無念の念を念として 謳うも舞うも法の聲

 

higanbana 

本日、叔母の四十九日の法事がありまして、都内文京区にある臨済宗の修行寺に赴いたのでありました。そこで目にしたこの一文。

「無念の念を念として 謳うも舞うも法の聲」

読経の前に渡された聖典の中にある「坐禅和讃」の終わりに近く、その言葉は強烈に目に飛び込んできたのです。吃驚至極のことこの上なく、しばしの間、身が凍るほどの時間を過ごしたていたのであります。

「法の声」とは字面だけたどれば天からの思し召しとでも訳されるのでしょうが、ことこの一文にとってそんな俗訳はかえって煩わしく、今日この言葉はまさに酒井法子の発した言葉ととるのが必定との、そんな観念に支配されたこと、ここに告白いたしたく候。縁ありて先日は勝浦の某サーファー族のメッカに足を伸ばして目にした、あのおぞましいのりピーハウスの主である法子さんが発した言葉としかうつらなくなり、この耳と目に焼きついてしまったというわけなのですから。支離滅裂な精神混濁によるものなどとは無下に論壇しないでほしいのです。

ところで、酒井法子の無念は、どのくらいに深くて、社会的に共有されるものなのか? パッシングなどしている暇があったら、そのことを強く追求すべきである。