暑い夏の暑気を払うトマト&茄子の効能抜群的レシピ

昨年に続いて今年も猛暑の夏が続いている。地球温暖化の影響だろうことは最早明らかであるが、我々日本人も温暖化に対応した生活術を身に付けていかなくてはならなくなったのだ。

まずは食生活の徹底した吟味が必要である。暑い夏には夏の食材を、と云うのは鉄則である。この鉄則鉄板的に当て嵌まる食材は、トマトと茄子と云うことになる。

日本人にトマトのリコピンが足りないと、つくづく感じていたおいらだが、しかしながらそうは云っても年々トマトの国内需要は高まっている傾向にあり、杞憂に終りそうな気配ではあり、良い傾向である。

トマトは生野菜として生で食するのは一番であろうが、それだけでは食欲や食生活の充実と云った観点からは不充分であり、そんなことからもトマト&茄子を食材としての料理法の充実が望まれているということになる。ここではそんな中からのお勧めレシピを幾つか紹介してみます。


■トマトとジャコの冷奴
主としてイワシの稚魚を乾燥されて出荷される「ジャコ」とトマトは意外だが相性が良いのだ。少量のサラダ油で丁寧に炒めて、それを冷やした豆腐に掛ければ「トマトとジャコの冷奴」の出来上がり。写真は最初においらが食した居酒屋のメニューだが、家でもよくよくついついと作ってしまう、夏季の定番料理なのだ。

■トマトと卵、木耳の中華風炒め
トマトはまた卵とも相性が良い。卵と共に中華食材の木耳を炒めてトマトを加えれば、これだけで簡単で本格的な料理の完成である。


■茄子の一本漬け
漬物には「糠漬け」「浅漬け」等々様々あるが、茄子の漬物はそのままに一本、強めの塩で漬け込んだものが夏向きである。そして冷蔵庫で冷やしたものを和辛し等を添えてみれば、夏の絶品つまみの出来上がり。

大竹昭子さんの「図鑑少年」に嵌ったのだ

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「大竹昭子」という名前はとても気になる名前である。過去何度か、写真評論の文章に接していたが、作家や作品への洞察を通して時代の息遣いが渦巻いており、それを濃厚で香り高い料理を口にした時の様な刺激とともに感じ取ることができたのだ。

昨年10月に文庫本として出版された「図鑑少年」は、雑誌「SWITCH」と「フォトコニカ」に掲載されたものを纏めた小品集で、初出は1999年3月、小学館発行とある。小説も書いているんだなという興味で読み始めたが、久々にのめり込むことができた1冊であった。

決して新しい作品ではないが今読んでも色あせることの無い、現代人の息遣いが横溢している。大都会とそこに蠢き漂流している人間達との関係性が、まるで都会からの視点で描かれている様な不思議な感覚に包み込まれるのだ。何気ない日常と不可思議なストーリーを結びつけるのは希有な作家の想像力だが、それ以上に深い非日常性の魅力に嵌ってしまうのだ。傑作小説集と云うべきである。

福島産こしひかりが、5kg、1,780円なり

先日帰省していたら実家の親は既に昨年度(10年度)の米の予備米買い置きを既にしていた。おいらも今日は帰宅途中に昨年度(10年度)米の買占め、否、買い置きに走っていた。地元のスーパーでは未だ米は陳列棚に置かれていたのでほっとした。職場の千葉県内首都圏に居住する女性の話では、スーパーには既に米は無く、しかも値段が高騰しているのだということだ。おいらの地元スーパーには米が並んでいたのであり、ラッキーだったと感じ取るべきなのかもしれない。

おいらが購入したのは2kg入りのもので2千円前後のもの。そして隣に目に付いたのが、「福島産こしひかり」として大袋にて販売されていたもの。売りの値段は何と「1,780円」なり。おいらが購入した2kgのものと大差ない価格であったのだった。安すぎである。5kgと2kgとは倍以上の(正確に述べれば2.5倍もの)違いがあるのにこの差は何なのだっ! おいらは風評被害と云うものの実態をこの場所で感じ取っていたのだ。風評被害ある場所の農産物は不当に安い値段にて買い叩かれているのだ。

王子の「飛鳥山」&「平澤かまぼこ」を探訪

先日、町田康氏の「東京飄然」を読書していたら、王子の町の飛鳥山公園やその周辺のことなどがぼろくそに書かれていて気になって気になって仕方がなかった。いつしか自然と足が北区王子方面へと向かっていたのも故あることなり。王子周辺と云えば、かつておいらの生活エリアだった大塚から、都電荒川線にて繋がれていて格好の散策エリアであった界隈である。それをパンク作家の兄ちゃんだかがたかだか1回くらい、飄然として訪れて「失敗だった」と決め付けていたことにはとても釈然としないものを感じていたのだ。たかが公園の料理屋でうどんを食べて店員その他に冷たくされたとしても、或いは黙殺されて虫の居所が悪かったとしても、その旅が「失敗だった」と書き記すことの大人気なさを当のパンク氏はどのように捉えているのか? 考えるたびに益々解せない思いは強まってくる。いっその事現場に出向いて解析しようかという英断に突き当たったという訳だ、たぶん。

王子の飛鳥山は春の桜の花見時期以外はそう来園者も多くなく、児童公園には過去の栄光を無理して形にしたような「SL(D51)」やら「王子電車(荒川線の前身)」やらがまるで主役のような風体でドーンと立ち並んでいるのを見れば、ある種の子供騙し的プレイスだという感は拭えないだろう。そうかといってこの都内で最低標高の山の憩いの里的要素も漂ってくる。今年に入って都内で初めて蝉の声の合唱曲を聴いた気分になったし、或いは小高い山から都会の光景を俯瞰してみる様も、この場所ならではの特別な代物ではある。ただ単に1回の思い付きの飄然旅行の作家の目は恐らく節穴であったという結論が導き出されることになるだろう。

飛鳥山を降りて王子駅に向かう途中には「平澤かまぼこ」という立ち飲み名物おでん屋があり、地域の呑兵衛たちの憩いの場となっている。隣に立っていた初老カップルは映画関係者なのだろう、盛んにお勧め映画の講評等を口にしていて耳障りではあった。それでもそんな初老的団塊世代の胃袋の充溢や社交の場としてのプレイスが存在していることにある種の畏れの気分を抱かざるを得なかったというべきだろう。町田康はまだまだ甘ったるいし大人になりきれていないのだろうなぁ。

詐欺師跋扈の世の中をどうにかできないのか

上州の実家に帰省して親の話を聞いていると、「オレオレ詐欺」「振込め詐欺」紛いの電話や勧誘やらが増えているのだという。少し前には町内会から注意するようにという告知があったのだが、その前後にはしつこい電話の勧誘が続いていたので、なるほどこのことかと合点していた。どこからか入手した個人情報リストを元に高齢者宅を狙って電話を掛けめくるパターンの様であり、特に独居高齢者が狙われていることが見て取れる。

我が両親は幸い呆けてもおらず独り暮らしでもないのでそのような電話は何度も撃退してきたが、今後のことを考えるとこのままでは居られる訳も無く、地域の生活相談所や警察関係の連絡先を調べておいたりと、何らかの予防的対策をとる必要が生じているようだ。

人を騙し騙されることをまるでゲームのように捉えて放置し続けてきた金融市場主義、新自由主義的風潮のつけが、ここへ来て破裂しそうな社会不安を煽っている。これも元をただせば、小泉・竹中らによる金融市場主義的新自由主義の過ちの帰結である。こんな主潮は逸早く断ち切っておく必要があることは明らかである。

余談になるが米国によって今まさに押し付けられようとするTPP等は、断然として即刻拒否の態度を示すべきなのだが、現民主党政権は優柔不断で何とも頼りない。第二の自民党と云われる所以でもある。菅直人総理には、脱原発のみならず、アンチTPPにおいてももっと決然としてリーダーシップを発揮してもらいたいものだ。

この時期の金目鯛の握りは絶品だ

昨日書いたイワシは血液サラサラの成分「EPA」「DHA」が豊富で美味い魚だが、それ以上に美味い魚はまだまだ沢山在るのであり、そんな美味い魚のトップを狙う位に美味いのが「金目鯛」なのである。この魚、見た目も赤々として派手ではあり、派手好きな親爺などの人気のツボをキャッチすることは容易であると推察する。更には身の味わいも一流であるとくれば鬼に金棒と云ったところであろう。白身魚でありながらその身は甘みとこくとが充溢していて、とても白身魚の淡白なイメージとはほど遠いものである。

本日はこの「金目鯛」を握り寿司で頂くことになったのだが、期待に違わずにこくも甘みもそして魚のエキスも充溢していて満足だった。

今こそ「いわし(鰯)」を食べて日本を元気にするのだ

福島原発事故の影響で東北を中心とした農畜産物の売り上げはさっぱりである。牛肉、農産物をはじめとしてこれから注目が集まる「新米」についても、果たして例年並みの流通が可能となるのかとても不安が広がっている。先日の栃木の旅では美味しい「岩魚」「鱒」等の川魚を味わったが、東北の、なかでもとりわけに福島近辺の川魚は全て出荷停止の処置がとられている。当たり前のように享受すべき川の恵みを、福島はじめ東北の人々が得ることが出来なくなっていると云うことをもっと深刻に捉えるべきである。怒りは収まる気配も見られないが、前向きに向かっていく心意気も至極重要なことなり。

と云う訳で、ここでは「いわし(鰯)」に注目。鰯と云う海魚は身体形が小さいことや陸上げされるとすぐに弱ってしまう、腐りやすい、等々のことからこういう呼び方をされてしまった魚である。同じ位の体長の鯵に比べても、何となく弱いイメージが付きまとってしまう。う~む、鰯の個性とは果たして何だろうか…?

以前にも書いたはずだが、鰯には青魚特有の「EPA」「DHA」という、血液をさらさら状態にする成分が豊富に含まれている。牛肉等の「アラキドンサン」に比べて、血液の健康状態を維持するのは鰯成分が何倍も勝っているのだ。同じ魚類のカツオ、マグロも、鰯の健康成分を吸収して大海を回遊している。もし鰯の身から摂取する「EPA」「DHA」等の成分が取り込めなかったとしたら、カツオ、マグロ、その他の魚介類は大海を回遊するほどのパワーを持ち得たのかと考えてみれば、とても難しかったと云うべきである。カツオやマグロを食している日本人にとっても同様のことが云えるのだ。

贅沢な味覚を追求することは一旦止めて、今こそ「いわし(鰯)」をはじめとする海魚の恵みにあまえて行こうではないか。

町田康氏の「東京飄然」は煎じ詰めれば詰まらない1冊だった

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おいらは現在、読書進行中の書籍が数冊在る。別段改まってのたもうような事柄で無いことは重々承知なのだが、今日は改まって記したくなってしまったので、何とも面映い心持ながら個人的事情も鑑みて寛大な評価をいただきたいとも思いつつ、それでは次の章に突入するのだ。

実は我が国の栄えある芥川賞、直木賞、あるいはそれ以上に人気抜群のカリスマ作家達を含んでいるのであり、これまで軽々に話題にすることさえ憚られていたのである。つまりはこれらの書籍を読了できずに中途半端に放っているという状況とはすなわち、読書のスピードが上がらずにもたもたしている様を示しており、煎じ詰めればつまりは該当の著書が面白くない、詰まらない内容だということを意味しており、そんな様を、ブログという半公共的な媒体にて表明してよいモノかと悩んでもいたのだ。だが悩みは人を廃人にかすことあれども人を強くすることもままありなんなのである。そして本日おいらは半分くらいのところを読み終えたところで「飄然」と悟ったのだ。「詰まらない本を詰まらないから読んだりしないで他の時間に費やしましょう」というメッセことージを堂々として発信することにより、我が国の文学愛好家たちの役に立つことが出来るのではないかと。そうしなないことには我が国の文学愛好家達は何時かはこの「東京飄然」を読むことになるし、そしてその延長として他の有意義な書物に接する機会を逸してしまっているということになるのだ。ここは腹をくくって、いかに立派で厳かな芥川賞作家の先生の本を読んでも詰まらなかったということを、公開することに決めたのだった。

半分以上のところまで読み進めていたのでこの本のスタイルやポリシー、今時の言葉で言えばマニュフェスト的なる代物といった代物については把握している。「飄然」として東京都内を旅することをテーマにして、作家町田康氏が独りあるいは友人を引き連れて飄然と旅に出るのだが、この「飄然」の意味や風合いやその他諸々をこの芥川賞作家は少々はき違えており、なかんずく「飄然」が「漫然」の対語である等というしゃらくさい薀蓄を述べたり、王子近くの飛鳥山公園や江ノ島・鎌倉旅行を「失敗だった」と書き記し、そんなことしながら1万円以上のディナーに耽ったりという、作家風情を肩に切って歩いている様子には辟易したものであったのだ。

実はこの先を読み進めるべきかどうかは未だ迷っているところだが、素読みしていたところ、中央線沿線の旅も似たかよったかの様であるのでこの辺で止めに入るのが妥当であろう。

「だし奴」にみる美味い「冷奴」の条件

昨晩は「だし奴」に触れながらもその詳細について書き記すことをしなかったのは、睡魔に襲われていたからと云うのが主原因だが、然しながらそればかりではなかった。冷奴の中の筆頭メニューとも云うべきだし奴というものが、はてな通常の冷奴こと比べてどうなのか? そうした思いを整理する必要が在ると感じていたからでもある。

「だし奴」の「だし」というのは、山形県の郷土料理として名高いものであり、胡瓜、茄子、葱などの夏野菜を醤油ベースのタレに漬け込んだものだ。それを冷やして保存食とする。御飯に掛けて食べるのが定番だが、豆腐に掛ければ「だし奴」となる訳である。葱+生姜+鰹節といった通常の冷奴の具材に比べて夏野菜が主要具材であることから、夏のほてった身体を冷ます効能が発生する。鰹節を使わないで天然の野菜から生じる「だし」が隠された味わいの決め手なのだ。野菜出汁が主役なのだから美味くないはずが無かったのである。

御徒町ガード下の「佐原屋」で美味いホッピーを呑んだ

上野アメ横に接する御徒町界隈には数多くの居酒屋が乱立するが、長きに渡って営業し続ける店舗は極めて少ない。毎年のようにその街並みの光景は替わっていくし、季節の移り目とともに看板の貼り替えはひきもきらない。だがそんな中でも古くから呑兵衛達に愛されてきた繁盛店も存在する。そんな店の代表格が、御徒町駅ガード下の「佐原屋」なのだ。

本日は2番目の土用の丑の日であった事から何かを期待して訪ねてみた。鰻のメニューは何も無く、さりげなくその事を訊ねたところ、2、3軒隣の鰻屋さんへ行ったらどうかというようなそっけない応えであったが、隣に陣取っていた兄ちゃんがその鰻専門店の常連だとかで話がはずみ、ホッピーも普段以上に美味しく味わえたのだった。

ちなみに当店のお勧めはといえば、とんぶりメニュー、中でも「山かけとんぶり」は絶品なり。まぐろの切身と山芋の相性は言わずもながらだが、そこに山のキャビアこととんぷりの鮮烈なプチプチ感が加わることにより、3つの素材が3倍ならず3乗にも掛け合わされた程の濃密な味わいを放つのだ。このメニューは佐原屋以外で食べたことは無く、多分家庭でも食されることは無いものであろうから、佐原屋のオリジナルなレシピとして表彰してあげたい、それくらい嬉しい感動的なつまみなのである。その他、「だしやっこ」等のオリジナルメニューもうまかった。機会があったら「だしやっこ」のこともレポートしたいのだが、今宵はこれまで。

青々としたこの「枝豆」の青春期のエキスを味わう悦び

枝豆が美味い季節になった。今年も既に何度か食しているが、今年は何やら不作で市場価格も高騰していると聞く。特に直前の新潟・福島地方を襲った豪雨の影響によって、同地域の枝豆畑は甚大な被害を被ってしまった。上手いビールならぬホッピーに枝豆は欠かすることなどできず、多少の市場価格高騰にも目をつぶって良いものを手に入れて味わいたいと思っていたところであります。

改めて書くのもなんなのであるが、「枝豆」というのは「大豆」が成長する前の、云わば未成熟のときのものを収穫しているものを指す。未成熟とは云えどボリュームも味わいも充分に一人前の体裁はとられており、何故に未成熟等と称されねばならないのかという、当事者達からの不満や異議などが噴出するかと思えば現実は決してそんなことは無く、極めて友好的な、枝豆と大豆との棲み分けはげんとして存在している。外野風情が余計な心配などすることもなかったという訳なのだ。

居酒屋でホッピー(昔はビールだったが今は通風対策でホッピーなのだ)を注文し、つまみとして出された鮮烈なる黄緑色の枝豆を見る度に、このシンプルな取り合わせの妙には心を動かさせたのだった。つまりはこの未成熟期の枝豆は呑兵衛のために完熟後のライフを犠牲にしてこうして我国において最大ポピュラーな酒のつまみとなってここに居てくれるのかと、特別な感慨を抱かざるを得なかったのである。