棟方志功は生涯において膨大な量の作品を残している。そう広くはない「棟方志功記念館」の「躍動する生命」企画展にて展示されていたのは、同記念館が所有する膨大なコレクションの中のほんの一部だが、代表作は少なからず含まれていた。
「釈迦十大弟子」は釈迦の弟子達の姿を彼独特のデフォルメ的手法で骨太に描いたものだ。夫々の弟子達の表情から見えるのは、卑近な日常で接する人間達の顔々との特別な相違を見出すことは難しい。何故ならば弟子達の個性は人間存在の様々なる個性と類似しているからであり、これこそが棟方志功流なのだ。
「湧然する女者達々」は、ふくよかな女神達であるが、日常一般で接する女性達の息吹も漂わせている。すなわち神話の女神達のようでありつつ、日常性からたどった女の理想像なのかもしれない。触りたい、抱きしめたい、そして包み込まれたいといった、云わば男の下心にも通じる世界を棟方志功さんは描き切っているのである。
彼の作品にて描かれる「天妃」或いは古事記の神話からとった女神像は神話を題材にしながらも、それに埋没することなく棟方流を貫いている。「女者」という題材が棟方世界を貫く特別なテーマであったのだが、そのテーマの追求の手段として、神話なり仏教故事なりを借用している。
すなわち棟方さんは、よくある凡庸な保守主義者のように神話や故事に埋没して嬉々とする俗物たちとは一線を画して、彼自身の作品世界の構築に努めたのであった。これこそが彼自身の世界観をこ決定付けている。こんな姿勢こそが、天晴の賞賛に値するものなのであり、我々現代人が見習っていくべきものなのである。