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かつて「雨宮処凛」という作家の名前を初めて知ったのは、何かの雑誌インタビュー記事だった。内容はと云えば、彼女が「プレカリアート」という言葉を日本に広めた作家ということだったと記憶する。新書「プレカリアート」(洋泉社)にはその言葉の「プレカリアート」の定義や誕生、実態等について詳述されている。その後、彼女に関心を抱きつつ何編かの小説作品に接していたが、独特の癖のある情念的な描写が気にかかっていた。
今回読んだ「排除の空気に唾を吐け」もまた、極めて情念的なタイトルがまず鼻について仕方がなかった。ところが読み進めていくにつれ、そこにレポートされている迫真性に、まさしく気圧されてしまったのだ。
この新書を通してレポートされているものは、現代日本のいびつな姿に他ならない。その切羽詰った現状を思い知らされたと云っても過言ではない。
新書全編を通して、職を奪われ、生存を奪われ、排除されていく、行き場のない人々の姿がつまびらかにされていく。中でも驚きに耐え難いのが、加藤智大(秋葉原連続殺傷事件の犯人)と造田博(池袋通り魔事件の犯人)とに関するくだりである。両者はともに労働の現場で疎外を受けていた。「疎外」という言葉はおいらが青春期の頃によく使っていた言葉ではあるのだが、現状はそれ以上に深刻である。生存を脅かせるくらいの「排除」が進行しているのだ。驚くことに両者は同じ派遣会社(日研総業)と派遣先(関東自動車工業)に身を置いていたことがあるということなのだ。
当初はおいらも情念的だと考えていた「排除」という概念が、とてもリアルな現実的事象に感じざるを得なかったのである。そして今なおこの流れは止まることがない。その大きな流れを作り出したのが、小泉純一郎と竹中平蔵による自由主義的経済政策であり、当時の内閣が負う全ての政治的政策であったことを記しておく。小泉・竹中流の「自己責任論」が招来した悪しきしわ寄せの数々の実例を、これでもかこれでもかと提示していく。そんな作家の筆力には脱帽の思いである。
さらに、この稿を閉めるにあたり、とても心を動かされた同著の中の一文を紹介引用しておきたい。
(以下引用)-----------
「心の闇」という、何か言っているようで何も言っていない一言で済まされたことが、やっと今、「社会的排除」の問題として捉えられようとしている。
(引用終了)-----------
小林さんも、かなりの社会主義思想ですね。わたしに言わせれば、旧来からの社会主義思想こそ、こんにち蔓延しているポピュリズム思想の元凶だと思うのですが、いかがでしょう。わたしの言う社会主義思想とは、理想主義を背景とする平等主義に他なりません。さらに平等主義を、わたしなりに換言すれば、すべての人間は平等でなければならないとする、剛直な教条主義のことです。平等とは、せいぜい、憲法以下、いろいろと書き記されたテキスト上、または教育上の教科書の濫用と引用以上の現象に過ぎないのではないのかと、わたしなりに疑い始めているところなのです。
かもめさん、こんばんは。
>小林さんも、かなりの社会主義思想ですね。
おいらが社会主義的思想を基本に抱いていることはそのとおりです。過去に否定したことも隠したこともありません。おいらは吉永小百合さんにも劣ることのない社会主義的な思想を基本にしているということを隠すつもりはありませぬ。
付け加えて述べるならば、尊敬する政治家として考えているのは、元フランス大統領のミッテラン氏です。これは思春期の頃からのものであり、そう簡単にひっくり返るような代物ではありませぬ。
社会主義的思想が理想論だという指摘もありましょうことは認識しています。だがその指摘は軽薄かつ時流の流れによって惹起されたものゆえ、まともに相手にするものとは思えませぬ。
社会主義思想が、駄目だとはもうしません。いずれにせよ、わたしが経験した範囲で言えば、世相に現れる気分なり意識なりを多少なりとも政治的に読み取って表現してみるに、ようするに二分してみれば、社会主義的か、はたまた反社会主義的かに分かれるだけですもの。反社会主義的傾向として、昔は資本主義という言葉と、自民党というものが大手を振っていた。自民党が下野してしまった、今となっては、それらは敵としての概念にはなりようもない。いつから換言されたのか、今度は、やれ自由主義だとか新自由主義だとか、やれ小沢がどうした小泉がどうした、さらに仮想敵を議論の上で作っておく、というような、いわゆる議論のための議論のために、政治的に形成される、ときどきの概念(マスメディア)が、次々に形成される、という現象にしか過ぎないように、思われるのです。概念とは言葉の上の問題ですよ。人々の実生活に比して、何億という人々の喜怒哀楽を重ねに重ねたものが、歴史というに相違ありません。比して、社会主義であれ新自由主義であれ、また「平等」といい、「平和」といい、それら概念の実際たるや、実に軽薄ではありませんか。そのようなことを、申し述べたかっただけです。
そこで、もう少し「社会主義」思想についての、現在のわたしの考えを申し述べておくのですが、一言のもとに言えば、徹底した社会主義とは近代主義が行き着いた果ての果てです。さらに言えば、社会主義思想は、社会の終末です。人の上に、社会を講じるのですから。つまり人間も動物であるとの原理から、どんどん離れていく。人は社会の産物であるとまで、言うでしょう。こうなったら、人間はどうなるでしょう。まず、予想されるのは、法律でがんじがらめになりますよ。個人の人生は、生まれながらに、ほぼ決定されてしまうということも、なりかねないのです。昔のほうが、よほど自由だったなどと、年寄りたちが、いいかねない。こうして行政主導による、ねずみ一匹通させないというような徹底的な「社会」が構築されるはずです。これが社会主義の行き着く果てにあるのです。わたしには、人が社会によって、滅ぼされるというような、逆説的ですが、ひとつの人間の終末劇が、まぶたに浮かんでくるのです。
小林さん、上のわたしの記事は、どうも理屈ばかりが、暴走しているようで、反省しきりです。言いたいことを、もっと手っ取り早く言えば、社会主義的な言辞言説いっぱんに、これは最近の私の場合は、という条件をつけておきますが、偽善的な臭いばかりかがされているような気がするのです。倫理的なものが、ひとつも感じられないのです。それは話題の人たち(政治家、評論家、作家、自称ジャーナリスト)の言動に、もっとも、よく見受けられるところです。その他、話題の新刊。話題の音楽、話題の映画。もう、わたしには、こうしたものは、見るのも聞くのも嫌ですね。平和という言葉。差別という言葉。排除という言葉。その他、たくさんあります。進歩、発展、発達、近代等々などの言葉も、同様です。声ばかり大きくて、その内実たるや薄っぺらいことは言うにおよばず偽善にまみれている。実に偽善的です。
かもめさん。おいらの見方はどうも逆のようです。戦後60年以上の長きにわたって「自由」「平等」「人権」等々の民主主義的綺麗事は、時の自由民主党という政権が担っていたものです。「自由」という名の競争主義、排他主義、拝金主義、俗物主義、…等々、一部の人間たちの自己満足的欺瞞のために「民主主義」という名の悪用が行われてきたのです。その行き着くところが小泉・竹中の「新自由主義」という思潮であった。銭金のために活動することを強要され、拝金主義的活動が唯一の価値とまでされていました。「経済活動は創造的活動だ」と語ったとされる竹中達の魂胆が透けて見え、何をかいわんやの思いなのです。たとえて云えば「足に靴を合わせる」のではなくして「靴に足を合わせろ」という主義こそ「民主主義」「新自由主義」の根本です。実は名前などどうでもよいのです。「社会主義」という主義とは云わば欺瞞を映し出すための方便ともいえましょう。