのはもったいないとも思いつつ、充分に味わっていたのである。

サザエ貝は先ず、その星印と巻き印の形態の妙にて感動しつつ味わう

「サザエのつぼ焼き」を食した。いつもサザエを目にして思うのだが、サザエ貝や親類の巻貝と云うものの持つその形態の稀有な要素についてである。

先ずは巻貝の形態が持つ渦巻き的に盛り上がっていく形に感動する。渦巻きと生物が鼓動し伸長する様との容態は著しく関連があるのだろうと感じさせる。

そしてもう一つのサザエ的形態が有する要素が「星印」なのだ。手足を伸ばすようにその星の突端が伸びている。丸くてごつくてとても愛らしい。

サザエ貝と云えばその肝の苦さと磯の香りが逸品的な食材であるが、それに足して、星印と巻き印の形態の妙に感動することを、繰り返しているのだ。

たっぷりの牡蠣をバタースープで煮込んだ「牡蠣バター」

牡蠣が美味しい季節になった。「牡蠣フライ」「牡蠣鍋」はこの時季のポピュラーなメニューだ。

だが先日は、ちょいと違った逸品の牡蠣料理にありついたのであり、ここに報告しておきます。

先ず其のメニュー名が「牡蠣バター」と来た。牡蠣をバターで焼くのだろうと予想して注文してみた。そしたら予想に反して、小鍋に盛られた牡蠣スープ風情なる料理を目の前にしていたのだった。

スープの味付けは和風と中華を中和させたようであり、そこにガツンとしたバターの風味が効いている。料理名が示すとおりのバター味ではある。

牡蠣料理と云えば、フライや生牡蠣以外にも、グラタン等々のフランス料理の系統が主流である。日仏の牡蠣料理対決があったとしたなら、僅差で仏の料理のバリエーションが勝利するのかもしれない。それくらいに日仏の食文化を意識させる食材なのだ。

グラタンには大量のチーズが用いられるのであり、バターが大量に使用される「牡蠣バター」もまた、理にかなった逸品の料理には違いなかった。バターの風味が溶け込んだスープをすすっていると、これこそが我が国の郷土料理であるべきだとも感じていたくらいなのであった。

なかなか都内では食せない「生シラス」の逸品を食した

なかなか都内では食せない「生シラス」の逸品を食したのだった。

生シラスと云えば、神奈川県の江の島海岸やその他の限定された地域以外ではなかなか食することが出来ないものではある。だが近年の交通事情、冷凍技術の進展などから、都内でも時々食する機会に巡り合っているのだ。

今回、某居酒屋にて食した「生シラス」は、見るからに鮮度も抜群。決して冷凍ものではなかった。そして、見るからの透明度には魅了されていた。白く透明な、海の宝石のようでもある。

生のシラスは軟骨成分が豊富なのであり、おいらの母は、骨粗鬆症対策にて毎日のように口にしている食材である。主に乾燥ものが主ではあるが、そのカルシウムがかもし出す味わいは逸品の評価に値するのだ。

殊によったらば江の島や鎌倉への旅行は、今回の生シラスを味わってしまったことにより、先伸びされていくことになるのかもしれない。

映画、DVDの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は、身につまされることが大なるリアル的感動作品だった

映画、DVDの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は、身につまされることが大なるリアル的感動作品だった。

2010年10月に映画公開された作品をDVDにて視聴した。

{酔いがさめたら、うちに帰ろう。}公式サイト
http://www.yoisame.jp/ {酔いがさめたら、うちに帰ろう。}公式サイト

原作は戦場カメラマンの鴨志田穣氏。あまりキャラがみ合わないとも思ったが浅野忠信氏が良い味を出して演じている。もう一人のドラマ上で重要な立場を占めているのがお相手こと元妻の西原理恵子さんであり、こちらは永作博美さんが演じている。キュートさが多分元妻の上をいくが、これまた良い味付けが満載である。

鴨志田穣氏による原作本は相当以前に購入しており、所々は立ち読み風に読んでいたのではある。だが映画作品となった{酔いがさめたら、うちに帰ろう。}は、もっとずっとシリアスに主人公のアルチューを追い詰めていく。

これ以上話のストーリーに触れるとネタバレ的なことにもなるかと思うので控えるが、原作本以上にシリアスなアルチュー患者の現実が浮き彫りにされていくのである。

「豚足煮込み」はコラーゲンだけでなく、天然軟骨成分のコンドロイチンが豊富

近頃では居酒屋メニューとしてもポピュラーになりつつある「豚足」を、柔らかく煮込んで調理したのが「豚足煮込み」である。おいらも大好きなメニューの一つだ。

女子系メニューとして人気が高いのは、コラーゲンが豊富だということであり、これを食べた翌日には肌がピチピチとして潤ってくるという、ある種の都市伝説的流行のアイテムとなりつつある。

だがおいらはこの「豚足」に関する栄養価に対して、コラーゲンではなく軟骨成分の「コンドロイチン」に注目しているのだ。豚足のプルプルっとした食感は、骨と骨の間に存在する軟骨成分によってもたらされているところが大なのである。

年齢の進行とともに、ひざ軟骨がすり減っていき、それが進行するとひざ痛を惹き起こしていく。おいらも実はダイエットする前の一時期の肥満期には、階段を登る時などには、ひざ痛を体験したことがあった。当時はその対策としてサプリメントの「グルコサミン」や「コンドロイチン」を摂取していたものである。ちなみに「グルコサミン」と「コンドロイチン」は共にひざの軟骨成分を補強する栄養素であり、両者を共に摂取することにより効果を増すとされている。

本年春頃からのダイエットに成功してからは、ひざ痛を感じることは稀になったが、軟骨成分を含む「豚足」は、時々食して、予防的にも味わっているのである。

秋鮭の味覚にほっこり満足の「石狩鍋」なのだ

歳月の流れと共に寒さを感じるこの頃、やはりほっこり温まるのが鍋料理である。本日は秋鮭を主食材にした「石狩鍋」を食したのだった。

火に掛けた直後に鍋のふたを開け、刺身でも食べたいくらいに活きの良いピンク色した鮭を目にして、食欲はいや増していく。生の鮭を使うのが本来的に北海道の石狩地方で食されてきたレシピではある。しかしながら、昔からおいらの家では塩鮭の切り身を用いていたものだ。生鮭は流通量が少なくたとえ出くわしたと雖も、高価で手が出し難かったのである。久々に口にした本場石狩地方仕込みの鍋で、ほっこりと温まることが出来た。

白味噌仕立てのスープに、生鮭の切り身、ネギ、白菜、豆腐、ほうれん草、そしてじゃが芋がぐつぐつと煮込まれる。鮭の身はぐつぐつと煮込まれたことにより甘さと香りを増しているようだ。

ところで、具にじゃが芋というのはあまり見られない食材ではあった。ぐつぐつと煮込まれた他の食材を食い終わった後で、ほっくりのじゃが芋を口にしてみるとまたこれが美味だったのだ。

とにかくも北海道の鮭の味覚にほっこり満足の逸品なのだった。

日本にはどうして「みどりの党」等の健全な第三極が育たないのだろうか

本日朝のTBSTV番組「サンデーモーニング」では、石原慎太郎の都政投げ出し会見に対して、河野洋平氏がとても良いことを語っていた。

―――(http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-7084.htmlより引用)

河野洋平氏「 (笑)僕はね、あの辞職の記者会見を聞きましたけどね、もう非ーー常に不愉快でしたね。「諸般の事情に鑑みて辞める」って、諸般の事情って一体何なのか?あれ聞く限りね、自分の都合ですよね。もう自分がここが最後のチャンスだと思うから、都知事のほうは辞めて、国政やると。言っているように僕には聞こえました。

そしてねぇ、あのー、色々仰っるけれども、もう一方的に『アレはダメだ。コレはダメだ』と。自分の意に沿わないのは『アイツはバカだ』と。もうどうしてあんな立派な小説を書く方がね、ああいう、、その、話をする時には、あんなに口汚くね、罵るか。

もう少し、都知事の会見てのはちゃんとした言葉で、ちゃんと相手の立場も考え、自分の主張も冷静に述べるという事が何故できないのか。

だから私は、やっぱり人間的に相当欠陥があるんじゃないかという風に、私は思いましたね。ええ。」

河野氏「あれはつまり、永年勤続25年の表彰を院議を以てするってんで、みんな本会議場に集まっている時に『俺は辞める』とこういうわけですよね。(あれは何ですか?:関口) なんかあのー、あの時の演説を見ると、何やってもみんな上手く行かないから、あの『ダメだ』と、、『みんーなだらしがない』と。なんかあのー、あのー」

―――引用終了

おいらが抱いている思いのだいぶの部分を河野氏のコメントが代弁していたという思いではあった。

そしてたしかその後で、河野洋平氏は、石原や橋下が目論む極は本来の「第3極」では無いのだと喝破したのだ。この見識はとても素晴らしく端倪すべからざるものではあった。

そもそもと云えば石原や橋下が目論む「第3極」とはいんちき的出鱈目極まる政治集団に過ぎないのである。こんなものが本来の「第3極」である訳がないのである。こんな代物がマスゴミの餌になっているのであるからしてマスゴミの現状は異常的状況である。

本来の「第三極」とは、「反原発」の運動を展開する集団の代表者たちであり、例えばヨーロッパに於ける「みどりの党」的なものであるべきだと、河野氏は語っていたが、まさしくそのとおりなのである。

これまでおいらは、河野洋平氏に対して、自民党の総裁まで担った自民党的政治家の一人として評価の埒外に考えてはいたのだが、「みどりの党」的な政党の誕生を願うことと共に、ここにきて河野洋平氏をとても評価しておきたいと考えるようになっている。

もちろんのことおいらの所属が「みどり企画」であることとは全然関係はないのだ。

とても噛み応えある「クジラベーコン」の食感に酔う

先日「クジラベーコン」を食した。かつての日本ではよく食された保存食だが、おいらにとってはとても新鮮な味覚に魅了されていた。一言で云えばクジラの肉を塩や砂糖で漬け込んだ保存食であり、戦後の一時期はクジラ料理としてポピュラーであったと聞く。浅草の某料理屋のメニューでこれを味わうことが出来たのだった。

クジラの肉は、「畝部」と呼ばれる分厚い脂肪部と「畝部」という赤身の筋肉部に大別される。この赤身と白身の2種類の食べ比べも嬉しい。脂肪部はやはりいかにも脂肪の塊に見え、身体に良くないであろうが、牛や豚の脂肪部位に比べれば単に脂肪の塊と呼ぶには相応しからぬ、とても味わい深いものがある。

短冊切りされて盛られたその身は、口にすれば、とても噛み応えのある独特な食感が食指をそそるのだ。いつも以上にホッビーも進み、新たな味覚体験に酔っていたのではあった。

東京都政を投げ出した、或いは利用した石原慎太郎の見識を疑う

昨日夕刻の所謂「東京都政投げ出し」会見を行った石原慎太郎に関するニュースで、本日のマスコミはジャックされている。悪い冗談がマスコミニュース媒体を通し糞尿的に垂れ流されているという感を強く持つ。改めて彼への都政投げ出し会見に対しては、強い憤りを禁じ得ない。

あれほど大々的に公言をし、招致への甚大な予算を使った「東京オリンピック」はどうするつもりなのか? 或いは、築地の市場移転問題は解決できるのか? 等々、その無責任さは度を越していると云えよう。石原慎太郎に対しては一度も政治的に支持したことの無いおいらがこの思いなのである。何遍も支持してきた東京都民に対して、国政がどうのこうのという言い訳は決して成り立つ訳など無い。

更に悪質的冗談のたぐいが、国政進出云々のくだりである。自民党議員として活動していたときに「総理」の目がないことを知って、自ら国会議員を辞職した慎太郎は、以下のように述べている。

―――以下公式サイトから引用

日本のことを「国家としての明確な意思表示さえできない、さながら去勢された宦官のようである」と断じた。そして「現在の政治に対する国民の軽蔑と不信はまさに自分自身の罪科である」と自らの非力さを詫びたのだった。

―――引用終了

慎太郎の自尊的ふるまいは昔からのことであり驚かないが、侮蔑の言辞をはなったまさに国政への偏執的執着を抱き続けてきたこと、そしてこの期におよんでの中央政界復帰宣言であり、こんな出鱈目な慎太郎の見識は異常である。そしてこのタイミングはまさしく橋下「維新」利用による総理の座への偏執的腐りきった野心なのであり、こんな人間が総理になった日の我が国の将来がまさに暗澹としたイメージとして現実化しつつある。