「春の雪」襲来の夜に「タラチリ」を食したのです

まるで「春の雪」の襲来したごとき寒波が襲った夜に、「タラチリ」をつくって食した。豆腐、タラ、白菜、葱、昆布、の急ごしらえの、スローフードの鍋だった。

暦は季節を先取りする。季節は春分の日も通り越して、すでにれっきとした春なのである。春なのに雪が降るとはけしからんなどと云いたい訳ではないのだ。春の季節に雪があるという光景はある種の怖れ、自然への畏怖を感じさせるものである。そもそも自然は人間どもによって管理、コントロールされるものではけっしてないし、人間にとってそのような権利もある訳が無いのである。このような奢りは全ての人間には認められるものではない。

奢るものこそ久しからずなのである。日本国民みずからが奢ることなく、自然の摂理と向き合っていくことは人間としての基本的な掟である。とても陰鬱な夜ではある。少なからずの放射能に汚染された、核の脅威を含んだ春の雪が降ってきたのだから尚更なのでもあった。

さて、寒い夜には「鍋」に限るが、急ごしらえの鍋として食したのは「タラチリ」であった。豆腐、タラ、白菜、葱、昆布、等の食材を集めて鍋にしたシンプルな鍋だが、しかしながらこの取り合わせには絶妙なハーモニーを感じさせるに充分なのだ。おいらも大好物であり、シンプルでありながら食の文化を感じ取ったメニューであった。

余談になるが、おいらが幼少期、青少年期の頃に、「湯豆腐」といえば「タラチリ」のことを指していた。だが上京した頃をさかいにして、日本全国の常識に照らし合わせればそうではないらしいことを認識していた。とくに上方、京都出身の友人などは、

「タラの入った鍋は湯豆腐ではない」
「湯豆腐は豆腐を味わう伝統的な食物だ」

等々の薀蓄を聞かされたものだった。まるで「湯豆腐」は「タラチリ」より上等なメニューであるかの主張であり、おいらはこれを認めることは出来なかった。今宵は纏めることも出来ないのだであるが、その反論もいずれ述べていきたいものである。