昼間からレヴィストロース博士の本を読んでいて、帰宅途中の電車の中でも読んでいて、「よし、今日のブログはレヴィストローク先生の高尚なネタでいくぞ。タイトルはずばり、レヴィストロースの遺言だ!」とばかりいささか意気込んでいたのです。決まっただろうと勇躍いさんで駅を出てはみたのがつかの間、けれどもまた悪いくせが出て、駅前の居酒屋でホッピー3杯ばかり引っ掛けたせいなのか、脳味噌ぐらぐら廻って、とても高尚なネタをまとめられる状況ではありませぬ。しかるがゆえ、今宵はまた軽いネタで行きたいと思います。
先ごろよんだ本の中に、かの有田芳生氏の「メディアに心を蝕まれる子どもたち」がありました。(決して有田さんの本が軽いということを云っているのではないので誤解なきように)
その本の中で、有田さんの対談相手の五十嵐茂さんという人が興味深い話をしているので紹介してみます。ちなみに五十嵐茂さんという人とはおいらもメールのやり取りをしたこともあり、とても誠実な人柄をそのメール文のあれこれに滲ませていたことを思い出すのです。
五十嵐さんの指摘によれば、ネットの時代とは「空前の<自己テキストの時代>」が始まった時代だという。リアルなコミュニケーション、ネットワークでは表現できないテキストを、自己テキストとして表現し得ることの可能性を述べているのだろう。おいらがかねてより、ネットの達人(かもめさんやみなみさん達)に対してかんじていた、考えていたキーワードを表しているとも見えた。そこには「日常からの解離」もまた存在し、ネットコミュニケーションを面白くさせている。ネットもまだまだ捨てたものではないのである。