「高橋コレクション日比谷」にて「至上ノ愛像」展が開催されている
http://www.takahashi-collection.com/
写真家・荒木径惟と彫刻家・舟越桂とのコラボレーション的二人展である。展示されている作品の目をひく大部分が、熊本市現代美術館で開催された「荒木径惟 熊本ララバイ」に出品された「母子像」シリーズのうちの12点となっている。幼い子供と母親とが全裸でカメラに向かい被写体となる。そうした数十組の母子像の姿をとらえた写真群の一部がこの企画展にて展示されている。すなわち「熊本ララバイ」にて作品に接することのできなかった東京人へのお披露目という要素も、この展示会が担っているというわけなのである。ちなみに「熊本ララバイ」の展示会図録は開催間もなく売り切れ完売となったそうだ。それだけ展示会としては至上の人気を博したものであった。
昨日エントリーした「アホの壁(議論の続きはまた後日)」でも触れたことだが、「アホ」とは人間社会においての潤滑油ともなり得る貴重な存在であり、愛すべき要素を持っている。人がカメラの前にて全裸になる、すなわち「アホ」になるには相応の根拠を必要とする。昔の女優であれば「芸術のため」等々の決まり文句が存在していたが、今の世の中、そんなお目出度い言葉は見当たらないのであり、「アホ」の称号を博することが必至なのである。至上の愛とはそんな俗世間のしがらみを払拭すべくパワーをもたらすものである。「熊本ララバイ」の成功がそのことを証明しているのだ。
それにつけても「至上の愛」とはよくもまあのたまったものである。日本語には「無上の愛」「極上の愛」「究極の愛」などといった同様の意味する言葉があるのだが、何故「至上」なのだろうかと、何故か拘ってしまうのである。「無上」という言葉は仏教的であまり一般的ではないし「極上」にいたっては金ピカ成り上がり的雰囲気をまとっていることなどがマイナス的要因ではある、しかも「究極」ときては人気漫画の剽窃とも疑われかねない、等々の検討過程が想像されるが、しかしながら「至上」が何故選ばれたかの根拠は定かではないのである。おそらくスタッフの誰かの入れ知恵で「無上」はこうこうで駄目、「極上」はあれこれでマイナス…的な、スタッフアドバイスが噴出したのだろうかと推測可能である。
「新巨人の星」は花形以外も長髪で本当は野球嫌いの私にとってもみやすいパロディアニメでした。
その花形は自然食研究のため広岡ヤクルトに入団するストーリーでしたが、数年後、同じヤクルトで指名されたのが荒木です。
私の子供の頃の野球ブームは、
赤ヘル優勝からレッズ来日までぐらいですが、
なんとか戦術解説できないかヤフオクで当時の野球雑誌を落札、スコアブックを見ていま分析をしています。
わかったことは長嶋のクリーンベースボールの正体は、三塁にとどまるのではなく、ホームにつっこむ野球であること。勝率より視聴率重視だったことです。もっと細かく追跡すると、昭和40年代の阪急が重視した、バスター(バントの構えから突然打ちに行くこと)とエンドランを組み合わせたバスターエンドランを意味なく多用したこと。テレビ受けを狙ったものかもしれません。
長嶋が好きだったのはヤクルトのマニエル選手じゃなくて、エマニエル夫人でした。
長嶋「この映画には何かがある!」