「多摩美術大学芸術祭」を訪問して記しておきたいこと

毎年この時期になると恒例の、多摩美術大学芸術祭を2年ぶりに訪問したのです。

http://www.tau-geisai.com/

我が国の「画壇」等とも呼ばれ老害が蔓延る美術業界には、些かの興味関心も持たないおいらであるが、このような美大生の作品発表展示会にはついついと足を運びたくなる。

アートは創造の印であり、日々の日常的に接しているべきものである。絵画を描いたり、工芸作品を造ったりという行為は極めて日常的な営為であるのであり、誰もに開かれているべきなのだ。

所謂「自己テキストの時代」における「自己表出」は、身近な場所にこそ存在している。これから先も「デザインフェスタ(11/6,7 東京ビックサイト)」や「アートムーチョ(11/13,14 八王子北口西放射線ユーロード)」等々のアートイベントが予定されており楽しみだ。

トマト鍋の〆は、洋風牡蠣おじやで決まりなのだ

急激に冷え行く気候に驚きつつ、またも鍋が食したくなった。今夜の鍋は「トマト鍋」なり。今年初めにアキン邸のパーティーにてこのトマト鍋をご馳走になったが、たしかそれ以来の対面である。

トマト鍋のスープを買い込んで、トマトスープをはった鍋に、豚肉、白菜、椎茸、エノキ茸、そしてこれが肝心の「生トマト」を投入する。グツグツと強火で煮込めば、トマトのトマトスープ煮といった按配となった。思えば近頃のおでんには、生トマトがおでん種として用いられており、トマトをスープで煮込む料理は珍しいものでもない。トマトをトマトスープで煮込む料理は実に理に適っているとも云えるのである。

煮込まれて真っ赤になったトマトを頬張れば、トマトのつんとした酸味はやわらぎ、トマト本来の甘味が増している。トマトだけでも大した鍋のネタとして認められるのだ。

そしてトマト鍋の〆は、洋風のおじやである。もう一品の季節食材こと「牡蠣」を投入するのがポイントだ。野菜の出汁が溶け出した特製スープにご飯を入れてそのまま中火でグツグツ。濃厚の牡蠣のもつ磯の香りが加わって、さらに奥深い味わいに。これだけ美味しいおじやはそんなにお目にかかれるものではない。大げさではなくそう思った。

「盛岡じゃじゃ麺」は忘れられぬ味わいなのだ

先日の岩手旅行にて忘れられないメニューがあった。「盛岡じゃじゃ麺」である。

 

中国北部の「ジャージャー麺(炸醬麵)」という中華麺料理がその起源とされているが、盛岡のじゃじゃ麺の方で用いられている麺はといえば紛れのない「うどん麺」なのであり、和風である。うどんのユニークなバリエーション料理と捉えることが可能である。

豚ひき肉を甘辛く調理した「肉味噌」が味の決め手であり、それに加えて、きゅうり、ねぎ、おろし生姜がトッピングされている。

箸で一気に混ぜ合わせれば、汁無しのうどん料理の様相だ。まったりとして奥深い肉味噌が程よい喉越しのうどん麺に絡みつく。その味わいは他の追随を拒否するくらいに新しく、創作うどん料理として認定しても良いくらいなのである。

寒くなった秋に相応しい「きのこのグラタン」にほっこり

急激に寒気が日本を襲っている。こんなときには温かい食べ物が求められるが、中々じっくりと味わえるメニューには出くわせないものである。家庭料理でほっこりするのがお勧めなり。シンプルなメニューながら、シチューやグラタンはこの季節にもってこい。特に季節の茸類がたっぷり用いられていたら満足である。

椎茸、しめじ茸、舞茸、等々のきのこ類をあわせて、玉葱、大蒜と一緒に軽く炒める。それにホワイトソースで煮込んで、とろけるチーズと共にオーブンで焼く。グラタンの元を使えば手っ取り早く調理できるが、今回はあえてそれを使わないで調理した。日本のグラタンにはよくあるマカロニも無しである。

旬のきのこの繊細な味わいが、クリーミーなソースによく溶けて美味である。西洋料理はごてごてとして素材の味わいを削ぐと思われたが、旬のきのことクリーミーなスープとの相性はグッドなのでありました。

今季初の家鍋料理は、「火鍋風きのこ鍋」なり

本日も肌寒き気候に驚かされたのです。こういう日なれば、鍋料理が晩餐の相棒でありたい。そんなことを考えつつ、今季初めての鍋料理にチャレンジしたのでした。ここ数年のおいらのマイブーム鍋は「火鍋」である。今回はそんな火鍋の味付けを基本にした特製のレシピ。

丁度地元のスーパーで鶏のガラが出ていたのを見て即購入。それをぐつぐつ2時間あまり煮込んで鶏ガラスープをつくる。出来立てのスープを土鍋に移して中華風スープの仕込みにかかる。唐辛子、八角、クコの実、松の実、豆板醤、甜めん醤、ラー油、等々を適量加えて特製スープの出来上がりである。

具はと云えば、白菜、白葱、椎茸、舞茸、しめじ茸、等々とそしてそして牛・豚肉。具が煮込まれた頃合にて、牛豚肉をしゃぶしゃぶの要領にて湯がいて食するのだ。スープには薬膳食材が用いられているのであり、極めて健康鍋として特出されるのだ。云わば「火鍋風健康満点特製鍋」とでも申しましょうか。

〆は中華麺を入れて、きのこ味火鍋風漬麺ラーメンの出来上がりである。

寒いこれからの季節こそ「おでん」なのだ

秋を一気に飛び越えて、北海道や東北地方は冬の装いなのだという。

そんな季節にはどうしても温かい食べ物が必要だ。その代表的な温かものといえば「おでん」なのであり、今日はそんな気分も際立って、おでんを食したのでした。

入ったのは「静岡おでん」の店。巨大なおでん鍋に、串を刺したおでんネタがグツグツと煮込まれている。おでんの汁が黒いのが静岡風なのだ。それを味噌ダレ付けで食べるのが静岡流ということだが、さすがにそれはパスして、和辛しを付けて味わった。これからもっとずっと食べたくなる味だろうな。

素朴な岩手の郷土食「ひっつみ」を食したのです

先日の岩手旅行の旅先で「ひっつみ」という料理を食したのでした。

人参、大根、蒟蒻、等の野菜類の出汁が充分に効いた汁の中に、小麦粉を練って平たくした、丁度すいとんの様な具が入っている。岩手県内の「南部」と呼ばれる地域の郷土食なのだ。

南部という地域はかつて南部藩が統治していた地域を示しており、そこには八戸等、青森県の一部が含まれている。かつて同じ南部藩を領していた青森県八戸地方には「せんべい汁」という汁物が存在するが、これとよく似ている。ちなみに八戸の「せんべい汁」はB級グルメとして全国に知られており、B級グルメの大会には何度か「銀賞」を受賞している。それくらいに知られたメニューである。「せんべい汁」の元になったのがこの「ひっつみ」だという説もある。

どの地方にもありそうな、取り立てて特徴のある名物ではないが、小麦粉などの穀類を上手に調理して味わうという、極めて基本的な、人々の素朴な意気込みが伝わってくる。

ビールにも日本酒にもよく似合う。晩酌の〆にはもってこいの逸品なのだ。

石川啄木が新婚のときを過ごした家

盛岡市内の「啄木新婚の家」を散策した。

けっして豪華とは云えないが、想像していた以上に立派な造りである。二世帯用の住居と思われるが、石川家の側の間取りを見ても5部屋存在している。手入れの行き届いた庭があり、本家とは縁側で接している。縁側が消えて日本の家にもロマンが消えた。「縁側」こそ日本家のあるべき姿と云えるだろう。

明治38年6月ごろ、節子さんとの恋を実らせた啄木はこの家に住居を構えた。おそらく彼の人生ピーク時のころの思いを十分に伝える建造物と云えよう。

啄木少年の像

岩手八幡平の紅葉は今が見ごろなり

ふと紅葉が見たくなり、岩手県の八幡平に出かけたのです。

盛岡駅前から乗り込んだのは、「八幡平自然散策バス」という名のツアーバス。八幡平頂上停留所乗り場から、地元の登山ガイドさんが無料で案内をしてくれるという特典つきなのだ。それ以外にも、紅葉の名所の大橋、地元の観光広場などで休憩時間を取るので、一便で八幡平を満喫できるというすぐれもの。特に関東圏からの観光客を対象に組まれたバス便のようだ。こんな機会はまたとないと強行軍を敢行した次第なり。

東北自動車道を降りて八幡平温泉郷に入った頃にはもう、あたり一面の樹木は黄色、赤色に彩られていた。さらに走り行き温泉郷から松川温泉までの通称「八幡平樹海ライン」に入ればまさに紅葉の見ごろ。近くの紅葉、遠方に並ぶ紅葉、高みから眺め渡す紅葉、等々、バリエーションも申し分がない。

頂上停留所に着くと冷んやりとした空気が襲い掛かった。聞けば気温が約5度程度だという。樹木の葉はすでに落ち、紅葉の「こ」の字も無かった。いつもより厚着をしたつもりだったが想像以上の冷え。気合を入れて散策に臨んだのだ。

細い登山道に入れば2~3メートルの樹木が覆い、今にも熊が現れそうな光景だ。だがここは急激に冷気がもたらされるため、熊の生存には適さないのだという。鏡沼、メガネ沼を通り過ぎて山頂へ到達。山頂とは見えず案内板でやっとそれと判るくらいのなだらかな山肌なのだ。そして後半は、ガマ沼を過ぎ、八幡沼を眺めつつ、見返り峠へ、それから整備が半端な石段を下りて行程は終了したのだ。

振り返れば1時間少しの散策だったが、澄んだ空気や新鮮な景色に触れて心底からリフレッシュできたのでした。この山頂散策は7月が見ごろだという。またぜひその季節に来たくなったのでありました。

雨宮処凛著「排除の空気に唾を吐け」が示す現代日本の実態には、決して目を背けてはならないのだ

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かつて「雨宮処凛」という作家の名前を初めて知ったのは、何かの雑誌インタビュー記事だった。内容はと云えば、彼女が「プレカリアート」という言葉を日本に広めた作家ということだったと記憶する。新書「プレカリアート」(洋泉社)にはその言葉の「プレカリアート」の定義や誕生、実態等について詳述されている。その後、彼女に関心を抱きつつ何編かの小説作品に接していたが、独特の癖のある情念的な描写が気にかかっていた。

今回読んだ「排除の空気に唾を吐け」もまた、極めて情念的なタイトルがまず鼻について仕方がなかった。ところが読み進めていくにつれ、そこにレポートされている迫真性に、まさしく気圧されてしまったのだ。

この新書を通してレポートされているものは、現代日本のいびつな姿に他ならない。その切羽詰った現状を思い知らされたと云っても過言ではない。

新書全編を通して、職を奪われ、生存を奪われ、排除されていく、行き場のない人々の姿がつまびらかにされていく。中でも驚きに耐え難いのが、加藤智大(秋葉原連続殺傷事件の犯人)と造田博(池袋通り魔事件の犯人)とに関するくだりである。両者はともに労働の現場で疎外を受けていた。「疎外」という言葉はおいらが青春期の頃によく使っていた言葉ではあるのだが、現状はそれ以上に深刻である。生存を脅かせるくらいの「排除」が進行しているのだ。驚くことに両者は同じ派遣会社(日研総業)と派遣先(関東自動車工業)に身を置いていたことがあるということなのだ。

当初はおいらも情念的だと考えていた「排除」という概念が、とてもリアルな現実的事象に感じざるを得なかったのである。そして今なおこの流れは止まることがない。その大きな流れを作り出したのが、小泉純一郎と竹中平蔵による自由主義的経済政策であり、当時の内閣が負う全ての政治的政策であったことを記しておく。小泉・竹中流の「自己責任論」が招来した悪しきしわ寄せの数々の実例を、これでもかこれでもかと提示していく。そんな作家の筆力には脱帽の思いである。

さらに、この稿を閉めるにあたり、とても心を動かされた同著の中の一文を紹介引用しておきたい。

(以下引用)-----------
「心の闇」という、何か言っているようで何も言っていない一言で済まされたことが、やっと今、「社会的排除」の問題として捉えられようとしている。
(引用終了)-----------

寒さを感じると食べたくなる里芋煮

美味そうな里芋がスーパーに並んでいたので、早速、里芋の煮物をつくってみたのです。使用した調味料は酒、味醂、砂糖に、今回は味噌を加えて味噌味にしてみたのでした。

泥を取って丁寧に皮を剥いた里芋を、まずは沸騰するまで強火で煮込み、調味料を加え、それから弱中火で15分ほどグツグツ。常温で冷ましてから口に運ぶと、しっとりぬるぬるとしたぬめりとホクホクの食感がなんとも云えない。土の風味が伝わってくるような、大地の香りを感じさせるような野生の味わいだ。

ときどきものの本のレシピには、ぬめりを落として調理するようなことが書かれてあるが、このぬめりこそ里芋煮にとっては必須の条件であり、気にする必要も無いのだ。ぬめりの正体は、ムチン、ガラクタンといった有用成分であり、免疫力強化にも役立つものだ。そんな素材の特徴を削ぐ調理法こそ邪道である。素材の持ち味を充分に活かすことこそ料理の基本なのである。

秋が深まり寒さを感じる時期になると食べたくなる。イカやタコ等とあわせて煮込んでも美味しく、雑煮や味噌汁の具としても欠かせない。これから里芋料理の機会が増えていくだろう。

豊作の今年の「松茸土瓶蒸し」を喰らう

今年は国産松茸、中でも岩手産の松茸が豊作なのだという。例年に無く値段も下がっているという。価格が安い。まったくもって僥倖である。

そんなニュースを耳にして、松茸料理を注文することに決めていたのである。今年はすでに松茸料理は自家製料理の松茸御飯にて味わっているのだが、やはり今この季節の松茸料理を食したくなったのだ。

地元の料理店でも「松茸の土瓶蒸し」がメニューに出ていた。価格も手頃だ。材料は小ぶりの松茸に、海老、銀杏、鶏肉…。これらを専用の土瓶に入れて蒸し上げる。煮込んで松茸エキスを抽出した出汁をまず味わうのが、一般的な食し方とされている。出汁を飲んだら土瓶の蓋を開けてすだちを絞るというのも、当り前の作法とされる。高価な食材を扱うために、中々そんな壁を破るオリジナル料理に巡り合うことも無いようだ。

久しぶりに味わった「松茸土瓶蒸し」たが、食べた松茸の中身は甚だ少なくて豊作を実感することが無かった。料理店の食材として卸される松茸は、それほど安くはないということなのだろう。

ところで土瓶蒸しと云いながら、蒸すのではなく、器を火に乗せてグツグツ煮込むものも多い。地元料理店で提供されたのも同様である。目くじら立てるほどのものではないが、このいい加減なネーミングはどうなのだろう? やはり区別しておくべきなのではないだろうか…。

酸味と辛味が際立つ「揚州商人」の「スーラータンメン(酸辣湯麺)」

伝統的な中華料理の味というものは、「酸(酸っぱさ)」、「辣(唐辛子系の辛さ)」の2種の味に「麻(痺れる辛さ)」、「香(香ばしさ)」、「苦(苦味)」、「鹹(塩辛さ)」、「甜(甘さ)」を加えた7種類の味によって調理される。その中で「スーラータンメン(酸辣湯麺)」とは前者2種類の味のハーモニー、「酸」と「辣」すなわち「辛味」と「酸味」が共に際立っているのが特徴だ。

スープの具は玉子、豚肉、椎茸、竹の子、白髪ネギといった、よくあるものだが、その味付けが特別。中華麺の中でもっとも本場の味を感じさせるメニューだ。辛さでまとまった坦々麺よりこちらの方が好みである。

なかなか中華料理店へ行っても本場の「スーラータンメン(酸辣湯麺)」は味わえないものだ。その点「揚州商人」のスーラータンメン(酸辣湯麺)は本場仕込みでコクがあって美味なのだ。

プチプチとした食感が見事な沖縄の「海ぶどう」

最近の沖縄料理店ではよく見られるメニューである。沖縄地方の近海に多く生育し、2~5メートルの茎を持つ。この茎に小さな粒状のプチプチした枝が分かれており、これにポン酢などをつけて食べる。学名では「クビレズタ」と呼ばれている。

昔は物珍しさで注文していたが、近頃では沖縄料理店にこのメニューがないと物足りないと感じる。チャンプルーの類は特段、個性的な料理ではないが、この「海ぶどう」は沖縄の食文化の伝統を強く訴えかけているのだ。

「フォト蔵」にスライドショーのアルバム「逍遙酔記」を公開しました

 

これまで撮り貯めていた写真たちを「フォト蔵」のスライドショータイプのアルバムにしてまとめてみました。名付けてアルバム版「逍遙酔記」。

登録するだけですぐに出来ます。しかも無料。これでは益々、登録したくなること必至なり。いや~、インターネットって面白いですね。

http://photozou.jp/photo/slideshow/306040/2754242

仰ぎ見る「東京タワー」の姿は勇壮なり

今年3月、後輩の「東京スカイツリー」に日本一の座を奪われた「東京タワー」。来年7月にはアナログTV放送が終了する予定であり、その時期が来れば御役御免となってしまうのか? 

つい先日にはおいらの自宅でも地デジTVを購入したばかりである。これから段々と東京タワーの恩恵に浴することも少なくなっていくのだろうか…? そんなことを考えていたら東京タワーが無性に見たくなり、現場に出かけたのです。

浜松町駅からてくてく歩くこと約15分、増上寺の正門に突き当たって境内を行く頃には、どーんと存在感のある風景が目に焼きついてくる。タワー自体の高さは見慣れているせいか、特別な驚きは無いのだが、それでもこの場所が東京タワーの場所だということを、道行く人に強烈にアピールしている。

骨組みの厳かさとしなやかさはまさに勇壮であり、彫刻作品といっても良いくらいに隙が無い。その鉄骨の撓り具合を眺めれば、昭和の時代の職人の情熱を感じ取るのだ。上へ上へと伸びていくのっぽの後輩君には発し得ない何か。やはりこの東京タワーの形が持つ、厳かさは尋常ならざるものがあるようだ。

タワー前に着けば、はとバスやら観光バスやらが列を作っており、相変わらずおのぼりさん向けの観光スポットだ。ちと興ざめではあるが、東京タワーが東京の観光スポットとしてこれから残っていくであろう光景を見た思いがして、少々満足なのである。

米粉(ビーフン)を使った食材に注目なのだ

「米粉」のことを中国語で「ビーフン」と発音する。米粉を原料にした麺類を指して「ビーフン」と呼ぶのはこのためである。最近になってスーパーマーケットの棚に陳列される「ビーフン」はこの米粉が主原料となっている。「香港炒ビーフン」「ピリ辛汁ビーフン」「ベトナム風フォー」等、そのバリエーションも増えている。

そんなビーフン食材が目立つ背景のひとつには、米生産量の拡大が挙げられる。天下の愚策として名高い自民党政権下の「減反政策」はその見直しが進められ、最近になって米の生産量がやっと上昇の気配を見せている。それによって余った米の利用方法が模索されているのだが、米粉食材に関係者の注目が高まっているのだ。

これまで家での自家製ラーメンを食することの多かったおいらではあるが、このところ米粉(ビーフン)関連食材を利用していろいろ食することが増えているのだ。味もサッパリとしてグッドである。麺の食感は中華麺よりもちもちとしたところが特徴で、カロリーも低いダイエット食材である。よく使う野菜類(葱、椎茸、モヤシ、小松菜、ホウレン草、等々)を合わせるだけでもメニューの幅は広がっていく。

ちなみにインスタントラーメン、即席ラーメンの類いは、あの独特なジャンクフードの香りが気になっていてほとんど食べたことは無い。自宅で食しているラーメンは「生ラーメン」を使ったものだけである。同じインスタント麺、即席麺でありながらも、「米粉(ビーフン)」麺の方はとてもフェイバレットな味わいなのだ。

これから日本人の食生活にも「米粉(ビーフン)」が活躍する場が増えていくであろう。おいらも関心を深めつつ、新しい「米粉(ビーフン)」を活用したメニューについても関心を持って見守っていきたいと思うのである。

夏も過ぎ、いよいよ牡蠣も解禁なり

暑苦しい夏も過ぎ去ったようだが、居酒屋メニューもここへ来て様変わりの様子だ。近頃目に付くのが「生牡蠣」「酢牡蠣」といったもの。メニューを眺めているうちについつい注文してしまう。

おいらは以前、この「生牡蠣」に苦しめられたことがある。食べた場所は赤坂の居酒屋チェーン店であった。友人との酒が進み、酒のみならず牡蠣のほうも、何杯も何杯も注文した覚えがある。小沢一郎派の拠点として最近のニュース映像に出てくる「庄や赤坂店」ではなかったかという記憶もある。ニュース映像で店舗を目にするたびに、牡蠣にあたった時の苦い想いがフラッシュバック的に襲い掛かるのだ。

その後数ヶ月間は生の牡蠣を控えていたが、いつの間にか食べていた。やはりこの生牡蠣の独特な味わいは何にも換え難きものなり。するするっと口に入れたときの喉越しは他に無く、そのときのほのかな香りも尋常ならざるものかある。香りに吸いよされるようにして食らうこともしばしばなのである。

「海のミルク」という評価が定着しているが、おいらはちと疑問を持つ。豊富なタンパク質には独特のアミノ酸を有しており、亜鉛等のミネラル分もミルク以上に豊富に含まれる。しかも見た目からして「ミルク」との類似性は認めがたいものがある。

近頃ではメニューも変化して、「牡蠣のグラタン」なるものまで出現した。フランス料理かと思えば必ずしもそのようではないらしい。和製フレンチの極みなのだという説もある。

ところで牡蠣を生食することはフランスから移入されたものだという。生食のメッカとしての我が国を差し置いて、フランスが逸早く牡蠣の生食を取り入れていたというのだ。この説についてはフランスに分が有りそうなのである。

苫米地英人著「洗脳力」の主張は自己啓発書の類いを一掃するか

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我が国における脳機能科学の第一人者、苫米地英人氏により、本年2010年7月に発行された。帯には「本書の悪用を禁じます。」とある。オウム真理教信者への脱洗脳の活動家としても著名な著者が、ついにその洗脳方法のノウハウを明かすのか? といった興味で読み進めたが、そんな下世話な話題とは一線を画して論理は展開していく。

率直に云えば、書名や帯のキャッチコピーから想像する内容とは程遠いものがある。具体的な洗脳方法については、版権の問題も生じそうなので記すことを控えるが、扱っているのは6章のうちの最終章のみである。それまでの章にて、自分自身の心や夢をコントロールするための方法論が述べられていく。

現代世界を覆うグローバルスタンダードといった前提、価値観を根底から疑い、そこに分析のメスを入れようとする試みが行われている。キリスト教から仏教、禅宗、道教、等々の教えのコアを、苫米地氏ならではの統合化によって解き明かそうという試みが展開されていく。あるいは「アンカー」「トリガー」といった心理分析的概念による夢の実現法といった展開も進められていく。

我が国における多くのビジネス書、自己啓発書には見られない展開ではある。もとより自己啓発書の類いに大いなる侮蔑の視線を隠さない著者、苫米地氏だからこそできる主張に触れてみるのは悪くない。貴重な読書体験といえるだろう。

荻窪の串焼き名店「鳥もと」は未だ健在なり

吉祥寺の「いせや」とも並んで中央線沿線の串焼きの名店といえば、荻窪の「鳥もと」である。

以前から荻窪駅北口の再開発とやらでこの「鳥もと」の店舗が取り壊されていたのを見るたびに、とても哀しい思いにとらわれていたのだ。荻窪駅がまだ駅というには頼りないくらいの時代に店舗を構えて、中央線沿線の酔狂たちを虜にしていたあの名店は何処に行ったのやら…?

先日、荻窪駅北口周辺を散策していたときに、「鳥もと」の新店舗に遭遇したのでした。早速串焼きのセットを注文する。そして出てきたのは、昔懐かしの「鳥もと」の串焼きなのでした。タレも塩も結構あっさり目で提供されるのが同店のある種特徴だが、そのままであった。

焼鳥、串焼きの類いを注文した後にメニュー表を見たところ、「毛がにの身みそ和え」という、不思議なメニューを目にして頼んでみた。小さな器に盛られた蟹の身がちょこんと乗っていた。その身に一寸した味噌の味付けが施されていたというものであった。蟹の身に味噌というのは何だか邪道のようでもあり、流石に閉口したくもなったのではあった。それでも尚元気に、一時は廃業してしまったのかもと噂されていた名店が、このようにして継続営業をしているのを目にして、天晴! との声をかけてやりたくなったのだ。

荻窪には「鳥もと」という店が必要なのだということ。そのことを広くアピールしていきたいのである。今現在の荻窪駅北口の風情を眺めるたびに、再開発で失われていく食文化の哀愁を感じずにはいないのである。

■鳥もと新本店
  東京都杉並区上荻1丁目4−3‎