多摩地区にも焼鳥店は多いが、中でも一番との評判の高いのが、八王子の南口に店舗を構える「小太郎」である。鶏と豚の二本立てで、どちらかといえば豚モツの串焼き、いわゆる「焼きトン」の人気が高いようだ。
この店でおいらがほぼ必ず注文するのが、「玉ねぎベーコン巻き」である。玉ねぎというありふれた食材をベーコンで巻いて串焼きにして出されるのだが、付け合せの専用ダレが絶妙でこれにはまってしまった。ベーコンの脂が玉ねぎに染みて、ポン酢よりあまくさらりとしたタレと相まって、頬がとろけるような味わいなのだ。
「天豆」とも呼ばれる初夏の風物が「そら豆」である。青くて大きな豆粒を口にするにつけ、夏の入り口に立ったということを知らし召されていたものである。ある種繊細ではなく大味であり、房を破って一つ一つの豆を取り出さなくてはならなくてもあり、それほど人気の食材ではないとみられる。
だがこの「そら豆」に対する認識を一変すべきメニューに先日は遭遇したのであった。そのメニューとは「そら豆の黒焼き」というもの。黒焼きとは如何なるものかと興味津津で出されるのを待っていたのだが、出てきたものは豆の殻をそのまま火に炙って焼いたという野趣溢れるものであったのである。
手で豆の殻を破って取り出したそら豆の実は、ぴんぴんと活き活きとしていてとてもフレッシュであった。余計な調理方法を介在せずに出されたシンプルなこのメニューにはうなったのである。味もまた申し分がない。
日本人にはリコピンが足りないと、常日頃思っているおいらである。リコピンという栄養素は、トマトで摂取するのが早道であり、また食事の幅を拡げるので大賛成なのだ。活性酸素というものが人間の健康を阻害する要素であることはひろく口伝されてはいるが、トマトに含まれるリコピンが、活性酸素の除去に役立つことはあまり知られていないようである。βカロチンの仲間であり、トマトの赤く熟した成分に多く含まれている。
先日スーパーで見かけた「トマトソーメンの素」は、少々キワモノの風情ではあったが、おいらは迷わずに購入したのだ。夏バテ予防にトマトが一番良いことは経験上知っていたからでもあり、もともとおいらはトマト好きだったこともある。どうであろうか、この清々しい酸味の香りが漂うメニューは。トッピングしたトマトはもちろんであるが、なめこ茸、みょうが、しらす、海苔などを添えれば一段と食欲も増す。
余談であるが、毎日のように朝食のメニューには納豆があったのだが、この納豆にトマトケチャップをかけて食べるのが好きであった。上京して間もなくの頃にある女性にこの話をしたところ、面白がってトマトソースと納豆とを用意されて「本当だったら食べてみて」と云われたことがあった。もちろん大好きな取り合わせに躊躇することなく「トマトケチャップ納豆」を食してみせたのではある。その後、女性からは「お母さんに話したら気持ち悪いと云ってた」と云われて、ぎゃふんとしたものでもある。それだからと云っておいらのトマト好きはなくならないのである。
つげ義春さんが夢見た秘湯の風景はある種の桃源郷とも呼ぶべき異郷の姿を示しているが、彼が旅して訪れた現実の温泉地はさらにまた、理想的桃源郷的佇まいを示してくれている。おいらも訪れたことのある東北の温泉地は、夢と現とがない交ぜになった異郷の姿でもある。そんな中から特に二つをご紹介。
■夏油温泉
夏の油と書いて「げとう」と読ませる。その名の所以についてWikipediaでは、「『夏油』とはアイヌ語の『グットオ(崖のあるところ)』が語源とされる。」と記されているが定かなものでは無い。ただ北上の町からは遠く離れた崖の中に存在する温泉であるというのは事実である。つげさんの本では夏油温泉について、次のような書き出しから紹介されている。
「夏油温泉は、これまでの旅行案内書には、北上駅からバスで一時間、さらに徒歩三時間と紹介されているので秘湯めくが、現在は、林道を利用して湯治場まで車ではいれる。(…)」
車で行けるから秘湯で無いというのは些か暴論である。林道と云っても車同士がすれ違うことさえ困難な狭い砂利道であり、車輪をすべられたら最後、渓谷に転落しかねない危険な山道である。今でも地元の案内書などでは、運転に自信の無いドライバーは決して自家用車を運転して来ないようにと、注意を喚起しているくらいである。今なお秘湯の風情を湛えた数少ない温泉地なのである。
質素な自炊棟が並ぶ湯治場なのだが、なんとつげさんが訪れたときには「六百人のおばあさんが泊っていた」と記されているのだから驚きである。一体こんな狭い温泉宿に六百人もの高齢者が集えるのだろうかという素朴な疑問も生じてしまう。おいらも何度かこの鄙びた温泉宿にて湯治を経験しているのだが、夏のピーク時でも300人も入れば一杯に溢れてしまうだろうと考えられる。ごろ寝が常識であった昔は、狭い部屋にぎゅうぎゅうに床を並べて湯治を行なっていたということなのだろうか?
この温泉地には大小8つ程度のかけ流し温泉が存在し、そのほとんどが露天風呂である。老若男女が裸で露天風呂のはしごをするという光景が、なんとも自然に感じるのだ。都会に生活していることを不自然に感じさせるくらいの、当温泉地ならではの独特な地場のエネルギーを発しているのである。
■黒湯温泉
秋田の乳頭温泉郷の奥にある。鶴の湯温泉が人気だが、鄙びた秘湯の佇まいは黒湯温泉が上手である。つげ義春さんの画に文を寄せた詩人の正津勉は、黒湯温泉を訪ねるにあたり、柳田國男の「雪国の春」という文庫本を携えてのぞんだという。
「おもうに、その錯覚も柳翁のこの小冊への偏愛が一瞬間かいまみせた蜃気楼とでもあるいは説明もつくが、そこへどうしてすーとわたしが誘われていったものか。可笑しい。」」(正津勉)
男同士2人で何を語り、そして何を感じ取ったのか。蜃気楼と見えていた夢の世界が、秋田の雪国に現存していたことを喜んだのはなかろうか?
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「夢」というのは通常、夜間睡眠時に限定された無意識の世界にて羽根を拡げて、朝の目覚めとともに消失していく類いのものだが、つげ義春さんの描く夢の世界は、昼間の覚醒の世界にまで侵入して人々の記憶に強烈な痕跡を焼き付けていく。
1968年に発表されたつげ義春さんの代表作「ねじ式」は、漫画界のみならず日本の極一部の愛好家に熱狂的に受け入れられたという傑作である。70年代に入ってからこの作品に接したおいらのそのときの衝撃は、今なお忘れ得ない漫画体験となって刻まれたのである。それは、「鉄腕アトム」から「巨人の星」等々と繋がる漫画読書体験とは質的に異なる、全く新しい体験であった。
最近になって、ある古書フェアーの会場で「つげ義春とぼく」というユニークなタイトルの古書に触れ、彼の描いた深遠な夢の世界の想い出が、また甦ってきたのだった。著者はつげ義春さん本人である。書名タイトルに関する考察は本日はスルーする。彼は日本全国、鄙びた温泉地を中心に多くの旅を経験してきたが「つげ義春とぼく」は、そんな旅の想い出などのあれこれを絵と文章にてまとめた1冊である。思えばかつて、いくつかの雑誌でつげさんの旅行記を目にして必死に立ち読みなどをしていた少年時代を懐かしく回顧するのだ。
誰が記述したものかは知らないが、Wikipediaの「つげ義春」のページには、ほぼこの本に書かれている内容が転記されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5
(この稿は続く)
地元の古書店にて、司修のサイン入り画集「壊す人からの指令」を発見して購入したのです。奥付を見ると「昭和55年5月30日初版発行」とある。今から30年も昔の画集である。実は初版の発行当時においらはこの本にとても関心を持っていて、何度か購入しに書店に向かったという想い出が鮮明である。だがその度に「定価6,800円」という高価な価格に思いを遂げずに居たのであった。
今にして振り返れば、当時のおいらは6,800円の画集を購入する経済的余裕が無かったということなのだろう。懐かしくもあり、またほろ苦くもあるのだ。こんな本はそうはない。生涯をともにしたいという特別な一冊として大切にしていきたいと考えたのである。
司修という画家については、大江健三郎の著書の装丁家として初めて目にしたという記憶がある。当時、新潮社の純文学シリーズとして続々と出版されていた大江健三郎氏の小説本には、司修による自身の版画や絵画作品をモチーフにした丁寧な装丁の仕事が光っていた。クレジットには「司修」の名前が静に輝いて見えていたものである。それから少しして、おいらとは出身が同じであることを知り、より親近感を感じつつ今に至っているという訳なのである。司修さんの著した著書は、「描けなかった風景」をはじめ数冊購入して読んでいる。愛著として大切にコレクションしているのだ。
同著が出版される少し前には、大江健三郎の「同時代ゲーム」が発表されていた時代である。大江氏は司さんのこの本に対して、「ゲームと器用仕事(ブリコラージュ)」という力のこもった一文を寄せている。レヴィ・ストロースの「ブリコラージュ」を「器用仕事」と訳すことには強い違和感を感じるのだが、小説家・大江健三郎が画家・司修に宛てた極私的プライベートな献文ともなっていて興味深いのである。
おいらは「さより」という名前の人物を2人知っている。ともに30歳前後の、いわゆるピチピチ肌がよく似合う、今を吾が世の春とばかりに謳歌している女性たちなのである。さよりの刺身を注文して出されたその姿には目を瞠った。まさに肌艶ピチピチ。口にすれば若肌の如き弾力ある歯ごたえなり。ピチピチ弾力にはしとどに酔い痴れたのである。味は淡白であるが見た目が◎(二重丸)なり。
真っ赤な身を晒すようにして店舗入口の棚に並んでいたのが、花咲蟹である。これを竹材による蒸し器で蒸して出された。いわゆる身の部分は多くは無いが、毛蟹よりも身を食しやすい。そして緑色に光って見える「みそ」の部分が、とても食しやすいのである。おいらはこんな高級食材がテーブルに出されて、とてもあせってしまった。程よい食べ方というものを知らなかったからである。まずは緑色した「みそ」に箸を伸ばして口に運ぶ。磯の味がしてくる。これが何よりの挨拶。
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何よりもまず前書きが面白い。
はじめに―――
ノーベル文学賞受賞のヴァーチャル祝辞
そういう表題の下で、ユニークな前書き文が始まっている。2006年の10月、ノーベル文学賞者発表の前日に、あるマスコミから依頼されて記したというコメントである。村上春樹党の党員としての凛とした筆致がとても印象的である。
この書こそ世に云う「村上春樹心酔派」の筆頭とも目されている評論家による「村上春樹論」であり、何故に春樹さんは凄いのかということを手を変え品を変えて特異なる緩い筆致で読者を巻き込みながら啓蒙しようという魂胆を(たぶん)隠し持った1冊となっている。
やはりと云うべきなのだろうか、最も興味を引いたのが、村上春樹さんの担当編集者であった安原顕氏に関するくだりである。なんと、春樹さんの生原稿を質屋だかそれに類する店に持ち込んで換金したということを詳らかにしているのだ。公となるこのような著作の中でこの様な個人的とも思えるエピソードを開陳したという意味は大きいと見るべきだろう。内田さんは安原氏に対しては相当怒っていると見えるのである。
鳩山由紀夫首相がついに辞任を表明した。予想はしていたこととはいえ、大変ショックが大きい。実質的に戦後初めての政権交代による内閣が、これ程あっけ無く崩壊したという事実は、これからの日本社会の行末に暗雲をもたらさずにはいかないだろう。
今更指摘してもせんないことではあるが、この内閣にはプロの参謀が居なかったということが、政権の混迷や崩壊に繋がったとみることができる。ここ数ヶ月間、徹底的に大手から弱小までの様々なメディア(弱小なので「マスコミ」とは呼べない)の餌食となってしまったことの責任は、鳩山首相のブレーンが負うべきである。平野某では政治家としての能力も資質も無いことは明白であるし、平田オリザなる滑稽なアマチュア文化人の名前を目にするにつけ、鳩山人脈の薄さを感じてもいた。何故に糸井重里級のプロの文化人を起用しないのか、大変に訝しく感じていたものであった。政党政治を基本とする民主主義的政治社会にとって、政治家がプロの文化人をブレーンとしているか否かは、今後もっと重要視されていくべき要素となるだろう。
もう一つ、本日の事態に直面して述べておかねばならないことがある。ショックだというだけで済ませて置けないこと。それは、鳩山由紀夫は近衛文麿か? という疑問である。鳩山由紀夫氏を戦時中の近衛文麿になぞらえて論じていた雑誌記事のことが未だ脳裏を離れないのである。
団塊の世代から遥かに遅れた戦後に生を受けたおいらではあるが、近衛文麿の生涯のあれやこれやについては、以前からよく聞き及んでおり、たしかに鳩山氏とは類似点が多いのである。貴族然とした風貌や物腰。社会主義的思潮に対する関心の高さとある種の強い偏見(これは関心の高さから来る反意的な誤解が大部を占めている)。そしてもう一つが長身の身なりから来るのであろう自画自讃的振る舞いである。簡単に謝ってはしゃあしゃあとしていられる態度というのは、これらが三位一体となって現れるものであると分析されるのである。
さてそろそろまとめに入るが、近衛文麿の時代を振り返るに思うことは、彼が首相を辞任してからの混乱である。東条英機とともにA級戦犯の汚名を浴びることを潔しとせずに自害した近衛文麿。彼は一途潔癖な政治家ではあったのだろうが、現実の大衆の悪意というものを過小評価していたようでもある。清濁併せ呑む度量が政治家には必要である。鈴木貫太郎という政治家が、敗戦後の日本の基礎を作ったと云うことは忘れてはならないのだ。ちなみに鈴木貫太郎はおいらの出身高校の先輩なので(それだけではないが)尊敬しているのである。
最近は「せんべろ」酒場がブームとみえて、安くて美味い居酒屋の雑誌類がそこかしこに飛び交っている。そのどれもが信じるに足りるものとは云い難く、やはりおいらの足と目と舌と鼻と、その他諸々のフィルターを介した当「みどり企画のブログ」のレポートは、それら玉石混交なるマスゴミ情報とは一線を画するものであるとの矜持を抱きつつ、レポートを続けているのである。そんなこんなから今日は特に目に付いたコンビニ雑誌「TOKYO大衆酒場」について述べていこう。
この雑誌のつたないところのNo.1は、「TOKYO大衆酒場」と書名で銘打っていながら、都下の武蔵野、多摩地区の名店をごっそりとお払い箱にしたことである。吉祥寺の名店「いせや」やハーモニカ横町の酒場などが全てスルーされているのだから、ぜんぜん論外なのである。
「TOKYO大衆酒場」という書名にはまるで相応しくない内容であることを特別に問題にしなければならない。もしも仮にであるがおいらが、この雑誌編集長を務めていたならば、こうした愚挙は犯さなかったことは明らかである。否、そんなことを述べていこうというのではなく、もっともっと、武蔵野地区や多摩地区への心配りを今後は徹底していかねばならないと云うことなのである。