「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を読む

取り立てて秀でている訳でもなく、感動的でもない内容の書籍なのだが、ずっと気にかかっていて、先日古書店にて購入し読了した。
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もともとニート(NEET)で新卒の主人公は、他に当てもなく中小のITプログラミング系の企業に就職してしまうのだが、初日からおおわらわの体験を味わって、現代社会における企業の「ブラック」を認識し、そしてそれに耐えられずに悶々とした日々を過ごすことになる。そして、それら悶々とした日々のあれこれを、某大手の掲示板に吐き出して纏められたというのが、同書の基本的な構成となっている。

サービス残業は当り前。這いつくばって仕事をしていても未来は来ないのは当然なのだが、そんな世界でも一生懸命に働いてみようという若者が存在することこそ不可思議でもあり、世の不条理を冗長させている要因でもある。そんな不条理の世界をこれでもかと見せ付けられる読書体験となってもいるのだ。

「マ男」というハンドルネームが付いて、主人公は粉骨砕身し頑張っていくのだが、次第に矢折れ刀つき、予定調和もままならぬ結末に突き進んでいくことになる。それにしても今時の経営者のモラルハザードは酷い。こういう奴らが少し前には大口叩いて、経営がどうの日本がどうの文化がどうのと云っていたのだからあきれ返る。結末はそれぞれに受け止めて感じ止めて頂きたいと思うのだ。

村上春樹原作映画「ノルウェイの森」の限界〔1〕

村上春樹さんの原作、ベトナム系フランス人トラン・アン・ユン監督による映画「ノルウェイの森」を、遅ればせながら鑑賞した。単行本、文庫本を併せ総計1000万部以上を売り上げたヒット作が原作ということもあり、書店では毎日、同映画のPRビデオが流れている。懐かしいビートルズのメロディーがあれだけ流されていると、見ない訳には行かなくなってくるもんだ。仕方ない、見てみるか…。初めから過度な期待は持たずに府中の映画館へと向かった。

http://www.norway-mori.com/top.html

本編が流れて数分後に驚かされた。なんと糸井重里さんが大学教授役で出演し、ギリシャ悲劇についての講演を行なっているではないか。村上&糸井コンビで共著を持っている二人の仲だからこんな配役もあるかと、妙に納得させられる。村上ワールドの案内役として、うってつけの人選である。

スタッフカメラマン、マーク・リー・ビンビンによるカメラワークも悪くない。長回しシーンにも独特の揺れがある。常にカメラの視線が揺れている。決してうるさくも不安定さも感じさせることなく動いている。成程、村上ワールドの表現者としてのことだけはあるなと思う。監督とカメラマンとの良いコンビネーションだ。

だが直子役の菊地凛子ちゃんはちといただけない。元々村上春樹の大ファンでありオーディションでも積極的にアピールしたというのだが、彼女にこの役は不向きだろう。国際女優であり美人でもある。だがやはり、小説の世界の「直子」像を傷つけてしまっていると感じさせずにはおかないのだ。とても純な直子が病気を発症し、謂わば壊れていく様を表現できる資質を感じない。彼女を起用した必然性を感じ取ることが出来ないのだ。とはいえ仮に、井上真央、戸田恵梨香、新垣結衣、等々の人気女優が演じたところで、直子を演じ表現できるという保証など無いだろう。無いものねだりというものである。

もう一人の主役、松山ケンイチは、特段の美男子というではなく丸っこい顔立ちやら雰囲気に、春樹さんの面影があり、好意的に受け止めることが出来た。喋り方もこれならば、村上ワールドに登場する主役として異議は無い。

ところで主役二人の会話は、原作のそれとはだいぶ異なっている。春樹さんは映画制作に先立って、監督やプロデューサーに対して、「僕の台詞は映画向けじゃないから直したほうがいい」と語ったとされている。監督、プロデューサーへのプレッシャーを低減させようとする心遣いだったのかもしれない。細かい処ではあるが、「あれっ、こんな台詞があったっけな?」という違和感を持ってしまった。納得できないところも何箇所かあるので、これから原作を読み直して検証したいと思っているところなのだ。

なぎら健壱さんの「夕べもここにいた!」は正しい呑兵衛の手引書なり

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正しい呑兵衛の為の手引書として手元に置いておきたい1冊なり。類書に太田和彦氏の著書等が挙げられようが、どうも彼の書いたものはお高く留まっていていけ好かない。「まったりとして至高の味わいが」云々といった表現は流石に見つからないが、似た様なお説教臭さがぷんぷんと漂っている。何も居酒屋へ飲みに行った先で、海原雄山の講釈など聞きたいとも思わないのだ。

その点、なぎらさんによる同書の方は、講釈臭さが全く無く、純粋に酒とつまみと場所を愛し、呑み仲間との交流を楽しむ精神が満ちている。何しろ懐具合の心配もする必要が無いくらいに安価な店をセレクトしているのだから、普段着気分の好奇心で立ち寄るのにとても便利なのだ。吉祥寺「いせや」をはじめ、行きつけの店が何軒かあるが、まだ知らない処も多い。同書片手にこれから出向いていきたいものである。

ちなみに同書の表紙写真の場所というのが、先日「ハッピー★ホッピー」のライブ鑑賞で訪れた北千住の「虎や」である。お店を借り切っての撮影だったと想像されるが、立ち飲み居酒屋の場になぎらさんは程よく馴染んでおり、微笑ましいくらいだ。

森山大道「路上スナップのススメ」と銀座「RING CUBE」の写真展

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今年8月に出版された森山大道「路上スナップのススメ」を先日購入した。「砂町」「佃島」「銀座」「羽田」「国道」の5章からなり、写真と文章による所謂、大道ワールドへの案内本という印象だ。

タイトルからも判るように、主にカメラマニア、写真学生をターゲットに、撮影術の裏側にスポットが当てられている。大道本としては最新作であり、ここ数年間の大道氏の新作写真や彼の取り組みに接するというだけでも一読の価値がある。仲本剛氏との共著となっているのは、仲本氏が大道氏の撮影に密着し、インタビューを交えて構成されたレポートという形を取っているからである。

写真家として活動を続けて半世紀あまり、ずっと気になる存在でありつつける大道氏。彼と併走するようにして仲本氏はスナップ術を記録し続ける。

「中途半端なコンセプトは捨てて、とにかく撮れ!」

だとか、

「写真に限らず、価値基準みたいな感覚が僕はとても希薄だから、一般的な基準や常識なんて、どうでもいいと思ってるんだよ」

だとかの、所謂「森山大道的語彙」は未だ健在であり、刺激的に心を突き刺してくる。

「路上スナップのススメ」では、デジタルカメラによる作品が目を引く。2008年頃からRICOH製のコンパクト・デジタルカメラを手に撮影された写真群が、同書の半分近くの分量を占めている。

おいらがこの写真群を初めて目にしたのは、2009年春頃に開催された写真展である。銀座の「RING CUBE」ギャラリーにて、「森山大道展 銀座/デジタル」と銘打った、撮り下ろし写真展が開催されていた。それは大道氏による初めてのデジタル写真の発表会でもあった。

銀座4丁目に聳えるギャラリーの作品群には、彼自身の影がそこかしこに見え隠れしていた。あたかもナルシスが鏡に映る自分の分身を愛したごとき光景を彷彿とさせている。散歩する大道氏と彼を追う写真家森山大道との隠れん坊みたいな、シチュエーションであった。

芸術家がナルシシズム的な資質を持つ例は珍しくないが、大道氏に至ってはあの年頃になって、童心に返って、銀座で鬼ごっこやら隠れん坊をしている姿が、とても微笑ましく目に焼き付いてしまったわけなのだ。

広角系レンズ描写が評判のRICOHデジタルだが、実際に撮影してみるとISO高感度設定下でのゴースト、ジャギー等の発生が目立つのが気になっていた。大道氏の作品群も例外ではなくそんなこんなが目立っていたが、そこはさすがに世界の森山大道。大道マジックとでもいうのだろうか、特異な表現効果をあげていた。それは特異な表現論を想起させるくらいの、インパクトを与えるに充分なものだ。

ミラーに映った大道氏の影絵、それはまるでナルシスが湖面に映った自身の姿に恋をしたまさしくその瞬間を写し取った、現代の影絵なのだと信じて疑わなかった。銀座という特異な場所で、探求するというより隠れん坊、鬼ごっこを繰り返す大道童。古希を越えてなお旺盛な彼は、来年4月にはデジタル写真のみの写真集「東京」(仮題)を発表する予定だという。これもまた待ち遠しい。

フォーク界の酒豪新横綱、なぎら健壱が綴る「日本フォーク私的大全」は、今なお一読の価値あり

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昔からフォーク界の酒豪No.1は高田渡さんであり、長らく伝説とされていた。誰もが認める東の正横綱である。そして2位が友川かずき、3位になぎら健壱という格付けが存在していたとされていた。

高田渡さんが鬼籍に入った今となっては1位友川、2位なぎらという格付けになる訳だが、著者のなぎら氏は、自分が友川の格下にランクされることが許せないというのだ。「解せない!」と公然と異を唱えてこの格付けを逆転させてしまった。あるコンサートの前で飲み始めた二人(なぎらと友川)は、最後は両者がへべれけになり、呂律が回らなかったにせよ何とかステージをこなしたなぎらに対して、友川はグーグーと寝てしまったという。それ以来なぎらは友川を凌駕して、酒豪の名をものにしたという訳なのだった。

そんなこんなの微笑ましいエピソードがぎっしりと詰まった「日本フォーク私的大全」は、今なお日本のフォークの歴史を綴った古典として読み継がれている。他の類書には、このような肉声のレポートが無いばかりか、独りよがりのものばかりであり、結果として同書の価値を高めていると云っていい。他の評者の本がほとんど一般読者の支持を得られなかったのに対して、なぎら本だけが長く読まれ続けられていることは、とても評価に値するのだ。

同書で論じられているアーティストは自分(なぎら健壱)を含めた16人(グループ)。ちなみに商業主義に染まったとして批判される吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、RCサクセションも取り上げられている。私的な交流が基になっているだけあり、そのレポートはとてもリアルで刺激的であり、しかもハートウォーミングである。

話題は変わるが昨今の芸能マスコミを賑わせている市川海老蔵の泥酔暴行事件では、事件発生当初は「テキーラ」の一気飲みが端緒だったと報じられていたが、それが実は「シャンパン」の一気飲みがきっかけで酔い潰れていたというのが真相だと云う事らしい。シャンパンの一気飲みで酔い潰れる下戸相手の大トラ模様だったのかと、至極興ざめではある。

「ネトゲ廃人」(芦崎治著)を量産するネトゲ業界の企み

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「モバゲー」「グリー」「セカンドライフ」「バクロス」等々、ネットゲーム、パソコンゲーム、携帯ゲームのサイトが人気だという。否、人気だとかブームだとかという範疇を越えて、社会現象とも云って良いくらいだ。最初は無料で始められるというのがミソであり、巨大な会員制のネットコミュニティーを形づくっている。その後、様々な有料のアイテムが欲しくなり、ユーザーからの膨大な収益が見込まれるというのだから、ネトゲの関係業界は笑いが止まらない。そんなネットゲームのTVCM市場もひきもきらずに拡大の一途を辿っている。

今回偶々手にして読んだ「ネトゲ廃人(芦崎治著)」には、そんなネトゲにはまってしまった「廃人」たちの生態がレポートされている。リアル世界以上にリアルなネトゲの世界に足を引き込まれて次第にリアルとバーチャルとの境界を逆転させてしまう「廃人」たち。彼らはおそらく、ネトゲ業界に踊らされていることも意識すること無しに没頭しているに違いない。

ネット界全般について云えることだが、ユーザーの多くはコミュニケーションを求めて集って来る。それがリアル社会ではなくバーチャル世界のものであったとしても、意に介することも無い。それどころかリアル社会を差し置いて、バーチャル世界に没頭しつつ、廃人の道を辿ることになる。

同書に登場する「ネトゲ廃人」モデルの多くが、今ではネトゲ廃人を卒業してリアル社会に立ち戻っているという。だが彼らの失ったものは大きい。それは時間という金では買えないものであったり、リアル社会における絆であったり、リアル社会に対するリアルな欲望であったり…。それら若い時間に失ったものを取り戻すことなどもはや不可能だと云えるくらいに奪われてしまうのだ。

かつて「人を食って生きている」と公言した政治家が居たが、ネトゲ業界はまさしく人を食ってその地位を磐石なものにしつつある。

「勝手にふるえてろ」(綿矢りさ著)は、少女を卒業できない等身大のOL小説

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江藤良香という名の、まるでTBSの江藤愛アナウンサーを髣髴とさせるように可憐な、26歳のOLが主人公。彼女には悩みがあり、「イチ」と「ニ」という二人の恋人未満の男の間で揺れている――という設定だ。

前作「夢を与える」では少々背伸びをして非現実的なプロットに違和感を覚えてしまったが、今回の新作は妙に背伸びをすることも無く、26歳女性の等身大の日常が描かれている。作者の綿矢りささんも26歳であり、ある種の私小説的な作品として読むことも可能だ。

とはいえ、若者風俗や甘いラヴストーリーを期待した読者は、少なからず失望するかもしれない。20代も中盤の主人公OLは、未だ男性経験が無く処女であり、理想の恋愛に生きるか? あるいは相手とのときめきの無い相手との現実的な交際を選ぶか? という二者択一に迷ってうろうろと彷徨ってしまう。読者としてみれば、あれこれと彼女の心の悶々のモノローグにつきあわされてしまうことになる。何だか締まらない展開にいらいらさせられるのだが、少女小説で磨いた綿矢さんの独特の筆致が、最後まで読者を連れて離すことはない。

タイトルにもなった「勝手にふるえてろ」という台詞を吐いて、主人公は誰かを突き放すことになる。その誰かというのはそれまでの自分なのかもしれない。こう来たかという展開であって、ある程度は予想の範囲内だが、賢い選択だということはできないだろう。到着点ではなく始まりの一地点であり、まだまだこの先、迷いは続いていくはずだ。

「現代の女の人の気持ちを鮮明に描いたつもりです」と、綿矢りささんは、公式サイトのメッセージで語っている。

http://bunshun.jp/pick-up/furuetero/

未だ初々しい彼女の語り口はとてもうぶであり、癒されるものが無い訳ではない。これからの成長に益々興味が湧いてくる。行け行けどんどんのギャルばかり見せつられ辟易してきた我々としては、たまにはこうした小説も良いものである。

世界の妖怪像を網羅した、水木しげる著「妖怪画談」

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妖怪研究の第一人者こと水木さんがしたためた、一目でわかる画像がふんだんに掲載された入門書である。「水木しげるの世界展」にはその一部が展示されているが、じっくり妖怪世界に浸りたいと、この一冊を購入した。

東北岩手のおしらさま、座敷童子、河童といった妖怪は全国に知られているが、妖怪はそれらばかりでなく、至るところに生息し伝承されている。水木さんは妖怪研究の為に、日本国内のみならず海外へと足を伸ばして、その生態を追究している。戦時中に訪れたパプアニューギニアをはじめ、アフリカ、メキシコ、ペルー、いずれも地域に存在する「霊霊(かみがみ)」の実在を確認している。ニューギニアの「森の霊」を描いたページは、現地の人たちの生活が霊の存在とともにあることを、強烈なイメージとして明らかにしているようだ。

「霊」の字を二つ書いて「霊霊(かみがみ)」と読むのだが、これは実に面白いと書いている。「本来、神様も妖怪も幽霊さんも同じ所の御出身なのだ。」と高察する。

妖精に会いにアイルランドへ行ったり、インディアンの精霊を見に現地へ直行したりと、世界を股にかけている。そんな熱意は、「目に見えない世界」をどのような形にしたのか? という興味からもたらされているという。

子泣きじじい、一反木綿、ぬりかべなど「ゲゲゲの鬼太郎」の登場人物の多くは、民間伝承によって伝えられる妖怪たちの姿が原型になっている。だがこれだけ鮮明な形でキャラクター化されたのは、水木さんの想像力に依っている訳である。主人公の「鬼太郎」はといえば完全なオリジナルであり、その出自等は「墓場の鬼太郎」シリーズによって示されている。「ガロ」「少年マガジン」では「墓場の鬼太郎」として登場していたのだが、テレビアニメ化に伴って現在の「ゲゲゲの鬼太郎」に改題された。どちらがよいということではないが、雑誌時代の「墓場の鬼太郎」は、妖怪たちとの交流の様子がより濃密に描かれている。

寮美千子さんの「雪姫 遠野おしらさま迷宮」は遠野の物語を加速させる

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今秋発行された寮美千子さんの最新小説「雪姫 遠野おしらさま迷宮」を読んで以来、遠野地方の方言に敏感に反応するようになった自分を感じている。東北弁の一つなのだろうが、とても繊細で、極めて情緒豊かな言葉と感じるのだ。わかるわからないの違いを越えて、遠野の言葉はとても懐かしい響きを漂わせている。「おしらさま」の物語もこの遠野の言葉を背景にして、鮮やかな舞台として記憶に染み込んでいく。

この小説の舞台になるのが岩手県の遠野。これまでおいらも何度か訪れたことのある遠野の町は、今では岩手山間部の中核都市だが、都市とは云い難い特別な磁場を発している特別な町である。民俗学者・柳田國男の「遠野物語」、あるいは写真家・森山大道の「遠野物語」の舞台として有名なのだが、寮さんの新作小説は、さらに鮮やかな風を吹き込んでいくかのようだ。

「オシラサマを相続して欲しい」という依頼を受けて、主人公の雪姫が辿る迷宮の物語。詳細はネタバレにも繋がるので避けるが、この地方の妖艶でありながら懐かしい妖怪が色々に出没するドラマの展開を辿りながら、ある種のカタストロフィーの愉悦とでも云うような感慨を抱いたのでした。

またこの小説の中には「ひっつみ」「割り干し大根」等のおいらの大好きな岩手の料理たちが、ピリリと光る脇役として登場していて、さらに物語世界に引っ張り込まれてしまったのでありました。

「プレカリアート」は果たして現代の「デラシネ」か?

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この「プレカリアート」とは、作家の雨宮処凛さんが我が国に広めた言葉のことを指している。彼女の著書「プレカリアート」にて冷静かつ徹底したその現状分析が示されている。

「プレカリアート」の定義とは「不安定な雇用・労働条件における非正規雇用者・失業者を総称していう」とされている。元々はイタリア語で「Precario(不安定な)」と「Proletariato(プロレタリアート)」とを掛けてつくられた造語である。イタリアの若者が路上でこの言葉を落書きとして書き記し、国境を越えて全世界に広まった。日本のみならず、グローバル化した先進資本主義社会の中で、若者の貧困化、不安定化が進行している。そんな背景から自然発生的に広まったキーワードなのだ。

経済のグローバル化は新自由主義という美名の基、世界各国に新しい貧困と不安定な暮らしをもたらしたことは、いまや誰もが認識する実態である。だが、貧困、不安定生活は、厳として過去にもずっと存在していた。そんなある時代の不安定生活を表現していた言葉が「デラシネ」である。

一般的に「デラシネ」とは「根無し草」と翻訳される。「根こそぎにされた」という意味のフランス語が語源である。かつて作家の五木寛之氏は「デラシネの旗」という作品において、学生運動への傾斜やその挫折観からの独自の世界観を描いていた。詳細については失念したが、自らの強い意思にてそのデラシネ的生活を求める、求道者的な世界観が背景に見て取れてもいたのだ。

その当時、体制や伝統に背をそむけるという生き方は今以上のエネルギーを必要としたであろうし、今以上に経済的困窮を視野に入れねばならなかったに違いない。だがそれは、自らの祖国や伝統、体制に背を向けてこそ手に入れる生活。たとえ生活は困窮しようとも、受け入れ得ぬ祖国故郷の浅はかなる仕来たりや伝統から身を引き離すことで得られる、ロマンがこもった世界観だとも云える。そんな作家として自立する思想的な営為が、とても鮮やかなものとして感じ取られていたものだ。

時代は移り行き、改めて「プレカリアート」の不安定的現状を考えるに、自ら選択して選ぶことをせずに、不安定生活を強いられてしまう現代の若者は、デラシネ的なロマンをも持つことができないでいる。フリーターでも何とかなるし、生活保護も受ければ良いといった、社会全体の甘えや弛みがそうさせているのかもしれない。一体こんな日本に誰がしたのだ。

つげ義春「無能の人・日の戯れ」にみる優雅なヒモ生活

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近頃は書店に出向いても中々、読みたい本には出くわすことが少なくなった。殊に「人気作家コーナー」「売上ベスト◎◎」といったコーナーを覗くたびに、そんな思いを強くするばかりなり。知人の紹介や書評で興味を抱いた書籍は、Amazonで注文した方が手っ取り早く、無駄な時間を過ごすことも無い。

では一体おいらが読みたかったものは何なのか? と自問自答してみて押入れから取り出したのが、つげ義春さんの「無能の人・日の戯れ」という一冊だった。ご存知、古典的漫画の一冊である。「ねじ式」という作品で著者・つげ義春さんはカルト的な人気・評価を博した後に、かなりの年月を経て発表された作品集となっている。

名作「ねじ式」により、奇才的漫画家としての評価を磐石とさせたつげ義春さんではあったが、その後の生活はといえば、順風満帆だったとは云い難かったようである。漫画の依頼注文も無くなり、生活のかてのほとんどは奥さんが賄っていたらしい。いわばヒモ的な日々の戯れを本書ではモチーフとしている。それは世の男にとってはとても羨ましい。羨望の的と云ってよい。おそらく世の男性の多くがこんなヒモ的な生活に憧れを抱いているのではなかろうか? 

だが誰もがこんな生活が出来る訳ではなくして、ヒモになれる限られた男でしかない。経済的無力でありながらかつ男としての営為を発揮する。そのようなヒモ的資質は特権的なものである。かつてのとろん、高田渡、…その生活を謳歌したのは、ほとんど限られた特別な人間でしかなかったのだ。

「染み入る」本が中々見つからない

さてこの古典的書物を読みたくなった理由を自問して、おいらは心に染み入る本を求めていることに今更ながらに気付いたと云ってよい。「染み入る本」と書いたのは、近頃のベストセラー本にはそうした「染み入る」要素を認め難いという認識を抱いているからに他ならない。

東野圭吾、宮部みゆき、江國香織、市川拓司、桜庭一樹、等々といった当代ベストセラー作家達には、エンターティメント的上手さや時流に乗った嗅覚の見事さを感じるが、それ以外の「染み入る」要素が感じられないのである。作家それぞれに対しては別段に嫌味な評価はするつもりもないのだが、やはり読書欲を刺激されるものでは無くなってしまった。

雨宮処凛著「排除の空気に唾を吐け」が示す現代日本の実態には、決して目を背けてはならないのだ

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かつて「雨宮処凛」という作家の名前を初めて知ったのは、何かの雑誌インタビュー記事だった。内容はと云えば、彼女が「プレカリアート」という言葉を日本に広めた作家ということだったと記憶する。新書「プレカリアート」(洋泉社)にはその言葉の「プレカリアート」の定義や誕生、実態等について詳述されている。その後、彼女に関心を抱きつつ何編かの小説作品に接していたが、独特の癖のある情念的な描写が気にかかっていた。

今回読んだ「排除の空気に唾を吐け」もまた、極めて情念的なタイトルがまず鼻について仕方がなかった。ところが読み進めていくにつれ、そこにレポートされている迫真性に、まさしく気圧されてしまったのだ。

この新書を通してレポートされているものは、現代日本のいびつな姿に他ならない。その切羽詰った現状を思い知らされたと云っても過言ではない。

新書全編を通して、職を奪われ、生存を奪われ、排除されていく、行き場のない人々の姿がつまびらかにされていく。中でも驚きに耐え難いのが、加藤智大(秋葉原連続殺傷事件の犯人)と造田博(池袋通り魔事件の犯人)とに関するくだりである。両者はともに労働の現場で疎外を受けていた。「疎外」という言葉はおいらが青春期の頃によく使っていた言葉ではあるのだが、現状はそれ以上に深刻である。生存を脅かせるくらいの「排除」が進行しているのだ。驚くことに両者は同じ派遣会社(日研総業)と派遣先(関東自動車工業)に身を置いていたことがあるということなのだ。

当初はおいらも情念的だと考えていた「排除」という概念が、とてもリアルな現実的事象に感じざるを得なかったのである。そして今なおこの流れは止まることがない。その大きな流れを作り出したのが、小泉純一郎と竹中平蔵による自由主義的経済政策であり、当時の内閣が負う全ての政治的政策であったことを記しておく。小泉・竹中流の「自己責任論」が招来した悪しきしわ寄せの数々の実例を、これでもかこれでもかと提示していく。そんな作家の筆力には脱帽の思いである。

さらに、この稿を閉めるにあたり、とても心を動かされた同著の中の一文を紹介引用しておきたい。

(以下引用)-----------
「心の闇」という、何か言っているようで何も言っていない一言で済まされたことが、やっと今、「社会的排除」の問題として捉えられようとしている。
(引用終了)-----------

苫米地英人著「洗脳力」の主張は自己啓発書の類いを一掃するか

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我が国における脳機能科学の第一人者、苫米地英人氏により、本年2010年7月に発行された。帯には「本書の悪用を禁じます。」とある。オウム真理教信者への脱洗脳の活動家としても著名な著者が、ついにその洗脳方法のノウハウを明かすのか? といった興味で読み進めたが、そんな下世話な話題とは一線を画して論理は展開していく。

率直に云えば、書名や帯のキャッチコピーから想像する内容とは程遠いものがある。具体的な洗脳方法については、版権の問題も生じそうなので記すことを控えるが、扱っているのは6章のうちの最終章のみである。それまでの章にて、自分自身の心や夢をコントロールするための方法論が述べられていく。

現代世界を覆うグローバルスタンダードといった前提、価値観を根底から疑い、そこに分析のメスを入れようとする試みが行われている。キリスト教から仏教、禅宗、道教、等々の教えのコアを、苫米地氏ならではの統合化によって解き明かそうという試みが展開されていく。あるいは「アンカー」「トリガー」といった心理分析的概念による夢の実現法といった展開も進められていく。

我が国における多くのビジネス書、自己啓発書には見られない展開ではある。もとより自己啓発書の類いに大いなる侮蔑の視線を隠さない著者、苫米地氏だからこそできる主張に触れてみるのは悪くない。貴重な読書体験といえるだろう。

藤原新也さんの新境地を築いた名著「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

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清々しい掌編小説のような物語が重なり合って、特異な本の世界が築かれている。テーマをあえて述べるならば、「生」と「喪失」とでも云えようか? 古くから作家・藤原新也さんが追求してきた最も重要なテーマだが、その表現方法やスタイルは少々意外な感じがする。それくらいに、以前の作品群とは異質の味付けが施されているのだ。

云わば敗者の視線でこの世を解き明かす試みとでも云えようか。作家自身の市井の人々との交友が、その素材として選ばれている。新也さんの世界観が新しい素材を得て、新しい物語を紡ぎだしている。表面的なインパクトは影を潜め、代わりに立ち昇ってくるのは充溢した生の存在感だ。極めて強く共感される生の存在感が匂い立っているような、不思議な物語が詰まった、稀有な一冊なのである。

改めて記すが、藤原新也さんといえば、写真家、或いはエッセイスト、ジャーナリスト等々の顔を持つ、マルチな才能を発揮して活動を続けるアーティストである。生と死に対する洞察力は、我が国の文化人の中でも抜きん出ており、写真やドローイングという作業を通してそのイメージを可視化させている。その手技、方法論に驚かされるばかりでなく、彼の底流に流れる思想性が滲み出ていて、感動させずにはおかない。

ときに「真実」と一体として存在する世界の「闇」を、独特のイメージとして現出させたりもする。漆黒の闇を写し取ることに関していえば、藤原新也氏以外のアーティストは存在感を失っていく。世界に唯一人ともいえるくらいに、漆黒の闇の表現者としては稀有なアーティストなのだ。

平野啓一郎×梅田望夫の対談集「ウェブ人間論」

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昨日に続き、平野啓一郎氏に関する話題。「ウェブ人間論」とは、紹介した新進気鋭の芥川賞作家・平野啓一郎氏と、「ウェブ進化論」の著者・梅田望夫氏との対談をまとめたもの。両者に共通した関心事である「ウェブ」をテーマにしつつ、とりわけ「ウェブ人間」に焦点を当てて議論が展開する。平野氏が前書きを書き、彼自らがこの対談を提案して実現したことを認めている。

全体的な流れとしては、小説家、表現者としての平野氏が様々な疑問をぶつけ、ウェブ専門家の梅田氏がそれに答えていくというものだ。

デジタルブック等の出現における著作権の問題についても、両者ともに重大な関心を持っている。ことに平野氏においては身に降りかかる切実な問題として捉えていることがわかる。

軽く読めてポイントが捉えやすい。お勧めの一冊。

平野啓一郎著「顔のない裸体たち」は、ネット社会を掻き毟る意欲作

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芥川賞作家・平野啓一郎氏によるネット社会をテーマにした文学作品。特にネット人類達の秘められた性生活にスポットが当てられており、中々の意欲作である。

作家本人の公式サイトの作品解説によれば、「人格が漂流するネット空間を舞台に、顰蹙の中でしか生きられない男女の特異な性意識と暴力衝動に迫る衝撃作!」とある。意表を突く言葉遣いに驚かされるが、所謂「変態」「淫靡」「猥褻」等々の実存的内実を、作家なりに表現しなおしたものと捉えれば納得がいく。

物語は平凡な中学教師の「ミッキー(吉田希美子)」と、こちらも風采の上がらない公務員の「ミッチー(片原盈)」の男女2名が主人公となる。出会い系サイトを通して知り合った2人はたがが外れたように淫靡な世界へと突き進む。ネット空間というメディアのフィルターを通した、変態ストーリーを軸に展開されていくのだ。愛無き憎悪の変態プレイとでも云おうか。もっとありていに云えば、投稿雑誌、投稿サイト等に繰り広げられる露出趣味の性的プレイに嵌まり込んでいくという訳である。

表題の「顔のない裸体たち」というのは、モザイク処理で顔を消された写真を指している。デジカメの普及とともに、投稿サイト、投稿雑誌の類にはそうした「顔のない裸体たち」が氾濫するようにもなった。これもまた若手作家のラディカルな思いが篭った、意表を突いたネーミングだと云えるだろう。そしてそれがまた、現代社会の隠された相貌を抉り出すことにもつながっている。

ネット社会という匿名性の殻の中で演じられる変態プレイは、決してリアルと訣別した行為ではあり得ずにエスカレートしつつ、滑稽な現実とショートしていく。風俗を素材として取り上げながら風俗小説に終わらせない為に、作家は様々な仕掛けを施している。風俗を描写するのではなく、それを掻き毟っていこうとする意思の表れだと捉えることも可能である。

作品中には妙に分析的な作家の言葉が顔を出し、ところどころでストーリーの邪魔をしていくのだ。それはある意味の才気を噴出させているのだが、あまりスマートではなく、万人を納得させるものとは云い難い。幼稚さもあれば偏見も感じ取れる。ただし、実験的に様々なスタイルを取り入れようとしている姿勢には感嘆させられるものがある。決して読後感は良くはないのだが、稀有な読書体験であることを、実感したのだ。

桐野夏生著「東京島」は、女視点で女性の怖さを描いている

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桐野夏生氏の話題作「東京島」を読んだ。現在同名の映画がロードショー公開中であり、TVCMその他で物語の独特な設定やセンセーショナルなテーマが盛んに喧伝されているので、興味を持った人も多いに違いない。映画が公開されていることを知って、先日あえてこの原作本を購入したという訳である。

その昔「映画が先か、原作が先か」といった映画CMのキャッチコピーが踊っていたことがある。その伝でいけば、さしずめおいらの志向性は「原作が先」ということになる。当時、メディア・ミックスという言葉もマスコミ関係者を中心に氾濫し、メディア・ミックスにあらずんば先進メディアにあらずというくらいの、文化風俗を席巻した俗説だったと云えよう。

物語の登場人物は、世界一周クルーザー途中の難破舟から無人島に辿り着いた一組の男女夫婦、そして後から同様に難破舟で漂着したフリーターの若者たちである。後に「東京島」と名付けられた無人島の島人は、31人の男とたった1人の女(清子)。極めて特異なシチュエーションの無人島を舞台にしてドラマは進行する。

読了した第一印象はいささか陳腐な言葉になるが、やはり女性の逞しさ、そして根源的な畏怖の存在感を強烈なイメージを通して感じさせたといったところだろうか? 女性人気作家が女性の視点から男と女の性をカリカチュアとして描いたストーリーと捉えることも可能だ。あくまで女が無人島の規律を司るかのような物語の流れは、男にとっては衝撃的な展開である。あくまで物語の中の話だとは云え、徹底して女性目線のストーリーが展開されていくようだ。

だがこの物語を、現代日本の縮図として捉えることには無理がある。作者もそんな意図は無いであろう。一部の批評家たちによってなされるこのような評論は無効である。もっとプリミティブな架空のストーリーとして物語を捉えたい。

夫婦として流れ着いた夫は、無人島という過酷な環境に適応することが出来ずに衰弱し、ついにはあっけなく生命を落とすことになる。夫の「死」の原因はつまびらかにされることがないのだが、31-1名の誰かの嫉妬が原因による殺人だ…という、云わばサスペンス仕立ての味付けなどが添付されながら、ストーリーは曲線的かつ重層的な軌跡を描いていくのだ。この程度のストーリー解説はネタ晴らしには当たらないだろう。もし気になった人にはご容赦願いたい。

「メディアの発達と人間の精神の発達は、無関係だ」(吉本隆明氏「悪人正機」の語録より)

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上記に引用したのは、吉本隆明さんと糸井重里さんとの共著「悪人正機」の一説に示された言葉である。「無関係だ」という素っ気無い一言の中にこそ真実が潜んでいる。

いまや国会議員ともなり出世した有田芳生氏は、かつて「ネット人格は矯正不能です」と述べていたのだが、それに比べれはとても温かな人情味溢れる言葉として受け取ることが可能である。

人間の基本は「魂」「心」の存在に依拠している。であるからしていかにしてネット等のメディアが発達しようとも、あるいは猛威をおよぼそうとも、メディアによる情報操作が及ぶのは末梢的な出来事に過ぎないのであり、それ自体が不毛な論議であるということを、吉本隆明さんはとてつもなく朴訥とした言葉によって語っているのである。う~む、深い箴言である。流石だ!

藤原新也「死ぬな生きろ」を読んで思う

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藤原新也さんが上梓した新刊本「死ぬな生きろ」は、出版界のみならず様々なジャンルの人々に衝撃的に受け止められているようだ。その最たるターゲット、矛先となっているのが写真界。

「写真はアナログに限る」「フィルムの良さはデジタルには適わない」等々のアナログ至上主義の風潮は未だに根深いものがあるが、新也さんはあっさりとそうした風潮をしりぞける。

藤原新也さんは、昨今のデジタル写真の世界に対しても、積極的に関与していこうという強い意識を感じ取るのである。その為の様々な実験や研鑽を積み重ねている。その成果が新刊本「死ぬな生きろ」に凝縮されている。

さらにまた新しい試みとして「書」に取り組んでいる姿が読者にインパクトを与えている。これまでエッセイ、ドキュメント、等々のスタイルで大きな足跡を築いてきた彼だが、まったく新しい「書」という表現のジャンルを取り入れることにより、藤原さん自ら新しい表現スタイルに挑戦する意思を公にしたとも云える。余計な「意味」というものをぎりぎりまでに排除することで浮かび上がってくるもの、それを表現と呼んで良いのかわからないが、固陋な出版業界に新鮮な風を吹かせていることは明らかな事実なのである。

ジャン-ノエル・ジャンヌネー著「Googleとの闘い」

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インターネットにおける膨大な情報の「階層性」を意のままにする存在、そのようなグーグルによる情報支配に対して、フランス人の著者は、敢然と闘いを挑んでいる。

―――――以下引用
「陳列棚(ゴンドラーエントリ)」の原則は、我々の直面する大きなリスクを意味する。それはグーグル・ブック・サーチの結果のランク付け(あるいは階層性)に関わっている。選択は検索エンジンが機能する方法に基づいているから、その選択の方法こそ問わなければならない。
―――――以下終了

今やGoogleは、情報世界を牛耳る一人勝ちの存在である。我が国においてもYahoo陣営はGoogleの検索エンジンを利用することとなり、軍門に下った格好となった。我々日本人にとっても、大変示唆に富んでいる。お勧めの一冊。