川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、萬鉄五郎氏とのコラボ的傑作だ

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川上弘美さんの新著「なめらかで熱くて甘苦しくて」を読了した。3月25日初版発行の、5編の短編から成る連作集とでも云うべき体裁の著書であり、あまり話題になったという噂は聞かないが、おいらにとっては実に久々に魂を真底から震わされたという、感動の作品集であった。

書店にて初めて同著を目にしたとき、先ずは萬鉄五郎氏による「かなきり声の風景」という表紙の絵に魅了されていたのである。モチーフはたぶん里山から少し平地に入った場所の畑の風景であろう。深緑に黄土色に、ひと際鮮やかな紅色の、荒々しいタッチの筆にて描かれているその作品世界には、かつて無いくらいの衝撃を受けていた。

萬鉄五郎氏と云えば昭和の初期に活躍した前衛的洋画家として著名であり、かつてはおいらも相当の影響を受けた巨匠ではあるが、「かなきり声の風景」はおそらく初めて目にした作品であった。萬氏の代表作品としての他の作品以上に「かなきり声の風景」に魂を震わされていた事実は、おいら自身にとっても驚嘆に値することなのである。一見するにその作品はエスキース(習作)のようにも見えた。然しながらその作品の完成度は限りなく高くいてあり、こんな作品に遭遇するのは極めて希少な出来事と云ってよいのである。

ここからは確証なきおいらの推論に入るのだが、川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、萬鉄五郎氏による「かなきり声の風景」に触れて触発された川上さんと萬さんとのコラボ的傑作ではないかと思うのである。

文芸誌「新潮」にて連作的に掲載されていた、短編たちの多くは、人間の「性」「sex」がテーマとなっている。だがそれらのテーマはさらに根源的なる「生」や「獣性」や「彼岸」とやらのテーマにも絡めて描かれているのであり、大胆で融通無碍なる筆の息遣いとともに、自由自在的な筆の勢いを累乗されているかのようである。

誤解を恐れずに書くならば、川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、未完的に仕組まれたエスキース的作品たちである。自由闊達な筆(ペン或いはキーボード)のおもむくままにて描かれたビジョンが荒々しい筆致にて描かれている。あまりにも自由闊達な筆致であるが故に、描かれたビジョンに追いつくことさえ出来ずにいて、読者としてのおいらもまた、途方にくれることもしばしばではあり、読み易い作品ではけっしてなかったのである。それでも自由闊達な筆に魅了されつつ、最終章を読み終えたときの感動は他に得がたいものなのであった。

しゅういつな筆を操る名人がその自らの殻を打ち破るべき脱皮の様相でもある。此れこそはまさに、天才が生まれつつある姿を彷彿とさせていたのである。

川上弘美さんの傑作長編小説「真鶴」を読んだ

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川上弘美さんの長編小説「真鶴」を読んだ。

東海道線に乗って熱海の2つ手前の駅で降りると、真鶴港に向かう岬道が延びている。この小さな町が物語の舞台となっている。主人公の女性こと京は、夫に失踪されて12年が経つ。そしてあるとき元夫の書き残したメモに「真鶴」とあるのを発見し、真鶴への旅を繰り返すことになる。

「歩いていると、ついてくるものがあった。」「またついてくるものがある。」等々といった記述により、はじめはミステリー仕立ての物語かと思ったら、そのあと簡単に裏切られていた。夢かうつつの主人公に語りかける女の存在は、夫を奪った愛人なのか、或いは彼女自身の分身なのか…曖昧なままに、緩く進んでいくのだが、決してその流れは煩わしさもなく、かえって心地良さに満たされるかのようだ。

主人公の京には、現在進行形の愛人とも呼ぶべき編集者の青磁という男がいる。何回目かの真鶴訪問には、二人で訪れてもいる。過去と現在進行形との愛欲の交わりが、ストーリーに緊張感を生じさせるが、そんな設定も、物語を大部を占める緩やかさにとっての、脇役的な設定でしかない。

ぽつりぽつりと、言葉がこま切れに繋がっていくような、独特な言い回しもまた、物語をいっそう個性的な世界として浮かび上がらせるのだ。

文学評論家としての吉本隆明氏によれば、言語には「指示表出」的要素と「自己表出」的要素が存在しているとされる。当作品「真鶴」はまさに「自己表出」的要素の横溢した文体により創造でされた傑作である。他の作家の誰とも異なり、おそらく川上弘美さんの以前の作品にも無かったであろう、極めて純度の高い文体にまで昇華されている。その結果的に「指示表出」的な部分は影を薄くさせ、曖昧さが立ち上るのであるが、この香りこそが物語独特の風味となっていて、読者を魅了させていくことを感じ取らずにはいないのだ。