今朝からの寒気で目が覚めた。TVでは雪のニュースで賑わっていた。TV朝日局の番組では丁度、八王子駅前で天気レポーターが立っていて、お天気兄さんによる実況中継などが放映されており、故に朝方から家を出るのが億劫になっていた。
「天候不良による倦怠感による」等々の、さしずめ女子高生風の理由を口実にして、職場を欠勤したくもなっていたくらいであった。がしかし欠勤をしたならば、後日になってどんな噂を立てられるかも知らぬのであり、それ故に、気怠い朝の一歩を踏み出していたのだった。
■インディアンレッドの地の壁画
分け隔てられたブースを辿っ て行くと、広いスペースにただの1点の作品が展示されている場所へと行き着いていた。作品名「インディアンレッドの地の壁画」。題名から読めるとおり、壁 画としての利用を前提として依頼されて制作したという、ポロックの中での数少ないカテゴリー作品に含まれる。
塗料をキャンバス上に滴らせて描くポーリング、ドリッピングと云われる技法や、オールオーヴァー、アクションペインティング等々と称される志向性が頂点を迎えた1950年の作品であり、ポロックと云えば真っ先のこの作品が引用されることが当然となっている。評価額が200億円とも称される、現代美術の最高峰とされている作品である。
ゴッホやピカソを超えたとの評価が与えられているが、これには相当大きな疑問が付きまとっていることも確かである。ヨーロッパに遅れをとっていた米国美術界が金力にものを云わせて総出で手掛けたイベントの一つが、同作品への超高額評価であり、その役割を担う役者としてポロックに白羽の矢が立てられたと云うのが、客観的な見方ではあろう。アメリカンヒーローに祀り上げられたポロックは、センセーショナルな報道のターゲットとなり、映画作品のモデルともなったが、彼にとっての益に適ったかと問えば、決してその様なことは無かったと答えるべきであろう。
■カット・アウト
オールオーヴァーのスタイルを確立したポロックが、そのボード絵画を切り抜いて構成した実験的な作品である。今回の展覧会場でおいらが最も観たかった1点でもある。
人型にも見える切り抜いたその背後には、荒く絵の具を刷り込ませたキャンバス地が姿をのぞかせている。この手法の作品は6点あるとされているが、展示されていたのは我国の「大原美術館」が所蔵しているもので、同シリーズの中心的作品である。
解説文に依れば、このカット・アウト作品の見せ方に苦慮していたポロックは様々な実験と思索を繰り返していたが、突然の事故でついにその完成を示すことは無かったと云う。現在展示されている作品たちは、妻のリー・クラズナーの判断によって完成されたものとなっている。
米国現代絵画の巨匠と謳われるジャクソン・ポロックは今年、生誕100年を迎えた。それを記念して我国(米国ではなく日本)では「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催されている。名古屋展に続き、東京展が東京国立近代美術館にて2/10~5/6の期間で開催中である。
■生誕100年ジャクソン・ポロック展
期間:2/10~5/6
場所:東京国立近代美術館
〒102-8322千代田区北の丸公園3-1
現代作家としてのポロックは尊敬すべきアーティストには違いないが、おいらにとっては同時代の米国で活躍したアーシル・ゴーキーや、アンフォルメル絵画の巨匠ことジャン・デュビッフェ達の方が圧等的なアイドルであって、ポロックに心酔したり特別に傾倒することは無かった。或は作品制作においての影響も小さかったと云うべきである。然しながら今回の「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」は企画回顧展として相当規模の展覧会であり、これを見逃したら一生出逢うことの出来ない作品群を思えば、出かけない訳にはいかなかったのである。
まず会場に足を踏み入れて最初のブースで感じたのは、20代のときのポロック作品の充実さである。厚塗りでぐいぐいと表現して行くそのスタイルは、ピカソの初期作品やミロの作品を彷彿とさせ、ある作品は岡本太郎の作品世界を想起させてもいた。ポロックが岡本太郎に与えた影響について、一つの示唆を齎してくれていたのであった。
(この稿は続きます)
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装幀家として名高い司修さんの近著。古井由吉「杳子・妻隠」、島尾敏雄「死の棘」、中上健次「岬」、等々の戦後日本の近代文学を代表する書物の装幀を手掛けた司修さんが、装幀の現場におけるエピソードを綴っている。取り上げられている15の書物のどれも彼もが、作家との厚い交流が基として成り立っており、おざなりの仕事から産まれた本は一冊も無い。
おいらが司修さんの装幀の仕事に対して最初に目を瞠ったのは、大江健三郎氏の書籍たちだった。エッチング等の版画の技法を駆使して描かれた司作品は、大江健三郎作品の挿絵としてではなく、イメージが何倍にも膨らみ弾けて描かれており、司氏の装幀作品の重層性を余すところ無く示してもいたのだった。
だが何故だかこの「本の魔法」という一冊から、大江健三郎作品が省かれているのが、余談になるが、とても不可思議なポイントでもある。
上野アメ横のガード下にあり、おいらもちょくちょくと顔を出す「豚坊」で、「ロールキャベツ」に久々にありついたのだった。
毎回のようにこの「ロールキャベツ」を注文するのだが、何時もいつものごとく「売り切れです」の店員の一言が返ってくる。おいらはてっきりこのメニューは客を釣る、云わば騙しのメニューであると決め込んでいたのだったが、そんな決め込みを払拭すべく、肝心要の「ロールキャベツ」にありつくことが出来たという訳なのだった。
上野のアメヤ横丁界隈はとても馴染み深い界隈であり、しばしば散策するのであり、最近ちょくちょくと腰を降ろして一献やっているのが「豚坊」なのである。その昔は「錦」という看板を降ろしていた同店舗の軒下の想い出は数限りなく存在している。
鶏の手羽先を用いた餃子、或は餃子に見立てた手羽先料理と云うのが「手羽餃子」と云うメニューである。
もう何年も前だったが最初にこのメニューを視て接した時の驚きは筆舌に尽くせないものがあったことを思い出す。手羽先を餃子にすると云うのは快挙ではあるが途轍もなく無謀な試みと思われ、こんなグロテスクなメニューを開発した人間の気が知れなかったというのが本音であった。
だが、本日食したその「手羽餃子」は、グロテスクさを控えめに見せて出されていたので、箸を付ける前にも「美味そう」という印象を強くしていた。しかも箸を付けて喉にくぐらせれば、逸品料理の味わいにも感じさせるものであった。
この体験はまさに「手羽餃子」を見直すきっかけとなったのである。
中国料理系居酒屋で飲んでいた際に「水餃子」を注文していた。何時もだったら「焼餃子」なのだが、今日は気紛れの風が吹いたようにて、普段とは違うメニューを食する羽目になったのだった。
出てきたその「水餃子」は、スープにも入っていないただの茹でた餃子であって、それに葱の切身がぞんざいにかけられていたのであり、おいらは一見して残念な思いにかられてしまったのだった。やはり焼餃子にすべきだったと考えたのも後の祭りであった。
凝視してしまったところ、その「水餃子」とやらは、薄っぺらい皮に包まれたワンタンを大きくしたような代物だったのだった。ワンタンも時々は食するが、取り立てて美味いものではない。ワンタンをわざわざ注文して酒を飲むのも、ある種の不条理と云わねばなるまい。
日本の餃子は焼くのが当たり前であり、こんがりと焼き目を付けて、其れを見た目でも味わいつつ食するのだ。それに引き換え「水餃子」ときたら、薄っぺらな生地から透けて見える肉のあんのみすぼらしき様相である。この違いは決定的であると云うべきと考えていたのであった。
しかるにして全く納得できないままにして、「水餃子」メニューを後にして、中国系居酒屋を立ち去ったのであった。
地元の焼肉店に立ち寄った。牛のモツが豊富なこの店は、様々な部所を味わえるので、時々訪っているお馴染みの店ではある。
例えば牛の、第1から4までの胃袋、すなわち「ミノ(第1胃)」「ハチノス(第2胃)」「千枚(第3胃)」「ギアラ(第4胃)」という4種類の胃袋などを味わうことが出来るということで、ある日にはまった。
本日食した希少部位とは、牛の食道部位である。「ネクタイ」というメニューで提供されていた。
「塩味がお勧めですよ」という店員の声にしたがって「ネクタイの塩味」を注文。脂の量は少ないと見え、炭火に乗せても炎が着火する兆しも無い。ゆっくりじっくりと焼肉の工程が味わえるのであり、じわじわと点火していく食欲ともあいまって、美味しい時間を過ごすことができたのだった。
塩味は些か強過ぎると感じたのだが、コリコリとして適度な食感が、またまた食欲をそそっていた。
稀にとは云えこんな食欲増強の時間を持つことは決してダイエットに良いわけが無いのであり、またまた反省しきりの今宵なのである。
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芥川賞受賞作こと円城塔氏の「道化師の蝶」を「文藝春秋」誌の最新刊にて読了した。だが然しながらであるが、実は今回は、言葉を失っている。感想はおろか、作品分析の取っ掛かりさえ掴めないような、ある種の言葉を失っているような状態なのである。
タイトルとなった「道化師の蝶」には、「道化師」「蝶」といった云わば想像力を存分に刺激するべき語彙的要素を有したタイトルではあるが、然しながらそんな想像力やら期待やらを抱いて書物にのぞむと完全に裏切られてしまうことが請け合いである。
それはまるで、言語を無に帰する壮大な試みなのかとも感じ取らせてしまうくらいである。果たしてそうなのであれば、円城塔氏は途轍もない天才作家と云うことにもなろうが、そんな作家が居るのかどうか、存在可能なのかどうかさえ、覚束ない。
芥川賞の今回の選考委員会は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」受賞時のそれほどではなかったにしろ、そこそこに紛糾し揉めたかのようである。「選評」を読む限り、積極的に推した選考委員は居なくて、初回投票にては過半数にも達しなかった。通常はこれで選外となる運命なのだろうが、今回は特別に、主宰者である文藝春秋社側の特別な要請で、再度の受賞討議が行なわれて、結局のところはそこそこ揉めた末に受賞作品となったとのこと。
「支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる。」(黒井千次氏評)
「〈着想を捕える網〉をもっと読者に安売りしてほしい。」(山田詠美氏評)
「この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」(島田雅彦氏評)
「これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうと言う委員もいた。賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」(宮本輝氏評)
「『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。」(石原慎太郎氏評)
「今回の『道化師の蝶』で初めて私は『死んでいてかつ生きている猫』が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、なゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。」(川上弘美氏評)
川上弘美氏は好感度を込めて選評を記しているが、戸惑いの評をもまた綴っている。川上さんは授賞式にて「二人のカメレオン」と受賞作家を称揚したという。川上さんのそんなコメントを確認してから、もう一度この受賞作品と向き合って行きたいと思うのである。
メタボに効くとして大人気の野菜ことトマトを用いて、「ロールキャベツのトマト煮」をつくった。トマトの脂肪燃焼効果は、京都大などの研究グループが10日付の米オンライン科学誌に掲載されたことから、スーパーの野菜売り場から姿を消したほどの人気だと云う。価格も高騰現象を呈している。
もともとトマト好きのおいらにとっては、トマトにメタボ効果があると云うことなど云わば常識の範疇だったのだが、今時のニュース種はこんなことをトピックスとして報じているのが何とも意外な印象を抱くのだが…。
ともあれ、トマトをたっぷり使った「ロールキャベツのトマト煮」は、弱った胃袋への優しい癒し効果も感じ取られており、リコピン効果充満した夕食に舌鼓だったのではありました。
韓国料理に「チャプチェ」という料理がある。韓国風の春雨を基本に、玉葱、人参、竹の子、ほうれん草、等々の野菜と炒めて、ゴマを振り掛けるというシンプルな料理だ。味付けの多少の相違はあるが、日本や中国の料理メニューにも、同様のものが無い訳ではないが、やはりこの手のメニューの代表格は「チャプチェ」ということになる。
巷間流布され聞くところによれば、お隣の韓国という国においては、美容整形及びそれに付随するダイエットの風潮が満開の様子ではある。おいらがチャプチェを注文した某店にても「野菜たっぷり」などと、美容に良いという点が強調されていたのであり、おいらもそんな文言に惹かれてしまったことは否定できない。
今回食したチャプチェは、辛味もほどほどに抑制されていて、味付けは程よい韓国風といった塩梅だった。日本風、或いは中国風の春雨炒めとの、云わば決定的な違いというものを捉えることは、残念ながらできなかったと告白しておかねばならない。
春雨炒めというメニューであれば、或いは日本風か中国風のものの方が優れているのかもしれない。ということを本日のクエスチョンとして指摘しつつ、キーボードを置くことにする。
先日購入したTANITAの体脂肪計で、体重管理を行なっているおいらである。初期設定も無事に終了することができ、今では体重計(体脂肪計)に乗るだけでスイッチが入って、体重はおろか、BMI、体脂肪率、筋肉量、内臓脂肪レベル、基礎代謝量、そして体内年齢が、自動的に測定されるようになっている。流石は体脂肪計で鳴らすTANITA製だけのことはある。
おいらに健康指導をして下さっている指導医の女医さんの指導に従って、出来る範囲での朝と夜(寝起きと就寝前)の体重を量るようにしているのだ。この値を見ると、就寝前には体重はピークを迎えているようであり、逆に寝起きの間際の体重の値は極めて低くなっている。その差は最大にして1.5kg、平均的に0.5kg程度の差異が見て取れるのだ。
何しろ夜の就寝間際には、1日の中での最大の体重が計測されているのであるから、この値を如何にして下げるかと云うことが、ダイエットの成功のつぼであると考えられる。夜の食事を控える、飲酒量を控える、特に就寝前の食事はしない、等々の基本を踏襲するならばおいらの基本的体重は下がって行くことが見込まれるのだが、こと深夜の飲酒量を下げることだけは極めて至難の業ではある。これがおいらの前に立ち塞がっている巨大なる壁ではある。
冬のこの頃は鯖も脂が乗って美味い季節だ。然しながらなかなか鯖の刺身にありつくことは滅多に無く、鯖の旬のメニューは「〆鯖(しめさば)」と凡その相場が決まっているのだ。スーパーやコンビニの生ものコーナー等にはこの〆鯖にもお目にかかるがなかなか食べたいと思うことが無い。工場で大量生産された〆鯖の残念な味わいがずっと尾を引いているからに他ならないのである。
ところがどっこい、居酒屋のこの時期のメニューとして提供される〆鯖には、ひと手間、一仕事を通ってこそ出来た、味わいぶかきものが屡見受けられており、「〆鯖」のメニューに接するたびに注文したくなる。
このたび上野アメ横界隈で食した〆鯖もまた、〆鯖の醍醐味を味わうに足る逸品であったのだった。先ずは大切なことだが、決して塩辛くは無いということ。大量の塩で〆た〆鯖は日持ちはするだろうが決して本来の〆鯖の美味さを有してはいないのだ。コンビニ、スーパー等で販売されているものは往々にしてこのような代物が多い。
決して塩辛くは無く、酢の酸味が喉を潤してくれる。青魚でありながら鯖の紅い身の色合いがまた食欲を誘っている。この時期にこそ食べたいメニューであることは間違いない。
茹でる前の生若布を使って、若芽のしゃぶしゃぶ鍋をつくった。
艶やかな茶褐色の色合いをした生若布は、鍋の熱湯にくぐらせてしゃぶしゃぶとすることにより、鮮やかな緑色に変色、変身させていく。その様はまるでカメレオンが身体中の色素を取り替えるかのごとくにドラマ仕立ての装いであり、何度接しても気持ちを揺さぶられること必至也。
新鮮な若布であるので、さっと火を通して、刺身風に味わうこともできるし、野菜をたっぷり入れた鍋のスープに、しゃぶしゃぶとして味わうのは稀に見る食体験となること請け合いだ。若布等の海藻類に豊富に含まれる「クロム」という成分が、糖や脂質の代謝を活発にされることから、ダイエット効果をもたらしてくれる効能が期待できる。
そしてもう一つの特筆される要素であるが、若布には極めて強力な整腸作用がある。食べて30分と経たないうちに、お腹がごろごろ云って来るのを感じる。腸が蠕動作用を活発にしていることを実感するのである。
味付けは和風のカツオ出汁に生姜のすりおろしをたっぷり加えた。冬にさっぱりと味わえる鍋としては、この「若芽のしゃぶしゃぶ鍋」こそ特筆するに価するのだ。
みどり企画が企画、公開するギャラリーをお楽しみください。
みどり企画の主宰者こと小林活夫の作品の他、主宰者がお奨めする作品なども、これからどんどん紹介していきたいと考えています。
第1弾として、先月に旅した「奥飛騨」「新穂高温泉」界隈で撮影した写真群をアップしました。
これからしばしばに公開作品内容を入れ替えていきますので、時々は当ページにも見に来てください。
TANITAの体脂肪計を購入した。先日の健康相談にて「あと3kg体重を落としましょう」とアドバイスを受けてのことだ。「出来れば毎日、体重を量る癖をつけてください」と、健康相談を行なってくれた妙齢の女医さんが熱心に指導をしてくれ、「針で見るのではなく、デジタル式の数字でチェックできるのが良いですね」と、まあTANITAのまわしものではありませまいが、まるでTANITAの体重計を買いなさいと、薦めているに等しく受け止められたのであった。
地元の「ヨドバシカメラ」店の売場へ赴くと、TANITAの製品と並んでオムロン製のも同数くらいに並んでおる。オムロンと云えば、浅田真央ちゃんこんなが登場する「無論オムロン」のCMで名高い。どちらも体重計の主力企業であり、しばし悩んだが、結局はTANITA製のものを購入することに決めた。TANITA製の製品というのは、体脂肪等の付加価値的測定でのトップランナーという企業イメージに、結局ははまってしまったかのようである。
単なる体重計とは異なり、最初に器械の設定を行なうのだが、今日の日付から、利用者の登録、身長、生年月日、性別、等々の登録を行なう必要があり、これが存外面倒だった。体脂肪を測定するには靴下を脱いで裸足になって測定器に乗る必要があり、またそれ以前に体重を測定するには、身体に身に付けた洋服、ズボン等の衣類を脱ぐ必要が生じる。こんな極寒の夜に行なうには至難の業と云うべきであり、おいらも多少ならずに躊躇し、結局は登録や細かな測定を明日以降に持ち越してしまっている。明日からはしっかりと自らの体重、体脂肪、その他諸々の管理に励むつもりのおいらなのである。