司修さんの「本の魔法」から、本と作家と装幀家との濃密な関わりが匂ってくる

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装幀家として名高い司修さんの近著。古井由吉「杳子・妻隠」、島尾敏雄「死の棘」、中上健次「岬」、等々の戦後日本の近代文学を代表する書物の装幀を手掛けた司修さんが、装幀の現場におけるエピソードを綴っている。取り上げられている15の書物のどれも彼もが、作家との厚い交流が基として成り立っており、おざなりの仕事から産まれた本は一冊も無い。

おいらが司修さんの装幀の仕事に対して最初に目を瞠ったのは、大江健三郎氏の書籍たちだった。エッチング等の版画の技法を駆使して描かれた司作品は、大江健三郎作品の挿絵としてではなく、イメージが何倍にも膨らみ弾けて描かれており、司氏の装幀作品の重層性を余すところ無く示してもいたのだった。

だが何故だかこの「本の魔法」という一冊から、大江健三郎作品が省かれているのが、余談になるが、とても不可思議なポイントでもある。

円城塔氏の「道化師の蝶」は果たして、言語を無に帰する試みなのか?

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芥川賞受賞作こと円城塔氏の「道化師の蝶」を「文藝春秋」誌の最新刊にて読了した。だが然しながらであるが、実は今回は、言葉を失っている。感想はおろか、作品分析の取っ掛かりさえ掴めないような、ある種の言葉を失っているような状態なのである。

タイトルとなった「道化師の蝶」には、「道化師」「蝶」といった云わば想像力を存分に刺激するべき語彙的要素を有したタイトルではあるが、然しながらそんな想像力やら期待やらを抱いて書物にのぞむと完全に裏切られてしまうことが請け合いである。

それはまるで、言語を無に帰する壮大な試みなのかとも感じ取らせてしまうくらいである。果たしてそうなのであれば、円城塔氏は途轍もない天才作家と云うことにもなろうが、そんな作家が居るのかどうか、存在可能なのかどうかさえ、覚束ない。

芥川賞の今回の選考委員会は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」受賞時のそれほどではなかったにしろ、そこそこに紛糾し揉めたかのようである。「選評」を読む限り、積極的に推した選考委員は居なくて、初回投票にては過半数にも達しなかった。通常はこれで選外となる運命なのだろうが、今回は特別に、主宰者である文藝春秋社側の特別な要請で、再度の受賞討議が行なわれて、結局のところはそこそこ揉めた末に受賞作品となったとのこと。

「支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる。」(黒井千次氏評)

「〈着想を捕える網〉をもっと読者に安売りしてほしい。」(山田詠美氏評)

「この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」(島田雅彦氏評)

「これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうと言う委員もいた。賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」(宮本輝氏評)

「『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。」(石原慎太郎氏評)

「今回の『道化師の蝶』で初めて私は『死んでいてかつ生きている猫』が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、なゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。」(川上弘美氏評)

川上弘美氏は好感度を込めて選評を記しているが、戸惑いの評をもまた綴っている。川上さんは授賞式にて「二人のカメレオン」と受賞作家を称揚したという。川上さんのそんなコメントを確認してから、もう一度この受賞作品と向き合って行きたいと思うのである。

遅ればせながら、田中慎弥氏の「共喰い」を読んだ

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昨日、田中慎弥氏による芥川賞受賞作品の「共喰い」を書店で入手し、早速読み進めていた。集英社刊、定価1000円+税、p144、上製本なり。

先日には田中慎弥氏の既刊本「切れた鎖」を読んだ時とは裏腹に、遅滞なく、ほとんど何もの違和感などなく読み進めることができた。云わば小説の体を成していて極めてオーソドックスなつくり、構成がそうさせていたのであろう。翻ってみれば、「切れた鎖」を読んでいて感じた、実験的要素はほとんど影を無くしていた。ちょっとした期待外れの印象を禁じ得なかった。

様々なサイトやブログ上で、本作品のプロットについては述べられているので、ここでは最小限度のそれに留めておきたいと思うが、それにしてもこのプロットは、極めてオーソドックス過ぎるくらいに意外性を持つことがなかったのである。

おそらくは作家の故郷である下関市内であろう、糞の臭いのする海沿いの町を舞台に物語りは進んで行く。主な登場人物は高校生の遠馬と、彼の父、別れて暮らす彼の母、ガールフレレンドの千種、そして父と暮らす今の愛人たちだ。限定された人間関係の中から、とても濃密でおぞましい物語が紡ぎ出されていく。

遠馬の父は相手の女性を殴ることによってしか満足を得ることができないという、云わば性行為における変態性欲の持ち主として描かれる。父の血を継いでガールフレンドと向かい合う遠馬にもまた同様の嗜好性があり、高校生は其れ故の葛藤におののくのだ。父と対峙しつつ、父と子供という対決へとは向かわずに、物語は横道に逸れたように、主役以外の人間へとバトンタッチさせられてしまうというのも、的外れ、期待外れの念を禁じ得ない。

今回の選考を最後に芥川賞選考委員を辞退した石原慎太郎氏は「馬鹿みたいな作品だらけだ」と感想を述べていたが、「共喰い」に関しては頷けるものがある。つまりはこの作品のプロットが作り込まれた極めて「人工的」なものであるという所以から、発せられる感想でもあるからだ。変態性欲やそれが元になる事件を純文学で扱うことへの抵抗感がおいらの中に芽生えていた。特殊な性欲をあたかも当たり前に扱うことへの抵抗感とでも云おうか。

作家の身体性に基づくものではなく、小説のプロット構築の為に作り話を組み上げていく作業というものは、果たして純文学に必要なる仕業だろうかという疑問に、ひどく蔓延とさせられているおいらなのであった。

「共喰い」が売り切れで、仕方なく田中慎弥氏の「切れた鎖」を読んだのだ

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1月27日には芥川賞作家の受賞作、田中慎弥氏の「共喰い」が発行されていたのだが、おいらはそんなことも知らずその日に赴いた書店にて「切れた鎖」を買って帰った。書店には「売り切れ」の貼り紙も無く、何時発売されるのかも知らなかったので、田中慎弥ブースに陳列していた中から「切れた鎖」を選んでいたに他ならなく、出版社や書店の思惑とは無関係な場所にておいらの読書体験が進行していたと云うことのみではある。

さてそんな経緯から「切れた鎖」を読了したのだったが、これが結構、稀有な読書体験を齎してくれたのだった。表題作の「切れた鎖」は、或る名家の三代にわたる妻による確執がテーマとなっており、刺身のつまのようにて、夫なり彼氏なりの男性が登場している。それに加えて傍流のシチュエーションとしての在日人による教会との確執が描かれていく。小説のテーマは混在しており、どれがメインの其れかは人夫々の判断に委ねられている。純文学に相応しい構成であると云えるのかも知れない。ただし、物語は時系列に則って進んでいくわけではないので、時々留まっては物語の筋道の整理をする必要などが生じてくる。これもまた物語の読書体験としては稀有なものであった。

巻末の「解説」にて、安藤礼二氏は書いている。

―――(引用開始)―――

田中慎弥は、コミュニケーションの即時性と即効性が求められる現代において、きわめて特異な地位を占めつつある作家である。わかりやすい伝達性や物語性とは縁を切ってしまい、自身の無意識から発してくる原型的なイメージの群れを、その強度のまま、表現として定着させようとしている。そこで問われるのは、無意識の破壊的なイメージ、すなわち妄想の主体となる、閉じられた「私」の問題であり、そのような「私」を可能とした家族の問題――特に、いったんは時間の外に失われながら、ついに亡霊のように回帰してきては「私」を脅かす「父」の問題――である。

―――(以下略)―――

「TPP亡国論」(中野剛志著)の結論としての「おわりに」を抜粋引用

―――(引用開始)―――

TPPへの参加など、論外です。

この本で申し上げたかったことは、結局のところ、その一言に尽きます。

第一に、これまで議論してきましたように、TPP賛成論には、基本的な事実認識の誤りがあまりに多すぎます。例えば、日本の平均関税率は二・六%とアメリカよりも低く、農産品に限っても、平均関税率約一二%は決して高いとは言えず、穀物自給率はわずかしかないほどすでに開国しています。TPPに日本が参加しても、日本の実質的な輸出先はアメリカしかなく、アメリカの実質的な輸出先は日本しかありません。アジアの成長を取り込むなどというのは不可能です。

そして、アメリカの主要品目の関税率は低く、すでに日本の製造業は海外生産を進めています。その上、アメリカがドル安を志向しているのですから、関税撤廃にはほとんど意味はありません。そもそも、日本はGDPに占める輸出が二割にも満たない内需大国であり、輸出に偏重すべきではありません。

第二に、TPP賛成論者は、経済運営の基本をあまりに知らなすぎます。本書をお読みになったみなさんにはご理解いただいたと思いますが、需要不足と供給過剰が持続するデフレのときには、貿易自由化のような、競争を激化し、供給力を向上させるような政策を講じてはいけないのです。デフレ下での自由貿易化は、さらなる実質賃金の低下や失業の増大を招きます。

グローバル化した世界では輸出主導の成長は、国民給与の低下をもたらし、貧富の格差を拡大します。内需が大きいが需要不足にある日本は、輸出主導の成長を目指すべきなのです。そして、何においてもまずは、デフレ脱却が最優先課題です。しかし、貿易自由化と輸出拡大の推進は、そのデフレをさらに悪化させるのです。

第三に、TPP賛成論者は、世界の構造変化やアメリカの戦略をまったく見誤っています。リーマン・ショックは、住宅バブルで好況に沸くアメリカの過剰な消費と輸入が世界経済を引っ張るという、二〇〇二年から二〇〇六年までのグローバル化が破綻した結果です。アメリカは、この世界経済のいびつな構造を是正するため、そして自国の雇用を増やすため、輸出倍増戦略に転換しました。TPPは、その輸出倍増戦略の一環として位置付けられており、輸出先のターゲットは日本です。

特に、アメリカは国際競争力をもち、今後、高騰すると予想される農産品を武器に、TPPによる輸出拡大を仕掛けてきているのです。大不況に苦しむアメリカには、アジア太平洋の新たな枠組みを構築しようなどというつもりはなく、その余裕すらありません。

要するに、TPPへの参加というのは、世界の構造変化もアメリカの戦略的意図も読まず、経済運営の基本から逸脱し、その上、経済を巡る基本的な事実関係すらも無視しない限り、とうてい、成り立ちえない議論なのです。TPP参加の合理的な根拠を探す方がよほど難しいのではないのでしょうか。

―――(以下略)―――

中野剛志の「TPP亡国論」は上滑りだが結論は正しい

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中野剛志氏については昨年からよくTV番組にも出演していることなどから、顔と名前は知っていた。反TPPの論陣を張る若手論客という扱いで、その他のメディア、マスコミにもちょくちょく顔を見せている。

今回その中野剛志氏による「TPP亡国論」を読んだのだった。多少の期待感を抱きつつ読み進めたのでが、読後の心象は決して満足できるものではなかった。何やら上滑りした筆致がいたるところで散見され、それが妙に気になってしかたがなかったのだが、最後までそれを払拭することはできなかった。恐らくは彼の議論の相手は、狭小な経営学村の住民か、或いはスポットをやたら当て続けるマスゴミなどがターゲットなのだろう。だから狭小な村の住民やマスゴミの舞台に関心がないおいらには、ぴんと来るものが極めて少ないのだ。

TPP参加という選択が誤りであることを、括弧つきの「学問的」見地から様々に述べているのだが、何かそこには肝心のものが欠けている。例えば生きた人間の「血液」を想起させる記述が極めて少ない。学者、研究者に対する攻撃的、皮肉的な、孤児を演じる様的言動は、却って彼の人間的浅ましさを浮かび上がらせてしまっている。こういう人間が書くもの、発言するものに対しては、一定の距離を置くしかない。過大な期待などせずに、その言動の部分を利用すれば良いのである。げんに今のところ彼の論理は、正しいことを示しているのだから。

中野氏の論理は「あとがき」に集約されているので、その一部を引用してみたいのだが、本日はここまでにし、別稿にて記すことにする。

「亜美ちゃんは美人」作家の綿矢りささんの美人度を考察

昨日の綿矢りささん作品「亜美ちゃんは美人」の話題の続きである。果たして作家本人のりささんは、「美人」と「もっと美人」の間のどの位なのかと云うことが気になってしょうがないのである。紛れもない美人作家のりささんであるが、彼女は自分を果たしてどの程度の「美人」と捉えているのか? と云うことが今回のテーマである。

「亜美ちゃんは美人」の亜美ちゃんのイメージは、芸能人で云えば例えば戸田恵梨香であり、その注目度は群を抜いている。誰もが認めるであろう美人中の美人だ。そしてもう一人の美人の「さかきちゃん」はと云えば、たとえば、井上真央のようであり、AKB48の前田敦子か大島優子のようでもある。綿矢りささんがどちらに近いイメージかと問われれば、やはり井上真央であろうか…。

普段はNHK番組を滅多に視聴しないおいらであるが、年末年始を実家で過ごしたことから、NHKの「紅白歌合戦」を視聴しながらの年末を過ごしたのであった。そのときに視ていた井上真央さんの司会者ぶりは、その初々しさがハラハラどきどきの、あたかも保護者的気分を醸し出していたのである。そして最終のシーンにて流した涙はまるで、女優が流した涙の中では特別な位に異質な尊いものだと感じ入っていた。そんな姿と綿矢さんとが何故だか被ってしまったと云う訳なのだ。即ち「亜美ちゃんは美人」の作家の綿矢りささんは、例えば井上真央のイメージなのだ

ハードボイルドはあり得ない綿矢りささんの「亜美ちゃんは美人」

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綿矢りささんの新作小説集「かわいそうだね?」には、もう一つ「亜美ちゃんは美人」という作品が収録されている。作品の完成度やストーリーの勢いやらりささんらしさやらでは表題作品に一歩を譲るが、このサブ作品も中々の力作であり、りささんの作家活動の今後に期待を抱かせる出来栄えであるので、ここに紹介しておきたい。

美人のさかきちゃんと、さかきちゃんよりもっと美人の亜美ちゃんの二人の主人公の物語。さかきちゃんは亜美ちゃんの友達だが、実は亜美ちゃんのことが嫌いだという、云わば女の「悪意」にも近い心情が展開されていく。

そしてもう一人の重要登場人物が、亜美ちゃんの彼氏の問題児こと崇志君だ。いかがわしい職業人であり、態度も常識はずれてでかくあり、とても美人の亜美ちゃんには似つかわしくないのだが、男性経験豊富な当の亜美ちゃんが、初めて好きになったというくらいに惚れてしまったという、云わば悪男の典型。元の級友やら家族やらがこぞって二人の「

結婚」に反対している中で、さかきちゃんがとった行動がまた出色なのだった。女同士の「好き」と「嫌い」の狭間に揺れ動いたそのときのさかきちゃんの心情に思いを仮託しつつ、おいらはまた別の思索にふけっていたのだった。

すなわち当小説のプロットにおける「美人の中の美人」こと亜美ちゃんは、りささんの化身ではなく別の女性だったのか? と…。とすれば、「美人の中の美人」こと亜美ちゃんよりは劣る美人のさかきちゃんの視点から、この小説のプロットが出来上がっているのだろうと…。

とても可愛く美人小説作家、綿矢りささんの立ち位置について、あれこれと詮索することにも事欠かないのであり、綿矢マニアにとっては必読の作品なのである。

ヴィム・ヴェンダースによる「もし建築が話せたら…」

先日当ブログにて紹介した東京都現代美術館での企画展「建築、アートがつくりだす新しい環境」展では、とても興味深いブースがあった。

ヴィム・ヴェンダース「もし建築が話せたら…」という、3Dインスタレーションのブースである。

イメージとしての例えばアップル社の社屋が連想される建築物が、声を放って語りかけている。

――――――――――
ある場所が気に入って
そこで長い時間を過ごしていると
声が聞こえてくることがあります。
場所には声があって
建築は話をするのです。
そう、あなたに話しかけています。
聞こえますか?
話し方は本で勉強しました。
私は勉強することが得意なのです。
勉強のための建物だから、何の不思議もないけれど。
私は本が好きです。
本を読む人たちが好きです。
さあ来て、読んで、学んで。
中に入って、そして歩き回ってほしい。
行ったり来たりしてほしい。
私はいつでもここにいます。
動くことができないから。
みなさんのように旅ができたらどんなに良いでしょう。
もちろん私も、他の場所のことは知っています。
でも、本を通じた知識しかないのです。
(以下略)
――――――――――

ちょうど我が「みどり企画出版」では、建築写真集「瞬間の連続性」を刊行したところであり、建築が語りかけるかのごとくのシーンも、ページのかしこに見て取ることができるのである。

同写真集のお求めは、下記アドレスからどうぞ。

http://midorishop.cart.fc2.com/ca0/2/p-r-s/

■瞬間の連続性 the continuum of moments
ISBN978-4-905387-01-5
定価:本体1000円(+税)
発行:みどり企画出版
企画・編集:川澄・小林研二写真事務所
判径:250×250mm
頁数:60ページ
体裁:並製本

おやじ評論家風情を頷かせるであろう綿谷りささんの最新作品「かわいそうだね?」

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20歳のときに「蹴りたい背中」で由緒ある日本の芥川賞を受賞して以来、何かと気になる作家の綿谷りささんが手がけた最新作品の「かわいそうだね?」を読了した。

先輩αブロガーのイカちゃんもかつて絶賛していたように、綿谷りかさんの賢こ可愛らしさは特別なものであり、芥川賞を受賞しようがしまいが、綿谷ワールドはおやじのハートを引きつけて止まない。

云わばストーカー的色彩を放っては、日本全国のおやじ評論家風情があれやこれやと評するものだから、りささんも何かとやり難いのではないのかと推察しているのだが、当「かわいそうだね?」においてはとてもりささんらしい、期待を裏切ることの無い作品として出世の道を得たとも云えるだろう。

主人公の女性は百貨店でブランドものの販売を担いつつ、彼とその彼の元カノとの板挟みになって悩みもがいていく。本人にとっては切実であろうがあまり社会一般の行く末に影響を与えることの無いという、ノンポリ的物語が展開していくのだ。

いまを時めく20代後半の女性の感性を満開に匂わせながら、りさワールドに導いてくれるのだから、おやじ評論家風情も願ったり叶ったりであろう。

結末に近づくと勃発するドタバタ的悲喜劇の顛末は、ドラマのプロから見たらば突っ込みどころ満載の出来栄えかと、即ち未熟なストーリーテラーによる展開かと感じる向きもあろうが、おいらは却ってその未熟さが、清々しさにも通じるものとして受け取っていたのである。

20代の後半にこのような作品を世に問うて、この後のりささんは30代の熟女のときを迎えていく訳なのだが、若きときへのレクイエムとしてこの本を読んでいくのも、あながち間違った志向ではないのである。

“魂の陰影を剥ぎ取る”建築写真集「瞬間の連続性」を刊行しました

みどり企画の出版事業部であるみどり企画出版では、このほど7人の写真家集団による建築写真集「瞬間の連続性」を刊行しました。「建築」という身近な素材をモチーフにしながら、日常的には余り接することのできない、特別な一瞬間の表情等が巧みに捉えられた作品集です。

現代美術作家の上野憲男さんが、巻末に同写真集への手書きのコメントを寄せてくれているのでここにご紹介しておきます。(誌面では手書きのそのままで掲載していますがここでは活字に置き換えてご紹介します)

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魂の陰影を剥ぎ取る

日本初の高層ビルディング「霞ヶ関ビル」の写真をシャッター音も心優しく包むようにして撮影した川澄明男の作品はその設計者の名と共に今にして輝きを放ち続けている。

その川澄明男を師と仰ぐ小林研二をリーダーとする建築写真家集団。無機的な建造物に“やるせない”位の生命を映し出すPhotographer達。

硬い石の中にも鋭い鉄鋼、硝子の中にも、そして木や紙、植物にも、あらゆる材質の骨格の中に、風のようなしなやかさで吹き抜け、魂の陰影を剥ぎ取り、現代美術作品と見まごうような見事な映像を造形化した。

本写真集がスタートと言うこの「瞬間の連続性」は今後、益々鋭敏に豊かに展開してゆくことは間違いないだろう。

上野憲男
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■瞬間の連続性 the continuum of moments
ISBN978-4-905387-01-5
定価:本体1000円(+税)
発行:みどり企画出版
企画・編集:川澄・小林研二写真事務所
判径:250×250mm
頁数:60ページ
体裁:並製本

http://midorishop.cart.fc2.com/ca0/2/p-r-s/

宮城みゆきさんの「名もなき毒」は、これからの人間社会の「毒」を象徴しているのかもしれない

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クリスマスの今日の話題には些か相応しくない書名かもしれないが、本日、宮城みゆきさんの「名もなき毒」を読了したので記しておきます。

地元の某書店のランキングに依れば、文庫本の売行きNo.1なのだそうである。決して売れていると云う理由だけではなかったが、数年ぶりに宮城みゆきさんの作品に接していたのだった。時代の空気というものを小説と云うメディアに描くのが得意なこの作家には、かねてから注目していたのだが、作品に接するのは数年のブランクが存在していた。

物語はまず、青酸カリという「毒」による無差別殺人的事件を描きつつ展開していく。被害にあったのは5名、彼らのほとんどの間に特別な関係性は見当たらない。このうちの幾つかが便乗犯によるものだと云うことで、幾重にもの重層的な物語が展開されていくのである。

そしてもう一つの「毒」が描かれていくのだが、そのテーマ的主人公が、原田いずみというトラブルメーカーの困った女性なのだった。某大手企業の広報室のアルバイトとして雇われた原田いずみは、数々のトラブルを起こした後に解雇され、広報室に関係者に対して毒殺ならぬ「睡眠薬殺」を企てる。そして全国的な指名手配犯としての後半の犯行が待っていた。彼女の姿に描かれた生態こそがもう一つの「毒」となっていた。

世の中の数々の「毒」をテーマにして、所謂「市民」の関わりが物語の中心的なテーマとなっていくのだ。

そもそも人間存在の「毒」というのは、今始まったことではなく、昔からの人間存在の中で在ったものではある。だがしかしながらそういう言葉では示せないくらいの「毒」は、改めて現代人にとっての脅威の的となっているのだ。

簡単で即効性のある解決策などは存在しない。

青春小説と呼ぶには勿体ない、ヤンネ・テラーの「人生なんて無意味だ」〔2〕

ヤンネ・テラー女史による「人生なんて無意味だ」という作品は、とても厳かにかつスピーディーにストーリーが展開する。

26ある章のそれぞれ全ての章にて、新しい展開に驚かされてきたとでも云おうか。極めて緻密な厳然たるストーリー性が存在しているのだ。

ネタバレになる怖れがあるので詳細は記せないが、同書の結末の印象は、決して晴れ晴れとしたものではなかった。我国の国情を勘案すれば、PTA関係者だかが声を荒げて抗議するたぐいのものであるとも云えるくらいだ。

かと云って誤解なきように記すのだが、同書は哲学的の内容に満ちているわけではなく、あくまでドラマツルギーを基本に据えた物語なのである。

これはとっても稀有な、世界的世界観を有する小説作品なのだ。

青春小説と呼ぶには勿体ない、ヤンネ・テラーの「人生なんて無意味だ」

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デンマークの女流作家、ヤンネ・テラー女史による現代文学作品。13〜17歳の思春期の若者達が登場人物であることから、青春小説として扱われることがしばしばだが、その内容は厳か過ぎるくらいのものがあり、けだしこの作品を青春小説のジャンルに括るのは至極勿体ないことと思うなり。

大人が読んでも充分に読み応えがある現代小説として、グイグイとその作品世界に引っ張り込まれてしまったのだ。

ドイツ、フランス、オランダ、スペイン等、欧州各国の言語に翻訳されており、このほど我国日本語にも翻訳され、発刊の運びとなっている。欧州各国の読書家を中心に深く読み継がれている経緯も、成る程なと頷けるものがあるのだ。

「人生なんて無意味だ」と叫んで学校から立ち去っていったピエールと、彼の元同級生たちとの遣り取りをめぐって物語は展開していく。

どうせ意味のあるものなんて何もないんだから、何をしたって無意味だと気づいた日に、ピエールは学校へ来るのをやめてしまった。

さて、我国でもポピュラーなる登校拒否にまつわる話かと思われるかも知れないが、ストーリーはもっとずっとプリミティブかつ重たい展開を示していくのだ。決して甘っちょろい青春小説の類いで扱ってはならないと云うことを、再度強調しておきたい。

ピエールvs彼の元級友たち。「私たちは大きくなって成功しなくちゃいけない」と考えている元級友達のほとんどは、ピエールへの敵意をむき出しにして相対峙していく。先ずはピエールが気持ち良さそうに横たわっているスモモの木に対して攻撃を仕掛けたのだ。「あいつに石を投げよう」という、誰かの提案に呼応しながら、元級友達はピエールへの攻撃に精を出すこととなっていった…。

(この稿は続く)

昨年の芥川賞作「乙女の密告」(赤染晶子著)を読んだ

遅ればせながらであるが、昨年上年度の芥川賞受賞作である赤染晶子さんの「乙女の密告」を読了した。
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主な舞台は、京都の某外国語大学のドイツ語学科。バッハマン教授と大学で学ぶ「乙女達」とのやり取りをめぐって物語が進行していく。進行しつつある物語は「信仰」がテーマでも有る。ドイツ人教授のバッハマンは「ヘト・アハテルハイス(邦題名「アンネの日記」)」をテキストにしている。

其処で繰り広げられるテーマが、アンネを密告したものは誰か? そして何故か? と云ったものとなっている。戦後ドイツ社会における最大のテーマなのかも知れないものを、我国に持ち込んで、ドラマは所謂一つの「予定調和」的ビジョンへと進んでいく。戦後民主主義の底本をなぞって仕上げた、まるでレプリカのような読後感を抱かさせる。この読後感といったらまさに、欧米社会へのコンプレックスの裏返し的世界観に他ならない。

ドラマの展開はまるで少女漫画かライトノベルのように、テンポ好く、しかも軽く、進んでいく。テーマがどうであれこうしたテンポの好さはこの作者の持ち味なのだろう。ライトノベルは我国の純文学界を席巻しつつあることの、一つの証左であるとも云えよう。

純文学賞の「芥川賞」受賞作でありながら、軽い推理小説的要素を多大に含ませた作品でもある。だが最後の落ちは味気ない。とても味気なく、妙に失望させられた。ガッカリ千万であったことをここに記しておこう。

AKB48を目の前にして「色即是空」と激書した藤原新也さんの慧眼

先日まで開催されていた藤原新也さんの「書行無常」展会場にて、同タイトルの写真集「書行無常」(集英社刊)を購入していた。

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藤原新也さんの書籍のほとんどに共通するように、先ずは彼の「写真」の力に圧倒されたのだ。これは例えば「作品」だとか「写真作品」とか「視覚作品」とかあるいは「ビジュアル」とか「ビジョン」とか「コンセプト」とか…その他諸々の表現媒体ではなくして、確かに「写真」の力によるものなのだ。

新也さんの作品に接するたびに何度もこのことを何度も確認してきた。そして今回もまた、彼の「写真」作品による力に、心底圧倒されてしまったと云う訳なのだ。

ところで今回購入した「書行無常」でも、写真とエッセイとで構成されているのは、新也さんのほとんどのパターンを踏襲している。テーマは予想以上に多岐に及んでいた。

そんな幅広いテーマの中でおいらが最初に注目したのが「AKB48劇場」であった。秋葉原のドンキホーテ内の会場からデビューした、所謂普通の女の子達のグループが、今や途轍もないくらいの人気を博してしまったという、そんな今時のギャル達の実態をテーマに取材・撮影に及んだと思われる。

―――
たかが少女とあなどれない。AKB48。
生きるか死ぬかの全存在をかけている。
負けてはならないと私も全存在をかけて激書した
―――

エッセイの初めに新也さんはそう書き記している。「軽く」そう記していると感じ取っていた。

そして新也さんがAKB48のメンバー達を目の前にして墨書、激書した文字は、なんと「色即是空」という一文だったのである。これは所謂パフォーマンス的にも、甚大に注目に値する出来事、あるいはニュースであると云ってよかった。

(この稿は続く)

月刊文藝春秋に「尾崎豊の『遺書』全文」が掲載されている

先日発行された「月刊文藝春秋」に「尾崎豊の『遺書』全文」と題されたレポートが掲載されている。副題には「没後二十年目 衝撃の全文公開」とある。筆者は加賀孝英。

出版直後からセンセーショナルな話題となっているが、内容は、尾崎豊の「死」の真相を婉曲的に「自殺」と断じた内容となっている。その根拠とされているのが、尾崎豊が死の前に書き綴ったという2通の「遺書」の存在である。

遺書とされるその2通の内容について、今回初めて「公開」されたという形でのレポートなのである。ただしその物理的な証拠となるべき「画像」等については一切公開されてはいないのが、非常に残念であり不可解でもある。

ーーーーー
先立つ不幸をお許し下さい。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。
(略)
あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声が、
あなたのぬくもりが甦ります。

さようなら 私は夢見ます。
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引用した文章を「遺書」と見るか否かについては見解が異なるところだ。アーティストであり生来の詩人であった尾崎豊が、気まぐれに、あるいは思い付きで記した言葉だととることも可能である。レポートの筆者はこの文書をもって繁美夫人への「遺書」だと断じるのだが、いささか無理筋の論理展開ではないのかと思う。

以前からおいらは、繁美夫人が尾崎豊の死に影響を与えた等々という「推理」には与しないし、死の当日のあれこれを聞き及んでいる人間としては、彼の死が不遇なアクシデントの積み重ねによる極めて不幸な死であると感じているものなのである。それだからこそ、ここに来ての尾崎豊の「自殺」論の主張には大いに首を傾げざるを得ない。自殺する人をおいらは決して否定しないが、尾崎さんについては、彼はまだまだ生に対する執着が強かったであろうし、おいそれと「自殺」という幕引きを演じることなどは決して無かったであろうと確信している。

いつか改めて、加賀氏のレポートの論理矛盾について記していきたいと考えているところだ。

写真・言葉・書で時代を飾る、藤原新也さんの「書行無常展」が開催

今月の5日より27日まで、藤原新也さんの「藤原新也の現在 書行無常展」が開催されている。

■藤原新也の現在 書行無常展
2011年11月5日(土)~27日(日)
東京都千代田区外神田6-11-14
3331 Arts Chiyoda
http://3331.jp

かねてよりおいらも注目しているアートのスポット「3331 Arts Chiyoda」が会場となっている。

たしか昨年の頃より、雑誌「プレイボーイ」誌にて連載されていた新也さんの「書」にまつわるアート活動がテーマとなっていて、これまでのどんな展覧会にも似ていないつくりになっているという印象をもった。

テーマは「諸行無常」ならぬ「書行無常」である。新たに「書」というテーマを引っさげて行なった展覧会なのか? 或は関係者が企画して新也さんに提案して実現したものなのかは定かではない。

はっきりしていることの一つは、以前の新也さんのどの写真展とも異なっているのは、写真家から行動家へと少しばかり、依って立つ立ち位置を動かしたということだろう。写真家・新也さんとしての顔以上に行動家、活動家としての顔が前面に出て来ているのであり、新しい出会いであったという印象を強く抱いている。

「八王子古本まつり」にて筒井康隆、辻仁成の古書に出逢う

八王子駅北口から西に伸びる通称「西放射線ユーロード」を主会場にして「八王子古本まつり」が開催されている。(11日(火曜)まで)

http://www.hachiojiusedbookfestival.com/

先日通り掛かった時には、路沿いに独特なテントが張られていたのを見て「何だろう?」と思ったが、これが八王子秋のイベントとして定着した「八王子古本まつり」であることを知り合点がいった。なにしろ大勢の古書店がこの時とばかりにセールスをしてくれるので、数年前からは毎回、宝探しの掘り出し物をゲットしていたのであった。

今回ゲットした掘り出し物は、筒井康隆氏の90年代初頭の、軽いインタビュー、エッセイ風もの、「幾たびもDiary」「文学部唯野教授のサブ・テキスト」の2冊。

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そして「3冊100円」というセールスであったので、辻仁成氏の「ガラスの天井」という1冊を購入していた。これもまた偶然だか90年代初頭に発行されたものである。

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両作家共に、オリジナルな世界観、人生観、文学観を有しており、そして何よりも悪しき国際主義に染まっていないのが魅力の根源である。何かといえばアメリカナイズされたグローバル主義が蔓延っている昨今にとっては、彼らのスタンスはとても貴重であり、何よりもの魅力の原点である。

近頃はといえば、仕事の合間や通勤途中などの時間を使って日常的に書店には通っており、面白い、興味深い、思慮深い、インパクトの強い、ドッキリさせる、或は何でもよいがハッとさせてくれる書物を漁っているのだが、何も見つからないというのが現実だ。そんな中での筒井康隆、辻仁成、両氏の本との出逢いであった。

上杉隆「ジャーナリズム崩壊」から読み解くメディアスクラムの異常な姿

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菅直人前首相に対する異常な追い落とし劇については未だに記憶に生々しいが、その背景にある大きな要因の一つが、日本マスコミ界に特有の「記者クラブ」という奇妙なる親睦団体の存在なのだ。この一冊によりそのことを認識した。

改めて上杉隆氏の「ジヤーなリズム崩壊」を読んでみたのだが、滑稽なまでに形骸化して糞ったらしい我国マスコミ人種達のあきれた所業と様態とが浮き彫りにされたと云って良い。

同書でも重ねて述べられているが、我国のマスコミ人種の横並び意識というものは日本固有のものだ。これは、ジャーナリストという職業的自覚を涵養する以前に、会社組織(所謂大手マスコミ)の一員としての意識を優先するのだという、途轍も無く愚かな慣習により雁字搦めにされているものであり、何をか云わんやの極北であるのだ。

本来は辞任すべきはずの無かった菅直人前総理である。誰が、何を目的にして、どういう方策にて、追い落としをはかっていったのか? 東電を始めとする腐った産業界の人脈によるものであることは明らかなのだが、それらの走狗として、マスコミ(マスゴミとして揶揄されるそのもの)の、恥ずべき生態が、日に日に明らかになっていく。

これからは「第3の権力」と称される「マスゴミ」の動向に監視の目を注いでいくことがますます不可欠になってていくのだ、残念なことではあるが…。