TVでの池上彰解説のどじょう内閣賛歌は異様だったが…

新聞報道等によれば、野田佳彦新総理の評判がなかなか良いそうだ。

新聞各社の調査によれば軒並み60%以上の支持率ということであり、戦後内閣の何番目だとか云う報道がされていた。本日のTV番組でも池上彰という元NHK子供番組担当者が小学校の社会科授業よろしく、野田首相の高支持率の解説などを行なっていたのであり、またまたTV芸者よろしく復帰したい意向のようなのでもある。

低姿勢であり慎重、かつ周囲への目配りもよろしいと云うのが理由のようだが、新米通商大臣の舌下事件などもあり、内閣自体はそれほどの安定しているとは云えない。自らをどじょうになぞらえた新首相だが、これからどのような日本の舵取りをして行くことになるのか?

野田新政権には期待も何も無いということを前提に、これから述べていくのであるが、どじょうだか何だか知らないが、どじょうの泥の皮がいずれ剥がれていき、そんな泥のはがれた野田氏の素顔は、果たして国民にどう映っていくのだろうか?

泥臭くて不細工だったのは実は表の顔であり、いずれは素の顔(泥の皮が剥がれた相貌)をあきらかにさせることが来ることなのだろう。

改めて云うがおいらは何も期待していないのだが、そんなときが来てあたふたするのは民主党関係者のみならず、(協定的活動を行っている)報道関係者や、あるいは自民党等の野党関係者、その他様々な関係者なのかもしれない。

菅直人前総理をコケにしていた輩達に対しては、いずれ刃が己にのしかかってくることはお天道様ならば良くわかっていると思われる。馬鹿者たちの哀れ也候。

まるで漬物的魚料理の「赤魚の粕漬け」

「赤魚の粕漬け」という料理を食した。白身魚のうちの何かの魚である「赤魚」を粕むに漬け込んでのちにじっくりと焼き込んだものだ。

白身魚はそのまま焼くと何だが淡白過ぎてしまい、味気ない。そんな欠点を補うのが「粕漬け」という調理法だ。キュウリや茄子や大根を粕で漬け込んだりすると美味い漬物が出来上がってくるのだが、そんな良きスローフードの調理法を魚料理に持ち込んだメニューがこの「赤魚の粕漬け」だった。

美味くないはずが無いのである。

秋茄子の味噌炒めはぐっと舌に染み入る味わい

俗に「秋茄子は嫁に食わすな」という。それくらいに秋に収穫される茄子は熟して実が肥えて美味いということである。

嫁いびりも盛んだった頃の喩えとはいえ、品も無い上に味気もない一句だが、秋の茄子は夏の茄子よりも重宝がられていたということを如実に示している。

ともあれいったんの旬の時期を過ぎて、茄子が益々美味しい季節に入ってきた。夏の代表選手としての茄子だが秋に入って益々更に熟して実をもうけるというのは、一体全体茄子って云う野菜君は夏派なのか? それとも秋派だったのか? とまあ、訝しく感じることもままである。

それでも実際のところは秋の茄子のほうが断然に美味だという声を強く耳にする。希少性やマニア向けの嗜好とも関係しているに違いない。

定食屋の「茄子の味噌炒め」を口にして、その思いを強く感じていた。秋茄子は夏茄子よりもぐっと来る。それは本日のおいらの舌で実証した事実でもあった。

それにしても茄子の味噌炒めというメニューは、日本人であるおいらの味覚にとてもとても強くフィットしている。こんなにも相性の良い食材と調味料との妙と云ったら、他には数えるほどしか思いつかない。

それくらいにぐぐっと感じる逸品メニューだ。

「アーツ千代田3331」にて「千代田芸術祭2011」が開催中

千代田区の旧練成中学校を改修して昨年オープンした「アーツ千代田3331(3331 Arts Chiyoda)」にて「千代田芸術祭2011」が開催されている。(9/3〜9/19火曜休場)

http://fes.3331.jp/

昨年の「アンデパンダン展」がスケールアップして企画された展示会ということで、1階メインギャラリーでの作品展示に、コミュニティスペースと屋上にて「ステージ」や「マーケット」の催しが加わった。

展示部門のジャンルは設けられておらず、油画、アクリル画、立体作品、写真、ビデオ、その他、多岐にわたっている。広く市民アーティスト達の表現の場として生まれた同会場においてジャンル等々の出展の規制を設けることなどナンセンスであり、会場にはジャンルを超えた表現の息吹が渦巻いていたのであり、企画者達の基本的な目的は達成されていると見える。「アンデパンダン展」を称した展示会であるからしてあからさまな職業批評家達のコメントやらは避けられており、当たり前のことながら風通しの良い展示会と云う印象を与えている。

先述したようにこの会場は元は区立中学校だった場所だ。校庭はそのまま公園として再利用されている。通常こういう場所のことを「廃校」と呼ぶのかもしれないが、こと旧練成中学校に関してはこの言葉は当てはまらない。現役の校舎としてそのまま使えるくらいに、旧校舎と場に関係する人々、あるいは行き交う人々との関係性が密にあるということを感じさせるに充分である。庭の花壇には昼顔が花を咲かせ、ツルが天然の緑のカーテンを形作っていた。

2階、3階は貸しギャラリーとして機能しており、様々な個人やグループによる展示が行われている。階段や廊下を歩いているだけで、中学生の時代にタイムスリップして気分にもなれて、それだけでもわくわくしてくる。おすすめのスポットである。

■アーツ千代田3331
〒101-0021
東京都千代田区外神田6丁目11-14

美味いどじょうが食べたいのだが、近くにどじょうの店は無し

野田佳彦という「どじょう総理」が誕生したことにより、どじょう人気が高まっている。地味で泥臭いが実行力があって頼もしい…等々の評価のためか、どじょう人気はバブル期の株価の様でもある。

念のために記しておくが、おいらはどじょう総理が誕生するずっと前からどじょうが大好きであった。おいらこそは野田総理にも引けをとらぬくらいなどじょう大好き人間なのである。のみならず、当ブログにもどじょう料理については数回記述している。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=4477

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=2200

あらためて振り返ってみれば、たまに行くならこんな店、としての「どじょう料理」を紹介してきたが、いざどじょうが食べたいと思ったときに、近くにどじょうを提供する店が無いことに気付いた。地元のよく行く居酒屋のメニューには「どじょう鍋」があったのだがいつも「売り切れ」だった。今年に入ってからはメニューに墨で塗りつぶしてあった。嗚呼残念。

そんなこんなの経験を繰り返しているうちに、どじょうと云う川魚は、馴染みがありそうでいて実はそうではなくて特殊で稀少な川魚のではあるまいかと考えていた次第なのである。

野田総理がそれほどに特別な存在であるとは毛頭思えないが、ことどじょうの存在については、とても稀少であり特別な存在感を持つのであると、ここ数日の間ずっと考えていたと云う訳なのだ。

どじょうを食べると須らく、泥や骨の味覚を一緒に味わうことになる。泥と骨とは、今日的政治家の資質としての大切な資質であると云うことなのかもしれない。ただし野田総理がそんな資質を有しているのか否かについてはもう少し観察、洞察の必要がありそうなのだ。

居酒屋で食べる「もつ煮麻婆豆腐」は刺激度満点のニューウエーブ也

時々足を運ぶ中華居酒屋にて「もつ煮麻婆豆腐」という新しいメニューを発見。早速食べてみることにした。

 出てきたその料理は、いかにも辛いげな麻婆料理のギラギラしたアブラぎった風体で現れた。こういう料理はこちらもそれ相応の対処が必要となってくる。まずは胃袋が、襲いかかる辛みでもって悲鳴を上げたりはしないか? 消化の悪いもつなどが後日に胃腸障害などを引き起こさずにいられるか? あるいは折角のダイエット指向が無駄になってメタボ体質に逆戻りはしないか? 等々とチェックしておくべきポイントは多いのだ。

 それでもこのメニューを注文し、実際に食してみたというのにはそれだけの理由があるのだが、その理由とは一言で述べれば、「刺激を求めて」だったと云うべきか…。

 日々の喉と心とその他あれこれを癒してくれる居酒屋のメニューも、ときにはガツンとした刺激が欲しいのである。毎日同じようなメニューを口にしていると、それはとても癒しのメニューとは云い難くあり、ガツンとした刺激を味わってこその晩酌メニューと云って良いのであり、そんなことから求めるのが刺激メニューなのである。

 ギラギラと赤光りする料理の表情に接して、これは相当にダイエットにもその他諸々の身体にとっても良くないだろうな、と確認したところで、口にして喉に、胃袋、小腸、大腸へと流し込むことの欲望に抗うことはできなかった。こうした時々の悪しき食生活を繰り返すから、おいらの健康的食生活はまったくもっての幻でしかなくなってしまったのだ。

 口に含めばピリリとした刺激が心地よい。唐辛子のストレートな辛さの後にじんわりと辛い花椒の刺激が待ち構えている。花椒即ち中国胡椒のじんわりと来る辛さこそが「麻辣味」の醍醐味であるのだ。

 加えて煮込んだ「もつ」が入っている。しかも一般的な内蔵の小腸、大腸に加えて「トリッパ」「ハチノス」等と呼ぶ牛の第二胃袋が存在感を持って主張しているのだ。煮込んだモツだが噛み切るには少々の顎の筋肉を使う必要が生じる。顎や顔面の筋肉体操にもなっており、意外なところで貢献していくのかもしれない。

ぎんなん(銀杏)の串焼きに秋を感じた

銀杏の串焼きを食した。今季初めてであった。

 通い慣れた居酒屋にて、メニューを改めて眺めれば、串焼きに「ぎんなん」の文字を発見。秋はまだ遠いとばかりに感じているが、いつの間にかもう秋の味覚も味わえる季節となっていたという訳である。

 

銀杏とはそもそも、イチョウ木から育てられた果実のことである。イチョウの葉が黄色に色付いてみせるのはまだまだもっと先のことだが、秋に入ればイチョウは実を宿そうとして気合いが入る。

普通の実が熟するにはまだまだ時が早いはずなのだが、銀杏もどこかで静かに実を蓄えている。これから秋全開の実りの季節が非常に待ち遠しいと思えるのだ。

我家で食した「納豆とんぶり御飯」は「佐原屋」のを断然に凌ぐのだ

御徒町の「佐原屋」へ訪れるとよく注文するのが「納豆とんぶり」だ。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=4015

「山かけとんぶり」等とともにおいらの大好きであり、同店の看板メニューでもあるのだが先日は、同店のメニューにおける欠陥を発見したのだ。それは御飯に乗せて食べることが出来ないと云うこと。

先日このメニューを口にしていたとき、ふと思い付いて「御飯が欲しい」と注文したのだが、願いは叶えられなかった。

御飯くらいは何処の飲食店でも用意しているはずだが、「居酒屋」「酒呑処」…等々の看板が邪魔をしていて日本人の飲食の基本であるべき御飯も提供できないと云うのだからがっかりだったのである。

ならば我家で、満足できるメニューを拵えてみようではないかと思い立って、都心のスーパーを覗いてみたら「とんぶり」が見つかった。喜びいさんで持ち帰り、納豆、葱、その他食材を合わせてみてそして、温かい御飯の上に乗せて食べたのだが、想像以上に絶品の味わいなのであった。満足至極のメニューである。

そもそも居酒屋だから御飯を出さない、出せないなどと云う口上は、はなはだ客の気持ちを踏みにじっている行為である。こと飲食店関係であれば、御飯を出してくれと云う客の要望には真っ先に応えるべきであるのに、何故だか勿体をつけて「御飯はありません」等と云うのはまるで、料理屋の基本を蔑ろにしている行為である。

全くもって不条理至極なのだったのではあったが、今宵はこうして美味いメニューと、美味い晩酌の酒にありつけたのだから良しとすべきなのかもしれないな。

【追記 とんぶりとは】
ホオキギという1年草の成熟果実を元にして加熱加工したもの。中国では漢方食材として利用されている。「野菜のキャビア」とも称され、黒緑色のプチプチとした食感が人気だ。旬のものは9月から流通する。注目の食材なのだ。

阿佐ヶ谷から古き良き「ゴールド街」が消えていく

中央沿線沿いの「阿佐ヶ谷」から「ゴールド街」が無くなってしまうというニュースを目にして、慌ててその「ゴールド街」へと向かってみたら、もうそのあたり一帯はもぬけの殻状態に近い様であったので喫驚仰天の心持ちなのである。

阿佐ヶ谷「ゴールド街」と云えば、おいらが10年と少し前に中央線沿いに移り住み着いて以来、幾度となく訪れていた好みの地域である。阿佐ヶ谷駅を降りて東側の信号を渡るとすぐに、その界隈一帯のビルにぶつかっている。そんな足の良さもあってか、あれやこれやの時間帯をその界隈の散策に勤しんだりしていたものである。

ちょっとばかり変てこりんな「葉山房」という居酒屋が在った。店舗内には大きな水槽が設けられており、熱帯魚や金魚みたいな風体をした魚達が泳ぎまくっていた。そんな光景を眺めながらちびりちびりと酒をたしなんでいたものである。だがそんな居酒屋「葉山房」もいつの間にか姿を消していた。つまみを何を食べたとかそんなことはほとんど記憶の埒外に追いやられているが、阿佐ヶ谷を訪れて帰りに立ち寄る場所としては、おいらが最も親しんだスペースであった。そんなスペースが今は無い。

駅から徒歩にして1分未満の場所に位置する2階建てビルであり、耐震構造に問題在るとも思えない。だがJR東日本はここを取り壊して新しいビルに立て直すのだと云う。訪れたビルの2階の店舗街は既に封鎖されていた。風情あるこれまでの「阿佐ヶ谷ゴールド街」は、どこにでもあるようなJR駅中のビルへと様変わりしてしまうのだ。残念至極なり。

古い歴史的建造物は人々の歴史を感じさせるが、新しい駅ビルはただ貪欲な功利主義の欲にまみれふざけ切った出店企業の営利活動の排出物を受け取るばかりであり、それ以上の風情のかけらも無い。

 おいらも旨い酒など求めて一献傾けるつもりで阿佐ヶ谷に立ち寄ったのだが、望みも叶わぬまま再びの中央線ホームから乗車し帰路についていた。全くもって徒労の時間だったのである。

色川武大氏偏愛の「鮭のまぜ御飯」は流石に美味だった

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先日ふとしたきっかけで、色川武大氏の「喰いたい放題」の文庫本が目に止まって読んでいるのだが、なかなか興味と食欲とをそそられる内容だ。

相当な食いしん坊であった色川氏は、まあ相当な偏愛的美食家でもあったと見える。冷やしワンタンから始まり松茸鍋、上海蟹、鱈子、鰻、等々はまずは定番だが、一番食べたいものが「御飯」、そして副食物の極め付けが「ふりかけ」と云うんだから本物である。

そして、本物食いしん坊の色川氏の同書で、何度も登場するのが「鮭のまぜ御飯」なのだった。一塩の鮭の身をほぐして、大場を揉んだやつと混ぜ合わせる、というこれだけのレシピ。これが何度も登場しているのでついつい作りたくなり、バーチャル食欲が湧き上がっていたと云うことなのだ。

そうして作ってみたのが上の写真である。煎りゴマなどを添えて多少のオリジナルを演出してみた。難しい調理法などは全然採用されていないが、食べたところこれがなかなかの味のハーモニーだった。一流の料理とは素材と素材のハーモニーであることがよく分かる。流石は本物食いしん坊だけのことはある。