奥多摩の「吉川英治記念館」は、散策のコースとしてもってこいの場所である

奥多摩地区の二俣尾を散策していた先日に偶然遭遇した「吉川英治記念館」は、人気流行作家吉川英治氏が終戦の前年になって、それまで暮らしていた都心の赤坂から疎開してきた氏の屋敷がそのまま、記念館として残されている。大衆文学者として親しまれた氏の遺した遺稿類をはじめ、氏自ら筆を操った遺墨類、勲章などの記念品類、そして彼の著書の数々、等々が綺麗に展示されている。将棋の天才名人こと升田幸三氏ら友人から贈られた書もあった。散策のコースとしてはもってこいであった。母屋に接して立てられた書斎は、ここで「新平家物語」が執筆されたという由緒ある風情を醸し出している。

瀬戸内寂聴責任編集の「the 寂聴」はとても面白い雑誌です

久しぶりに面白い雑誌を発見した。「the 寂聴」。瀬戸内寂聴さんが責任編集者となって大活躍しているのだ。毎回インタビュアーをこなしたり、写真家の藤原新也さんとの往復書簡を連載したりしている。往復書簡のテーマは「終の栖(ついのすみか)」、ちょいとやそっとでは引き受けられるテーマでは無い。最新号(第9号)の特集テーマは「少女小説の時代」である。寂聴先生が設定したテーマだと思えばさらにその重厚度が増すというものである。

個人的においらが最も関心を持ったのが、ロレンス・ダレル著の「ジュスティーヌ」を若い頃から愛読していたということであった。「ジュスティーヌ」こそ「人間失格」「1Q84」等とも比肩し得る世界文学の最高峰を極めた作品である。たしかに寂聴さんの物語世界には、愛欲混沌としたロレンス・ダレルの物語世界と響き合い高め合う、特別に共鳴しあう波長を感じ取っている。お勧めの一冊。

「the 寂聴」
http://www.kadokawagakugei.com/topics/special/the-jakucho/

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歌舞伎座が千秋楽で出来た異様な人の群れ

昭和26年に開場して以来60年の歴史を有する歌舞伎座が、本日千秋楽を迎えた。数日前から歌舞伎座の前には異様な観光客の群れが殺到し、猫も杓子もデジカメにその最後の姿を納めていたのだが、本日はそれがピークに達した。

老朽化による建て替えだと関係者は説明するが、それほど傷んだ風には見られない。銀座を象徴する建造物がまた一つ消えて無くなるのは忍びないことこの上なしなのである。

明日から取り壊しということでもなさそうなので、まだまだここは昼散歩の良いコースとなっていくだろう。入口の前には蕎麦屋があって賑わっていたものだ。蕎麦の味はよくある一般的なものなのだが、かき揚げてんぷらが個性的で愛嬌があってよろしいのだ。この蕎麦を食べに行くだけでも、歌舞伎座に通う価値ありなのである。

酒の肴にこそ似合うのが、ホヤである

上京して間もない頃のおいらは、「ほや」は食べられなかったと記憶している。原始的記憶以降のものであるので、その信憑性は大である。いつから「ほや」が食べられるようになって、しかも何時からかは「ほや」こそ酒の肴の逸品であると思うようになったのであるから人生はまた不可思議なのである。

日本における主な生息地は東北の北東部であろう。一部では「海のミルク」などと称されることもあるようだが、決してミルクのような味わいはないだろう。むしろ、磯の香りがぷんぷんと漂っていて、とてもはじめての人にとっては箸を付けたくないような、そんな香りの肴なのである。

泡盛古酒に似合う肴メニュー 大根を使った三種

「瑞泉」という泡盛古酒を飲んでいる。泡盛を深く寝かせて熟成させたもので、とてもまろやかで繊細な味わいでありながら、米こうじを原料とする泡盛独特の素材の香りが香ってくる。「ベルギー優秀味覚賞」を受賞したとある。国際的にも認められた日本の酒である。こんな上等なお酒によく調和し、しかも負けない味の主張をする、酒の肴を紹介してみましょう。

■大根ちゃんぷる
沖縄のちゃんぷる料理の代表格は「ゴーヤちゃんぷる」だが、ゴーヤの苦味はどうしても古酒のまろやかな香りにしっくり来なかった。何か良い素材はないものだろうかと思案していたところでふと閃いたのが「大根」である。旬の大根の葉を活かしたちゃんぷるは、とても瑞々しく、味わい深く調理ができた。豚肉ではなく豚のソーセージを使用したのもポイントの一つだ。

■ぶり大根
大根という野菜は、ぶりなど魚類の旨みを上手に吸ってとても旨みを増す食材である。ぶりも大振りのものを選んでみたが、正解であった。味付けは醤油とみりんで薄味に仕上げるのがよいだろう。旬の魚の旨みを充分に染み込ませたぶり大根こそ、古酒に相応しく美味なり。

■大根のぬかづけ
大根料理のもう一つのおすすめが、大根のぬかづけである。ぬかの香りがぷーんと来るくらいに漬かった大根は、とても甘味が漂ってきてたいへんに美味いものなのである。

村上春樹著「1Q84」の重要な舞台、二俣尾を散策

「1Q84」を回顧するべく、奥多摩に近い「二俣尾」という場所に向かったのです。青梅線の青梅駅で奥多摩行きに乗り換え、4駅先にその地はあった。天吾が新宿でふかえり(深田絵里子)と初めて会った日に、二人で二俣尾の戎野邸に向かっていた。ふかえりが「せんせい」と呼ぶ元文化人類学者の戎野氏は、子供の頃に宗教団体の一員であり、その団体からも両親からも離れて暮らすふかえりの後見人、保護者でもあった。ふかえりが執筆者とされベストセラーとなった「空気さなぎ」という文学作品が誕生したのも、この場所であったと考えられるのだ。

1984年の世界から「1Q84」の魔界世界へと足を踏み入れた天吾と青豆だが、この地名は、二俣に別れた一方の邪の道に踏み入れてしまったという、基点となる場であることをも暗示させている、特別な意味合いを有した場所なのである。

何も無いような土地柄を想像していたが、自然が豊かな、散策にはもってこいの場所であった。「1Q84」の作品ではこの駅を降り、タクシーで山道を登ったところに戎野邸はあるとされている。眺めると愛宕山がある。その山の方角へと歩くと、多摩川の上流の清涼な流れが眼に飛び込んできた。釣りをしたりボートで川下りをする人の姿もある。奥多摩峡の一部として観光化も進んでいると見える。

実はこの場所へと足を運んだ訳には、一つの推測があった。「1Q84」のBOOK4は、ここが主要なドラマの舞台となるのではないかという思いが離れなかったのである。先日もこのブログ上で述べたが、BOOK4の時間軸は1Q84年の1~3月となるであろう。そしてその主要テーマとは「空気さなぎ」の誕生に関連したものになると推測する。まさにその時間軸こそは、ふかえりが「空気さなぎ」を執筆したときに相当するのではないか? BOOK3の途中で姿を消したふかえりが主人公となって紡がれていくドラマの誕生は、総合小説の設定としてはとても良い。このプロットは春樹さんの頭の中にも存在しているはずである。総合小説の時間軸は直線的に進むものと考えてはならない。時間、空間を、自由に飛びまわって創作される作品こそ、総合小説の名に値するものとなるのである。

この土地には豊かで季節感漂う自然が、当たり前のように存在していた。多摩川にかかる奥多摩橋を渡って少し行くと、吉川英治記念館に遭遇した。大衆小説作家として著名な吉川さんが「新平家物語」等々の名作を執筆した書斎がそのまま残されていた。吉川英治記念館については稿を改めてレポートしたいと考えている。

岡本真夜「そのままの君でいて」の、上海万博盗作騒動


岡本真夜さんの15周年記念アルバム「My Favorites」が発売延期になってしまった。このところニュース欄を騒がせている中国上海万博のテーマ曲「2010年はあなたを待っている」のパクリ騒動が発端である。一聴して判るくらいに岡本真夜さんの「そのままの君でいて」と「2010年はあなたを待っている」とは酷似している。しかも2フレーズ目はわざわざ単調なリズムに変えて原曲を改悪しているのだからあきれ返るのだ。

おいらのWalkmanには、岡本真夜さんの「そのままの君でいて」が録音されていて、早朝の慌しい時間においてはとても心安らぐ楽曲の響きを有り難く感じていたりしているのである。そんな岡本さんが、上海万博のテーマ曲に採用(?)されたということは、それ自体は素晴らしいことである。これからの課題として、剽窃的ソングの呆れたメロディーを、中国側が全て退けるかどうかがポイントとなるのであろう。剽窃した中国の作曲家が、詰まらない主張などしないことを願う。

古酒にあうつまみとは如何なるものか?

昨日は「古酒」のことに触れたせいか、無性に「古酒」が呑みたくなって、沖縄料理店に足を運んで注文したのです。ところが併せてたのんだおつまみが悪かった。定番のゴーヤちゃんぷるは、苦味が古酒のまろやかさを壊していく。島らっきょうの酸味もまた、じっくり寝かせて蒸留させた古酒の風味には相応しからず。結局は満足することなく帰路に着いたのであった。

今度は古酒のボトルを買って、家呑みに挑戦するぞ。きっと古酒に似合うおつまみ料理をつくってみせるぞと、密かに意気込んでいたのでありました。

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

村上春樹さんの新作「1Q84 BOOK3」を読了。600ページにも及ぶ大作章であるが、とどまることを許さないスピード感に乗って一気に読み進めることができた。その筆致はまさに作家をして一気に書き上げたとさえ感じさせる筆遣いである。立ち止まることのできない春樹さんの独特の筆遣いに導かれて、彼の魔界的な物語の世界観に耽ってしまう。そのリズムは懐かしい、「ダンス・ダンス・ダンス」のリズム感である。

ところで、今回の「BOOK3」の読後感を一言で述べるならば、それは純度を上げて蒸留された如くの馥郁たる香りが漂う純愛小説であったと云いたい。純度の高い、国産の純愛小説であり、泡盛や本格焼酎を永年寝かせた「古酒」の如くなりである。

いわゆる読者のニーズに応えるかの如く、ドラマはクライマックスに至るところまでを一気に、それこそ周囲の雑音を排除して突っ走っていく。そしてその行き着く先こそ、読者が求めていたであろうクライマックスの到着点でもある。作家としての村上春樹さんはこの作品で、大きく羽根を拡げているのである。天性のストーリーテラーでもある作家は、まさにここにきて、これまでの全ての「枷」を振り払うかのごとくに、彼の思いをいかんなく存分に解き放って、一気呵成に展開させた物語であると評価するべきである。であるからして前章「BOOK1」「BOOK2」から引き継いでいる物語の、細かな矛盾点や疑問点は、今ここでは論ずるに値しないものとなっている。「BOOK4」の発表をまって氷解していくだろう。

二つの月が浮かんで見える世界を脱出して、天吾と青豆は、月が一つだけ輝いている世界へと辿り着いた。そこはまさに「1984」年の世界であった。「BOOK4」の話題は尽きないが、ここから続いていくであろう「BOOK4」のタイトルを「1Q85」となるだろうと推測する説があるが、けだし邪道である。何となれば月が一つだけ輝いて見えている世界を「1Q85」年と呼ぶことは決してできないからである。しかして来たるべき「BOOK4」は、「1Q84」年の1~3月を時間軸に展開する物語となるはずである。そして物語のテーマとして考えられるのは、次のようなものとなるのだろうか。

・1Q84年の月は何故に二つ見えていたのだろうか?
・新興宗教は、如何にして増長伸長していったのか?
どちらも思いつきで記したに過ぎず、もっと重要であり、必須のテーマが存在するのであろう。

春樹さんの描いた「1Q84」の物語世界は、春樹さんのこれからの「BOOK4」の展開次第では、我が国文学界が誇るべき初めての「総合小説」の姿を指し示すことになっていくだろう。それはまさに作家という特権的な人種にのみ許された、特権的な権利と云えるのかもしれない。

村上春樹「1Q84」の「猫の町」千倉を歩く

村上春樹著「1Q84」の重要な舞台、二俣尾を散策

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

武田鉄矢の「贈る言葉」より贈る花束

職場のスタッフが一人またひとりと去っていく。こんなときに贈る言葉を伝えたいのだがなかなか思いつかない。武田鉄也の「贈る言葉」ほど白ける文句は無いだろうからそれだけは口にしないよう努めている。

幹事女史は花束を贈って旅立ちの祝辞を述べていた。けだしそれがすべてであろう。

テリー伊藤が観光大使の「築地」を散策

東京の台所こと築地は、銀座からも歩いて数分の距離に位置しており、昼休みの散策にはもってこいのスポットである。国内外の観光客でごったがえる場外市場を歩いていけば、それこそ甚大なる食の宝庫である。近頃はタレントテリー伊藤のポスターがよく目に付く。ご存知「丸武」という玉子焼き店は彼の実家が経営している。兄の「アニー伊藤」は昼時には大体店に顔を出している、有名人である。テリー伊藤氏は築地の観光大使もしているようで、関係無い店の軒先にさえテリーのポスターが飾ってあった。

おいらも月に数度はこの築地界隈を散策している。昼食時によく立ち寄るのは「井上」のラーメン店。煮干の出汁が効いたつゆが絶品であり、これぞ日本が生んだラーメンの原点であると想ったりもする。これを食べた後でごてごてチキン風中華スープのラーメンなど、食べたくもなくなるくらいに、食欲中枢を刺激する何かがある。普通のラーメン店ではこうはいかない。否応なくではあるが、仕方なく栄養補給の為に足を運んでいることなどを意識することさえある。普段の生活をかき乱すが如くに立ち寄る「井上」ラーメンの存在は云わば犯罪的でもあるくらいだ。

定食屋も悪くない。煮魚定食も二種類くらい用意されていて、大体どれもがじっくりと時間をかけて煮込まれている。朝早くからの仕込みでじっくりと時間をかけていることの証明でもあろう。

但しここ界隈の寿司屋に関してはといえば、一元の観光客目当てにぼったくりの商売をしている店舗も少なくないので注意を要す。観光地区にて相場の数倍の値段を付けている店舗は避けて通るのが賢明である。

「腐っても岡本太郎」の岡本太郎記念館はおすすめ 2

昨日紹介した青山の「岡本太郎記念館」では、かつて岡本太郎さんが居住と創作とをともにしていたハウスをそのままに、大量の作品を展示している。といっても元アトリエに仕舞ってあったりする作品の数も多く、美術館の特設展示場ほどには、そのボリュームを感じ取れないかも知れないのだが、昨日も述べたように、この記念館でしか体験できない貴重な出逢いに遭遇できるかもしれないのでお勧めなのである。

彼の生作品にまみえることのできた人は、その荒々しい筆致が目に焼きついてしまい離すことが困難となる。「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という、有名な太郎さんのフレーズは、彼の作品に痕跡を記した生の筆致に触れてこそ、より深い理解が可能となる。美術の教科書に載っている岡本太郎の複製画や諸々の画集などを眺めているだけでは得ることができない感動が、そこには存在しているのである。

3月3日から6月27日までの間、常設展示のほかに「岡本太郎の眼」という企画展示が開催されていており、太郎さんのあまり知られていない一面に接することができる。一言で云うならばカメラにとらえた作品群である。だが、写真ではない。解説は、太郎さんの母親であらせました岡本敏子さんの言葉で締めくくろう。

「写真ではないのだ。岡本太郎の眼、岡本太郎の見たもの、
岡本太郎その人がそこに浮かび出る。
動かし難い存在感、造形的な構成力。
決定的瞬間などという言葉がヤワに聞こえるほど、きまっている。
がそれは、まさに一瞬の、一瞥の火花。深い。」(岡本敏子)

「腐っても岡本太郎」の岡本太郎記念館はおすすめ

岡本太郎さんといえば川崎に大きな「岡本太郎美術館」があるが、まずは青山の「岡本太郎記念館」に足を運んでみることをお勧めする。表参道の駅から徒歩7~8分、閑静な住宅街を歩いたところにその記念館は存在している。住宅街の中には「PRADA」「Cartier」といった高級ブランドショップビルディングが軒を並べていたりしており、ただの閑静な街ではないことが見て取れる。実はこの場所こそ、岡本太郎さんが生前に創作活動の拠点としていた、いわゆるひとつのホームベースなのであり、アトリエや居住空間がほとんどそのまま残されている。岡本さんの私生活を追体験してみたと感じ取っても良いくらいに、生活観を、創作の匂いを残しているのだ。

この記念館では写真撮影が自由だということで、いろいろ記念に撮らせてもらった。撮影OKなどというのは当然のことだが、勿体つけてか何かは知らぬが、「撮影禁止」の四文字に慣らされていたことのこれまでの美術館鑑賞が詰まらないものとさせてしまう。我が国の美術界に対して岡本イズムが今後とも関わっていく余地は、まだまだ存在しているのである。

入場料は大人600円なり。受付スペースには関係書籍類やグッズが多数揃っているが、初めての人には「今日の芸術」(岡本太郎著/光文社文庫)をお勧めしたい。戦後間もなく発行された同名著書の復刊を望んだ横尾忠則さんが、自ら序文を書いている。余計な解説は不要だろう。以下に一部を引用しておきます。

「去年より今年、今年より来年みたいに新しい概念と様式ばかりを求めた結果、今や現代美術は完全に閉塞状態で息もたえだえである。これみよがしのアイデアだけの作品が多い。もうそろそろ頭脳的な創造から、個の肉体を取り戻そうとする生理的な創造に一日も早く帰還すべきではないのだろうか。そのことに気づけば、自ずともう一度岡本太郎の書をひもときたくなるはずだ。」(横尾忠則による序文「岡本太郎は何者であるか」より引用)

東京都港区南青山6-1-19
tel 03-3406-0801

〔作品紹介等は、いずれまた続きの章で〕

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

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昨日から当ブログへのアクセスが激増している。何があったのかと思い「Google Analytics」をチェックしてみると、村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」の発売と関係していることが判明した。すなわち、BOOK3の後にはBOOK4という続編が出るのではないかという疑問が、ネットを取り巻く書籍ファン、関係者たちの間に巻き起こっているのだ。そしてこの現象が要因となり、おいらがかつて2009年10月4日に投稿(エントリー)しBOOK4について述べていたページへのアクセスが急上昇しているという訳なのである。ちなみに「1Q84 BOOK4」とググッてみれば、3番目にヒットするのだ。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4ADBF_jaJP314JP321&q=1Q84+BOOK4&lr=&aq=f&aqi=g-s1&aql=&oq=&gs_rfai=

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=138

予感は的中したのではなく、すでにはじめから既定の路線であったと考えている。三部作よりも四部作である。四部作こそ歴史に名を刻む世界的名著としての条件なのである。春樹さんはここに来て、世界の文学界を眺望しつつ、本格小説の完成に向けて更なる野望の一歩を踏み出しているところなのである。

さて、昨日は並ぶこともなく新刊本の「1Q84 BOOK3」を購入したのであった。ネタ晴らしにならない程度の感想は述べていきたいと思うのだが、まだ物語を推理したり振り返ったりする余裕は無い。

「青豆」「天吾」の章に加えて「牛河」の章が登場したり、偽春樹さんのツイートみたいな気障な台詞が笑わせたりと、様々な仕掛けが施されているようなので、そんな仕掛けを大いに楽しみながら読み進めていきたいと思うのである。

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

マクロビオティック&ひっつみ風、オリジナルなすいとん料理。

体調不良の日々が続いているのだが、こんなときこそ、自らのオリジナルな創作料理を食して健調を快復したいと想い、晩飯作りにはげんだのです。

先日外食で食した「すいとん鍋」がいまいちだったので、自らのオリジナル「すいとん鍋」作りにチャレンジ。人参、大根、椎茸、蒟蒻、牛蒡、等々の野菜を一口大にして、かつお出汁と醤油、砂糖の純日本式のスタイルで煮込んでいく。そして主役の「すいとん」には、小麦粉とともに蕎麦粉をあわせたのだ。比率は5対5、フィフティフィフティの黄金比率である。蕎麦粉だけでも「蕎麦がき」という立派な料理になり得るのが蕎麦粉だが、小麦粉とあわせればよりもちもち感が味わえるので、おいらはこの比率が好みなのである。すいとんといえば戦時、戦後の貧しい料理というイメージが染み付いているが、岩手県の郷土料理の「ひっつみ」は、すいとん風の鍋料理でありながら極めて健康料理のスタイルが特徴的である。マクロビオティックに郷土料理の奥義をプラスした素敵で身体に優しい伝統料理なのである。久々の手料理は掛け値なしに満足なのでありました。

横尾忠則さんのtwitterのツイートが凄い。

ツイッターで横尾忠則さんのツイートが注目を浴びている。先日mimiさんから教えてもらって、おいらもフォローしているのだが、パワフルでウイットに富んだツイート書き込み、なかなかいい味を出しているのである。

「人生なんて錯覚の連続だ。精神を錯覚し、肉体を錯覚し、才能を錯覚だ。人間はリアリティだけでは生きて行けない。にもかかわらず芸術のリアリティを求めようとする自分。それも錯覚だと思えば悲劇も起こらないだろう。」(by tadanoriyokoo 約7時間前のツイート)

横尾さんと云えば、最初にその名前を意識したのが、TVドラマ「時間ですよ」のオープニングに出ていた出演者たちのリアルな似顔絵作家としてである。当時思春期のおいらは、下町の銭湯を舞台にしたそのドラマを観るのがとても楽しみであった。浅田美代子などの人気女優が出演する人情ドラマであり、女性の入浴シーンが毎回登場するので思春期のおいらには刺激的でもあった。そこに強烈なインパクトで横尾さんのアートと遭遇したというわけなのである。

似顔絵作家と意識していたおいらは、その後の横尾さんの活躍には目を瞠ったものである。職人的に洗練されたアートの技法がいつの間にやら、別の次元の横尾ワールドへとワープしていたからである。いち早くCGも手がけていた横尾さんの作品をお借りして、雑誌「ほとけのいのち」の装丁をおいらが手掛けたことがあった。そう想っていたのだが、今その雑誌を探し出してページをめくると「表紙デザイン・イラスト 横尾忠則」とあった。横尾さんのデザインをもとにおいらがDTPのデータ処理を担当したというのが正しかったのだろう。友人の誰かが「横尾さんは、いっちゃっている」などと称したのを耳にしていた。「あの世」「神の世」「来世」等々のイメージを、横尾さんの作品から感じ取っていたのだろうが、おいらは「それとは違うな」と、しみじみ作品をながめるばかりであった。

横尾忠則さんの名前を目にして想うことはそればかりではない。特に高校の後輩で美術評論家の倉林靖氏の「岡本太郎と横尾忠則―モダンと反モダンの逆説 」のことが頭に残っておいらの情念をかきむしっているのだ。詳細は失念したので、この話題については後日改めて取り上げていきたい。

中華風「すいとん鍋」を食する。

戦中戦後の鍋といえば「すいとん鍋」ということを、家族親戚の誰彼ともなく伝えられて育ってきたのである。だがおいらが時々食べていたすいとんは、そんな戦中戦後の世相などを感じ取ることもないように、野菜や豚肉やらがてんこ盛りに盛られた豪華仕立ての鍋なのであった。本日食した「すいとん鍋」は、中華スープが効いていた。素朴な味わいがグッドである。

蜷川実花監督「さくらん」、そのレッドとピンクの大きな乖離。

 

散り行く桜を惜しみつつ、映画「さくらん」の話題を少々。ビートたけし映画の基調色を「たけしブルー」と呼ぶなら、蜷川実花映画の基調色は「蜷川レッド」である。鮮やかな天然色の中でもレッドは飛び抜けて存在感を示す基調色となっているのである。それくらいに彼女の撮る映画の色調は独特であり個性的である。写真家としてすでに著名な彼女であるが、ちょうど写真にて写し取られる色彩の世界を、映画という大衆娯楽映画の世界に持ち込んで成功させているのである。

映画「さくらん」は蜷川実花の初監督作品ということだが、まさしくこれだけ自分自身の「カラー」を出せるのであるから、実力も相当なものである。しかしながら不満がない訳では決してない。彼女が描く色使いは基本的に計算づくに仕組まれたものであり、それゆえに、無意識裡の欲望やら無常観やら激情やら憤怒やら…その他諸々の情念からすると距離をかんじさせるもなのである。

一例を挙げるならば、ピンクの不在が挙げられる。レッドが薄まったところにピンクが存在するという認識は誤りである。レッドは豊富に存在していながらピンクの不在がこの映画に顕著なのである。当代きっての新進気鋭女性監督と女性漫画家、女性脚本家、そして今をときめく女優陣たちといった強力な布陣、これが当映画の売りであったと想像する。だがその目論見は成功しているとは云えないだろう。

光の三原色、あるいは絵の具の四色といった色彩原論に根拠を置く映像の制作スタイルは、とても計算づくであり、どこか潤いに欠けている。男性の目からというより人間の視線を真っ当に受け止めていないと感じてしまうのだが、思い過ごしだろうか?

「ヴィヨンの妻」を鑑賞。「人間失格」とは月とすっぽんの出来栄え。

レンタル解禁となった「ヴィヨンの妻」(太宰治原作・根岸吉太郎監督)のDVDを鑑賞中である。先日観た凡作映画「人間失格」に比べて素直な原作解釈なストーリー展開であり、また主役の松たか子がいい味を出していて好感が持てる。何よりも天才作家に対する畏敬の念に溢れているところが好ましい。映画は娯楽であり、しかも役者の持ち味に依っているところが大の大衆芸術である。変てこな風俗描写などしていた「人間失格」に比べて月とすっぽんの出来栄えなのである。やはり映画はこうでなくっちゃいけないのである。出だしを観れば映画の良し悪しなどの区別はつくものである。今日観た「ヴィヨンの妻」は傑作であったと記しておこう。

永遠不朽の坂本龍馬人気を利用する政治家たち。

今日、ソフトバンクの孫正義氏が妙なツイートをしていた。追跡してみると、NHK「竜馬伝」に関するトピックスのことを色々PRしていた模様なり。

http://twitter.com/#search?q=%23ryomaden

まさにリアルタイムで番組の感想が書き込まれていく。まさしくこれは龍馬のファンクラブの集いであろう。twitterというメディアの一面を垣間見た思いである。坂本龍馬に関して常識的な知識しか持ち合わせていないおいらは、とてもファンクラブの集いに参加しかねるが、だがそれ以上に、これだけの熱狂渦巻く人間たちの群れには距離を置いていたい。ファンクラブを超えて信者同士の会話というのはどうも苦手である。

それにしても坂本龍馬人気は一時期の長嶋茂雄並かそれ以上と云えよう。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」がはじめて刊行されたのが1963であり、50年近い年月が経過する。司馬遼太郎作品のみならず、映画界での「竜馬暗殺」、漫画では「巨人の星」の星一徹が熱狂的な龍馬ファンとして登場する。様々な仕掛けとともに龍馬人気は永遠不朽のものとなったのである。

新党ブーム、離党ブームであるが、そうした政治家の言葉からはきまって「坂本龍馬」の言葉が出てくるのも、龍馬人気のもの凄さゆえのことだろう。鳩山邦夫の離党の会見で述べた「龍馬さん云々」のコメントは滑稽でさえあった。あるときは「革命の闘士」、ある場所では「憂国の獅子」として、我田引水的に解釈され崇拝されるのは、龍馬がNo.1である。政治的信条はどうあれ、これだけ名前が利用される当の龍馬さんは、草葉の陰でどのように感じているのか知りたいところである。