親戚の伯母の法事があり、文京区内の禅寺へと向かった。
地下鉄沿線の駅を降りて徒歩数分の処にある寺だが、まるで時間が止まったような、緩やかで豊かな時間が支配するお寺の風情に、何とも云えぬ至福の時間を過ごさせてもらったようである。
若いお寺の和尚はよく通った声を出して、般若心経をはじめとした仏典を唱えていた。物音一つしない法堂に響き渡る仏典を聴きながら、死者との対話が響いていくものだろうと感じ取っていた。白隠禅師の教えとされる「座禅和讃」の響きは、毎度のことだがとても心に響いてくる。
「衆生本来仏なり」という一節から始まる座禅和讃は、禅宗に帰依した和尚ラジニーシの教えとしてもまた、全世界に広まっていると云う。「存在の詩」の教えの根本に座禅和讃があり、其れ等が相乗しつつ日本発の世界仏教となっているのだ。心に響かない訳が無いのである。
彼岸を過ぎて日時を経ているが、日も落ちた帰りの道すがらに目をやると、歩道沿いにひっそりと、彼岸花が花を咲かせていた。仏典の教えの響きがまた耳の中で廻っているようであった。
――――――
衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬へば水の中に居て
渇を叫ぶがごときなり
長者の家の子となりて
貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は
己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそへて
いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は
賞嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜
念仏 懺悔 修行等
其の品多き諸善行
皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき
浄土即ち遠からず
辱くも此の法を
一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は
福を得ること限りなし
いはんや自ら廻向して
直に自性を証すれば
自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し
無相の相を相として
往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として
謡ふも舞ふも法の声
三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり