婚活毒女、詐欺女こと、木嶋佳苗被告の裁判が先日結審した。そして4月13日には初公判の判決が言い渡されることとなった。結審前の被告は、云わば似非良心の呵責というものを訴えて、審議は終了した。弁護団はそんな被告の言い分を補強することに躍起となった。そんな茶番劇が繰り広げられていた。
これからの約1ヶ月の間、裁判員として司法の場に居合わされることとなった人たちの気苦労はと云えば、それは途轍もない甚大なものであろうと想像する。結果がどういうものになうとも、今のこの時点における裁判員の立場は、云わば尋常ならざる立場に立たされているのであり、このような司法の場の状況を招来させたことについて、釈然としないものを感じ取っている。
すなわちこのような司法の場の招来はつまりは、アメリカ式司法制度の「陪審員」制度を模倣、真似したものに他ならず、加えて指摘するならば、物的証拠に依って判決できない類いの事案について、所謂「状況証拠の積み重ねによる実証」の場に、日本国民市民が駆り出されたという現実的要素が、端倪すべかざらぬポイントであるということだ。
「物的証拠」が無いという状況証拠の判断を、一般市民に委ねるというのが、アメリカ的「陪審員」制度の柱である。そんな重要なことを曖昧にしながら日本の裁判制度の改悪が進行している。
そもそもといえば、悪しき米国的詐欺的犯罪が横行するようになって、我国の司法も「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」などと悠長なことを云っていられなくなったということに他ならないのである。其のくらいに現代日本も悪しく米国化が進行していると云ってよい。
(これは非常に大切なことなのであえて触れるが、TPPが今後我国にて適応されたならば、我が愛すべき日本という国が極悪の米国的国家となっていくことが必至である。絶対にTPPは阻止しなければならないのである)
木嶋佳苗被告裁判の弁護団はそんな点を突いてか、裁判人に対する圧力を極めている。人間の判断を阻害するほどの常軌を逸した主張は、今後の裁判の行方を左右するに違いないであろう。