春の味覚である菜の花こと「ナバナ」を味わった

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春間近の本日は、いつになく温かい風が街中をおおっていた。自宅から会社への道すがらには春の息吹とも云えるくらいに芽吹いた植物の成長をこの目で見たいという認識を強くしていたところではあった。

それでも家についての日々日常は、その日のあれこれやを前提にしているのであり、寒い日とか極寒からの抜け出しの日々を、これから記していくには、おそらく大いなる壁がのしかかってくるのだろあということを思い起こすのである。

今晩のナバナこと「菜の花」は、まるで繊細な食感と食味に満ちていたのでありとても満足感に浸れることが出来たのだった。

「豆腐ステーキ」は驚きのメニューだった

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世の中には「豆腐ステーキ」なるメニューがあるらしいということはききおよんでいたが、実際に久しぶりにその姿を目にし、口にしたらば、些か驚きに満ちていた代物ではあったのだ。「豆腐ステーキ」は驚きのメニューだったのであった。

その作り方といえば、先ず絹ごし豆腐に片栗粉をまぶして油で揚げる。うっすらと色が付いたくらいの揚げ加減で取り出し、玉ねぎのあんかけソースを掛けて提供されていた。ステーキというよりは揚げ豆腐という印象であり、実際に何度か口にした「揚げ出し豆腐」の食感と同じである。玉ねぎのソースは「揚げ出し豆腐」のものよりもコクがあり、絹豆腐の繊細な味にもぴったり来るものではあった。

「白子のホイル焼き」で、ホットに温まったのだ

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タラの精巣こと「白子」はよくポン酢で食されるが、今夜は珍しく、ホイル焼き料理で味わった。味付けは薄めの味噌味である。ポン酢以外にも鍋料理に白子が脇役として添えられることはままあるが、「白子のホイル焼き」という白子が主役の温ったかメニューは、とても有り難い思いがしたものである。寒い季節には温かな白子料理は良くできたメニューであった。

つるつるっとした食感に、奥深いほんのりとした甘さと旨み。たんぱく質が豊かであり、ビタミンDやビタミンB12といった成分も豊富な食材である。最大の難点は「プリン体」が多いということで、通風もちのおいらにとっては鬼門的食材なのだが、それでもたまには口にしないとおさまらない。有り難くもあり危険でもある、扱いが難しいことこのうえないのである。

今年度の食べおさめ的な、静岡風の「おでん」をほっこりと味わった

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本日はまたまた寒波の到来ということで、真冬並みの寒々しい日となっていた。おいらもまた、上州の実家から帰京する途中では北関東の栃木県を震源とした地震による、鉄道網の混乱などに見舞われて、寒々しくかつ陰鬱な時間をすごすこととなっていた。

帰京して立ち寄った居酒屋で、先ず注文したのは「静岡おでん」だった。だがあまり静岡風が強調されているでもなくて、関東のおでんとしても通用するくらいのポピュラーなるものであったので、おいらもほっこりと、何の違和感も感じることなく温まることができたのであった。

大根、蒟蒻、がんもどき、ちくわぶ、等々それらのどれもがおいらの大好きなおでんねたであり、関東風であれ静岡風であれ、正統なおでん料理として は、逸品的の味わいであった。今年度の食べおさめ的な、静岡風の「おでん」をほっこりと味わったのであり、すこぶるうきうきなのである。

会津産の「馬肉刺し」は我が国食文化の賜物だ

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馬刺しこと馬の生肉を食した。福島県会津産だそうである。長野県に旅して馬肉刺しを食べたりしたことがあるが、久しぶりに口にする馬肉というのは、赤身の生の美味さとでもいうのか、繊細な味わいが刺激的であった。

その見た目は牛肉にも似ている。アメリカでは牛肉と称して馬肉が混入されているという国際ニュースが少し前に報道されたが、そのときの驚きはといえばこれだけ味覚に違いのある馬肉と牛肉の区別が付かないという、アメリカ人の味音痴ぶりに対してのものだったと云えるかもしれない。反面教師的米国の食文化の薄っぺらさを思えば、会津産の「馬肉刺し」は我が国食文化の賜物である。

TPP条約などが今後もし、締結されてなどしてしまうと、日本人の味覚は破壊されと馬肉と牛肉との区別さえ付かないものになってしまうだろう。そして何よりも食の安全性が脅かされることになる。TPP条約反対の根拠はいくらでも存在するのだ。

本日は日本がアメリカの属国となる1歩を踏み出した日、即ちTPP参加に舵をとってしまった日として語り継がれることになるだろう

前々から何度か述べているが、おいらは「TPP」への参加や参加を前提とした動きに対しては絶対反対である。その主張は過去から未来永劫に関して揺るぐことはない。いまどきの流行言葉で云えば「ぶれない」のである。我が国日本がTPPという不当な条約を結ばねばならない理由などは存在しないのであり、全てはアメリカの圧力による日本国の属国化への企みと云うべきなのである。

本日の2013年2月23日という日は、安倍晋三首相による実質的な「TPP」参加を表明した日であり、オバマとの日米の愚かなる密約を結んだ日である。記者会見場における安倍晋三の振る舞いには、みょうに着飾った言葉が羅列されているのだが、それらの多くは随行した日本の官僚とオバマ政権側とで取り引きされた、表現にまつわる一語一句に対する取り引きの影がちらついている。そんな汚わいにまみれた言葉を発する安倍晋三が我が国の最高権力者として居ることに対して、国民の一人としての屈辱感を感じずにはいないのだ。

本日は日本がアメリカの属国となる1歩を踏み出した日、即ちTPP参加に舵をとってしまった日として語り継がれることになるだろうことは明らかである。

魚肉の赤いソーセージも侮るべからず

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上に示した写真は、か日食したソーセージ3種のセット料理。豚肉を詰めたドイツ風のものから茶色い羊肉を用いた「ウインナー」と呼ばれるもの、魚肉を用いたもの、等々の種類が存する。

中でも子供のころからポピュラーで馴染みだったのが、魚肉を使った赤いソーセージ。赤い色はコチニール色素などの着色料からきているのでけっして身体には良くないのだが、それでも愛着はある。ドイツをはじめとする欧州的食文化とは異質なる、日本的食文化の一端をこの赤い魚肉ソーセージが示しているのではなかろうか。

主な原材料はスケトウダラ等の魚身であり、そのままでは見た目の華やかさに欠けることから赤い着色料が用いられるようになったようであり、今でこそ着色料の無い薄赤味色のものが出回っているが、あまり食べた心地がしないというのか、薄味というのか、興醒めに感じることが多いのである。だからこそたまには、赤い色艶のある魚肉ソーセージにありついたりすると、古き食生活などが偲ばれるのであり、けっして侮ることなどできないのである。

本屋大賞にノミネートされたという話題の「世界から猫が消えたなら」(川村元気著)を読んだ

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本屋大賞にノミネートされたという話題の「世界から猫が消えたなら」(川村元気著)を読んだのだ。

「世界から猫が消えたなら」という著書が本屋大賞にノミネートされたということで、おいらもずっと気になっていたのであり、先日はそれを購入して読み進めていたという次第なのではある。

何に引かれたかといわれれば、帯にあった推薦文の数々。秋元康、角田光代、小山薫堂、中谷美紀、等々の著名人たちがそれぞれの言葉でアピールしている。これは何かあるのではないか? と、期待がたかまっていたことは隠せない。角田光代さんなどは「小説だが、これはむしろ哲学書なのではないかと思えてくる。(中略)なぜ私たちは映画を見てわくわくするのか。なぜ私たちは絵画を見て涙するのか。そうしたことの答えを教わった気がした。」というくらいに絶賛のコメントを寄せている。これはもう読むしかないという気分にさせるに充分だったというしかない。

さてさて実際に読んでからの読後感はといえば、けっして悪いものではなかったのだが、少々の拍子抜けの思いが強かった。その一つは、書中におけるその軽い言葉遣い。例えば女子高生ギャルに対して男子が受け答えする返答の軽々しさにも等しい言葉が羅列されている。登場人物の台詞
といった限定的なシチュエーション以外で、それらが多用されていたのには辟易していた。軽々しい言葉を操る流行作家という評価が値すると思っていた。

哲学的思索と軽々しいギャル言葉がまじわって、多くの文学ファンを惹きつけたという点においては大いに評価に値すべきであろうと思われる。けっして否定したり貶したりする意図はないのであり、今後の執筆活動に大いに期待を抱いているのである。

作家のプロフィールをのぞくと、映画プロデューサーとして著名な映画に関わり、優れた映画製作者に贈られる「藤本賞」を史上最年少で受賞したとある。出版元の飾りつくろったプロフィールの類ではない。やはりこの作家は只者ではなさそうだ。

昼飯でいただく、旨い「マグロ山かけ」の条件とは

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昼の定食にて久しぶりに旨い「マグロ山かけ」にありつくことが出来たのであり、その条件などを探っているところなのである。昼飯でいただく、旨い「マグロ山かけ」の条件とは、一体なんだろうか?

先ずにはマグロは新鮮な赤身であることが必須条件である。へたに脂の乗っている中トロの身などはいただけない。山かけの山芋については、あまり条件として制限すべきではないが、やはりしっとりとした食感をもたらすくらいには細かなすりおろしが求められるであろう。

その他の条件としては、美味い海苔と新鮮な大葉等の薬味がトッピングされていることである。薬味は大葉の他には葱が思いつくが、やはり大葉が一段上手のようである。

「ビブリア古書堂の事件手帖」にも登場する太宰治さんの名著「晩年」

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以前に原作本を読んだ縁から、TVドラマの「ビブリア古書堂の事件手帖」を見る羽目に陥っている。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=6896

今晩もまたそんな一夜の時間を過ごしてきた訳ではある。主人公栞子さんを演じる剛力彩芽がしっとりとした演技で良い味を出している。フレッシュさだけが取り柄の若手女優という評価は上向きに更新され、しっとり女性の演技が出来る実力派という評価が生まれつつある。

何よりもまず今回第六話の主役は、登場人物たち以上に太宰治さんの「晩年」であった。1936年(昭和11年)に刊行された文豪の処女作であり、唯一の自費出版作品である。コレクターならずとも必携であり、ファンにとってはぜひとも手元に置きたい一冊であることは確かである。そんな一冊に値する書物こそ太宰治の「晩年」であり、そんな希少なる条件に値する我が国文学作品の最高峰と認められるのだ。

おいらの所有する「晩年」はもちろんレプリカである。「ビブリア古書堂の事件手帖」にも本物ではなく偽者的復刻版の、レプリカが、わき役的配役の登場としての本物以上に重要なる要素を占めているのだ。レプリカと云えどもけっして侮ることなどできないのである。

純中国風「あんかけ焼きソバ」はかなりの大味だった

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日本の焼きそばではなく中国の焼きソバは、一般的に「あんかけ焼きソバ」と呼ばれている。近頃は東京にも中国人が経営する純中国風の「あんかけ焼きソバ」に出くわす機会が増えている。そんな昨今の中での純中国風「あんかけ焼きのソバ」との偶然的出会いではあったのである。

出てきたその料理を見て吃驚したのは、おいら自身も予想に無かった反応ではあった。その最大の理由が、見た目も味付けもが余りにも大味であったからということである。

普段から繊細な日本料理を食べ慣れているせいか、こんなにギトギトした油分たっぷりで大雑把な豚肉が乗っているあんかけやら、こつこつと硬くて太くて食べ難い揚げソバなどは、おいらの食欲にストップをかけていた。お腹が減って入った店ではあったが、揚げソバのほとんどを残したまま店をあとにしていたのであった。

コの字酒場の名店、荻窪「カッパ」のもつ焼き

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「コの字型カウンター」のある酒場と云えば、小さいながらの名店が少なくない。荻窪駅北口からすぐの「カッパ」などはまさしくその名に相応しい名店である。

同店の特長は、その日に仕入れた新鮮なモツの生きのよさ。豚のモツ類は十数種にもおよび、カシラ、タン、ハツ、レバといった定番類から、チレ、子袋、おっぱい、といった稀少部位にいたるまで、どれもが旨い。鮮度が落ちたら噛み切れ難いような部位のモツ類が、歯の悪いおいらでもさくさくと噛み切れてしまうのだから、中々の値打ちものなのである。

それらのモツ類は、炭火にて丁寧にかつ大胆に焼かれて提供される。たれ味がおいらのお勧めであるが、丁寧かつ大胆に炭火で調理されたモツは、最後のたれ付けの工程を経て、カウンター上の皿に乗せられていく。それはまさしく瑞々しく繊細なモツが逸品の料理として提供される工程である。この焼き方の妙が串焼きの味を決定付けているのである。

■もつ焼き「カッパ」
杉並区上荻1-4-3
TEL 03-3392-5870

今年は早くもフレッシュなる「初ガツオ」に出くわしたのだ

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「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という山口素堂の有名な句に象徴されるように、「初ガツオ」といえば春を告げる味として有名だ。いや春というよりも、現代では5月から6月にあたる、初夏に近い季節の味として広くいきわたっている。今年は早くもフレッシュなる「初ガツオ」に出くわしたのだった。

ところが先日、まだまだ寒気吹きすさぶそんなときに「初ガツオ」に出くわすこととなっていた。上に示した写真のとおり、その身の色は鮮度まばゆい赤色に占められている。魚の青味を内に含んだ赤味とでも云おうか。

大きく切りさばかれたカツオの身は、フレッシュさみずみずしさ至極であり、春の食欲を謳歌させる食材にもってこいであった。

「鯨(クジラ)の大和煮」はどこか懐かしい味わい

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先日、上野を散策して立ち寄ったアメ横界隈の有名なスーパー「吉池」にて、「鯨大和煮缶詰」を見つけた。今では入手が難しくなっている鯨肉を、甘辛の大和煮にして缶詰パッケージにされている。

こんなに甘みが強くくどいくらいな味付けではある。けれどもどこか懐かしい。あまり沢山食べた記憶などは無いが、たまに食べていた鯨肉の味は、どこか懐かしく感じられた。

日本の国民食として一時はポピュラーだった鯨肉は、今はこのような缶詰で味わうくらいが現実的な入手法である。いつもの晩酌に一味違うつまみとしての「鯨(クジラ)の大和煮」は、とても懐かしい味わいに満ちていたのであった。

男の「プチ贅沢」の第1位は「お酒(49.3%)」というアンケート結果も納得というべきか

男の「プチ贅沢」の第1位は「お酒(49.3%)」というのも納得というべきか、というアンケート結果。

http://www.asahigroup-holdings.com/news/2013/0212.html

世知辛い日々が続いている。今日的に云えば、経済学者や政治家やマスコミ関係者達の多くによればその原因はすべからく「デフレーション」にあるのだとされており、まるでデフレ脱却を実現する「アベノミクス」こそは日本経済を救う魔法の杖のようだ。安倍首相の主唱する「アベノミクス」という言葉はまるで魔法の杖のごとくであり其の魔法の杖は何度かその姿かたちを変化しながらマスコミ媒体を席巻しており、これからもまたそんな馬鹿げた空話を垂れ流し続けていくのであろう。そんな空話を真に受ける日本人の国民性にかんしてはといえば、なんとも空しい限りである。そしてさらにそこぶる残念なことだが、男の「プチ贅沢」の第1位は「お酒(49.3%)」というのも、この世知辛い時代の風景として、納得というべきかもしれない。ちなみにおいらは毎日のようにそんなプチ贅沢とやらを続けている。もう少しましな時代であればこんな習慣は、贅沢以前の当たり前の習慣として捉えられるべきなのであろうことなのだ。

高級魚の「シマアジ」を久しぶりに味わう

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アジ科の魚だが体長はかなり大きく、1メートル以上のものまである。鯛にも似ており、縦に長い縞模様があるのが名の由来だとされ、その味は鯛にもひけをとらないほどの美味である。漁獲量が少なく高級魚の代表格である。

おいらも過去、神奈川県真鶴町を訪れたときにシマアジを食し、その美味さに驚いたものである。それ以来、都内で食する機会は訪れることはなく、先日はメニューを目にするなり注文していたものではあった。

見た目もまた青魚より白身魚に近く、薄い皮の下にはきれいなピンク色が光っている。コリコリとして弾力があり繊細な味わいだ。

温かくなりそうな季節の日に食べた「菜の花」おひたし

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今年も温かくなったらこれを食べたい、あれを食べたいという思いを強くしているところなのだが、温かい春の息吹をもたらしてくれたのが「菜の花」ではあった。黄色い絨毯と称される花か咲く前に収穫されて食用に供されるものである。

先日はニュース番組にて、どこぞかは失念したがどこぞかの地方で菜の花の黄色い絨毯が咲き誇る前の畑をレポートしていた。そんなことも手伝って、菜の花は大変至極に待ち望んでいた。

そんな地域は房総であろうか、あるいは伊豆地方だろうか、四国の某地域なのであろうか? 何処であろうとも既に春の準備は整っているということだろう。

高田渡さんは稀代のエンターティナーだったことを思い起こさせる「タカダワタル的」の特典CD

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先日当ブログにて紹介した「タカダワタル的」には、同名の映画にはなかった特典映像のCDがおまけ的にもうけられている。

さきほどまでそのおまけ的特典CDを鑑賞していたのであり、稀代の高揚感に囚われていたと云ってよく、これはまさに高田渡ファンにとっては必鑑賞の映像であった。

下北沢「ザ・スズナリ」におけるライブ映像には、柄本明、蛭子能収達の歌唱映像がてんこもりでありそれに加えて、高田渡さんの私生活を追跡した貴重映像が盛り沢山なのである。

あらためて高田渡さんは稀代のエンターティナーだったことを思い起こさせるに充分至極な映像ではあった。

「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」展の円空仏に魅了された

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上野の東京国立博物館にて「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」展が開催されている。

円空とは江戸時代に現在の岐阜県である美濃国に生まれ、数々の霊山に登り、その途次に立ち寄った集落で仏像を造っている。没後の伝記によれば、生涯に12万体を造像する願を立てたとされ、現在でも5000体以上の円空仏が知られている。今回の「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」展では、特に千光寺とその周辺に所蔵されている円空仏を中心に展示されている。

ノミの跡がくっきりと残された大胆至極の円空仏は、2メートル以上の大木を掘り込んだものから、5センチ以下の小品に至るまで、すべてに円空の、稀有なる創造力がまんいつしているのであり、仏教彫刻の真髄に接した思いにおける歓喜の心情に満ち溢れていたのである。

可也の変人、奇人に思われる円空こそは、稀代の仏教家であり芸術家だったということに驚かされた。とともに彼のその世界に魅了されていたのである。