自家製叉焼をつくったので、折角なのでラーメンを調理してみた。叉焼をもっとも美味しく味わえるのが、醤油ラーメンである。そして、他に合わせるトッピングに、メンマとなると等を用意した。
醤油ラーメンに於ける「叉焼」「メンマ」「なると」の3者はとても絵になる具材である。時代が移り変わろうともその3者のコンビネーションは衰えることが無いようだ。叉焼が醤油スープに浸ってジューシーな肉汁が溶け出したならば、その後ですかさずにメンマを取って頬張る。成程、豚肉の濃厚な味わいの後にはすっきりして繊維質のメンマの味わいが欠かせない。そして繊維質のメンマは更になるとを欲しがるのだ。なるとを頬張った後にまた、ジューシーなる叉焼が欲しくなる。ここに味覚のトライアングルが成立するのだ。この三位一体ならぬ「三味」が一体としたラーメンの具材こそは、伝統的ラーメンの姿かたちを強固にさせているのだろう。特段に理由も考え付かないが、とにかく醤油ラーメンといえば、「叉焼」「メンマ」「なると」の3者が欠かせない。
それ以外にあえて醤油ラーメンに加える具材として挙げるならば、海苔、ほうれん草、葱、煮卵、等々が提示されるだろう。だがしかしながら、「叉焼」「メンマ」「なると」の三位一体的トライアングルに比べれば、その姿かたちは主役の座を明け渡した脇役の様でもあり、とても弱々しく映ってしまう。一体全体どうしてなのか? そんな疑問に対する一番分かりやすい答えとして考えられるのは、それら3種食材が「肉」「野菜」「魚」といった食の3要素を代表しているという考え方である。科学的かつ医学的にも聞こえるので、採用しやすい論理ではある。だがしかし、疑問は解消された訳ではない。殊に注目すべきは「なると」である。これは同様の原材料からなるかまぼこにて代用するラーメンが無きにしも非ずだが、どうにも絵になり難いのである。
かつてはもしおいらの記憶が確かならば、子供の頃に食べていたラーメンには、かまぼこは無くて、なるとがトッピングされていた。では何故に、なるとではなくかまぼこが用いられなかったのか? その答えの一つがなるとの渦巻きであろう。なるとの語源は「鳴門」である。徳島県鳴門市の鳴門海峡には潮の満ち干に応じて、ダイナミックな海流の渦巻きが生じる。この渦巻きをモチーフにして渦巻き模様の練り製品が誕生したのだ。「の」の字を描いていて縁起が良いだとか、右巻き、左巻き、等々の説があるようだが、肝心なのはぐるぐるとした渦巻き模様が発するイメージである。すべてを飲み込んで渦を巻いていくイメージは、日本のラーメンにはとてもマッチングするものであったと思われる。子供の頃にはとてもラーメンが食べたかった。御飯があまり美味しくないと感じるたびに、ラーメンを欲していた。そんな過去の日本の原風景を、なるとが象徴しているとは云えないだろうか?