散る桜 残る桜も 散る桜(良寛和尚より)

多摩の富士森公園で観る桜も、桜吹雪が舞っていて綺麗でした。そして、良寛和尚が詠んだという有名な一句「散る桜 残る桜も 散る桜」を想い起こさずにはいられないほどの、春うららの日和でありました。

この一句、良寛先生の辞世の句という説もあるが、定かではない。これほどに決まった名句を、辞世の句として詠めたとしたら、天才中の天才としてその名を歴史上の至るところに記すことになることでせう。だがそんなことはなかったらしい。とても人間的な良寛和尚の、陽春の頃に詠んだ一句だと想いたい。命の表象としての「桜」の、さらに晩年の命としての「散る桜」。それは生命力を全うして散っていくという姿を表象しているのかもしれない。ところで今年の開花前線は、専門家泣かせであったらしい。寒かった春が一挙にポカポカして陽春を主張し出したのだから難しいのだろう。「女心と春桜」という一句を詠んでみたのだが、全然決まらぬ。

湊かなえさんのベストセラー小説「告白」は、プロットが先行した暴走小説か?

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昨年(2009年)の「本屋大賞」に輝いた作品ということで、前々から気になっていた湊かなえさんの「告白」を、遅ればせながら読んでみた。第1章の「聖職者」は立ち読みで大体のところは把握していたが、第2章以降を読み進むにつれ、想像していたストーリーとはかなり異なった展開に些か戸惑いつつも、一気呵成なる読書体験の世界へと足を踏み込まされることになっていたのである。「人間の闇」などとマスコミで称される人間の心理分析等を素材にしながら、若々しくあっけらかんに調理の腕を振るっている。だからよくある推理小説、ミステリー小説の類いとは、ストーリーの展開方法やモノローグによる構成立て等々とは、かなり趣を異にしている。「小説推理新人賞」の受賞者としての肩書きはまるでピンと来ないのである。それぞれの章によってモノローグ(独白)のスタイルが異なっている。この変化するスタイルのことなど、あまり推理小説界には見慣れない手法であるのだろう。多くの評論家が指摘するように、作者の筆力にはとても敬服するのだが、それが緻密な計算ずくなものではなく、おそらくは一気呵成な登場人物へのなり切り、憑依にも似た思い入れの賜物だったとしたら、手放しで賛嘆の言葉を並べることに躊躇を覚えるのだ。推理小説の伝統やら常道やらの壁を突き破って出てきた作品には違いないのだろうが、未だに気にかかるのである。それは見方を換えれば、プロットが優先して物語性が粗末にされた作品に対する、正邪併せた思い入れなのだろうという気がする。若気の至りなどという言葉さえ浮かんでくる。未だに古い殻を突き破れないのが自分なのかもしれないのであるが、どうにもこうにもならないのである…。松たか子が主演する「告白」の映画が制作されたという。観に行くべきかどうか迷っている。原作以上に映画に感動するケースもあるから、おそらくは観に行くことになるのだろう。ベストセラー的作品の別の面を観て楽しむことができるかもしれないと期待しているところなのである。

まことに腑に落ちない「ヤフー」の「ブログ検索」。

オリジナルブログを始めて約7ヶ月が経過する。その間、いわゆるSEO(サーチエンジン最適化)的な作業もそれなりにこなしてきたのです。αブロガーとまではいかなくとも、ブログ発信者としては幅広く多くの人たちに対して、おいらの「自己テキスト」が届いて欲しいと思うし、何か響きあう感触、手応えなどが欲しいと希うのである。その点で、おいらの「みどり企画のブログ」が採用している「WordPress」というシステムは、すこぶるハンディが大きいことを実感している。「Livedoor」「Goo」「Excite」「Teacup」等々の大手企業が運営しているブログシステムでは、ブロガー同士のコミュニティ機能がはじめから備わっているのだが、「WordPress」にはそれがないのだ。周囲のブロガーが大型客船に搭乗して優雅な航海をしているのを尻目にしつつ、自らは大海に一人乗りの小型舟に乗り込んで、手漕ぎのオールをたよりに航海していくようなものである。近頃は「ブログ村」「ブログセンター」などのブログコミュニティーの存在を知り、せっせと宣伝に励んでいるので、その成果あってかアクセスは伸びているのである。

だがそれでも解せないことがある。もっとも腑に落ちないのが、「ヤフー」の「ブログ検索」にはこのおいらのブログが、全く引っかかってこないということである。一応は、否何度も何度も「Ping」を送ったり、登録依頼をしているのだがさっぱりなのである。もう手の施しようがない感触なのである。その点ではライバルの「Google」の反応はすこぶる良いのだ。投稿して数分後には検索に反映されていることも稀ではない。前にも何処かで感想を書いたが、「ブラボー!」と呼びたいくらいの反応の良さなのである。この両者の違いはどこから生じているのか? 今後はそんな疑問を解き明かしていきたいと考えているところである。

春を告げる鰆(サワラ)の焼霜を食す。

春の魚と書いて「鰆(サワラ)」と読ませる。読んで字の如くに「春を告げる魚」であることから名付けられたが、春には産卵のために岸辺、沿岸に近付くことから人目に付きやすく、漁獲量も増えたというだけのことであり、鰆自体の生息量が増えたりするのではない。人間様の勝手な印象にて名付けられたものである。鰆はけっこう巨大な魚であり、全長60cm以上にもなる。ちなみに60cmに満たない子供の頃を「サゴシ(40~50cm)」「ナギ(50~60cm)」などと呼ばれる。ブリと同様の出世魚なのである。

やはり春以外の季節にその姿を見ることは稀であり、刺身などにありつけたらラッキーと思うべし。巨大魚らしく皮が厚くしっかりしていて、皮面を炙って提供されることが多いのだ。メニューには「鰆の焼霜」とあった。近頃の寿司屋でもよくみられる炙りものである。口に含めば確かに焼いた鰆の皮が香ばしい。良い舌触りがなんとも云えないのである。

春の香りはふきのとうの香りで味わうのだ。(ふき味噌、ふきのとうのかき揚げ)

本日食したのは、「ふき味噌」と「ふきのとうのかき揚げ」である。どちらも春の香りをこのおいらの味覚に届けてくれたものであり、美味なり。小泉進次郎なる馬鹿者政治家がマスコミTVを賑わしているのを見る度にうんざりなのだが、そんな馬鹿げた世相を一蹴するかの如くのインパクトを有している。この味覚こそ天晴れである。

文士料理の店、高円寺の「コクテイル」を探訪したのです。

高円寺の飲食メインストリートとも云うべき中通商店街を行く。3~4分と歩いたところにお目当てのお店はありました。看板も無いような地味な店構えなので、普通に歩いていたら見逃していたことでしょう。

店に入り、ホッピーと最初のおつまみを注文する。

「今日は文士料理のめにゅーはあまりないんですよ」

書籍「文士料理入門」の執筆者のおかみさんが云う。メニューを見れば、他ではなかなかお目にかかれないものが並んでいた。だがそれ以上に、お通し(付け出し)として出された「ひたし豆」には度肝を抜かれたのである。青豆を煮て酒と醤油の煮切り汁に付け込む。それ自体は普通だが、煮切り汁には山椒の実が入っていて、そのピリリとした風味がアクセントを添えているのである。付け出しにそこまで拘る居酒屋は珍しい。その他、本日注文したメニューは以下の通りである。

・豆腐の味噌漬け
・煮こごり
・かぶと人参のピクルス

ホッピーセットと中を飲み終えたおいらは、次に「本日の日本酒」に目が行った。聞けば「じょっぱり」という、青森の地酒だという。迷うことなくその酒を注文。

「冷にしますか? それとも常温にしますか?」

またまた難題であるが、これも迷うことなく「常温」に即決したおいらであった。けだし常温で飲めない日本酒など邪道系である。即決即断の効果はあったのである。(最後は鳩山首相のコメントをもじってみました)

上州に帰省して眺めた「憂鬱なる桜」(萩原朔太郎より)。

久しぶりに帰省して眺めた春の桜はしみったれていた。朔太郎先生がかつて謳ったとおりの姿であった。

憂鬱なる桜(萩原朔太郎「青猫」より)

憂鬱なる花見(憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた)
夢にみる空家の庭の秘密(その空家の庭に生えこむものは松の木の類)
黒い風琴(おるがんをお弾きなさい 女のひとよ)
憂鬱の川辺(川辺で鳴つてゐる)
仏の見たる幻想の世界(花やかな月夜である)
鶏(しののめきたるまへ)

それだからおいらも、古里上州にて桜見物の良い想い出がなかった訳である。いま東京へ帰り着いて、「仏の見たる幻想の世界」を夢想している。

「アホの壁」にみるエロスとタナトスの二元論のユニークさ。

先日紹介した筒井康隆さんの快作「アホの壁」にみられる共通のキーワードは「エロス」と「タナトス」である。様々なアホの事例を示しつつ、根底に流れる2つのキーワードから現象を紐解いていく。本日はその手法にならいつつ、桜の花見宴会に興ずるアホたちの性癖について分析を試みてみる。

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桜の花には人が集まり、そうした衆人環視の中での宴は特別な意味を持つのである。例えばおいらが花見宴会によく参加していた若き頃には、グループの中の誰かが木登りをしてみせつつ、転げ落ちたり、突拍子のない言葉を叫んでみせたりしていたものである。居酒屋の閉ざされた空間でのバカ騒ぎとは異なり、桜の花びらと観衆たちの目に晒されることにより、劇場的なドラマへとワープさせ展開するのである。その原動力となるのがエロス+タナトスという一見相反するエネルギーの協働作用によるということなのであるから、バカもアホも一筋縄ではいかないのだ。バカをアホを侮ってはいけない根拠はエロス+タナトス論の真実性に基づいているのである。

ピンクが映える上野の夜桜は見ごろなり。

関東随一の夜桜のメッカといえば、上野の恩賜公園である。糸井重里さんの言葉を待つまでもなく、桜の木の下にビニールシートを敷いて宴などに興じている人々は馬鹿者の権化である。昨今は馬鹿が許される場所は少なくなったが、ここ上野恩賜公園は馬鹿者が特権的に棲まう場所なのであろう。

朝には暴風を吹かせた天気も落ち着き、夜桜の見ごろとなった。白けた都会の桜を見るのはぱっとしないのだが、こんな夜桜は悪くなく、興趣をそそるのである。ピンクが映える都会の夜桜は昼の桜の数段上等な趣をかもし出している。上野の桜、特に夜桜は、この数日が見ごろだろう。

twitter界隈ではエイプリルフールが大流行の様子である。

 http://twitter.com/search?q=%23usotwitter#search?q=%23usotwitter

年に1度だけ嘘が許される日だということで、嘘の出来栄えを競ったりしているのはなにやら滑稽至極なのだが、全てが滑稽な訳ではない。凄い嘘の名手は居ないかとチェックしてみたのだ。考えるに人間の嘘というものには幾つかのパターンが存在する。

その一つが「自慢的嘘」である。。「俺はこれくらいビッグな人間であるのだっ」という普段はつけない嘘を、この日とばかりについてみるケースである。一時的な恍惚感へと誘うのだろうが、そのような嘘は早晩ばれることが必至である。ばれた時の反動的落胆は想像に余りあるものがある。余程の誇大妄想狂でなければこんな嘘はついてなんら得することがない代物である。

二つ目の嘘が「口説き的嘘」である。思いを寄せる人の気を引きたいという一心でつく嘘だと云ったらよいだろうか? おいらを含めて誰にも有るだろうというよくあるケースである。このケースの場合、特定の対象が居なければ意味を成さないのであり、たとえうまくいったところでこれまたいずればれる運命である。うまく行ったらばれるのであるからして将来的な自身の未来の首を絞めていることになるのである。こんな嘘はついて得することがないと心得るべきだろう。

もう一つの顕著なパターンが、「良い子的嘘」である。昔々に良い子していて褒められたことが懐かしいのか、ひたすら良い子を演じて悦に入る。いい大人になって良い子を演じるのも骨が折れるが、折角つく嘘に「良い子的」項目を取り入れなければならない大人こそ情けない大人たちである。

twittrでは嘘を自動生成する機能が備わったサイトが人気なのだ。ちなみにおいらも自分の嘘とやらを自動生成してみたが、全然ピンとこないし洒落にもならないのである。投稿の中からいくつかキーワードを抽出して組み立てなおしているという、それだけの代物である。朝のTV番組でやっている「今日の運勢」と同じく無視するに越したことはないのである。実はもっと大きな嘘をつきたいと考えていた。嘘とはつき通してこそ嘘の値打ちが上がるのである。今夜は少々の嘘をついたが、笑って見逃してください。