職場の知人から「悼む人」(天童荒太著/文藝春秋社刊)を借りて読んでいる。今年1月の直木賞受賞作品であり、そのタイトルから、身近な大切な家族を亡くしたという経験も手伝って、またさらに、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」に、「悼む人」の色濃い影響が見られるとの作品評の記事なども目にし、いつか読むべしとの考えがあったのだが、ひょんなきっかけでその機会が訪れた。
はじめはてっきり、ノンフィクション・ジャンルの作品ではないかなどと勝手に思い込んではいたのだが、違った。「悼む人」の物語(フィクション!)は、主人公が死者を「悼む」為に訪ねて歩くという、いわば奇行を巡って進行していく。奇人か、変人か、病人か、あるいは神聖なる聖者かのごとくに表現されていく主人公に、感情を重ね合わせていくことは難しい。どのような死者に対しても同様な「悼み」の仕草は、大切な身内の死に対するものとは明らかに異なっている。それでもなおその主人公への関心が薄れることもなく、フィクションとしての物語は進んでいくのである。ときに推理小説まがいの進展に、些か戸惑いを覚えつつも、いたるところに新鮮な発見にめぐり合う。読書とは体験でありめぐり合いであるべきという条件も満たしている。ときには極めてエグい展開も散見されるが、それもまた物語の適度な大衆小説臭のスパイスともなっており、興味深くページを進めているところなのです。
閑話休題。
今日の昼、またまた銀座で話題の「フリーカフェ」を訪ねたのだ。きっけかは、先日この場所を熱心に教えてくれた某男性スタッフに、「行きましょう」と誘われたことだった。最初の話題性が収まったことや、昼の12時すぐという時間帯だったこともあり、先日ほどの賑わいはなかった。「一人一皿」とされているおかきに夢中になる小母さん、お婆さんの姿もあまり目に付くことはなかった。ブログ公約(造語である)した写真を撮ってきたので、公開しておきます。