「プレカリアート」は果たして現代の「デラシネ」か?

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この「プレカリアート」とは、作家の雨宮処凛さんが我が国に広めた言葉のことを指している。彼女の著書「プレカリアート」にて冷静かつ徹底したその現状分析が示されている。

「プレカリアート」の定義とは「不安定な雇用・労働条件における非正規雇用者・失業者を総称していう」とされている。元々はイタリア語で「Precario(不安定な)」と「Proletariato(プロレタリアート)」とを掛けてつくられた造語である。イタリアの若者が路上でこの言葉を落書きとして書き記し、国境を越えて全世界に広まった。日本のみならず、グローバル化した先進資本主義社会の中で、若者の貧困化、不安定化が進行している。そんな背景から自然発生的に広まったキーワードなのだ。

経済のグローバル化は新自由主義という美名の基、世界各国に新しい貧困と不安定な暮らしをもたらしたことは、いまや誰もが認識する実態である。だが、貧困、不安定生活は、厳として過去にもずっと存在していた。そんなある時代の不安定生活を表現していた言葉が「デラシネ」である。

一般的に「デラシネ」とは「根無し草」と翻訳される。「根こそぎにされた」という意味のフランス語が語源である。かつて作家の五木寛之氏は「デラシネの旗」という作品において、学生運動への傾斜やその挫折観からの独自の世界観を描いていた。詳細については失念したが、自らの強い意思にてそのデラシネ的生活を求める、求道者的な世界観が背景に見て取れてもいたのだ。

その当時、体制や伝統に背をそむけるという生き方は今以上のエネルギーを必要としたであろうし、今以上に経済的困窮を視野に入れねばならなかったに違いない。だがそれは、自らの祖国や伝統、体制に背を向けてこそ手に入れる生活。たとえ生活は困窮しようとも、受け入れ得ぬ祖国故郷の浅はかなる仕来たりや伝統から身を引き離すことで得られる、ロマンがこもった世界観だとも云える。そんな作家として自立する思想的な営為が、とても鮮やかなものとして感じ取られていたものだ。

時代は移り行き、改めて「プレカリアート」の不安定的現状を考えるに、自ら選択して選ぶことをせずに、不安定生活を強いられてしまう現代の若者は、デラシネ的なロマンをも持つことができないでいる。フリーターでも何とかなるし、生活保護も受ければ良いといった、社会全体の甘えや弛みがそうさせているのかもしれない。一体こんな日本に誰がしたのだ。