東京もいよいよ色づいてきて、吾輩の家の近くの公園にも、紅葉の季節が訪れつつある。散歩した公園にも、色づく様子が見られたので、携帯カメラで撮っておきました。
ところで俳句にはとんと縁の無いおいらだが、松尾芭蕉さんといえば話は別格なのであります。かの「奥の細道」はまさに、おいらが度々東北を旅するときのあかりの様なものでありますゆえ、存在が別格なり。実は前々から胸に突っかえて居る句があるのです。
人毎の 口に有也 したもみぢ(松尾芭蕉)
実は「したもみぢ」という言葉が引っかかっているのです。紅葉は「下から」色づいていくのだから「したもみぢ」なのか? あるいはそれ以外の特別な意味があるのではないのか?
我が国の和歌には「したもみぢ」なるキーワードが多数存在する。例えばこれなど。
したもみぢ かつちる山の ゆふしぐれ ぬれてやひとり 鹿のなくらん
紅葉は下から順々に色づくという。それを意味して「下もみぢ」というのか? だが「したもみじ」は、「舌紅葉(したもみじ)」と読めないこともない。人は時々前言撤回する、つまり裏切る。それを意味して「舌もみぢ」というのではないのだろうか?
芭蕉さんの句だからというわけではないが、人生訓として読んでみると、「下紅葉」より「舌紅葉」のほうがずっと、芭蕉さん的ではないのか、なんて考えているところなのです。