今日、村上春樹の短編集「めくらやなぎと眠る女」を書店で見つけた。米国で出版された春樹先生の短編集の逆輸入バージョンだそうである。ピンクの装丁が洒落ている。半透明なカバーを被せるなどして手が込んでいる。ペラペラめくって少し考えたものの結局買ってしまった。
早速帰宅電車の中で表題作を読んでみる。20頁程度の短編だから丁度よい長さである。普段何もすることなくウォークマンの音を聴いているより小気味よい緊張感、充実の予感である。そんな心積もりだったのだが、4~5頁読み進めたところで上の空。目は確かに活字を追っているのだが、一向に物語りに入り込むことかなわぬ状態。失態である。こんなことはしばしばあるのだが、こと春樹先生の作品でこんな事態になろうなどとは予想だにしなかったのだから自分自身びっくりなのである。眠気が襲ったわけでもないのに何だろうこの弛緩した感情模様は…。
たぶん以前にもこんな体験はあったのだろうと思うのだ。春樹先生の初期作品といえば、短編作品については特にそうなのであるが、このようなだるい気配を物語の要素としていたことをはっきりと思い出すのだ。だるいというのが不穏当であるならば、ゆるいのである。ゆるい物語の、結末もはっきりせぬような展開を追いながらも、この想像力のユニークさは特筆される。春樹マニアは現在の春樹先生の姿をもまた予想していたのだろうと思うのである。