JR埼京線「十条」駅にて途中下車。駅前商店街の「斎藤酒場」へ向かっていた。下車して数分、其処には北区十条地区の下町ならではの商店街にマッチした風情の「大衆酒場 斎藤」という暖簾が待ち構えていた。重厚な趣ある暖簾の奥には更に重量感ある木製の引き戸をぐいっと引いてみると、中には大勢の酔客が陣取っていた。夕日が落ちて間もない5時くらいだというのに此の様は何だ! 酔客達の聖地と読んでも良いくらいの現場に足を踏み入れていた。中島らもが愛した今では数少ない酒場であることが一瞬にして諒解されたのである。下町の酒場にしておくには勿体無いくらいの存在感である。
メニューはそうは多くなくて所謂居酒屋における定番メニューだらけだ。マグロのブツ、串揚げ、ポテトサラダといったメニューが運ばる度に、いちいちとこの美味しさやあるべき存在性について感じ取っていたくらいなのである。例えばある種の哲学的表現を借りるならば、意識が存在を規定するのではなく存在が意識を規定するという、まさにそんな存在を目のあたりにして立ち竦んでいたということなのだ。
特に常連と思われる中高年の呑兵衛たちは必ずと云ってよいほどポテトサラダを注文している。居酒屋メニューでありながら家庭的なメニュー風の要素も在る。だからからこそ家庭的メニューの一端をポテトサラダ、略称ポテサラが担っているのだというとなのだ。家庭内における食生活の乱れが招いた現象と云えるのかもしれない。