藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」がばか売れ

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」を読んでいる。単行本の刊行が2003年11月(鉄人社)で、文庫本化は2006年7月(文藝春秋社)である。この数年間「裁判員制度」導入による動きから、一般の関心が高まって来たのにつれて、本も売れ続けているようだ。ブックオフのお勧め本のコーナーに積み重ねて置かれていたのだ。

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本の中身はと云えば、「裏モノJAPAN」という雑誌の企画で連載されていた記事をまとめたもの。ひょんなことから裁判を傍聴することになってしまった著者が、全くの素人としての目を通して面白可笑しく、ときに不謹慎ととれるあっけらかんとした好奇心を武器にレポートしていくのである。おいらも著者とは面識があり(魚仲間の1人なり)、本人のキャラクターを十全に発揮した切り口がモットーとなっている。そのあまりに軽薄な描写は、事件レポートには相応しかねると思えるのだが、裁判の現場を知るという意味において役に立つものとなっている。

しかもこの本を元にして、同名のコミックが発行され人気なのだとか。映画やTVドラマ化もされていくようで、時代のポジションに乗っかっているかのごとくなり。作家とはどこでどういう売れ方をするのか、とんと判らないものである。

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つぶやききれないおいら〔Twitter格闘記〕

折角Twitterに登録したのに、ぜんぜん上手くつぶやくことができませぬ。人見知りのおいらにとっては、この新ツールは使いこなすのにも骨が折れそうな気配。…そうブログで愚痴ってみたところではじまらない。やっぱりブログを中心にして、一日一筆を行なっていくのがよさそうである。

ところで「村上春樹」さんが登録していたので早速フォローしてみたのだが、本物の春樹さんなのだろうか? とても懐疑的なのである。「やれやれ」などとさかんにつぶやいているし、20,630人もからフォローされているのにフォローしているのがただ1人、というのも怪しいものがある。他のつぶやきかたも、作品の一部を引用しているような感じで不自然である。公式ナビゲーター「ついなび」を探しても春樹さんが見つからないのだ。

http://twitter.com/Murakami_Haruki

暗イウチハマダ滅亡セヌ(太宰治より)

本日体は調が優れぬために、一日ぼんやりと読書なりをして過ごしていたのでした。「吉本隆明のメディアを疑え」という一冊を主に読書していた。吉本隆明さんの本を読むのは久しぶりである。その本で、吉本さんも尊敬する太宰治さんの小説に述べられていたと紹介されていたのが、表題の言葉なり。非常に重くてジーンと感じてくる。すべての日本人にとって非常に貴重な言葉であると想うなり。

出版されていたのが2002年4月なり。小泉純一郎が我が世の春を謳歌していたまさにその時期である。様々に吉本さんの提言が述べられていて、それはそれで重みのあるものなのではある。だがしかし、吉本さんの提言やらは無視されながらその後の時代は推移したのである。

小泉純一郎なる政治家は確かに他の政治家以上に洗練されてかっこよかった。当時は何か明るい未来を期待させたのかもしれない。しかしながら現代日本にとっては類まれなる悪党と云わざるを得ないくらいに重い責任を負っている。

余計な明るさこそ無用なり。こんなシンプルな真実を理解できないでいた小泉純一郎やそのかぶれ信者やほか関係者は、深い反省が必要である。それさえ真っ当に出来ていない日本の現状とはなんぞやである。

私はいつも都会をもとめる 2「銀座のホッピー」(C)萩原朔太郎

たまにはおいらも、都会の味をもとめて銀座で一献傾けることもある。今宵のテーマは、銀座のホッピーとその味についてである。

銀座にも当然のことながらホッピーを出す店は多数存在している。頑固親父が仕切っている老舗店舗についても、次第にその垣根は低くなっているとみてよさそうである。焼鳥、焼きトンを出す店にその傾向は顕著とみえる。例えばメニューに「ホッピー」は載っていなくても「ホッピーください」と云えば当然のようにホッピーを出してくるお店は腐るほどある。あるいは「ホッピーはないんですか?」と問いかけると、気まずそうに「そんなことはないですよ」といいつつ、周囲を気にするようにしながらホッピーを出してくれた店もあったのである。それぞれに事情は異なれども、今やホッピーを置いておかずには居酒屋経営もまずい局面に呈しているということなのであろう。

時代は発泡酒全盛だが、しかしながら発泡酒が居酒屋経営に対して何の貢献ももたらさなかったことに比べれば、ことホッピーの果たす役割はいや増すばかりと云ってよいのである。

ところで銀座で飲むホッピーの値段はといえば、価格がまちまちである。「ホッピー=150円」というメニューに気を良くして飲んでいたら、最後に高級焼酎代を請求されたというケースもあったのだ。ご用心してください。

老後の生活に関する一考察

昼間、おいらの携帯電話に見覚えのないナンバーからの通信が数回あった。そのつど立て込んでいたこともあり放置していた。その後、帰宅途中の電車内で鳴ったので、そっと出てみる。相手は初老の声で、「○○の弟ですが…」と名乗っていた。他の乗客を気にしつつ、小声で会話を続けていると、電話相手のお兄さんの某作家さんが、昨年亡くなったということを知った。それでご丁寧に、お礼の電話をしてくれたという訳である。知らずに年賀状を出してしまった詫びを述べてその電話を切った。

亡くなったと知らされた作家は、生前は相当なキャリアを積んだ人物である。おいらがお会いしたのは某編集プロダクションの事務所で、二~三回のことであり、それほど深い付き合いはなかったのだ。数年前での御年は70年代とみえたが、当時も現役で、企業史や個人史の執筆を請け負っていたとのこと。相当なキャリアを積んだベテラン作家が、老後になって他人の自分史や企業史の執筆(その中には割に合わない「ゴーストライター」としての仕事も含まれる)を請け負うのだろうかと、以前のおいらはいぶかしくも感じていたものであった。だがやはり、時代がそうさせているのであろう。日本が急激にアメリカナイズされていた当時の世相を思い起こす。

老後くらいは、自分がやりたい仕事だけやって過ごせる人生を送りたいものだ。そうしみじみと想う今宵なり。

私はいつも都会をもとめる (c)萩原朔太郎

このところ、1年を超えて銀座をウォッチし続けているおいらである。「何故、銀座なのか?」と問われれば、「仕事柄」だと、残念ながら答えるしかなさそうなのではあるが、それでも、正邪併せて、都会としての銀座が醸し出す特有の景色や匂いに、いつの間にやら虜にされそうな、からめ取られつつある自分自身を意識せざるを得ないのだ。

そんなおいらが銀座を散歩しながら撮影したスナップショットの中から、数点をアップしておきます。

思い返せば、かつて萩原朔太郎さんが東京銀座を謳った当時の銀座と現在。根源的なところはほとんど変わらないのではないかと想うのだ。都会としての磁場を放った銀座が発する様々な匂いを掬い取ろうとして、いつもシャッターを押している。思わず知らずに、そうしていながら癒される自分が、確かに存在することを発見している、昨今なのである。

萩原朔太郎が描いた「虎」の風景

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トラ年、新年、初仕事。いささか世間は浮かれ気味の中、おいらは朔太郎さんの隠された傑作詩の「虎」を想い出すのだ。

虎 (萩原朔太郎「氷島」より)

虎なり
昇降機械(えれべえたあ)の往復する
東京市中繁華の屋根に
琥珀の斑なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり!
ああすべて汝の残像
虚空のむなしき全景たり。
―銀座松坂屋の屋上にて―

凍える手先をすり合わせ、なぐさめ程度の暖を取りながら、おいらは「虎」が産まれたという銀座松坂屋の屋上へと向かっていた。館内を抜け屋上をまたぐ扉を開けると、ヒューヒューと空っ風のような乾いた息吹がおいらの顔を撫でた。懐かしい息吹である。

しばしの間、空っ風もどきに打たれた後に、おいらは屋上階にめぐらされている金網の外へと眼を伸ばしてみた。普段見慣れたはずの濃い化粧した銀座都市が、また違う姿を見せていた。化粧の頭に隠されていたのは、都市を機能化させるべく様々な様相を見せている。それはまた、隠された都市の一素顔だったのかも知れない。

Twitterに登録しました

食わず嫌いをやめて、今朝Twitterに登録してみました。

http://twitter.com/katsuokobayashi

「いまどうしてる?」という問いかけに応える形でつぶやくと、それに反応したメンバーがフォローして、言葉を返してくれるのだとか? 本当にそんなうまくいくのかとは思うが、ブログやミクシィとは違ったメディアの楽しみ方ができそうだ。

登録時にトップページで一押ししていた「まつゆう*@ミルクティガール 」という、全然知らないギャルを登録したら、なんだかんだとつぶやきまくっていました。ヘビーユーザーだというのだが、どんな生涯(らいふ)しているんだか、訝しくなってしまった。マイページの画面もまつゆう*@ミルクティガール に占拠されてしまって、これではいかんと、あわてて登録を取り消した。

まつゆう*@ミルクティガールのページを見ると、Twitterの広告をでかでかと掲載。ミニブログという位置づけのようだ。リンクページはチャット状態である。自らチャットページを設けるよりもお気軽にページ開設でき、Twitterという名も冠することができる。新手の芸能ツールなんだろうね。まあこんな世界に足を突っ込まずにすんでほっとした次第なり。

鳩山首相がブログとツイッター始めたと?

まあ新し物好きの鳩山由紀夫ちゃんのことだから、いつかやルナとは思っていた。ん?「ルナ」っていうのはルナちゃんのことではにゃい。ルナシーのことでもない。ルナティックじゃないかいな。

http://twitter.com/hatoyamayukio

う~ん、疲れた。みなみさんの真似をするのも楽ではないっちゃ。

気を取り直して…。

ブログはおいらもやっているからまあ、頑張ってやってくだされなんだけど、ツイッターっていうのは、いったいどうなんだろう? いまさら一国の首相がツイッターでつぶやきを公開したからといって、何か新鮮なメッセージでも届けられ、任期が長引くとでも考えているのだろうかにゃんこ。いったいぜんたい、一国の首相が人気取りにうつつを抜かして何ぼのもんじゃいなぁ。

新年の初頭に吾が原風景を想う

多くの兄弟姉妹に囲まれてすくすく育ったのだ。(うそ)

多くの兄弟姉妹に囲まれてすくすく育ったのだ。(うそ)

広瀬川の白き流れを毎日目にしつつ育った、そんなおいらの原風景を想い出を浮かべようとするたびに浮かべる生涯(らいふ)は、夢に現にと現れては消えていく。今日はその原点とも云うべき一葉の写真を見つけたのでここにアップしておきます。画面右に流れているのが広瀬川。中央でよちよち歩くのが幼少のおいらである。