夏油温泉の朝は早かった。川のせせらぎ、鳥の鳴き声、喧しいほどのかえるの合唱、等の自然の音の響きを耳にしながら目を覚ました。未だ時間は5時に至らないときだが、窓外は日の光を帯び、部屋には薄日を運んでいた。前日の豪雨とはうって変わった好天気に恵まれた。
昨日は豪雨でゆっくり入れなかった露天風呂に早朝入浴することにした。ここでもかえるの合唱は喧しく、しかも傍を流れる夏油川は更に活発なる音を立て続けている。自然が醸す物音に諧調は無く恐らくは乱調ばかりなのではあり、それゆえに人間を素にしてくれるのだろう。整った音楽が醸す音色以上に乱調的自然の音色には癒される。
ところで、かつて江戸時代の温泉番付にて「東の正大関」との称号を与えられていたのが岩手北上郊外に位置する「夏油温泉」であった。称号授与された当時は横綱という位は無かったとみえ、温泉番付にて実質的な東のナンバー1と云って良いのである。
先日はつげ義春さんによる「つげ義春の温泉」の夏油温泉の写真を目にして以来、ずっと夏油温泉が恋しくなり、今回は云わば発作的に訪れたと云う訳なのである。つげ義春といえば秘湯温泉、秘湯温泉といえば秘湯のナンバーワンの夏油温泉、夏油温泉といえばつげ義春さんなのである。この鉄板の強固なる連想的トライアングルは、夏油温泉への愛着を一層高めるのであった。
テレビも無く、ネットも繋がらず、余りあるのが時間ばかりの昨晩は、地元産の清酒「鬼剣舞」のワンカップを数杯飲んで健やかな眠りについていた。早朝の目覚めはすこぶる快適な体験であった。こんな秘湯は滅多に無い。