婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(2)男の落ち度とは?

昨日は木嶋佳苗被告裁判の一つの視点として、エッセイストの北原みのりさんが指摘した「男の落ち度」について触れた。男女間のトラブル、事件を惹起させる要素として「女の落ち度」と同様に「男の落ち度」が追及されてしかるべきであるという客観的視点とともに、やはり常識的には考え難い「男の落ち度」が蔓延しつつあることを感じ取るからであった。

一時代前までは、悪女、毒女と云った類いの女性は人並み優れた美貌がなくてはならなかった。男は女の美貌に目がくらみ、危険な罠へと囚われていくというのが、小説、映画、その他諸々のストーリーの常道であり、だからこそ男の「純情」が価値ある代物としてテーマと成り得たのである。

然しながら木嶋佳苗被告ときたら、人並みはおろかほとんどの男性陣にとっての興味関心の埒外であり、通常ではこんな女に引っ掛かるはずがないと云えるくらいのタイプなのだから、或いは逆転の興味津々状態であったといえるのかもしれないし、そう考えるしか納得がいかない。ともあれ、「何故にこんな女に引っ掛かるのか?」という男の関心と、「どうしてこんな女が男を蹂躙できるのか?」といった女の興味とが、綯い交ぜに交錯した故の、今日的に腐乱した興味関心のターゲットとなっているということが云えるのである。

「女ならば誰でも良い」「結婚できるなら騙されたとて構わない」「ロマンチックな恋愛がしてみたい」…等々の、当世男性陣に蔓延る情けなくもある願望が、木嶋佳苗被告を産み出す肥やしになったということは確かなことなのであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判に関する一考察(1)

婚活詐欺師であり、3人の男の殺人罪で起訴されている木嶋佳苗の裁判が、稀に見る百日裁判となって、マスコミ媒体を賑わせていたが、興味関心の焦点はすでにそこにはなく、木嶋被告と殺害された男性達との関係に移っていると云えよう。

3名もの男性が毒女の歯牙にかかったのは、警察の初動捜査の見込み違い、怠慢だ、と云った見解が一般的である。男性達を殺害する以前に、睡眠薬で数度と眠らされて身の危険を感じ、警察に出頭した人物が少なからず居たにもかかわらず、警察が「事件性無し」として黙殺していたと云う事実、或は殺害されたことが明白である被害者の司法解剖を行なわなかったことなどが、警察への信頼喪失に拍車を掛けている。

だが最も注目すべきポイントはと云えば、毒牙にかけられた男性達が、何故ゆえに被害を防げなかったのか? 決して美人でも魅力的でもない、いわば整形不細工女に対して、あれほどに無防備になっていたのか? 毒牙を仕掛けた女が悪いのか、或はみすみすとしてそんな毒牙に掛かった男が悪いのか――と云うポイントにこそ、興味関心のスポットは集中的に当てられているのであろう。

「週刊朝日」誌上で「北原みのりの100日裁判傍聴記」を公開している北原氏によれば、殺害された男達は「馬車に乗った姫」を夢見たのではないか? という一面があり、しかも男達の「落ち度」に言及してこう書いている。

(引用開始)―――――
まるで何も感じないかのように、次々に男たちから金を引き出す佳苗。頭がフラフラになりながら、田舎に帰ろうと首都高を歩いてしまったM氏や、1泊10万円のリッツ・カールトンをプレゼンするK氏ら、騙された男性たちはピュアだ、気の毒だ、という声もある。確かに気の毒ではあるが、私には公判が始まって以来、頭のどこかで考えてしまうことがある。
もしこれが男女逆だったら? 考えても仕方ない前提が、何度も頭に浮かぶ。初対面の男とホテルに行く女性や、男の家にすぐあがる女性や、婚活サイトで男を探す女に、世間は“ピュア”と言うだろうか。ラブホテルで睡眠薬を飲まされた女を“純情”と言うだろうか。「被害者にも落ち度があった」という聞き慣れた声がもっと飛び交うんじゃないか。女と男の非対称性に改めて気づかされる。私は佳苗に、いつも何か、気づかされる。
(引用終了)―――――

けだし当然の指摘である。男性の「落ち度」は滑稽なくらいに馬鹿馬鹿しさを増している。毒女の蔓延する土壌が開墾されつつあるのである。(この稿は続く)

下仁田産葱の旨みが引き立つ「下仁田葱の天ぷら」

上州の下仁田町で生育されることから名つげられた「下仁田葱」は、別名「殿様葱」とも呼ばれ、そのでんぐりと太って丈の短な外見が特徴的だが、その個性的な外見もさることながら、独特のワイルドな旨みの味わいにおいて、多くのファンを獲得している。近頃では東京都内の料理店やスーパー、八百屋の店頭等でもよく見かける品種となっている。通常の葱に比べて食べ応えがあり、辛味も強く、鍋料理の具材には適しているので、おいらも家の鍋料理には下仁田葱を用いることが増えているところだ。熱を加えることにより、少々きつい辛味風味も一転してマイルドな甘さに変身していくさまが、これまたファンにとってはたまらないところだ。

そんなところで遭遇したメニューが「下仁田葱の天ぷら」だ。そもそも葱は天ぷらの具材としては少々役不足であり、玉葱や他の野菜に比較して、どうにも主役にはなり得なかったものだが、下仁田葱ならば堂々と主役がはれることを見せてくれていた。大きくカットされて揚げられた天ぷらをかじると、葱の繊細な香りが口に拡がっていた。滑らかな葱の触感も美味く生かされており、天つゆも要らないくらいに奥深い味わいに満足したのだった。

身体の芯から温まった「粕汁鍋」

そもそも「粕汁」というものは、甘酒として甘受してきた、云わばスイーツの一つであった。それが「粕汁る鍋」というメニューとして提供されていたのであり、しかもこの鍋がホッコリと心身を温めてくれたものであったのだから、興味は尽きないのである。

今回食したその「粕汁鍋」は、玉葱、大根、人参、キャベツ等の冬野菜に豚肉をあしらって提供されていたものだった。粕の風味の奥には味噌の香りが漂っていて、やはりこれこそが日本の鍋なのだと云うことを実感していた。

花屋で見つけた「四季なり いちご ファーストラブ」は、果たして実をつけるのか?

いつもは自転車で通り過ぎる花屋の前でふと目を止めて立ち寄った店頭にあったのが、この「四季なり いちご ファーストラブ」だった。

些か大袈裟に長く受け狙いの商品名であることは明らかである。小振りな鉢の中を眺めれば、イチゴの花とも思える赤き花弁(なのだろうな?)が、喩えてみれば、奈良美智の目線でおいらなどの消費者にコンタクトを取っているらしく思えた。コンタクトと云うのは表現の綾でもあり、実は挑戦的に喧嘩を売られていたのかもしれないくらいの状況であった。本当にいちごの実はなるのか? といった疑問を、徹底して撥ねつけるかのごとくに、その視線は尖っておいらに突き刺さってきていたのだった。

遅ればせながら、田中慎弥氏の「共喰い」を読んだ

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昨日、田中慎弥氏による芥川賞受賞作品の「共喰い」を書店で入手し、早速読み進めていた。集英社刊、定価1000円+税、p144、上製本なり。

先日には田中慎弥氏の既刊本「切れた鎖」を読んだ時とは裏腹に、遅滞なく、ほとんど何もの違和感などなく読み進めることができた。云わば小説の体を成していて極めてオーソドックスなつくり、構成がそうさせていたのであろう。翻ってみれば、「切れた鎖」を読んでいて感じた、実験的要素はほとんど影を無くしていた。ちょっとした期待外れの印象を禁じ得なかった。

様々なサイトやブログ上で、本作品のプロットについては述べられているので、ここでは最小限度のそれに留めておきたいと思うが、それにしてもこのプロットは、極めてオーソドックス過ぎるくらいに意外性を持つことがなかったのである。

おそらくは作家の故郷である下関市内であろう、糞の臭いのする海沿いの町を舞台に物語りは進んで行く。主な登場人物は高校生の遠馬と、彼の父、別れて暮らす彼の母、ガールフレレンドの千種、そして父と暮らす今の愛人たちだ。限定された人間関係の中から、とても濃密でおぞましい物語が紡ぎ出されていく。

遠馬の父は相手の女性を殴ることによってしか満足を得ることができないという、云わば性行為における変態性欲の持ち主として描かれる。父の血を継いでガールフレンドと向かい合う遠馬にもまた同様の嗜好性があり、高校生は其れ故の葛藤におののくのだ。父と対峙しつつ、父と子供という対決へとは向かわずに、物語は横道に逸れたように、主役以外の人間へとバトンタッチさせられてしまうというのも、的外れ、期待外れの念を禁じ得ない。

今回の選考を最後に芥川賞選考委員を辞退した石原慎太郎氏は「馬鹿みたいな作品だらけだ」と感想を述べていたが、「共喰い」に関しては頷けるものがある。つまりはこの作品のプロットが作り込まれた極めて「人工的」なものであるという所以から、発せられる感想でもあるからだ。変態性欲やそれが元になる事件を純文学で扱うことへの抵抗感がおいらの中に芽生えていた。特殊な性欲をあたかも当たり前に扱うことへの抵抗感とでも云おうか。

作家の身体性に基づくものではなく、小説のプロット構築の為に作り話を組み上げていく作業というものは、果たして純文学に必要なる仕業だろうかという疑問に、ひどく蔓延とさせられているおいらなのであった。

大衆寿司店にて久々の熱燗を一献

日本酒を飲むのは月に1度程度と決めている。生活習慣病対策においては残念ながらではあるが欠かせないこととなってしまった。

おいらはそもそも、日本酒、ことに熱燗を口にしたときの、先ずは湯気と日本酒特有のあまさが相俟って鼻からそそって入り来る得も云えぬ香りに感激する。ことに今日この頃のような寒気に被われている日々においては尚更である。

月に一度の掟破りの贅沢だから、つまみは何にしようかと思案したのだったが、結局は大衆寿司店の寿司と決めた。懐も寒いこの節には大衆寿司店も通い慣れた店となっている。

イタリア風きしめん料理の「きしめんタリアーナ」を食した

名古屋料理を提供する居酒屋チェーンの「世界の山ちゃん」八王子店にて、「きしめんタリアーナ」なるメニューを食した。名古屋特産の麺である「きしめん」を、イタリアン風にアレンジ味付けして提供されている。「タリアーナ」とは「イタリアーナ」の省略形かと思われるが、店内にそのような説明はなかった。

帰宅してネットで調べているのだが、「タリアーナ」と検索して出てくるのは奈良のイタリアン専門店ばかり。相当有名なイタリアンの店だと見え、アクセス方だとか様々な派生的項目がヒットしてくる。そんな名店であろう、奈良のタリアーナのパスタの味わいにはほど遠いが、名古屋きしめんを素材にアレンジして調理されたイタリア風きしめん料理も、そう悪くはない味わいだった。

イタリアンなのだろうが、大葉を散らしていて和風の味わい。考えてみれば近頃のパスタも、明太子パスタだか野沢菜パスタたかというくらいに日本食材を取り入れて日本人好みにあれんじされているのであるから、別段に「きしめんパスタ」がメニューに載っていたからと云って驚くには当たらないということなのであろう。

未だ冬なのに、一足先に春の「菜の花」の味覚を体験

本日も北日本や日本海側新潟地方等では大雪が降り積もって、冬の真っ盛りの様子なり。そんな季節においらは、春の風物詩でもある「菜の花」を一足先に味わって、春気分に浸っていたのだった。

ピリ辛醤油で控えめに味付けされていたその春の「菜の花」はと云えば、それこそまったく凍えた気配などなくとても鮮やかな春の味覚を呈していたと云えよう。

例えれば、蕾が花を凌駕するという形容が成り立つとすれば、春間近の蕾ばかりの春の「菜の花」の香り、味わいは、まさに花の其れをも凌駕すると云って良いのだろう。