村上春樹さんのノーベル文学賞受賞は今年もならず。「1Q84」の「BOOK4」に期待

前評判では当確のごとくの報道が流れていたのが、村上春樹さんのノーベル文学賞受賞。本日その発表があり、残念ながら村上さんの受賞はならず、中国の莫言氏が受賞したという。

莫言氏についてはおいらはその名前以外に詳らかにせず、彼の受賞の背景は判らない。下馬評では村上さんの次につけた2番手だとされていたので、それなりの文学的実力があるのかもわからない。

然しながら本年の文学賞大本命として名前が挙がった村上春樹さんが受賞を逃したことは、村上春樹ファンの一人としては、やはりという、受賞に達するための予想以上の高い壁が存するのではないかと云う思いが沸き起こってくるのだ。

おいらがとても残念に感じるのは、「1Q84」をはじめとする春樹さんの代表作品におけるアピール度の低さが、受賞を逃したのではないかと云う可能性である。

以前にこのブログ上でも書いたことだが、春樹さんの代表的作品として挙げられる「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」等々の作品には、連作としての主要な作品群があり、二部作、三部作のものはあれども四部作が無い。このことが重篤な受賞に対するネックとなっていることが改めて考えられるのである。

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=280

云うまでも無くノーベル賞選考委員のほとんどはスウェーデン・アカデミー関係者はじめ西洋的思潮の流れを汲むものたちで占められている。西洋的思潮の観点からすれば、二部作、三部作的作品に対する評価は低いと云わざるを得ないのだ。

ご存知のように音楽における四部作は完成度を得て達せられた作品としての「カルテット](Quartet、Quartett、Quartette)」と称される。二部作、三部作の作品群に比べて圧倒的な高評価の評価の基準である。四部作を創り得てこその最大限の評価が「カルテット」という尊称に隠されているのである。二部作、三部作は、其れ等に比べて評価は低いのだ。カルテットに達するまでの仮の姿がそこにある。未だ完成されない作品的評価なのであろうと考えられるのだ。

「1Q84」の「BOOK3」が発表されてかなりの年月が経過しており、「BOOK4」の可能性については話題にも上らなくなってしまっているが、おいらは未だに来年こそはという期待を込めて、「BOOK4」の発表に期待を抱き続けている。まだまだ可能性は無限にある。

北海道松前発祥の「松前漬け」はシンプルな自家製に限るのである

「松前漬け」を漬けたのだった。北海道産の千切りにされた昆布とスルメイカがセットになって売られている。これを醤油ベースのたれに2~3日漬け込んで味わう。我家の常備的つまみの一つとなっている代物だ。

「松前漬け」と称しているように、北海道松前町界隈の郷土料理を発祥としており、今では東京をはじめ全国的な漬物の一つとして広まっている。

スーパーや百貨店等々に於いては、高級食材としての数の子を用いたものが売られている。数の子が入った「松前漬け」は確かにその高級素材が入ったことにより、食感やマイルドさにおいてスルメと昆布だけのものよりも際立っている。これだけで比較すれば、シンプル的松前漬けの立場は極めて不利な状況だ。

改めて思うに自家製の「松前漬け」には数の子は蚊帳の外である。これは新鮮な数の子が手に入りにくいということに加えて、シンプルな松前漬けこそが酒の肴としてはピントの合ったつまみであるという認識に基づくものなのである。

おいらがかつて食していた「松前漬け」は昆布とスルメイカによるシンプルなものであり、酒の肴としてはとても絶品な代物なのであった。「松前漬け」のセットは安価でありながらとても酒にぴったりくる、逸品の肴として重宝していた。そんな思いを抱きつつ、自家製の松前漬けを肴に晩酌の日々なのであった。

この季節は特に美味しい里芋の「きぬかつぎ」

里芋の美味しい季節である。煮物として食する機会が多いが、皮ごと蒸して食べる「きぬかつぎ」というメニューもまた捨てがたい。

里芋の小ぶりな子芋を皮ごと蒸して、塩や味噌などの調味料で味をつけて食する。黒々とした里芋の皮は、平安時代の女性の衣装である「衣被ぎ」に似ていることから命名されたとする説が有力である。平安朝のころから食されていたと思えば、その格式も見事なものだ。

平安朝の衣装を手ではがしてみる。すると中には白々と透き通ったかのごとくに瑞々しい身に出合うのである。これまた優雅なる平安朝の食べ物を彷彿とさせている。

ジャガイモ、サツマイモといったメジャー的芋種との最大の違いは、其のツルリとした食感とともに、天然の甘味であろう。調味料としての砂糖か邪魔になるくらいに、里芋の甘味は稀有な味覚を有している。塩も味噌もつけずに味わってこその、きぬかつぎの美味さである。

仮面の画家こと「ジェームズ・アンソール展」が開催

新宿の東郷青児美術館にて「ジェームズ・アンソール―写実と幻想の系譜―」展が開催されている。本日は遅ればせながら足を運んだのだった。確か15~16歳の頃だったろうか、其の作品に接したときの衝撃は甚大なものがあった。当時はたぶん、画集のイメージとしての出会いではあったが、それから数十年を経ての邂逅となったのである。

■「ジェームズ・アンソール-写実と幻想の系譜-」展
会期:2012年9月8日(土)~11月11日(日)
会場 損保ジャパン東郷青児美術館
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/
開館時間: 午前10時-午後6時。

「仮面の画家」としての評価が定着しているアンソール作品だが、展覧会にて展示されているおよそ9割かそれ以上は、ベルギー的写実主義の作品が占めていた。それら作品の誕生を紐解くようにして、ルーベンス、ヴァ・デル・ネール、ニコラス・マース、ヴァン・ダイク、ピーテル・ブリューゲル(子)等々、同時代のベルギー、オランダの作家たちの作品群が展示されている。伝統的描写のスタイルに影響されていたアンソールの全貌をとらえるにはもってこいではある。

アンソールの代表作とされている「陰謀(1890年)」は、出品作品の目玉でもあり、彼の周りに居る人々の肖像を仮面を被った肖像群として描かれている。仮面や骸骨をモチーフとして数々の作品を描いたアンソール作品の中でも、もっとも強烈な印象に彩られている作品だ。

一つの解釈ではあるが、其の指指しに其の謎を解く鍵があるとされている。一人の人間に対してその周囲を取り囲む仮面的人間たちによる陰謀が表現されているということなのだろうか。

「のどじまん ザ!ワールド」を観た。アングロサクソンや黒人歌手の歌唱力には脱帽

本日は「のどじまん ザ!ワールド」という歌番組があり、思わず知らずに引き込まれてしまっていたのであった。

外国人が日本の曲を歌って点数を競うという番組であり、誰もが知っているヒット曲やマイナーだが懐かしく口ずさむ曲などを、日本人以上の歌唱力にて披露していた。オリジナル歌手の歌唱を超えた歌声は数多あり、やはり毛唐、おっとっと失礼、外国人の中でも特にアングロサクソンや黒人歌手の歌唱力には脱帽の一言しかなかったのである。

日本人とはDNAが異なるアングロサクソンや黒人たちは、やはり端倪すべからざるものをもっていたということを思い知ったのではある。かねてよりのアングロサクソンや黒人への倦厭の思いは払拭されたのではある。

ちなみに優勝したのはアメリカ人ことニコラスの「TSUNAMI」であった。

ご存知サザンオールスターズの名曲だが、最近は東北地方の津波との連想をさせているとかで、ひどく評判が良くないようなのである、というのか誹謗中傷が渦巻いているのである。名曲「TSUNAMI」と東北大震災の津波とをいっしょくたにするかの感性は、まるで馬鹿げているのだが、そうした冷静な評価は隅に押しやっていられている。いと残念ではある。

ニコラスの「TSUNAMI」は歌唱力が抜群であったのみならずに、この歌詞の日本語的わびさびの理解度においても抜群であった。我が国の歌謡曲を代表する曲だけに、外国人から評価されたようでもあり、うれしい気持ちではある。

生よりも凝縮した旨味を味わえる「ままかりの一夜干し」

「ままかり」という名の食用魚がいる。主に九州の薩摩地方にて郷土食として食されている。「ままかり」という名の由来は、隣の家からまま(ご飯)を借りたいくらいに食が進む美味い魚だということからきている。全長は大きなもので20cmほど、料理店や郷土居酒屋にてて提供されているのは5cm程度の小振りであることが多い。体は木の葉のように左右に平たい。背中よりも腹が下に出ている。体色は背中側は青緑色、体側から腹側までは銀白色をしている。

先日は、薩摩の郷土料理店にて「ままかりの一夜干し」なるメニューを食することが出来たのである。これまで「ままかり」は主に酢漬けや刺身で食していたので、一夜干しというメニューにはかなりの関心を抱いていたものではある。

刺身のままかりはといえば、とても淡白で繊細な味わいが持ち味だが、一夜干しとして提供されるもの、一夜干しの焼き魚は、とてもコクや旨味が凝縮していて、たっぷりと味わうことが出来たのである。身が小さく締まっている分に余計に味わいが凝縮していた。いつもよりホッピーの酒が進んでいたことは特記しておきたいと思うのである。

鰯の旨味や栄養素をじっくり味わえる「イワシのつみれ鍋」

魚が旨い季節の秋になると、鰯(イワシ)が特段に旨くなる。この時期に脂や栄養がたっぷり乗った美味なる「マグロ」や「カツオ」にありつけられるのも、イワシが居るからこそではある。

弱い魚と書くことからも想像するように、魚類の世界の中では他の種からの食物ともなっている。いわば食物連鎖の基礎を担っているとも見ることが出来るのである。

幼魚のころからシラスやちりめんじゃこ、煮干し、等々として食されてきた。成魚となっても生で食されることは多くはなくて、干して目刺しや丸干しとして食されている。ちなみにおいらはイワシの丸干しが大好物なのだが、実はこれには痛風の原因物質たる「プリン体」が多く含まれているために、禁忌的食物となっている。たまには食べるが、大量に食することが出来ないのであります。

最もポピュラーな青魚として、動脈硬化症を予防する成分に注目が集まっている。脳梗塞、心筋梗塞を事前に防ぐ食材としては、青魚がナンバー1である。健康な血管を維持することがすなわち健康な身体を保つことにつながっているのであり、EPA、DHAといった特別な栄養素は青魚からとるしかないのだ。たかがイワシとは決して云うまい。

自民の総裁選で出てきた平成の妖怪こと安部晋三で、橋下維新の風が止まった

民主、自民ともに代表選、総裁選というイベントをこなして出てきたのは、平成の妖怪こと安部晋三という政治家的エリートのボンボンであった。改めて記すまでもなくこのボンボンは、かつて我が国最高権力者の位の身に在りながら「お腹が痛い」という某難病に罹患していることを口実にしてその座を投げ出した人物である。

「病気ならば仕方ないだろう」等々の厚意的コメントがマスコミを蹂躙した中にあっても、「たかがお腹の病気ごときで仕事を投げ出すな」「男が最高権力を去るときは死ぬ時だ」「2度と政治の世界に顔を出すな」といった辛辣な評価が渦巻いていたことも確かなのであった。

それでも今回復活の舞台を得たのは、日本国民の国民性が寛大だからだということには決してならない。何やら昭和の妖怪こと岸信介の亡霊が孫の安部晋三に取りついてしまったと見るのがある種の邪推だがそれでも極めて妥当な推量かと思われる。

橋下徹の野望もついにここに来てはてりといった状況をイメージさせる。

本年の政局は橋下徹の大阪維新劇場で幕を上げたが、維新劇場が妖怪を取り込むことなどできずに終わって、出てきた平成の妖怪こと安部晋三に蹂躙される羽目に陥っている。あと数回は風を吹かすことは可能であろうが、橋下的維新の風はここにきて止まりつつある。当人が望むような神風を惹き起こすことが出来なかったことは確かである。

秋の夜風が染みる今宵は「上海火鍋」が食べたくなった

先日の台風襲来から、いよいよ秋の気候となったようである。秋の夜風が染みる今宵は、ふと「上海火鍋」が食べたくなって、高円寺の「大将3号店」に足を向けていた。

ラム肉、ネギ、ニラ、モヤシ、鶏肉団子、春雨の6点がセットになって一通りの具材が揃っており、火鍋スープはと云えば鶏がらベースに唐辛子やラー油やらにより辛目に調合されており、丸ごとの大蒜も入って味覚の奥行きも在る。決して居酒屋のやっつけ的メニューでないことは請け負いである。

火鍋とうたっているにしてはそれほど激辛ではなく、程よい辛味が身体にしみていた。

鍋の最後は中華麺で〆たのだが、具の旨味を吸って程よくマイルドになっている火鍋スープをごっくりと飲み干してみれば、どっと辛味から来る汗が押し寄せていたのだった。

■大将 3号店
東京都杉並区高円寺北2-9-6

「タコの天ぷら」は残念ながら「タコの唐揚げ」に負けるのだ

地元の居酒屋にて「タコの天ぷら」という不思議的奇異なメニューを目にしたので、とりあえずは恐い物見たさ的好奇心にて注文してみたのだった。

おいらは実はこれまでに「タコの唐揚げ」というある程度の逸品的メニューに遭遇してから大いにその「タコの唐揚げ」に入れ込んでいたことがあったのである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3981

嘗て書いたのは、タコの唐揚げは一般的な茹で蛸よりも食味が豊富であり美味いというようなことをかいたのだつたが、今回の「タコの天ぷら」に接しては、まるでそんな気にはならないのだった。すなわちこんなメニューは邪道的であるというと。

何故に唐揚げよりも天ぷらが駄目なのかについては、色々な分析が可能である。

その一つには、天ぷらの衣が繊細すぎていてタコに絡まないということ。どういう風にか衣をまとわっているが、そのどこかにほころびが見えているのだ。そしてその二つ目の理由は、衣がタコにマッチしないということだ。あまり深い物理学的理由は判然としないのであるが、それでもどうしてもタコの身は天ぷらの衣にはそぐわないということを、強烈に知りいったと云うべきなのであろう。

タコは唐揚げには適するが、天ぷらには適しないということを、これから証明していきたい。

土鍋で「松茸ご飯」を作った。やはり松茸はご飯との相性が抜群

折角活きの良い松茸を入手したにもかかわらず、昨日はネット上で出ていた「松茸のホイル焼き」なるものに気持ちを奪われ、昨日は調理法を誤ってしまったのではあった。ここは基本に立ち返り、「松茸ご飯」で味わい直すことにした。さらにはこれもまた昨日の反省の一部となるが、出汁や調味料の分量は極々控えめにして、松茸の香りに期待することにした。

土鍋にさっと研いだお米を入れ、3~5㎜程度にスライスした松茸を載せて、ガスの火に掛ける。「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、ふつふついったら火をひいて、赤子が泣いても蓋取るな」というご飯焚きの基本を踏襲しつつ、蒸気を発する鍋に耳をすませていると、否応なくも香ってきたのが、待ち望んでいた松茸の香りであった。とても品のある、植物性の特長的な香りではあり、他の食材に置き換えることが不可能な、まさにオンリーワン的芳香であると云えよう。動物性食材では決してこんな特別な芳香に出くわすことなどはなかった。松茸は特別な秋の食材であることを改めて認めざるを得なかった。

土鍋で炊いた「松茸ご飯」の松茸は、サクサクとしてその食感も極上のものではあり、ご飯と一体化して逸品料理と成立するのだ。おこげの味わいもまた格別である。炊き込みご飯は数多あれども、ご飯との相性的にこの松茸ご飯を超えるものには出合ったことが無い。栗も他の茸も、野菜たっぷりの五目的炊き込みご飯も大好きだが、ただご飯との相性といったポイントで判断するならば、松茸の炊き込みご飯に敵わないのではないだろうか。

昨日も書いたが、今回の松茸は韓国産と云うことであり、国産のような高価な値は付けられてはいなかった。それかあらぬか色々な調理法を試してみたくもなっていたのではある。「松茸ご飯」を作って余っていた1本の松茸は、ガスコンロの上で火にあぶり「焼き松茸」にした。とても強い芯の噛み応えはこれまた松茸ならではのものであった。