村上春樹の「1Q84」について、特にそこで展開されている「リトル・ピープル」に想いをはせるにつれて、彼らに対する拒絶反応とともに、奥深いところではある種のシンパシー、或いは興味深い畏友ではないのか、といった想いを払拭できないでいる。かつて村上春樹さんが著した「アンダーグラウンド」というノンフィクションの最終章を、今宵読み返している。
興味深い一節がこれだ。
「(前略) 私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ――ということになるかもしれない。」
新しい物語のモチーフを、ある意味にてオウム真理教のドラマに求めたのかもしれない春樹先生の、肉声を聴いた気がした。
翻って「1Q84」のト゜ラマツルギーにおける「空気さなぎ」の位置づけはどうだったのだろうか? 芥川賞候補作として売り出す経緯やら、最終章(あくまでBOOK2におけるものとしての)で10歳時の天吾と青豆のファンタジーとやらは、現実としての「オウム真理教」体験を浄化させた、新しい物語として、昇華されたものと、受け止め得るのか否か?