信州蕎麦屋で食した「けんちん蕎麦」は意外性の味わい

kantinsoba01

信州蕎麦屋にて「けんちん蕎麦」を食した。そもそもけんちん蕎麦てはかけ蕎麦の熱い汁が「けんちん汁」風になっているというもので、あまり特別なメニューである訳ではなく、おいらも時々は作るし、外食メニューでもしばしば見かける。たまに見かければ食べたくなるといった程度のことから注文したのだが、これが意外にも深い感動と出会いだったという訳なのだった。

先ずもって意外だったのは、蕎麦汁がとても薄口だったこと。一般的なけんちん汁の醤油味に比べても極めて控えめなスープの味わいだ。牛蒡、人参、里芋、油揚げ等々の具材が、鶏肉ベースの上品な出汁で煮込まれている。そして蕎麦汁の表面には胡麻油が乗っており、風味と味わいに追い討ちをかけているといったかんじなのだ。胡麻油が温かく喉の奥を突き刺すようにして、たっぷりと温まっていた。東京の食文化とは異質な日本の蕎麦文化と云ったものを感じ取らざるにはいなかったのである。

かんじんの蕎麦がまた風味豊かだったのであり、信州蕎麦の面目躍如なのである。蕎麦を取り巻く食文化のバラエティは、想像以上に豊かで奥深いものがあるとの認識を新たにしていたのではあった。

下町居酒屋で「鯛のカブト焼き」を味わう

taikabuto01

taikabuto02

東京下町の某居酒屋に入って目に付いたメニューが「鯛のカブト焼き」であったのであり、おいらは思わず知らずに(すなわちオートマティック的に)注文していたのである。

注文して出てきたその期待のメニューは予想に反して小振りであった。20㎝未満、15cm程度であったと記憶している。

時間をかけてじっくりと焼き上げたそのカブト焼きは、鱗が光る鯛カブトの表面をまるで芸術作品のような手が加えられて出てきたもののようではあった。

先ずは鯛の身の表面に慎重に箸をつける。するとこんがりと塩焼きにされた鯛の皮の先には、生身感漂うジューシーな鯛の身が姿を見せて、おいらはそんな愛すべき鯛の身にむしゃぶりついていた。塩味がきいていて、いつもより塩辛い味の鯛かま焼きであったが、ほっとする味わいに満足至極なり候。

鯛カブトの目の裏の部分には、ご存知健康成分の筆頭とも云えるDHA(ドコサペンタエン酸)の宝庫である。頭がよくなり血液さらさらにさせるというのだから、有難くいただいていたのである。

八王子南口の「小太郎」本店の「小太郎焼き」

kotarou01

八王子南口の焼き鳥、焼きトンの名店「小太郎」本店に足をんだ。綺麗な二号店ではなくて煤が覆い茂っている本店に足を運んでいた。

ここの「ホッピー」はといえば、大きなジョッキにて提供されるもので、馴染み親しんでいるタイプのものとはことなるので、おいらはそんなホッピー注文をためらうことしきりなりであり、代わりに注文するのはチュウハイ、瓶ビールだったりする。やはり今晩もそのとおりの注文なり。

最初に注文したのは同店自慢のヤキトンであり、生豚つくねの「生小太郎焼き」を含む数点を注文。豚のモツは折り紙つきである。おいらが注文した串焼きの皿には、カルビや軟骨など、此処でしか口にできない絶品メニューが並んでいる。「生小太郎焼き」は中でも異彩をはなっていたのであり、口腔の中でひろがっていた味わいは美味のひとことなのでありました。

http://www.yakitori-kotaro.com/

「湯豆腐」の欠かせない大切な脇役が「タラ」なのだ

yudoufu01

寒い冬のさむい夜には鍋を注文することしばしばなれども、湯豆腐を食するにはいささか特別なる拘りが存在する。つまり湯豆腐の大切な脇役であるタラが在ることである。タラは銀ダラだったり真ダラだったりするが、豆腐のみの湯豆腐は味気ないのであり、重要脇役的存在である「タラ」が居てこそ、美味しい「湯豆腐」が成り立つのだから、この拘りは決して引けないのである。

ところによってはタラの入った湯豆腐のことを「タラチリ鍋」などと呼んでいる。タラがどっさりと大量に用いられているのが「湯豆腐」との差異であるとも云えるが、それでも湯豆腐鍋にタラが必須であるというかっこたる基本は動じることがない。

関西に居住する友人がかつて主張していたのだが、「湯豆腐は豆腐が主役であり、豆腐だけの鍋で何が悪い…」と。だが然し、こうした理屈は、あえて書けばこうした屁理屈こそは、関西人の固陋な習慣を増長させるしろものである。関西人のみかくや関西的料理が日本料理の基本ではない。このことは関東人としてはっきりと主張しておきたいことなのである。

yudoufu02

国産「あか海老」の刺身に舌鼓

akaebi01

「あか海老」の刺身を食した。体長10センチ以上もある大降りの、名前のとおり赤い色をした海老であり、一見して甘海老を大きくしたようだが、その身のコクや頭部の味噌(海老味噌)のガツンと濃厚な味わいは、甘海老の比ではないのだ。ボイルすることなく生で味わえる海老の中では、味わいや食べ応えともに抜きん出ている逸品食材である。

ところで一口に「あか海老」と呼ばれる海老の種類にも多々あり、「 アルゼンチン赤海老」「北国赤海老」等々、国際色もゆたかてある。食したものは水上げの産地は判らなかったが国産ものであることが見て取れた。頭部は大きく殻が隆起している様が見た目の好奇心をいたく刺激する。指で頭部を持ち上げると殻は簡単に身からぶんりされていた。身のぷりぷりした甘さは先述したとおりに甘海老以上なのであり、味噌をふくんだ頭部に噛り付けば、鮮度抜群の海老味噌にありつくことができたのであった。

身体にしみる「春の七草粥」はこの時季に欠かせない

nanakusa01

nanakusa02

正月気分が一段落つく今日1月7日は七草の日。「七草粥」をつくって食するのか日本全国一般のならわしである。おいらもこの日の「七草」を用いた料理の習慣はここ数年欠かすことなく続けている。正月になまった身体のメンテナンスに、「七草粥」ほど適切なメニューはないということを体験的に知悉しており、毎年かかすことができない。最近は有難いことに「春の七草」として七草粥の材料パックが売られている。パックの内容は以下の七種である。

せり
なずな
ごぎょう
はこべら
ほとけのざ
すずな
すずしろ

以上の七種の野草の中で「すずしろ」とは大根、「すずな」はかぶのことをさしている。お粥の具として用いるにはポピュラーであり、これならば胃腸や身体のメンテナンスのための材料として利用しない手は無いということを思い知っていたのである。

濃厚な果肉が刺激的な「アボカドとマグロのサラダ」

abokado01

寿司ネタもそのバリエーションを増しており、むかしは手をつける気も起らなかったものが、今では何の違和感も感じずに口にしている。その最たるものが「アボカド」だろう。何しろ魚介類でもない寿司ネタなど、かつてはあってはならぬものではあった。それが何時の間にか寿司ネタのショーケース中に、ちゃっかり居場所を確保している。日本の寿司文化もしなやかに変異しつつあるということか。

さてそんなアボカドが食べたくなり、近くの大衆寿司店で「アボカドとマグロのサラダ」を注文してみたのだ。大皿に食べきれないくらいのアボカドとマグロのぶつ切りが乗って、マヨネーズ仕立ての辛味ドレッシングで味付けされている。口をつけると、アボカドのまったりと濃厚な味わいに辛味のアクセントが効いて、食欲をそそる刺激的メニューとなっている。ドレッシングをもう少し控え目にしたら、アボカド本来の味を堪能できるが、ドレッシング入りも悪くない。もう一つの主役であるマグロは、アボカドの前では味覚に乏しいくらいだが、却ってアボカドの強烈な個性を緩和させ、彩りを与えるような効果をもたらしている。

果実なのに脂肪分が多く、別名「森のバター」と呼ばれることも納得。脂肪成分のほとんどがDHAなどと同種の不飽和脂肪酸であり、普通に食するにはあまり気にする必要はないだろう。

沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」はやっぱり駄作だな

年末年始の読書週間を経て本にも些か飽きたのであり、新作DVDとしてPRされている、沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」をレンタルして鑑賞していたのだった。そもそも我が国のマスコミにて、沢尻のヌードシーンが撮られたとかトピックスとして取り上げられていたのだが、それ以上に私的な関心でレンタルしてみたのだ。

この作品(元は映画であることは云うまでもない)で、お騒がせタレントの沢尻エリカ嬢が、岡崎京子による日本の漫画の原作に忠実に演じることなど無いと決め付けてDVDをレンタルしたという訳ではある。原作漫画は所々をはしょり読みしていた。凄く好感を感じさせる世界観に魅了されていたと云ってもいい。それが映画になってこの有様なのだから、残念至極なのであり、監督や主演の沢尻エリカ嬢の軽率な世界観について、少々書いてみたくなったのではあった。

沢尻エリカ嬢のヌードはヌードと云うほどのものでもなくあっさりとしていて、とてもエロスの対象として捉えることなどできなかった。エロスやロマンや希望や理想、等々のプラス的評価を与えることなど全く出来ない作品である。今現在においてTV局にて放映されている和久井映見さんが出演しているドラマのほうがよっぽど高級的ではある。低級映画の典型を見せ付けられた思いではある。

沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」はやっぱり駄作だな、というのが最初の当作品についての評価である。

伝統的なものより一回り小さくなった上州の「コロ焼きまんじゅう」

yakimanju01

yakimanju02

上州前橋に帰省し「KEYAKI WALK」というショッピングモールを訪ねていたところ、ふと芳ばしい焼きまんじゅうの香りにうっとりと鼻腔をつかまれていた。香りの方角に目をやったところ、オレンジ色に塗装された焼きまんじゅうの露天移動販売車を見つけたのであり、近づいてみると、移動販売車両の中ではスタッフが焼きまんじゅうを焼いていて、芳ばしい香りの元であることがわかったのだった。この焼きまんじゅうとは上州特産の地元グルメのひとつである。

http://aentryfoods.wakatono.jp/index.html

 

幼少のころから高校を卒業して地元を離れるまで、焼きまんじゅうを焼く芳ばしい香りは、それだけで食欲を刺激する甘味なるおやつの香りそのものではあり、もちもちしたまんじゅうの生地と甘辛い素朴な味噌味のハーモニーに加えて、じっくり火を通して焦げ目をつけて焼かれるこうばしさが、上州の風土には当たり前のようにしっくりと溶け込んでいたのである。望郷の念を累乗させるにもってこいの要素であると云っても良い。

オレンジ色の移動販売車周辺を観察すると「コロ焼きまんじゅう」というのぼり旗が目に付いていた。「コロ」というのは小さいという意味のようで、一口大の大きさである。伝統的焼きまんじゅうの大きさは、その倍くらいあるのだが、全国的な嗜好の平均値をとって小ぶりにしたものと思われた。味付けはこれまた伝統的な「味噌」味に加えて「ごまだれ」味、「ネギマヨ」味等が用意されている。全国展開を図るためには郷土人の味覚よりも全国一般的嗜好性に合わせたアプローチが必要ということなのかも知れない。

「味噌」味、「ごまだれ」味をそれぞれ1本ずつ食べてみたところ、やはりゴマダレよりも味噌味のほうが食べ慣れているぶん、納得できる味付けであり、やや焦げ目のついたもちもちしたまんじゅうの素朴な食感とともに満足した。昔は飽きるくらいに大きかったが、この「コロ焼きまんじゅう」は食べた後の物足りなさが生じるのであり、これが全国一般的日本人の嗜好性にマッチしているのかも知れないと考えていたのである。

莫迦げたお笑いTVより吉永小百合の「伊豆の踊り子」

午前中は東京の自宅で年賀状を書いて過ごしていた。年末は入院中の母の見舞いなどで帰省し、昨晩戻って、年末の公私にわたる片付けなどに精を出していた。いつもは年末に書いて出していた年賀状の投函も遅れてしまった。友人、知人の人たちには失礼を詫びたいしだいである。

毎年のことだが年末年始のTV番組はろくなものが無く、ちょうど先日購入していた、吉永小百合さんのDVDブックの「伊豆の踊り子」を観て過ごしていた。川端康成原作の名作が吉永小百合さん主演で映画化された、これまで部分的にしか鑑賞できなかった歴史的名作のひとつである。古典的清純派の面目躍如な映画には、映画本来のエンターティメントの神髄がそんざいする。解説には同作品が4度目の映画化とあったが、吉永さんと山口百恵主演の以外に知らないおいらには細かな検証出来かねるが、吉永さんの主演映画以上の「伊豆の踊り子」は存在し得ないことを思い知ったと云うべきだ。正月の過ごし方としては悪くは無かっただろう。

「絶望の国の幸福な若者たち(古市憲寿著)」を読みつつ年越し蕎麦をすする

tosikosi01

2012年を回顧しつつ年越し蕎麦をすすりながら、古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」を先ほど読み終わったところだ。生蕎麦を茹でて、具には葱と油揚げとそして、数の子入りの松前漬けをトッピング。いつもは松前漬けに数の子は不要と考えていたおいらだが、本日は特別な正月前の年越し気分も襲ってきていたのであり、数の子入りも年越し蕎麦には相性も良くグッドな感触なのだった。

本の帯には「26歳の社会学者による、大型論考の誕生!」と謳っている。若手の論客による「若者論」として、マスコミ媒体にて紹介されていたのが昨年のことだ。だがおいらはけっして、そんな耳目を集める若者論を読みたかった訳ではない。かえって話題づくりの書物に対しての嫌厭の情にとらわれていたのだ。それが先日は一転して同書を手に取り、読みたいと思う気持ちにおされて購入していた。話題の書としての評価以上なる関心を抱いたからに他ならない。

大手新聞紙上にての書評はいろいろ読んでいたので、内容に関するある程度の予測は有ったのであり、同書の趣旨の確認とともに、意外性の発見を得ながら読み進めていたのだった。一つの評価としての、若者論の終焉が同書によってもたらされるとか、ポスト・ロスジェネ世代による若者論、等々の評価以上に、いまどきの若者の国家観、戦争観に関する新鮮な分析的論考には心驚かされていたものである。

同書に関する詳細についてはこれからの節に続きます。

今年度、アンコウ鍋より前に口にした絶品の「(鮟肝)アンキモ」

冬の深海に生息し、この時期の味わいが絶品の鮟鱇(アンコウ)。今年も冬の間に「アンコウ鍋」など食したいと考えている。そんななか、アンコウの肝こと「(鮟肝)アンキモ」を食する機会に接し、なかなか絶品的味わいだった。

「(鮟肝)アンキモ」は、7つ道具と呼ばれる鮟鱇鍋の具材(ヤナギ、カワ、水袋、キモ、ヌノ、エラ、トモ)の中で最もポピュラーであり、それのみで逸品料理となる。だが逸品料理になるまでの調理的手間は相当な段階を必要とするのであり、鍋のアンキモとは違う絶品料理に生まれ変わるのだ。生のアンキモは、食に適しないところを除かれ、丸くかたどられて蒸し煮される。それを熱いままでなく冷まして提供されるのである。食の芸術として認定したい代表的料理ではある。

年末この時期の流行は「シクラメン」より「ポインセチア」

かつてはもしおいらの記憶が確かならば、年末のこの時期の流行はシクラメンであった。全ての花屋の店頭やショーケースにはシクラメンが溢れ、シクラメンの香りを失恋叙情に絡めて作られた歌謡曲が大ヒットして巷を賑わせていたものであった。

以上、アルチュール・ランボー風に回顧してみたのであるが、ここ数年間の間には人気アイテムの変更がなされているようであり、新たなブームは「ポインセチア」となりつつある様子である。

濃緑と鮮紅色とのコントラストが綺麗で、クリスマス的フラワーとしてはシクラメンの比ではないように勝ち誇っている。実際は花と見えるところは葉の形をした苞葉であると云い、緑色のところも同様の葉だということであり、まことに素人には理解しづらい植物ではあるが、赤と緑のコントラストの妙は、神技を感じさせる。かつての村上春樹さんの「ノルウェイの森」の装丁にて採用された赤と緑のコントラスト、コンビネーションは、ポインセチアの赤と緑がモチーフであるとさえ推察可能である。

「帆立貝柱の刺身」を食べると無性に青森が恋しくなる

「帆立貝柱の刺身」を食したのだ。白く透き通るように艶を発しているその姿かたちは、冬の味覚の風物詩的姿である。分厚い帆立貝柱を2~3枚にスライスして提供される、おそらくこの帆立貝とは青森県内漁港にて水揚げされたものであろうが、生きの良い帆立こそまさしく、北国青森ならではの「粋」を示しているのである。北国猟師の粋がこの帆立貝柱の味わいとして染み込んでいる。それくらいに帆立と青森との関係性は濃密なものである。

そう遠くない昔には、年末年越イベてントとして「かけこみ亭」というライブ会場にて開催された、その場には、青森出身のさっちゃん(活動休止中「花&フェノミナン」メンバー)の実家から届けられた帆立貝を味わうのがこのイベントのピークを演じたりしていたものである。さっちゃんや「花&フェノミナン」のライブ会場での出演予定が見れないのであり、今年の年末も「帆立年越し」のイベントは叶わないものとなってしまった。青森に行けばこの時季はまさに帆立貝尽くしの料理にありつける。さまざまある料理の中でもこの帆立貝柱を刺身で味わう以上の感動は生まれてはこないのである。そんな思いが去来しつつ、帆立貝柱を酒の肴に味わいつつ、青森への恋しさを強くしているのである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?cat=37

「カレー鍋」は不味くは無いが子供向けの味

かねてより関心の的であった「カレー鍋」をつくって食したのだ。とはいえどもおいらはこれまで、ほとんど食べたという記憶が無い。少し前のブームをかたちづくったという全国的な鍋であり、何時か口にするだろうがなかなかその機会が無かったというメニューなのである。

最初に口にした先ずの感想は、想像通りの子供向けの味わいだったということだ。子供向けというのは日本人のポピュラーな条件にはかなっているがそれ以上ではないということ。冬に温まる鍋料理としては至極物足りない。

第二次安倍内閣発足の日の、百変化女史の喪服姿

自民党の安倍内閣が発足した。今宵はどこのTV媒体もこのニュースにがんじ絡めだ。観たくも無い映像を何度も垂れ流しにされ、聞きたくも無い政治評論家たちのくだらない口上を聞く羽目に陥るだけではあり、TVのチャンネルは切っておくに越したことはないのである。

ところで閑話休題になるが、今の職場には「百変化女史」と呼んでいるチャーミングな若手女史が居て、毎日毎日と趣向を変えたファッションを披露して くれている。秋には秋の落葉の光景にマッチする落葉ファッションをアピールし、冬には冬で毛皮コートを着飾ってアンニュイマダムを演出する。更には何気な いTシャツスタイルを着こなした時のテーマが「3ユーロのフレンチギャル」がテーマだったこともあり、すみには置けないファッションリーダーなのである。

そんな彼女が本日演じていたテーマが「喪服」であった。黒ずくめのスーツとパンツと黒ネクタイといった取り合わせが、厳かな雰囲気を醸していてとて も仕事場のファッションには相応しくなかった。それ故により一層の浮き立って違和感溢れる雰囲気を周囲にばら撒いて居たのである。

だがそんな彼女にも言い分や主張は有ったのであり、その説明が「安倍内閣の発足の日だから」というもので、おいらは゛その斬新かつ意想外の発想に、 喫驚の思いを累乗されていたのである。いつの日よりもその着こなしがエッジが強く立っていた。本日の若手女史のファッションこそ、稀に接する至高のアート には違いなかった。写真でお見せできないのが至極残念な今宵なのではある。

冷めても美味い「温泉卵」の艶に驚く

温泉の湯で卵を茹でるとこのような半熟卵が出来上がることから「温泉卵」の愛称で呼ばれている。通常、人が浸かる温泉は40度前後だが、温泉卵に適した温度は65~68℃程度だと云い、これに30分程度浸けておくことで理想的な硬さの温泉卵が出来上がるのだ。

通常の半熟卵との違いは、黄身が程よく固まっているのに白身がとろっと生煮えなことだ。ともにとろっとした食感で白身、黄身とも同様に味わえる。

温泉卵と云う名称とは多少イメージにギャップがあるが、冷めても美味いのがまた温泉卵の醍醐味である。冷えてつるっとして艶やかな温泉卵の白身を割って黄身を出すときのドキドキ感はまた格別な味わいである。

練炭が調理の決め手である「モツ焼肉」を喰らう

練炭が調理の決め手である「モツ焼肉」を喰らった。炭火の焼肉、殊にモツの焼肉は炭火で完成する。実は練炭料理の究極こそ「モツ焼肉」なのではないかと思っているところだ。モツに練炭は不可欠であり、モツ焼肉を美味しく食するのに練炭こそは必須のアイテムとなっているのだ。

職場の若手女子は先日「練炭を使った料理が食べたい」と、口にしていたので、興味津々のおいらは訊ねていた。

「練炭を使って何が食べたいの?」
「秋刀魚とか、焼き魚が食べたい」
「だったらガスコンロで焼けばいいだろ」
「ガスで焼くと煙が出るので、マンションで禁止されているの」
「そうか…、だから練炭が必要なのか…」

そんなこんなの会話を経てからと云うもの、美味しい練炭料理にありつくことを願っていたところ、思いがけなくも地元のモツ焼き料理店にてこの料理に出くわしていたという訳である。たしかに練炭が無ければ味わえない逸品メニューに違いないのである。

手帳の魔力と重み、軽みについてのエトセトラ

本日、2013年用の手帳を購入した。かといって其れは特別なものではなくて、何の変哲も無い普通の文房具店に並べられていた代物である。

話題の「ほぼ日手帳」やその他有名どころのシステム手帳に食指が動かなかった訳ではないのだが、結局のところで購入したのは、ダイゴーという会社製のポケットサイズの其れであった。

この手帳の基本的仕様はと云えば、月間及び週間のスケジュール記入欄が主を占めているということだ。シンプルに1週間のスケジュール記入欄が基本に置かれている点が何よりの好意的ポイントだ。

先ずは来月2013年1月の旅の日程を書き込んでいた。旅人の旅情を味わうには手帳の一言が何よりの定番的根拠ではある。そして少し先になるが、3月中の地元がステージとなる美術展のことも書き加えた。

日々の予定、スケジュールを立てるにあたり、週単位で思案することが多いのであるが、そんなおいらの基本的行動様式を形成している、云わば週単位的行動術を、この手帳に記入していくことから生じる将来的予測さえ立てることが出来るのではないかと念じているところだ。少なくともTV番組でのくだらない星座占い等よりは余程の根拠ある希望的観測である。

マヤ文明の終末予言は当たらなかった今日、おいらはしとどに酔っ払ってしまった

http://matome.naver.jp/odai/2133253091276802801

ニュースネタにもなっていた、マヤ文明の終末予言報道だが、その教えの終末のときは競うも無い。多少はおいらもこの予言のことを気にしていたので、心の平静をもたらしたいという思いを抱きつつ、途中下車をして、昔行きつけの居酒屋にていつもより長い時間を過ごしていたので、何時もよりは多少オーバー気味に、酔っ払ってしまっていたのだ。

しかもネットで調べれば、マヤ文明の教えは本日が終末ではなくて、新しい時代の始まりだなどと主張されるサイトも散見されており、何が何やらわからなくなってしまいました。
――――――――――
↓新しい時代の始まり?
第5の時代が終わると言う事は、2012年に第6の時代が始まることを意味しているとも解釈できるのです。
より便利で人々の暮らしを変えるようなテクノロジーが生まれる可能性もあります。
2009年12月31日が終われば新たに2010年1月1日が始まるように。
時代の移ろいを示しているに過ぎないのかもしれないのです。
――――――――――