村上春樹の「1Q84」について、この作品がジョージ・オーウェルの「1984年」をベースにしているとの指摘は、文藝関係者以外からもことあるごとに打ち出されている。どれくらいの比重があるかないかをはいざ知らず、この指摘を否定することはもはやありえないであろう。
たしかに旧ソ連邦に象徴される高度管理社会は、巨大な悪の権化としての「ビッグ・ブラザー」を想定して議論していくことが可能であった。厳然としてある支配層による管理システムが、明瞭な顔を持って行う権力の行使は、顔の見えるものであった。だが現在においてその図式は成り立たないものとなった。村上春樹さんもその辺のところはとっくにわきまえており、新しい時代を体現する人間たちを「リトル・ピープル」と称したかったのではないか?
「オウム心理教」「ヤマギシ会」などの特定のカルト教団が、そのモデルとして設定されているものの、物語が示しているのは、そんな狭小なものにとどまってはいない。「衆愚の民」と新潮文化人だったらそう呼ぶかもしれない、ある条件に限られた一部大衆にも、「リトル・ピープル」たる資格が備わっているのかもしれない。あるいは、ネット社会における「祭り」に参入して煽り立てるネット流民たち、2ちゃんねる掲示板に群がる匿名ユーザーたちも、その例外であるはずがない。
「正義」の御旗を振り回して「ビッグ・ブラザー」を自称するタイプの人間は周囲に見なくなったが、その反面で「リトル・ピープル」の陥穽におちいっていくタイプの現代人は増えつつある。つまり、一般大衆の多くが好むと好まざるにかかわらず「リトル・ピープル」に変容する環境条件は至る所に散らばっており、そのひとつひとつを検証することに、建設的な価値は見出せなくなっているのである。