生豆腐の揚げたて「厚揚げ」で一献

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年の瀬も押し詰まっている今日、地元行きつけの居酒屋で、初めての裏メニューの「厚揚げ」を食することになった。通常のメニューには記載されない裏メニューと云うには理由があって、生の豆腐を注文を受けてから植物油で揚げて調理されるものなのだからであり、それだけ手が込んでおり、料理人の思いが詰まっているのだ。

所謂「揚げ出し豆腐」とは異なっていて、しっかりとした衣がさくさくとした食感を醸しており、中は絹豆腐のトロリとして繊細な風味が舌を襲う。こんな料理はまさに「Tokyo is a city of Dinamic ・・」云々と云った前東京都知事こと猪瀬直樹の言葉を惹起させるが、実際は其れ以上の逸品的な代物ではある。

厚揚げとはどこのスーパーにも置いてある日常的大衆メニューであり、取り立てて騒ぐこともないのは重々承知なのではある。だがしかし、こんな自家製厚揚げはといえば特別な裏メニューなのだ。おいらの出身地、群馬の田舎では、厚揚げのことを「生揚げ」と呼んでいる。生のままの絹漉し豆腐をそのまま油に潜らせる。10数分を経て揚がり上がったほ くほくのものを、葱、生姜、鰹節をのせ醤油を掛けていただく。まさしくほっかほっかの豆腐の旨みに加えてカリカリとした殻の食感がたまらない旨さのハーモ ニーを醸し出すのである。

冬季に美味しい「白子ポン酢」を食した

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冬に美味しくなる食材の一つが「白子」である。其のポン酢和えの「白子ポン酢」を食したのだった。主に鱈(タラ)の精巣がその身の食材である。ポン酢でしめたこのポン酢和えが一般的な料理ではある。見るだけで冬の到来を感じさせる。

近頃では鍋料理にもこの白子が使われるというが、勿体ないことこの上なく、やはり白子はポン酢に限るのである。つるつるっとした食感に、奥深いほんのりとした甘さと旨み。たんぱく質が豊かであり、ビタミンDやビタミンB12といった成分も豊富な食材である。

最大の 難点は「プリン体」が多いということで、通風もちのおいらにとっては鬼門的食材なのだが、それでもたまには口にしないとおさまらない。有り難くもあり危険 でもある、扱いが難しいことこのうえないのである。

ポン酢以外にも鍋料理に白子が脇役として添えられることはままあるが、以前に食した「白子のホイル焼き」という白子が主役の温ったかメニューは、とても有り難い思いがしたものである。

「肉じゃが」にこそ日本料理の栄えあれ

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「和食」が無形文化遺産に登録されてから久しく時が経過している。おいらは勿論のこと、和食は大好きであり、日々の食生活の基本である。然しながら「和食」という概念はと云えば頗る曖昧なのであり、単純明快に「和食」イコール「日本食」とは云い難いという状況が存在している。

そもそも「日本食」としてイメージされるのは、「寿司」「刺身」といった生魚に関するものである。日本近海で収穫されている魚が日本人の長寿命を支えているのは医学的な客観的事実ではあり、寿司や刺身やその他諸々の料理以上に、鰹出汁と鮮度の良いじゃがいもと、そして醤油という逸品的な調味料によって成り立っている肉じゃがにこそ、日本料理の栄えあれなのである。

馬肉専門店、町田「柿島屋」の桜鍋

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入院中の友人の見舞いに行った後、友人達と町田の「柿島屋」を訪れた。忘年会を兼ねた其処の「桜鍋」は、レトロな店内のテーブルや特製の鉄製鍋の風情が相俟って独特な味わいを醸している。

桜鍋に盛られた馬肉は赤々として鍋の半分以上を覆い尽くしており、火が入ると灰色がかって益々食欲を刺激する。すき焼き風に生玉子を割った小皿に乗せて食べた其の馬肉は、噛み応え満点で、噛めば噛むほど口腔内に旨味が膨らんでくるようだ。

〆には太めの蕎麦がおすすめだということなのでそれを注文したが、じっくり溶け込んだ馬肉の出汁と蕎麦の風味が合わさって、食べたことの無い独特な〆の料理となっていたのである。

■柿島屋
東京都町田市原町田6-19-9
042-722-3532

自家製ミネストローネのロールキャベツは頗る美味なり

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昨日はおいらが自宅にて調理したミネストローネのことなどを記述したが、本日はそんな一晩寝かせたミネストローネを元にして、ロールキャベツの煮込み料理を調理してみたのであり、これがまた想像以上の頗る美味なる料理だったのだった、

欧風的根菜野菜のスープは、時間をかけて煮込まれていたことにより昨日以上に逸品的スープとなっていたのであり、そんな逸品的スープに煮込まれたロールキャベツの味わいは逸品至極の味わいだったと云ってよい。

具沢山の欧風「ミネストローネ」でほっこり温まった

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冬には冬の特別なスープが欲しくなるものである。本日おいらがつくったのは、冬の欧風イタリアンスープの代表的な「ミネストローネ」であった。イタリアンの代表的なスープであり、人参、玉葱、ジャガ芋、セロリ、等々といった冬の根菜野菜がメインの食材であることが特徴なのであり、冬季には食べない訳にはいかないメニューなのである。

ほっこりほっこりと、昨日から同じテーマの記述がだぶることになったが、日本の鍋と欧州イタリアン風スープとの間にある奇妙な共通性を感じ取っているのだ。出汁やスープの味付けは異なるが、どちらも冬には冬の旬の食材である根菜類を多様していることだ。肉類や魚介類を用いていないのが、野菜類の豊穣な味わいを尽くしているようだ。

ところで和食こと日本の伝統料理には無いミネストローネに不可欠の食材が、セロリである。おいらが幼少の頃には、恐らくは無かったようだ。だがこの冬野菜はと云えば、筋が気になる独特の食感や、鮮烈な香りで魅了させているのであり、時々食べなくてはもの恋しくなると云った逸品食材の一つなのだ。セロリの味わいはミネストローネの完成度に深く関与しているのだ。

ところで日本の代表的冬野菜のキャベツがこのミネストローネには無いではないか? とふと考えたおいらは、ミネストローネスープで煮込んだロールキャベツを明日作って食べようと考えている。きっと味わい深い料理になることだろう。

高円寺「大将」の「鶏のみぞれ鍋」をほっこり味わう

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鶏鍋といえば博多の郷土料理「水炊き」が有名だが、もう少し手軽に味わえるのが「鶏のみぞれ鍋」也。出汁に大根おろしを含ませているのが特徴で、煮込まれた鶏肉、鶏団子、茸類、白菜、葱、水菜、豆腐などの具材をほっくりと包み込んで、まろやかに味わうことができる。

一口味わえば、胃腸にもすこぶるやさしそうであり、箸を重ねるにつれ益々食欲を増していた。

まさに大衆居酒屋ならではの逸品の鶏鍋料理である。

■居酒屋大将三号店
東京都高円寺北2-9-6

上州空っ風と赤城の山並みに抱かれ「メメントモリ」の思いを新たにしつつ

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今月は、亡き妻須藤真理子の14回目の命日が控えていることから、前橋の北端に位置する嶺公園内の墓地へと、墓参りに足を運んでいた。

本日は幸いにも朝からの天気は上州晴れとも呼ぶべき天晴のものだったのであり、晴天に見合ったピリリとした寒気さえ特別な上州の風情を身に沁みさせていた。

そもそもこの寒気と上州晴れはと云えば、狎れた精神肉体共に凛とさせられる、上州人にとっての心の古里を喚起させる、まさに原体験的原風景の一端を成していると云って良い。

凛とさせる空っ風と赤城の山並みを眺めつつ、帰路についたおいらではある。「メメントモリ、メメントモリ」の囁きがおいらの胸中を行き交っていた。いつか遠くない将来は、おいらもこの墓に埋葬されて、凛とした上州晴れに抱かれつつ眠りにつくのである。

冬の夜に「牡蠣鍋」がすこぶる美味いことに関する一考察

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本日は年に一度の「冬至」ということであり、おいらは本日を迎えるよりも初めから冬支度をしながら朝を迎えていた。早朝は寒かったが日が昇るに連れて温まっていた。冬至を感じるには些か条件不足であったと云えるのかもしれない。実際においらが訪れた公共の某入浴施設には期待に反して柚子が入っていなかつた。この期に及んで云うべきではないのだろうが、冬至のお湯には柚子が不可欠であるべきでありながら、何も冬至の恩恵を受けることなく、冬至という本日が終わろうとしている。

さてさてと気を取りなおして夜の酒場に出てみたら、休日の繁華街の横丁の居酒屋で、そこそこと美味なる「牡蠣鍋」に遭遇することとなった。冬の季節に牡蠣鍋が美味いことは論をまたないが、本日という冬至の日日に、其の夜間において、牡蠣鍋は特別な存在感を示していたことを記しておきたいのである。なんとなれば冬の寒気には牡蠣の苦味とコクがとてもおいらの喉に心地よく触れていたということなのだ。冬の夜に「牡蠣鍋」がすこぶる美味いことには理由がある。

其の訳の一端として考えられるのが、豊富なるカルシウムの存在である。牡蠣は冬季の主役になり得る食材である。社会一般的には「海のミルク」等とも呼ばれるが、コクや味の個性においてミルクの比ではなく優れている。薄曇り色していた牡蠣のむき身が、熱湯をくぐっていたその先には、ぷっくりとして白鮮やかな牡蠣の身が、視線を和ませてくれたり、美味しさの手引をしてくれたりと、大活躍なのではある。だからこその「牡蠣鍋」を十二分に味わえる季節は、今を置いてないということが云えよう。

脂が乗った白身魚の「太刀魚の炙り刺身」を味わう

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日本刀の中でも特に長い、まるで太刀ような形状から、太刀の魚と書いてたちうおと読む。そんな珍しい魚こと「太刀魚」の炙り刺身を食した。鮮魚の太刀魚はまさに重厚に白光りする刀のようにきらびやかさを表している。

こんな珍しい太刀魚は通常は塩焼きにして食べられるが、このたびは表面をバーナーで炙った「炙り刺身」で食したのだった。皮の部分が鱗の代わりの銀粉で包まれているので、完全な生食にはなかなか向かず、火で炙ることで香ばしさを増していく。太刀魚に相応しい調理法の一つだ。

太刀魚は数多い白身魚の中でも特に脂が乗っていて魚の脂身をストレートに味わえる。新鮮な太刀魚の炙り刺身はお勧めである。

小金井で熱々ふうふうのおでんで一献

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いつものJR中央線を武蔵小金井で途中下車して、馴染みの「百薬の長」に立ち寄って、熱々ふうふうのおでんで一献。寒い夜には熱々ふうふうのおでんに限るのであり、途中下車したかいがあったというものなのだった。若い女将のお母さんに、「おでんの良いところを見繕ってください」と声をかけたが、「何が良いですか」との返答であり、それではと、いつもの大根に玉子に蒟蒻に竹輪麩にその他色々を注文していた。期待を違わぬ熱々ふうふうのおでん種はどれもがふかふかであり、ほっこりと温まっていた。

同店には数ヶ月ぶり久しぶりの訪問であったことから、初めて顔を合わす呑兵衛たちがほとんどであったが、若女将の軽妙洒脱な会話によることも大きくて、そう時間を掛けずに馴染むことが出来ていた。北口を出て徒歩1分程度のところにある「百薬の長」は、駅近でありながら長い歴史を有する大衆居酒屋であり、おいらも過去にはよく通っていた。もつ焼きの 種類が多く、メニューを見れば20種類もが表示されている。そんな新鮮なもつの味を求めてやってくる客が多いが、おでんや煮込みもまた侮れない。冬に温か いおでんを頬張ればお腹も心も温まり、居酒屋巡りの醍醐味を味わえるのだ。もつ焼きを6本とホッピーを2セット、そしておでんを2皿のお替り。おでんをお 替りしたのは珍しいくらいだが、それだけ温まってきました。

■もつ焼き百薬の長
東京都小金井市本町5-12-15

KAWADE夢ムック「吉村昭 取材と記録の文学者」で、吉村昭ワールドに耽る

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先日は吉村昭氏の「味を追う旅」を読んだこともあり、吉村昭氏の仕事に特別な関心が高まっている。そんな中でちょうど先日は、河出書房新社の「吉村昭 取材と記録の文学者」というムック本を手に取り、色々と興味深い作家の生き様に説しているところである。云わば吉村昭ワールドに耽っていると云っても過言ではない。

特に巻末に掲載されている「単行本未収録コレクション」の小品にはことの外、のめり込んでしまっていた。家庭内の出来事に題材を得て、恐ろしいくらいのリアリティーで読者を虜にさせていく。歴史小説の大家は、こんな逸品小説をものにしていたことを思い知っていたところなのである。

旬の「カキフライ」はこの季節ならではのもの

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冬本番になって、牡蠣が恋しくなる。今宵は「カキフライ」を口にして、やはり旬の時期ならではの美味に酔い痴れていた。

おいらはあまり揚げ物が好物ではなく、特にフライものはほとんど望んで口にすることはない。だがこの季節のカキフライは別格なのである。

この冬の時期の牡蠣は「マガキ」という種類が流通している。粒は大降りであり、磯の香りの風味も満点。衣に包まれた瑞々しい牡蠣の身が目に触れて、箸を付ける瞬間はとてもドキドキとときめかせてくれる。そして口に含んだときの牡蠣の味わいは鮮烈であり、期待を裏切ることもない。

旬のカキフライはこの時期ならではのものなのである。

フライパンで「和風パエリア」をつくったのだ

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地元のスーパーでは海鮮食材の特売的安売りをしていた。海老、蟹、ムール貝、鱈の身、其れらを観て早速買い込んだおいらは、自宅のフライパンで和風のパエリア(paella)をつくったのだ。コンソメスープの代わりに和風出汁スープを使ったことが味のポイントだが、予想を違わない出来栄えであった。

御存知のとおりパエリアとはスペインを代表する料理であり、多種類の魚介類とお米を用いてつくられる。魚介類とお米の取り合わせの妙味はパエリアを形成する最大の要素であり、味付けが和風の出汁であったとしても美味なることこのうえないのだ。

そもそも「パエリア(paella)」とはフライパンを意味しているとされる。フライパンで簡単に出来る料理なのであり、我が家のフライパンを使って出来たパエリアも、パエリアの条件を満たしていると云えるだろう。良い海鮮魚介類にはパエリアがとても良く似合うのである。

数十年ぶりで味わい深き「弁慶」の串煮込みを食らう

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東京下町の「三ノ輪」駅で下車して数分の居酒屋「弁慶」に立ち寄った。かれこれ数十年ぶりの探報であり、様々な刺激的な思いに囚われていた。

以前に訪れたときには「串煮込み」がほぼメニューの大勢をしめていたが、今ではそうではなかった。マグロその他の海鮮メニューが豊富であり、冬季のおでん鍋が呑兵衛たちの胃袋を満たしていたのである。

そして、当店の主人も様変わり、代替わりしており、若き金髪の主人が店を仕切っているのは刺激的な光景ではあった。

当居酒屋の主的メニューの「串煮込み」は、「なんこつ」「はちのす」「しろ」「ふわ」の四種類である。そう深過ぎることなく煮込まれたモツはモチモチの食感が豊富であり、モツ焼きとは違う、モツの味わいを堪能することが可能である。

■弁慶
東京都荒川区南千住1丁目15-16
03-3806-1096

虚実ない交ぜのハチャメチャ的エンターティメントの「清須会議」を鑑賞した

三谷幸喜氏の監督最新作として喧伝されている「清須会議」を鑑賞したのだ。

http://www.kiyosukaigi.com/index.html

当映画の主役と云えるのは羽柴秀吉役の大泉洋だと考えるが、然しながらとても彼には存在感があるとは思えずにいていたのであり、果たして誰が主役なのかと視聴している間は思案していたのではある。実際、主役級の役者は示されているわけではなくて、大泉洋は主役どころか準主役的役割としても認識されているかどうか。はちゃめちゃ的なドラマはと云えば、虚実ない交ぜのハチャメチャエンターティメント的映画としてあった。

異才の作家、吉村昭さんの「味を追う旅」を読む

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数々の歴史小説や「記録小説」と称されるノンフィクション作品で知られる吉村昭氏は、全国津々浦々への取材で駆け巡っていた際に、地域の様々な料理やら酒を求めて堪能したらしい。旅と料理と酒をテーマに随筆を著してきたものが、「味を訪ねて」に纏められている。このたび、同書が文庫版「味を追う旅」として刊行されたことを知り、先日購入し、ちょびちょびと読み継ぎながら、本日読了した。

一読して、肩に力が入らない平易な記述で好感を持った。所謂「食通」等と呼び称される類の人間ではなく、毎日の日常の食生活の中における美味の追求というスタンスだ。だから、美味なものに金に糸目はつけないと云った人種とは対極にあり、日常的にありつける程度の料理や酒に対象を限っている。作家のスタンスとしてはなかなか見かけない、天晴れなものではないかと合点した。

吉村氏が旅したのは、沖縄、九州長崎、四国宇和島、その他東北、北海道、等々全国津々浦々に渡っている。おいらの出身地である群馬県前橋で食べた水沢うどんの旨さについても記されており、細かな取材力には敬意を払いたいと思った。さらには東京下町の伝統的食材や料理に対する考察には、現在の下町食文化にもつながる伝統を感じ取ってていたのだ。即ち食文化とは料理の美味のみについてではなく、提供する店舗や料理人や仲買人やらの多種類の人間の営み全てについてが対象の文化なのだということを、あらためて考えさせられる一冊であった。

村上春樹さんの私小説的な最新作「イエスタディ」を読んだ

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月刊「文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの最新作品「イエスタディ」を読んだ。ビートルズの超有名な「イエスタディ」に絡めた物語が、主人公の男性こと「僕」と、彼の友人の木樽とその彼女こと栗谷えりかとの3人によって展開されていく。早稲田大学2年生の「僕」と2浪している浪人生の木樽と上智女子大生の栗谷。主人公の「僕」を春樹さん自身だと見立てれば、まるで私小説的なプロットが出来上がっている。いよいよ春樹先生も私小説的なジャンルで、これまで残せなかった作家的な足跡を刻もうとしているのか? などと云う想像も逞しくさせてしまうのだ。もちろんのこと村上春樹さんが此の小説で私小説的なプライバシーに基づいた物語を紡いでいるのかどうかは定かではない。

物語の冒頭で、「僕」の友人こと木樽がつけた「イエスタディ」の歌詞が開陳されている。共にビートルズ世代として思春期を過ごしていたことを示すのだが、其れ以上に深い三者の世代感を浮き彫りにさせている。事実的なことは判然としないのであり春樹さんの創作かとも思うが、とても力作であるのでここに引用してみる。

ーーー(引用開始)ーーー
昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

昨日は
あさってのさきおとといで
さきおとといのあさってや
それはまあ
しょあないよなあ

あの子はどこかに
消えてしもた
さきおとといのあさってには
ちゃんとおったのにな

昨日は
しあさっての四日前で
四日前のしあさってや
それはまあ
しょあないよなあ
ーーー(引用終了)ーーー

まるでパロディのような歌詞ではある。だが、全く真面目な意味合いがない訳ではない。女と別れて暮らす孤独な男たちの紡ぎ出す歌にも似ていて、孤独な男たちの本音の部分の心情を紡いでいるかのようなのである。ちなみに表題には「女のいない男たち2」とある。独身男性の生態をテーマにしているかのようだ。あらためて春樹さんの思春期の生き様が浮き上がって来る。それこそまるで私小説的なプロットの噴出である。まるで私小説的なプロットの新作を何故に春樹さんは著したのだろうか? 疑問は解けることはないが、一つの仮説がある。それは、過去における浮き世のごときの主人公たちの生態を消すということである。もててもてて仕様がないという一時期の春樹作品の主人公のにおいを消していきたいと図ったのではないのかという仮説である。ただし仮説はあくまでも仮説なので、其れ以上の追求は控えておくことにする。