インパクトを増した川上弘美さんの短編集「どこから行っても遠い町」

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文庫版の新刊コーナーにならべられていて、その魅力的なタイトルに惹かれて手に取ったところ、そのまま魅了されて購入して読み進めていた一冊だ。最近のおいらの読書傾向でもあった、途中で読書放棄などすることなく、云わば順調に読了することを可能にし読み終えたのだった。

かつて芥川賞受賞作「蛇を踏む」に接し、川上さんの独特で不思議な作品世界に魅了されて以来、文芸誌等では何度か彼女の作品を読んだことはあったにせよ、まとまった作品集として読み進めたのは稀であった。

今回手に取った作品集は予想以上にわくわくさせられた。尚且つ以前の川上さんの作品から得た手応えとは異質のものであったのだ。

今回の作品集から独特な手応えとして受け止めていたものは、何だったのかを改めて考えてみた。その一つが死者からの視線だ。

この小説集では何人もが死んでいる。何人もの死者が登場するばかりか、死者がいなければ成り立たないプロットで物語が進められていく。連作短編集として重要な某章ではなんと、死者が主人公を張っているくらいなのだから、おいらの分析もなまじ外れているとは云えないのだ。死者と生者との交流といったやや劇薬じみた味付けを加味されながら、実に川上さん一流のドラマが流れていく。そんな物語を追いつつ、読者としての恍惚感やカタストロフィーに浸ることが出来たのだ。まさに傑作短編集に値する一冊だったのだ。

一見日常的な体裁をまとっていながら、実は非日常的なプロットを、作者はそっと提供しつつ、物語を一段と高い人々の日常生活に持っていくのだが、そんな作家の狙いはそれこそまさに川上さんの独壇場とも云えるのだ。

色川武大氏偏愛の「鮭のまぜ御飯」は流石に美味だった

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先日ふとしたきっかけで、色川武大氏の「喰いたい放題」の文庫本が目に止まって読んでいるのだが、なかなか興味と食欲とをそそられる内容だ。

相当な食いしん坊であった色川氏は、まあ相当な偏愛的美食家でもあったと見える。冷やしワンタンから始まり松茸鍋、上海蟹、鱈子、鰻、等々はまずは定番だが、一番食べたいものが「御飯」、そして副食物の極め付けが「ふりかけ」と云うんだから本物である。

そして、本物食いしん坊の色川氏の同書で、何度も登場するのが「鮭のまぜ御飯」なのだった。一塩の鮭の身をほぐして、大場を揉んだやつと混ぜ合わせる、というこれだけのレシピ。これが何度も登場しているのでついつい作りたくなり、バーチャル食欲が湧き上がっていたと云うことなのだ。

そうして作ってみたのが上の写真である。煎りゴマなどを添えて多少のオリジナルを演出してみた。難しい調理法などは全然採用されていないが、食べたところこれがなかなかの味のハーモニーだった。一流の料理とは素材と素材のハーモニーであることがよく分かる。流石は本物食いしん坊だけのことはある。

町田康氏の処女作「くっすん大黒」に感動したのだ

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何だかんだありながらも「町田康」という存在はとても気になる作家である。

駄作や傑作を産み出しながら、最近の作品にはなかなか満点をあげることも出来つついたのだった。だが先日は彼の処女作「くっすん大黒」を目にして衝動買いし、あらためて読んでみることにしたのだった。

酒浸りになり顔かたちも醜く変わってしまった主人公は、妻からも逃げられ、生活を立て直そうとしてかごみの整理をしていたところ、大黒様の処理に困ってしまって、あたふたとしてしまい、逍遥の旅に向かう、と云うのがストーリー。だが物語は一筋縄ではいかずに、はちゃ滅茶の展開を取りつつ進行していく。

パンク作家の処女作らしきアナーキーな展開はドラマツルギーに溢れており、好感度を加速させていく。最近の町田康氏作品に見るようなワンパターンの構成や落ちの白々しさは無く、見事である。芥川賞作家の処女作品ならではの力作なり。

パンク作家でなくても多くの現代人が経験しているであろう日常の倦厭や拒否感からワープして導かれるドラマ仕立てのストーリーは荒唐無稽であるが、感情移入もし易くあり、高感度的パンク作品に相応しいといえるだろう。

大竹昭子さんの「図鑑少年」に嵌ったのだ

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「大竹昭子」という名前はとても気になる名前である。過去何度か、写真評論の文章に接していたが、作家や作品への洞察を通して時代の息遣いが渦巻いており、それを濃厚で香り高い料理を口にした時の様な刺激とともに感じ取ることができたのだ。

昨年10月に文庫本として出版された「図鑑少年」は、雑誌「SWITCH」と「フォトコニカ」に掲載されたものを纏めた小品集で、初出は1999年3月、小学館発行とある。小説も書いているんだなという興味で読み始めたが、久々にのめり込むことができた1冊であった。

決して新しい作品ではないが今読んでも色あせることの無い、現代人の息遣いが横溢している。大都会とそこに蠢き漂流している人間達との関係性が、まるで都会からの視点で描かれている様な不思議な感覚に包み込まれるのだ。何気ない日常と不可思議なストーリーを結びつけるのは希有な作家の想像力だが、それ以上に深い非日常性の魅力に嵌ってしまうのだ。傑作小説集と云うべきである。

町田康氏の「東京飄然」は煎じ詰めれば詰まらない1冊だった

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おいらは現在、読書進行中の書籍が数冊在る。別段改まってのたもうような事柄で無いことは重々承知なのだが、今日は改まって記したくなってしまったので、何とも面映い心持ながら個人的事情も鑑みて寛大な評価をいただきたいとも思いつつ、それでは次の章に突入するのだ。

実は我が国の栄えある芥川賞、直木賞、あるいはそれ以上に人気抜群のカリスマ作家達を含んでいるのであり、これまで軽々に話題にすることさえ憚られていたのである。つまりはこれらの書籍を読了できずに中途半端に放っているという状況とはすなわち、読書のスピードが上がらずにもたもたしている様を示しており、煎じ詰めればつまりは該当の著書が面白くない、詰まらない内容だということを意味しており、そんな様を、ブログという半公共的な媒体にて表明してよいモノかと悩んでもいたのだ。だが悩みは人を廃人にかすことあれども人を強くすることもままありなんなのである。そして本日おいらは半分くらいのところを読み終えたところで「飄然」と悟ったのだ。「詰まらない本を詰まらないから読んだりしないで他の時間に費やしましょう」というメッセことージを堂々として発信することにより、我が国の文学愛好家たちの役に立つことが出来るのではないかと。そうしなないことには我が国の文学愛好家達は何時かはこの「東京飄然」を読むことになるし、そしてその延長として他の有意義な書物に接する機会を逸してしまっているということになるのだ。ここは腹をくくって、いかに立派で厳かな芥川賞作家の先生の本を読んでも詰まらなかったということを、公開することに決めたのだった。

半分以上のところまで読み進めていたのでこの本のスタイルやポリシー、今時の言葉で言えばマニュフェスト的なる代物といった代物については把握している。「飄然」として東京都内を旅することをテーマにして、作家町田康氏が独りあるいは友人を引き連れて飄然と旅に出るのだが、この「飄然」の意味や風合いやその他諸々をこの芥川賞作家は少々はき違えており、なかんずく「飄然」が「漫然」の対語である等というしゃらくさい薀蓄を述べたり、王子近くの飛鳥山公園や江ノ島・鎌倉旅行を「失敗だった」と書き記し、そんなことしながら1万円以上のディナーに耽ったりという、作家風情を肩に切って歩いている様子には辟易したものであったのだ。

実はこの先を読み進めるべきかどうかは未だ迷っているところだが、素読みしていたところ、中央線沿線の旅も似たかよったかの様であるのでこの辺で止めに入るのが妥当であろう。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

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一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

村上春樹さんのカタルーニャ賞受賞スピーチ

スペインの「カタルーニャ賞」を受賞した村上春樹さんのスピーチ内容を記録しておきます。twitterでも呟いたのだが、こういう大切なメッセージは、何よりも日本国民に対して発せられるのが必要だと感じている。日本国民が村上春樹さんのメッセージを素直に受け取れ、次の行動に移せる、真っ当なる、誇れる国民であることを信じて、ここに掲載したいと思う次第なのだ。

―――――――
この前僕がバルセロナを訪れたのは、2年前の春のことでした。サイン会を開いたとき、たくさんの人が集まってくれて、1時間半かけてもサインしきれないほどでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性読者が僕にキスを求めたからです。僕は世界中のいろんなところでサイン会を開いてきましたが、女性読者にキスを求められたのは、このバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがよくわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい都市に、戻ってくることができて、とても幸福に思います。

ただ残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

ご存じのように、去る3月11日午後2時46分、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転がわずかに速くなり、1日が100万分の1.8秒短くなるという規模の地震でした。

地震そのものの被害も甚大でしたが、その後に襲ってきた津波の残した爪痕はすさまじいものでした。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ遅れ、2万4千人近くがその犠牲となり、そのうちの9千人近くはまだ行方不明のままです。多くの人々はおそらく冷たい海の底に今も沈んでいるのでしょう。それを思うと、もし自分がそういう立場になっていたらと思うと、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せてしまった町や村もいくつかあります。生きる希望をむしり取られてしまった人々も数多くいらっしゃいます。

日本人であるということは、多くの自然災害と一緒に生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になります。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。それから各地で活発な火山活動があります。日本には現在108の活動中の火山があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートに乗っかるようなかっこうで、危なっかしく位置しています。つまりいわば地震の巣の上で生活を送っているようなものです。
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広瀬隆著「福島原発メルトダウン」の深く意味するところ

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本書の序章の記述によれば、4月27日頃には脱稿されていたという。この時系列的事実は大変に貴重な意味合いを有している。数日前においらは手にして読んだばかりの緊急出版による1冊である。

書名は「福島原発メルトダウン」である。シンプルかつ甚大なメッセージ性を孕んだ書名である。

本書を読み進めれば誰もが納得することだが、3.11の大震災及び大それに伴う津波によってもたらされた今回の「福島原発メルトダウン」現象の仔細の解説等々については、本書以上に有益な書物は無いと断言してよいくらいだ。

そもそも水素爆発が発生した時点にて「メルトダウン(炉心溶融)」が無いはずが無かったのだが、当時の東電関係者及び政府関係者はその事実をひた隠しにしようとしていたという状況が存在している。

最近になって東電関係者が「メルトダウン」を認めたという成り行きは、とても馬鹿馬鹿しくあり、お粗末の極みであった。いずれ認めなくてはいけなくなるものを、ここまでに引きずっていき、仕舞いには、「メルトダウンでした」というような愚弄なる説明では、最早収拾できないくらいの状況にあるということを誰もが認識すべきだ。

最終章にて著者は語っている。

「私は、どうすればいいか、分からないのです。こういう事態になったときに対処できないことが分かっているから原発に反対してきたのです。対策があるなら、反対はしません。勿論、「原発は絶対安全」と言い張ってきた政府も東京電力も、放射能漏れを起こした原子炉をどうするのか、そのような対策なんて想定すらしていません。」

おいらを含めて最小限の知見ある人間ならば、そんな状況の異常さについては認識し得ていたことだろう。そんな事実を、明らかにできなかったことを関係者の全てが反省すべきである。

「反省」という漢字の2文字はフッと息を掛ければ飛ばされるくらいの軽い現象になったかにも見えるが、事実としてはそうであってはならない。そのことを強く主張して、良き「反省」の実態を明らかにしていきたいとおいらもまた考えているところなのだ。

建築写真集「Kobaken Archit Photo」(小林研二写真事務所)を発行しました

みどり企画の出版事業部「みどり企画出版」では、このほど建築写真集「Kobaken Archit Photo」を発行しました。

小林研二写真事務所のスタッフが撮影した建築写真を纏めた写真集です。

ご注文はこちらからお願いします。

http://midorishop.cart.fc2.com/ca0/1/p-r-s/

■Kobaken Archit Photo
著者:株式会社小林研二写真事務所
制作:みどり企画
発行:みどり企画出版
定価:1,050円(税込)
判型:22cm×20cm
頁数:40頁

沖縄コンベンションセンター(沖縄県)
高知県立坂本龍馬記念館(高知県)
豊田市美術館(愛知県)
東京国際フォーラム(千代田区)
山口県総合保健会館(山口県)
M2(世田谷区)
戸板女子短期大学(港区)
東京国際展示場(江東区)
大阪ワールドトレードセンタービルディング(大阪市)v
大阪アメニティーパーク(大阪市)
霞ヶ関中央合同庁舎第7号館(千代田区)
鹿児島県庁舎(鹿児島県)
栃木県庁舎(栃木県)
リバーウォーク北九州(福岡県)
ヤマダ電機本社ビル(群馬県)
長野市オリンピック記念アリーナ(長野県)
トラス・ウォール・ハウス(町田市)K邸(群馬県)
多摩水道改革推進本部庁舎(立川市)
杉並公会堂(杉並区)
アトリウム秋葉原ビル(台東区)
富士ソフト秋葉原ビル(台東区)
三井生命名古屋ビル(愛知県)
グレートアイランド倶楽部クラブハウス(千葉県)
那須野が原ハーモニーホール(栃木県)
四日市ドーム(三重県)
所沢市民体育館(埼玉県)
恵比寿ガーデンプレイス(渋谷区)
トルナーレ日本橋浜町(中央区)
北上市文化交流センター(宮城県)
びわ湖ホール(滋賀県)
日本科学未来館(港区)
ラフォンテ代官山(渋谷区)
プラウド横濱山手(神奈川県)
アクアリーナ川崎(神奈川県)
草加市立病院(埼玉県)
高崎市医療保健センター・新図書館(群馬県)
THE TOKYO TOWERS(中央区)
千葉市美術館(千葉県)

本屋大賞第1位「謎解きはディナーのあとで」(東川篤哉)

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本屋の書店員による投票で受賞作品が決まるという「本屋大賞」に、本年度は「謎解きはディナーのあとで」が選ばれたというので、少々遅ればせながらに読んでみたのです。

一昨年の受賞作品、湊かなえ氏の「告白」の感動を体験していたので期待度は大きかったが、しかしながら読後感としてははなはだ期待外れと云うしかなかった。

先ず第一にこの作品は、筒井康隆氏の「富豪刑事」にヒントを得て創作されているのだが、そのパクリ度の凄まじさは尋常ではない。先達の作品に感化されたとかインスピレーションを得たとかというレベルではなくして、良いところをそっくりと盗んでしまったというくらいのものなのだ。

若手美人女優こと深田恭子の主演でTVドラマ化されヒットしたことから、この手のシチュエーションが大衆の嗜好をキャッチするだろうという計算高い目論見があったことが推察可能である。「富豪刑事」の初出が連作短編集であったが、この本の体裁もまた同様の連作集の形をとっているのだから、徹底しているというのか、えげつないと云うべきなのか…。

しかもこの作品集はといえば、筒井先生の作品のようなスケールの大きな諧謔的の視点は視ることも出来ず、あるのはみみっちい「ユーモア」の数々でしかない。書店員がこの作品のユーモアを褒め称えたことから受賞に至ったということのようなのだが、この程度の「ユーモア」に大騒ぎする書店員の感受性のレベルの低さには、些か驚かされたと云うしかないのだ。

登場人物は、深田恭子のようなお嬢様(宝生麗子)、花形満を俗化したような馬鹿警部(風祭警部)、そして唯一の切れ者の執事(影山)の3人による3者3様の推理を中心に展開していく。短編連作のそれぞれにこのようなシチュエーションがしつこく描かれていく。まるで読者を馬鹿にしているのではないかと感じられるくらいにしつこくそれは繰り返される。犯人や容疑者達の生態も描かれてはいるが、極めてそれらが薄っぺらいのだ。書店員達が絶賛しているというミステリーのレベルはあまり高くは無い。ミステリーマニアではないおいらにもそのくらいのことは判断が出来るのだ。

通常、ミステリーをクライマックスにかかって読み進めるうちに、読み進むスピードがアップしていくものだが、この本ではそんなウキウキ感も感じ取ることが無かった。却ってそのワンパターン的シチュエーションに飽き飽きする気分に蔓延させられたのだ。

結局のところ、この作品が「本屋大賞」なる賞を受賞したという話題性ばかりが先行し、売れ行きは100万部を突破して上々なのだという。書店員の多くがこの程度の「ユーモア」に飛びつき支持し、それを大手マスコミが後生大事に取り上げるという馬鹿げた構図が、いつの間にやら出来上がってしまったということなのであろう。

萩原朔太郎さんの「地面の底の病気の顔」自筆原稿を鑑賞

先日、前橋の「前橋文学館」を訪れたところ、萩原朔太郎さんの代表的作品「地面の底の病気の顔」のとても貴重な自筆原稿に接することができたのでした。

「地面の底の病気の顔」という詩は、詩集「月に吠える」の巻頭にまとめられた朔太郎さんの代表的な詩作品である。ところがこの作品の自筆原稿が長らくアメリカ人のもとにあり目にすることができなかったのだが、このほど所有者から「前橋文学館」へ返納されたというニュースを耳にして、この文学館を訪れてみたのだった。自筆原稿としておさめられているのは下記のようなものなり。

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地面の底に顔があらわれ

さびしい病人の顔があらわれ。

地面の底のくらやみで

うらうら草の茎が萌えそめ

鼠の巣が萌えそめ

巣にこんがらかっている

かずしれぬ髪の毛がふるえ出し

冬至のころの

さびしい病気の地面から

ほそい青竹の根が生えそめ

生えそめ

それがじつにあわれぶかくみえ

けぶれるごとくに視え

じつに、じつに、あわれぶかげに視え

地面の底のくらやみに

さみしい病人の顔があらわれ。

――――――――――――――――――

この詩は、国語の教科書にも載っている有名な「竹」のベースともなっている名詩でもあり、こんな朔太郎さんの代表的な詩の自筆がアメリカ人の手に渡っていたとは至極残念なことでもあったが、今ここにきて帰国できたということを喜びたい気分である。

自筆原稿をながめれば、保存状態の悪さであろう、その用紙は黄茶色に変色しており、ペンの跡をたどる筆跡も、あまり鮮明には見て取ることができない。隣のブースに展示されていた「地面の底の病気の顔」後半部の自筆原稿の現物に比較したならばそれは明白であった。

ところでこの「地面の底の病気の顔」という詩の原型は、北原白秋が主宰していた機関紙の「地上巡礼」の第二号にて発表されており、その原型となった詩篇は多少のところで異なっている。例えば最後の3行の詩には、朔太郎さんの本名が詩篇に反映されており、それだけ個人的な思いが反映されていると感じ取れるのである。

ここではそんな「地面の底の病気の顔」の元詩の最後の3行を締めくくりとして紹介しておこう。

――――――――――――――――――

地面の底のくらやみに

白い朔太郎の顔があらはれ

さびしい病気の顔があらはれ

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■前橋文学館
群馬県前橋市千代田町三丁目12-10
TEL 027-235-8011
休日:月曜日

http:www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

敏子さんあっての岡本太郎だったことを、改めて思う

本年が岡本太郎さんの生誕100周年と云う事情もあり、岡本太郎がおいらにとってのマイブームとなっている。

我が国の美術家たちの中でも太郎さん以外に好きな作家は数多存在しており、青木繁、佐伯祐三、福沢一郎、司修、等々と挙げればきりがないくらいだが、中でも岡本太郎さんくらいにストレートにその生き様に憧憬を抱かされた芸術家は居ないだろう。

上手にマスコミを利用し、操り、ときには道化の役割を担いながらも、彼独自の強烈なメッセージを発し続けた、そんな太郎さんの生き様は、些かも薄れることなく現代にその光彩を放っている。

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本日読んでいたのは「日本の伝統」という一冊。おいらも思春期の頃に熱い思いで読み込んでいた一冊である。元本の「日本の伝統」(光文社刊)の出版が1956年と云うことであり、ゆうに50年以上の月日を過ぎているが、そのメッセージは色褪せることがない。太郎さんが45歳のときの、日本文化全般を扱った名著である。

改めて読み進めるにつれ、言葉の表現力の多彩さ、強烈さ、ユニークさに圧倒させられていた。そしてその陰には、岡本敏子さんというパートナー、実質的な夫人の存在の重みが強く感じられたのである。

敏子さん、旧姓平野敏子さんと太郎さんは、太郎さんが36歳の頃に出会い、それ以来、実質的な妻としての敏子さんの陰日向における活躍があった。太郎さんの難解で突拍子もない言葉の意味を理解しながら、それを一般市民へのわかりやすい言葉として翻訳していく。更にそれのみならず、活き活きとした息遣いが増幅された言葉として、紡ぎだされていたのである。よくある「ゴーストライター」としての仕事を遥かに超えている。まさしく敏子さんあっての岡本太郎のメッセージだったのであった。

余談になるが、何故太郎さんは愛する敏子さんと結婚しなかったのだろうかという疑問が存在している。晩年に敏子さんは太郎さんの「養女」として、岡本籍に入ることになったのだが、何故に妻ではなく養女だったのかという疑問だ。フランスナイズされた「独身主義」を通すためだとか、母親(岡本かの子)の存在が理由であるとかの解説がなされているが、それだけで了解できるとは云いがたいものがある。

仏蘭西滞在時代の太郎さんは相当なプレイボーイであり、ガールフレンドの数はとても多かったという。そして帰国してからの生活はといえば、ガラっと変化してしまったのかもしれない。一人の女性に満足できずにいた太郎さんの姿がイメージされる。

それでも二人は永遠の同士だったのであろう。太郎さんの思いを何倍、何十倍にも増幅させて、敏子さんが言葉を紡いでいく。驚くほど深く強固なパートナーシップであった。

岡本太郎さんの青春が投影された「青春ピカソ」

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岡本太郎さんの生誕100年記念の今年、書店のブックフェアにて「青春ピカソ」を購入し、読了した。

「ピカソに挑み、のり超えることがわれわれの直面する課題である。」という、巨大な意志を持って制作活動を行なった太郎さんによる、極めて個人的なピカソ論となっている。「個人的な」という意味は、ピカソを超えたいという太郎さんの切実な思いに加えて、ピカソという愛するべき存在に自分自身のありうべき姿を投影しているからだろう。

太郎さんは生涯に2度ほど、絵の前に立って涙を流したという。その一つが「セザンヌ」であり、もう一つが「ピカソ」だった。そのときの岡本太郎さんが放ったという言葉が凄い。

「ピカソの作品は私とともに創られつつあるのだ。」というのだから。

その後の太郎さんの活動はまさに、ピカソとともにあったのだろう。果たしてピカソを超えることが出来たのかは不明、否定的であるが、太郎さんだからこそ挑んで花開かせた世界がそこにあった。

島本理生さんの新境地を築いた「真綿荘の住人たち」

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恋愛小説家島本理生さんによる6編の中編小説による連作小説集である。「真綿荘」という奇妙な名前の下宿屋が舞台となっており、そこに棲まう5人の住人たちの、切なくも奇妙な恋愛事情が描かれている。

真綿荘の5名の住人とは、下記のようにユニークだ。

綿貫千鶴(恋愛小説家でもある大家)
真島晴雨(大家の内縁の夫で画家)
大和葉介(北海道出身の下宿の新入り)
山岡 椿(事務員。女子高生の八重子と付き合っている)
鯨井小春(大柄なのがコンプレックスの大学生)

「真綿荘」というネーミングは「真綿で首を絞める」という喩えを連想させて不気味であるが、大家と大家の内縁の夫が経営する下宿屋の名前とあれば、それなりに納得する。恋愛というものはおしなべて真綿で首を絞めるようなものだというメッセージを受け取ってしまう。実はそんなことも無くて、単なる遊びなのかもしれないのだ。作者はそんなこんなのエスプリを楽しみながら創作をしていたのではないか? そんな想像さえ抱かせてしまう。

住人たちの恋愛事情はそれぞれまちまちではあるが、世間一般の、所謂多数派とは距離を置いていて、尚且つそれぞれに少数派であるが故のはくがいを内包している。恋愛にまつわる様々なる痛みというものを内包している、この小説のポジションはとても鮮烈であり、とてもユニークなものだ。

若き恋愛小説家の新境地を築いた作品だと云えるだろう。

今日的私小説の世界を描いた西村賢太の「苦役列車」

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朝吹真理子さんの「きとこわ」と並んで今年上半期の芥川賞受賞作である。

マスコミによる批評の数々を眺めれば、久々の本格的私小説といった評価が並んでいるようだ。同受賞作品を一読したところ、確かに際立って個人的な事柄を題材に、これでもかというくらいにさらけ出し、独特の筆致で物語りにまとめ上げている。

だがどうも、おいらが永い間受け入れてきた「私小説」とは異質なのだ。例えば太宰治、坂口安吾といった昭和の巨匠作家たちのような、芸術文学に殉ずるといった志向性を感じ取ることが出来ない。

西村氏の極私的生活の中でのあれこれは、派遣事業者によって搾取された貧困が故の困窮だったり、父親が猥褻罪で逮捕されたという身内的の恥的体験だったりと、特殊な環境に由来するのだが、それらを越えるテーマが見当たらない。たぶん作家自身によって設定されることがないのではないかと思われるのだ。

私生活を越えるテーマを持ち得ない作家が芥川賞を受賞する意味は、はてな、如何なるものなのだろうか?

中上健次の再来と称する向きもあるようだが、残念ながら、それほどの凄みも感じさせることはみじんもない。

苛酷な労働環境に身を置きつつ「苦役列車」の旅を続ける作家の私生活は惨めで滑稽でさえある。この芥川賞作家は、これからどのような未来を描いてゆくのであろうか? どうでもよいことではあるが、少々の関心は持ち続けていきたいと思うのである。

芥川賞受賞作「きことわ」(朝吹真理子著)の綺麗な日本語に感服

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今年上半期の芥川賞受賞作。とても綺麗な日本語で綴られた小説である。

このところ、日本語の扱い方もわきまえない芸能人作家による作品を立て続けに読んでしまったおいらの身にとってみれば、この作品に表現されている日本語の美しさだけでも、貴重な読書体験と呼びたいくらいに感動的なものだった。

夢をみる永遠子(とわこ)と、夢をみない貴子(きこ)の二人の主人公を巡って物語は進行していく。主な舞台は葉山の別荘である。25年あまりもの時間の中でのあれやこれやが、まるで万華鏡の中を覗いたときの光景のように、ドラマティックかつ極めてデモーニッシュに展開されていくのだ。デモーニッシュではあるが、読後感は決して悪くはない。敢えて書けば却って清々しいという思いさえ抱いたほどだ。

ご存知のように受賞者の朝吹真理子さんは、仏蘭西文学の巨匠ことフランソワーズ・サガンの翻訳家として名高い、朝吹登水子さんを大叔母にもっている。それを知ってか、やはりというのか、サガンの本にも似ていなくもない。もちろんのこと朝吹真理子さんの受賞作には仏蘭西被れなどというものはなく、純粋なくらいに日本的である。日本的過ぎるくらいでもある。

朝吹真理子さんが名門の出身であることから、「銀のスプーンをくわえて産まれた」等と揶揄する声も多いようだ。しかしながら受賞作に描かれている世界は、葉山の別荘が舞台だということを1点除くならば、極めて大衆的な世界が開示されている。例えば、老舗の蕎麦屋が閉まっていたことからやむなく即席ラーメンをすずっていたというような情景が、ここやかしこに示されている。揶揄するほどにはブルジョアではないということを、作家は示したかったのかも知れない等とふと思う。

ここにきて、朝吹登水子さんの翻訳によるフランソワーズ・サガンの小説が至極懐かしく思われてきたのだった。十代思春期の頃の青春の主張を、朝吹さん翻訳のサガンの本が主張していたという思いが強くのしかかっている。

近い将来の朝吹真理子さんは、日本のサガンと呼ばれることであろう。ただしここで指摘したいこと、余計なお節介の一言。彼女の現在において足りないのは、恋愛という極私的な体験であろうということ。それを感じ取ったのはおいらばかりではないだろう。

太田光の自慰的小説「マボロシの鳥」

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古書店で目にした「マボロシの鳥」を購入してしまった。奥付を見ると初出の記載がなく、これまで発表もされなかったものを纏めた書き下ろし作品集のようだ。よほどの自信作かと思い読み進めたのだが。

芸人という人種は自意識過剰を絵に描いたように振舞うのが常だが、それでも足りないとなれば小説に向かうのかもしれない。コント「爆笑問題」の太田光が著した「マボロシの鳥」は、まさにそんな著者によるまさに自慰的小説のオンパレードだ。

なによりも観念的な言葉の空回りが目立っている。象徴的な意味を付加したのかもしれない言葉の羅列がしつこく、まとまりも構成力も言葉のセンスも何もかもが欠落している。もしかしたら「陰日向に咲く」(劇団ひとり著)に匹敵するかもと期待し読み進めたが、完全に期待外れの1冊だった。

公開中の映画の原作「妻に捧げた1778話」(眉村卓著)を読む

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「妻に捧げた1778話」を読んだ。現在、草薙剛と竹内結子主演でロードショー公開されている「僕と妻の1778の物語」の原作本である。新潮社から新書版「新潮新書」の1冊として出版されている。著者はSF作家の眉村卓氏。

癌を発症し「余命1年」と宣告された妻のために、毎日1話ずつ物語を書き綴ったという眉村氏の、約5年間(1778日間)を綴ったレポートと云う体裁をとっている。

同書中にて、妻のために書かれた1778編の中から19編が紹介されている。一応はショートショートの体裁なのだが、そこから外れて滲み出てしまう作家の心情が自ずからしのばれている。

とても不可能と思える作家の宣言ではあったが、宣言通りに毎日毎日1編ずつ、物語は書き進められていた。妻の看病と云う日課と共に、大阪芸術大学の講師としてのスケジュールその他を抱えての創作であり、驚異的な意志力を感じざるを得なかったのである。

日々感動し笑って過ごすことが、患者の「免疫力」を高めると云うことは医学的にも証明されている。作家、眉村氏はそうしたことも踏まえて、敢えて勤行に向かったのだと思われる。

まるでお百度参りかのごとき勤行ではある。ただ、「お百度」と云う言葉自体が「百日」という期限(余命)を連想されるのではないかと云う配慮もあり、「千日回峰行」という表現を用いて紹介するメディアも現れたと云う。現実に千日を越えて1778話を綴ったというのだから、作家本人も嬉しかったことなのであろうと推察する。

映画の設定に比較すると、原作本のほうは60年代の夫婦であり、イメージは異なっている。逆にみればそれ故に、長い歴史を感じさせる夫婦間のエピソードを読み進めることになっていったのだ。

妻の看病記の隙間に挿入されているショートショートの数々は、その時々の状況によって微妙な影響を受けざるを得なかったようである。そして1日1話という制約は、とても完成度の体物語を紡ぐことを容易にはさせなかったが、それだからこその、肉声がそのまま書き綴られた表現にも遭遇する。とても荒削りな、未完成のままの結末であるが、非常な精魂を込めた作品群に出会うことにもなってしまったのである。

これから近いうちに、同原作の映画も鑑賞したいと決めたのでありました。

都会生活の不思議な断片を描いた大竹昭子さんの短編集「図鑑少年」

大竹昭子さんの「図鑑少年」を読んだ。

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書店でふとして手にした文庫本を開くと、見覚えのあるモノクロの写真ページが目に飛び込んできた。かつて90年代にて栄華を誇った「SWITCH」というグラビア系雑誌に連載されていた写真であることが、解説文を読みつつ、次第に記憶の上に詳らかになっていった。1999年には小学館から単行本が出版されたとあるが、これには見覚えがなかった。おいらの記憶的ビジョンに鮮明に染み付いていたこの本の光景は、90年代のものとして焼き付いてしまっていたのである。10数年を経ての再会とでも云おうか、あるいは10数年間のワープを経てのドラマティックな再邂逅とでも呼ぼうか…。

各章を隔てる栞のように挿入されたモノクロ写真ページは、作家の大竹昭子さんが自ら撮影したものである。都会を散歩すればすぐにでも遭遇するような光景ばかりでありながら、けれども不思議な光景として目に焼きついてくる。都会風景の上面をじっと眺めてみたりすればするほど、裏面から湧き上がって我々の視線を釘つげにしてしまう不可思議な風景が染み付いて放さないのだ。

24編からなる掌編的物語のほとんどは、日常的な都会生活上にふと生じた違和感が語られていく。短い物語と物語とを繋ぐのはまた、時を隔てた時間であったりする。あるいは時と場所とをワープされた空間であったりするのだが、そのギャップに驚かされるとともに、不思議な物語的世界にはとても時めかされてしまったのでありました。

ユリイカ「村上春樹総特集号」インタビューで春樹さんが示したメッセージ

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先月12月25日発行の「ユリイカ」最新号では、村上春樹総特集が組まれている。文芸誌というよりも詩の専門誌として評価され歴史ある「ユリイカ」だが、特別に詩とは深い関わりを持っているとも云えない村上春樹さんを俎上に載せて、文壇人によるあれやこれやの村上春樹論が展開されている。今や全ての文芸誌に於いて村上春樹さん無しには商売も何も成り立たないと、業界の裏側で囁かれているようだが、その一端を垣間見たような気分に陥ってしまう。

目玉となっているのが巻頭インタビューだ。「『1Q84』へ至るまで、そしてこれから…」という副題が付いている。「魂のソフト・ランディングのために」といった意味深のタイトルも設けられている。
小澤英実という聞き手がメールにて質問を投げ掛け、春樹さんがそれに答えるといったスタイルがとられている。春樹さんにとってみればそれだけじっくりと時間をとって、質問者に答え得るのであり、軽い乗りのインタビューでないことは明らかだ。

春樹さんがこのインタビューで最終的に云いたかったのは、「物語」の可能性についてであったと思われる。言語への失望、あるいは物語への疑問提起を経て、やはり彼は、小説家としてのある種の社会的使命を自覚したということに至ったと思われる。その言葉はあっさりとしているが、とても重く響いている。以下にその一部を引用しよう。

(以下引用)-----------
「言語には二つの機能があります。ひとつは個々の言語としての力、もうひとつは集合体としての言語の力です。それらが補完しあって流動的な、立体的なパースペクティブを立ち上げていくこと、それが物語の意味です。スタティックになってしまったら、そこで物語は息を引き取ってしまいます。それは常によどみなく最後まで流れ続けなくてはならない。それでいて同時に、個々の言語としての力をその場その場でしっかり発揮しなくてはならない。状況と切り結びながら、正しい(と思える)方向に着実に歩を進めていかなくてはならない。これはもちろん簡単なことではありません。(後略)」
(引用終了)-----------
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