恩田陸さんの「六月の夜と昼のあわいに」を読んだ。感動はいまいち薄い

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今年の9月に、恩田陸さんの文庫版「六月の夜と昼のあわいに」が発行されている。当代きっての人気作家こと恩田氏の作品と云うことであり、興味をもって読み進めていた。

同書のスタイルがまたふるっているのであり、絵画作品と詩と俳句と短歌からなる序詞によって成り立っている。つまりは過去の一時期にはブームを呼んだ、いわゆるコラボレイト的な一冊となっている。

同書の帯には以下のような言葉が踊っている。

―――
懐かしいあの人、風呂敷の模様、Y字路、砂浜に寝そべった男、不思議な酒場「酒?ローレライ」、眩い才能を持って生まれた田久保順子、「グルメ」がやってくる夜、いつも聞き役の私、列車で隣り合わせた男女、夜から朝へと向かうあわいの出来事…
―――

甚大な関心や期待を抱いて読み進んだ「六月の夜と昼のあわいに」ではあったが、読了感はいまいちの興醒めであった。コラボレイトと称する割には関連性が薄く、なおかつスパークするような緊張感さえ感じ取ることが出来なかった。

結果的に評するならば、人気作家の知名度を傘に着て出版された薬にも毒にもない凡作と云うことになるのだろう。

村上春樹さんのノーベル文学賞受賞は今年もならず。「1Q84」の「BOOK4」に期待

前評判では当確のごとくの報道が流れていたのが、村上春樹さんのノーベル文学賞受賞。本日その発表があり、残念ながら村上さんの受賞はならず、中国の莫言氏が受賞したという。

莫言氏についてはおいらはその名前以外に詳らかにせず、彼の受賞の背景は判らない。下馬評では村上さんの次につけた2番手だとされていたので、それなりの文学的実力があるのかもわからない。

然しながら本年の文学賞大本命として名前が挙がった村上春樹さんが受賞を逃したことは、村上春樹ファンの一人としては、やはりという、受賞に達するための予想以上の高い壁が存するのではないかと云う思いが沸き起こってくるのだ。

おいらがとても残念に感じるのは、「1Q84」をはじめとする春樹さんの代表作品におけるアピール度の低さが、受賞を逃したのではないかと云う可能性である。

以前にこのブログ上でも書いたことだが、春樹さんの代表的作品として挙げられる「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」等々の作品には、連作としての主要な作品群があり、二部作、三部作のものはあれども四部作が無い。このことが重篤な受賞に対するネックとなっていることが改めて考えられるのである。

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=280

云うまでも無くノーベル賞選考委員のほとんどはスウェーデン・アカデミー関係者はじめ西洋的思潮の流れを汲むものたちで占められている。西洋的思潮の観点からすれば、二部作、三部作的作品に対する評価は低いと云わざるを得ないのだ。

ご存知のように音楽における四部作は完成度を得て達せられた作品としての「カルテット](Quartet、Quartett、Quartette)」と称される。二部作、三部作の作品群に比べて圧倒的な高評価の評価の基準である。四部作を創り得てこその最大限の評価が「カルテット」という尊称に隠されているのである。二部作、三部作は、其れ等に比べて評価は低いのだ。カルテットに達するまでの仮の姿がそこにある。未だ完成されない作品的評価なのであろうと考えられるのだ。

「1Q84」の「BOOK3」が発表されてかなりの年月が経過しており、「BOOK4」の可能性については話題にも上らなくなってしまっているが、おいらは未だに来年こそはという期待を込めて、「BOOK4」の発表に期待を抱き続けている。まだまだ可能性は無限にある。

さり気なく刊行されていた村上春樹さんの「ねむり」

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村上春樹さんの「ねむり」を読んだ。眠ることが出来なくなった女性の一人称による告白形式の小説である。

刊行されたのは2010年11月。「1Q84 BOOK 3」が発刊されて、「BOOK 4」の刊行が期待されていた当時のものである。つい先日に同書刊行の存在を知り、購入して読み進めていたものであった。

とはいってもこの作品は、春樹さんが1989年に書いて発表した「眠り」をリライトした作品である。この最新の時期のオリジナルという訳ではない。同書のあとがきにて春樹さんは書いている。いわく、

「そのときのことは今でもよく覚えている。僕はそれまでしばらくのあいだ、小説というものを書けずにいた。もう少し正確に表現するなら、小説を書きたいという気持ちにどうしてもなれずにいた。その原因はいくつかあるが、大まかに言ってしまえば、当時僕がいろんな面において厳しい状況に置かれていたため、ということになるだろう。」

村上春樹さんにとってこの作品については、当時の特別な、何かしらよくない事情が介在していたようなのである。そんなときに執筆されて発表されていたのが「眠り」という作品であった。この「眠り」は当時に執筆された「TVピープル」という作品とともに、文庫版にて収録されている。

今年もまたノーベル文学賞の受賞に期待がかかる村上春樹さんの、最新発表作である。これがきっかけであれなんであれ、春樹さんのノーベル文学賞受賞を、ファンとしてこの季節には、たっぷりと願っている。

原田マハさんの近作「楽園のカンヴァス」は、絵画鑑定ミステリーというジャンルを切り拓いた

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原田マハさんの近作で山本周五郎賞を受賞した「楽園のカンヴァス」を読んだ。先日発表された今季の「直木賞」にもノミネートされており、今年度ナンバー1の評価も高い話題作である。

同書の装幀には、アンリ・ルソーの「夢」という彼の代表的作品がドンと大きく採用されている。注視していると左に全裸の女性が左腕を伸ばして何処かを指差している。彼女の表情やプロポーションはどこか不自然だ。女性の表現はリアリズムから程遠くデフォルメされており漫画的でさえある。また背景には楽園をイメージさせる樹林やら野生動物、野生の果実、等々がカンヴァスの中でひしめいているのだが、現実的イメージを突き抜けて夢想的なイマジネーションを徴表しているのだ。

そもそもアカデミックな美術の教育を受けてないルソーの作品について、欧米美術界の評価は二分されているようだ。「まるで技量の拙い日曜画家による作品」という否定的なものから「近代美術を大きく前進させた巨匠作品」というものまで、毀誉褒貶が極めて激しいのだ。

ちなみにこのポイントに於いて、作家の原田さんのルソーに対する肯定的評価は特別なものがあり、そんな情熱が物語を貫く底流として蠢いていることを感じさせるのである。

この作品とその架空の贋作(「夢を見た」という作品名)をめぐる美術関係者の謎解きを軸にして物語は展開し、近代絵画に於けるルソーの評価が、底流を流れる同ミステリーのテーマとなっている。

「夢を見た」という作品名の贋作に対しては、読み始めた当初はピンと来ない途方もない荒唐無稽なシチュエーションかと思わせたが、読み進めるにつれては、それもありなん。決して荒唐無稽ではない煌めくフィクションだと捉えることが可能となっていた。まさに絵画鑑定ミステリーというジャンルを切り拓いた意欲作品だと云えるだろう。ニューヨークのMoMA美術館にて勤務したことがあり、フリーのキュレーターの資格を持つ作家、原田マハさんが挑んだ、新しいジャンルのエンターティメント作品なのである。

直木賞受賞作、辻村深月さんの「鍵のない夢を見る」を読んだ

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今回の第147回直木三十五賞受賞作は、辻村深月さんの「鍵のない夢を見る」が受賞したという先日のニュースを聞き、早速、受賞作の中からその代表的一章の「芹葉大学の夢と殺人」を読んだ。

「地方」のという、云わば中央から距離を隔てた人々の日常生活をテーマに、人々の欲望と思いもしない崩壊を描いたという風な評価が踊っていることは、おいらも文芸誌誌上のコメントを読みつつ理解していた。だが然しながら、そんな評価、コメントと、おいらの個人的感想とは、ある程度の距離的違和感が存在していたと云うべきなのだろう。

作家の辻村深月さんといえば、特に読者層の中でも近年の若者層にファンを多くしているという。予め人気者としての直木賞受賞者となった訳である。

そしておいらが受賞作品も読んだのではある。もちろんのこと受賞作品としての完成度や、大衆文学作品としてのドキドキ感、ミステリー性も、申し分なく作品中にてアピールしている。一級的大衆文学作品としての条件は見事に整っている。だが、なんとなく物足りないという印象を受けたのもまた正直なところではあったのである。

余談にはなるが、同賞選考会にては、原田マハさんの新作「楽園のカンヴァス」が候補作にノミネートされていたということであり、おいらはこちらの作品こそは受賞作品に値するものだと考えている。後日、原田マハさんの「楽園のカンヴァス」についても記していきたいと考えているところである。

「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)でも特記されていた高田渡先生の存在感

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東北旅行に旅立っていた途中に買い求めた一冊がこの「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)であった。予想していたとおりに丁度軽いノリの彼是に、旅の途中の暇潰し的時間的利用術としてはもってこいではあった。

酒にまじわってしまった人々の滑稽なる仕草やエピソードを、色々な人間観察的視点で描いている。だが実際には酒にまじわった人々をそのままに著すのではなくて、可也の脚色を施していることが、その鮮やかなる落ちの切れ味にて見て取れる。事実的にはこれは、なぎら的お馬鹿な呑兵衛達への仲間意識から記された一冊ではある。

脚色によって面白可笑しく記されていた呑兵衛たちの姿であるが、同著の後半に或る一章にては、なぎら氏にとっての師匠でありおいらにとっての師匠でもある高田渡先生のエピソードが記されていた。同著の中での呑兵衛達は、某氏等の匿名的記述に満ちていて、其れこそが脚色的背景を明らかにしているのだが、こと高田渡さんの節こと「忘却とは……」においては、特記的に実名で記されていた。曰く…、渡さんは時として、朝7時ごろに酔っぱらってフォーク仲間に電話をかけることが良くあったという。機嫌が良い日は喋り続けて、そのうちに眠ってしまったという。電話の相手は「渡さん、渡さん」と呼びかけるのだが、返事はない。やっと声が返ってきてほっとしたところで、渡さんの一言があったと云う。

「え~っと、私は一体誰に電話をしているんでしょうか?」

なぎら氏は同節を「なんという、正しい呑兵衛の姿であろうか。」と〆ている。まさしく高田先生の存在感が際立っている、微笑ましいエピソードではある。

ずっと気になる乙一氏の「平面いぬ。」を読んだ

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現在、現役作家としてとても気になる作家の筆頭が乙一氏であるといえるのかもしれない。あまり近頃は読んでいなかったのであるが、先日ふと目にした「平面いぬ。」を購入し、本日読了したのである。

ふとした思いから子犬の刺青を入れた少女と、タトー子犬とのやり取りが、コミカルに展開される。絆を得た彼女たちは、周囲の人間を巻き込んで更なる冒険をはじめるのである。

過去のデビュー作品としての「ZOO」や「GOTH」等から受けたインパクトは薄まって、かえって軽い気持ちで彼の作品に没頭している。そんな逆転的現象を受けて、さらに乙一氏への思いは強まっていると云ってよいのだろう。

芥川賞受賞作「冥土めぐり」(鹿島田真希著)

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鹿島田真希氏の芥川賞受賞作「冥土めぐり」を読んだ。400字原稿用紙にして110枚程度の作品で、一気に読み終えていた。前回の受賞作2作品に比べてみれば、わかりやすく正攻法な作品である。そもそも作家の邪気溢れるはったりやら、自己満足にしかないストーリーに付き合わされる読者の身としては、これほどの徒労感はないのであり、そんな文学愛好家の徒労感に些かなりとも芥川賞が関与して欲しくは無いのである。

作者の鹿島田真希氏を連想させる主人公の女性には、「病的」というのが適切であろう物欲の塊のような母親と弟が存在する。その母親の祖父というのが過去に一財産を築いた資産家であり、母親は過去のバブリーな生活の延長として、極めて病的な日常に埋没しているということである。

こんな家庭一族の悲喜劇模様を、バブル崩壊後の日本の縮図だと称する選評者もいるようだ。

――高樹のぶ子氏による選評

経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティをもち得ていない日本の縮図としても読める。女性主人公の母親と弟は、金銭の奴隷として描かれ、主人公は家族の荒廃した桎梏から逃げ出すように、頭に病を持つ夫を連れて一泊の旅行に出かける。

――

頭に病を持つ夫の描き方には、ある種の違和感を持っていた。無垢なるものとしての脳の疾患患者に対して殊更に天使の役割を担わせるには無理があると感じていた。

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(1)

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昨年末に、自らの意思にてジャーナリストの休業を宣言した上杉隆氏による、意欲的な1冊である。世の「ジャーナリズム」と云われる世界のひどさを身をもって体現し、其れへのアンチとしての抗議の休業宣言ではあるが、其の書を読む限りに論調にしみったれたところは微塵も無く、却ってからっとして爽やかさが満ち満ちている。ある意味で潔く、前向きである。これから先も何かやってくれそうな期待感がもたらされており、ジャーナリストの卒業宣言として受け取ることも可能である。

「3.11」を経てジャーナリズムへの嫌厭の念は頂点に達したようであり、前書きでこう記している。

―――以下引用
「3.11」後の混乱状況に際して、マスメディアは情報を隠蔽し、国民を欺き、国家の信頼を著しく毀損した。しかも当事者たちは、みずからの行為の意味も、それが後世に与えた影響の甚大さも、まったく自覚していない。
―――引用終了

ロジャー・パルバース氏が著した「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」

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米国ニューヨーク生まれ、オーストラリア国籍を持つ文学研究者、ロジャー・パルバース氏による宮沢賢治論である。67年に来日し、賢治の「ざしき童子のはなし」を読んだことが、賢治を知るきっかけだったという。以来賢治の小説世界に魅せられて、研究を重ねてきた。NHK出版から発行された同著は、そんな著者による宮沢賢治入門書のスタイルがとられている。

外国人による我が国の巨匠作家に関するものは、批判的視点によるものかという漠然とした印象を持っていたが、こと同書に関してはそうした余計な視点は感じ取れなかった。却って印象的に映ったのが、日本文学の代表的文学者としての宮沢賢治さんへの尊敬の視点である。美しい日本語を操る作家として、何よりも賢治さんの作品を挙げている。日本人の賢治マニアの一人として、おいらも頷くところ多かりきなのである。

(この稿は続きます)

宮沢賢治が愛した花巻の「イギリス海岸」を散策

東北岩手を旅しており、花巻市内の「イギリス海岸」散策した。

花巻は何度訪れても新鮮な出会いや発見に遭遇する古里であり、北上川の流れを前にした通称「イギリス海岸」は、そんな花巻の原風景を象徴している。

決して大河ではない北上の川の流れは人された工化形跡が少ない分に鮮烈であり優雅である。

賢治は遠い異国の風景の憧憬を込めて「イギリス海岸」と命名したが、異国情緒の故意風景が作家の、あるいは日本人の原風景として定着してきた経緯は甚大な関心をさそってやまないのである。

つげ義春さんの文庫版新著「つげ義春の温泉」

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旅好き、温泉好きの漫画家、つげ義春さんの文庫本としての新著である。いつもの書店にて偶然に発見して買い求めていた。

岩手、青森等々の東北地方から始まって、関東・甲信、九州・近畿の、夫々の鄙びた温泉地の写真がまとめられている。それら全ての写真の撮影者がつげ義春さんであり、そのほとんどが、東北地方の湯治場温泉地で占められている。

つげさんによる写真画といった印象の一冊である。

昭和時代の湯治場温泉地の風情が滲み出ており、平成時代の今では懐かしい、全くといって良いほど異質的な昭和の風情である。

その画質はちょっとピンボケどころか、とてもアウトフォーカスが施されており、それは古きフィルムと古き良き時代のレンズによるものであることが推察されている。

猫も杓子もデジカメの時代にあって、このようなアウトオブフォーカスなるビジョンがもたらす懐古的ビジョンにはとても引き付けられるものがある。

おいらがかつて訪れた温泉地もあれば、未だ未訪問の地の温泉地もある。東北の温泉地でもまだまだおいらが未訪問の地は多く在った。

数ある写真の中でも注目したのは、岩手県の「夏油温泉」の写真群であった。湯治の場所としての風情は格別であり、しかもすこぶる開放的である。今年もまた「夏油温泉」を訪れたくなってしまった。

特異なビジョンを展開させている伊坂幸太郎さんの「PK」を読んだ

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人気作家、伊坂幸太郎さんによる作品集の「PK」を読んだ。文芸誌による発表作品をまとめて昨年刊行された3部作。「PK」「超人」「密使」の3編の作品が収録されている。

表題作の「PK」は、サッカーの試合における「ペナルティキック」のことを指している。ペナルティエリア内での相手チームの反則により、PKのチャンスを得たヒーローが、その一撃を決めるというシチュエーションが、劇画のような筆致で描かれている。

筆致は劇画調であるが、テーマと云うのか題材は、政治、人生観、超能力、等々の現代日本人受けするものがてんこもりである。SF作品を得意としてきた作家がここへきて、こうしたテーマ作品に舵を取り作品発表を行っている。そのことは作家としてのビジョン的展開の一つではあるのだろうが、その必然性と云うものを感じ取ることは無かった。

最終的にはどの作品も、ある種の余韻という、いわば曖昧な領域へのビジョンへとつながり、エンターティナー的要素ばかりが刺激的に見受けられる作品集と云う印象なのである。

島田雅彦さんの新著「英雄はそこにいる」には興奮を禁じ得ない [2]

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プロット、登場人物等々、かなり痛快である。

主役は、現代のヘラクレス(すなわち「英雄」)こと佐藤イチロー。暗くかつ凄みある過去を持つ天才暗殺者である。脇役として、シャーマン探偵ナルヒコ、「特命捜査対策室」の穴見警部、たちが脇を固めている。端役として登場する大阪府知事、新興宗教団体代表、或いは北の黄泉の国の三代目たちは、まるで哀れで滑稽なキャラクターとして動き回り、読者が多分望んでいるであろう筋書きにて進行していく。ちなみに大阪府知事はあっけなくイチローの刃で暗殺される。そんな筋書きは、上質な小説ならではの筆致にて描かれていき、ある種のカタストロフィーをかたちづくっていくのである。

そんなこんなの記述がまた英雄の存在感、英雄待望のプロットに、ある種の必然性を加えているのだ。

然しながらだからといって物語に現実性があるかというのではなくしてその逆ではある。ヘラクレスの物語が非現実性で一貫している以上に、非現実性がはえる特異な物語のプロットを最後まで貫いているのだ。

先日の記述の続きになるが、島田雅彦さんが描いた現代的ヘラクレスの物語は、おいらをはじめとする読者を興奮の渦に巻き込みつつ、ちゃんと小説的世界観を確立させてもいる。純文学とは云えないであろうこのエンターティメント小説を読みつつ感じるのは、何よりも、時代の風、息吹、或いは息遣いというものである。時代の風を小説的に構成している。けだしこんな才能は現代日本の文学界には、島田雅彦さん以外に見つけることはできないのである。

島田雅彦さんの新著「英雄はそこにいる」には興奮を禁じ得ない [1]

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今月に出版されたばかりの一冊、島田雅彦さんの新著「英雄はそこにいる」に思いもかけずに興奮したのであった。読書的感動としては近頃無かったようなインパクトである。

小説の最後の一説を読み終えて瞬時に理解した。この小説の作家は自らの世界観を展開したかったのであると。そしてそんなやんちゃな企みはある種の成功を遂げているのであることをおいらは理解していたのであった。

紛れもないエンターティメント小説である。純文学作家としての筈ではあった島田雅彦さんは、いつの間にやらエンターティナーに変身していたということなのかも知れない。しかも一級、特級のエンターティナーではある。

頗るテンポのきいた展開である。それに引き替えシチュエーションはまるで非現実でありながら、人々の無意識的な欲求を汲んでいて、非現実的なプロットに存在感を与えているようなのである。

(この稿は続く)

本屋大賞ノミネート作品、沼田まほかるさんの話題の一冊「ユリゴコロ」

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2012年の「本屋大賞」にノミネートされ注目を浴びている、沼田まほかるさんの「ユリゴコロ」を読んだ。

「ユリゴコロ」という語彙は一般に存在しない作家の造語であり、「拠りどころ」に起因している。「ユリゴコロ」というタイトルによる4冊のノートに、読む者を驚愕させる内容の手記を残していた。その手記は「私のように平気で人を殺す人間は、脳の仕組みがどこか普通とちがうのでしょうか。」という一文から書き進められている。この手記の内容自体が小説の重要部分を占めている。それを主人公の亮介が偶然にも発見することから物語が展開していくのである。

精神的な病を患っていた手記の筆者が、精神科の医師に「ユリゴコロ」という言葉を何度も浴びせられていたというくだりがある。実は「ユリゴコロ」ではなくて「拠りどころ」であったということで手記の筆者も合点するのだが、物語のその後においても「ユリゴコロ」という語彙は云わばキーワード的なものとして存在していく。不思議な語感を残し、読者を特異な世界観へと誘っていくようでもある。

殺人願望という、幼児期からの衝動にとりつかれた内容の手記、しかも家族の誰のものかは判らないまま、何やら怖ろしい記述内容が事実かフィクションかも判然としないまま、主人公の日常のドラマと共に、同時進行的に手記の内容が明らかにされていく。ミステリー小説を読み慣れている訳ではないおいらにとっては、そんなプロットの展開には興味をそそられることは無かった。アマゾン等の読者評では「途中で結末がわかってしまった」等々の評が散見されたが、この作品もそうしたジャンル作品の一つなのかと理解したという程度の認識である。

手記内容が事実か? 或いはフィクションか? という点については、物語の中盤くらいで明らかにはなるのだが、それと反比例するように、小説世界への信憑性は薄らいでいったという思いが強く残った。無理矢理至極のプロットとでも云うのか、何だか無茶振りとでも云いたくなる後半の展開へとなだれ込んでいくのである。

複雑に絡み合う家族関係や特異な血縁の匂いが横溢し、それはそれで刺激的なのだが、これもまた、特異なフィクションでしかないという思いを強くしていたのであった。

「田中慎弥の掌劇場」は駄作が多いがそこそこ楽しめる小作品集だ

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ご存じ「わたしがもらって当然」発言で、一躍ときの人となっている、芥川賞作家こと田中慎弥氏の最新作品集である。出版元は毎日新聞社。おいらは全く知らなかったのだが、田中氏が無名のころの2008年頃から、もう新聞連載など行っていたのであり、それらの小作品をまとめて編集出版されたのが同書である。

購入して半分くらいを読了しているところであるが、ほとんどの印象はと云えば、所謂「習作的小品」と云った印象だ。例えば川端康成氏の「掌の小説」に匹敵するインパクトや完成度はまるでなかった。そもそも「…掌劇場」と云った同書のタイトルは、川端康成氏の「掌の小説」の線を狙っていたものであり、二匹目か三匹目かのドジョウを狙ったものだと推察されるが、それが只の小作品集となって編集出版されてしまったことはいと残念なことではある。気鋭の芥川賞作家の力量を問う前に、出版元の編集的お粗末さについて問題とするべきであると考えている。

そんなこんなの印象はさておいて、作家の田中慎弥氏は小作品の執筆を楽しんでいることが散見され、作家が執筆を楽しむのとほぼ同様な楽しさを感じ取ることができた。

一例で「男たち(一幕)」には、舞台上に10人ほどの男が登場する。麻生、金、オバマ、小泉、三島、太宰、石原、吉田、鳩山、そしてもう一人の鳩山が登場している。もう一人の鳩山とは由紀夫の弟か祖父かではあるが、そんな些少な推理的アイテムが散りばめられているとともに、執筆当時の時勢へのアイロニーもまた表現されている。容易に想像されるように、ここで表されているのははちゃめちゃてき悲喜劇である。ドラマツルギーの一つの要素でもある悲喜劇の一種なのだ。

だがそんな浅薄なアイロニーが読者を感動させることなどは全く無くて、ただ単に面白さの一種としての刺激でしかないことに気付くのである。果たして読書の体験というのは、今や純文学といえどもこの程度の代物に成り下がってしまったということなのであろうか?

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読んだ

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こんな長ったらしい名前の本が、2年ほど前の書店におけるベストセラーなんだと云うことなんである。だからか略して「もしドラ」という名前でヒットしていた。「マネジメント」等と云うビジネス書風情のタイトルに、おいらもあまり気乗りしないながら、先日手にとって、少しずつ読み進めていた。

一時期は我国でも、マネージャーでなければ人にあらずというくらいに「マネージャー」が持て囃されており、マネージャー礼賛はあたかも自己啓発セミナーの洗脳の類いにも似て蔓延していた。些か気色悪いブームではあった。そんなマネージャー礼賛の風潮はピークを過ぎたと思えた頃に、出版されたのがこの本であった。

作者の岩崎夏海氏は「AKB48」のプロデュースを手掛けていており、主人公マネージャーは「AKB48」の高橋みなみをモデルにしたと云う。当代きってのちゃらちゃらアイドルをモデルにし、表紙には癒し系イラストを用い、「マネジメント」のブームの再来を企図したのかもしれないが、結局ブーム再来は果たせなかったが、ほんのヒットには結び付いたのであった。

ところでよくある東京都内の都立高野球部が、ドラッカーの「マネジメント」を読んだら、甲子園出場を果たしたという同書の基本的プロットは、かなりの無理があり、プロット自体が破綻していると云って良い。先ずはそこそこのピッチャーをはいしての高校野球がいくら「マネジメント」を駆使し得たと雖も、予選を勝ち抜くことなど不可能だ。バントをしない、ボール球を振らせるピッチングをしない、等々の戦略が功を奏することは有り得ないのである。所詮はドラッカー本の、二番、三番、四番煎じ的、色物的書籍の一つではある。

山崎ナオコーラさんの「人のセックスを笑うな」に感動した

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著者の「山崎ナオコーラ」という名はペンネームであるということは、数々の客観的事実としてはっきりしている。そして想像するに「直子」or「尚子」or「奈央子」or「菜穂子」さんという名前の女性が、「コーラ」という語尾を付けて遊んでみたという光景が浮かび上がる。

まあ作家さんの本名についてはどうでも良いのだが、語尾に付けられた「コーラ」はとても詮索力を掻き立てられる。「コーラ依存症」なのか? 或いは「コーラマニア」か、或いは「コーラ好き」「コーラ偏食」「コーラ愛好家」等々のイメージが惹起されるのであり、そんなコーラを象徴的にイメージするのが、アメリカ的毒食なのではある。今はまさにコーラやハンバーガー等と云った、ジャンクフードが花盛りであり、そんなジャンクの申子的メーカーの「マクドナルド」が「食育」等をPRするくらいなのであり、不可解この上ないくらいだ。

そんなナオコーラさんの代表作「人のセックスを笑うな」を読んで、いたく感動したのであった。何故か? と自ら内省的に問えば、その作品世界のテンポのよさとともに、軽々とした世界観でありながら、真摯な人生観とでも云おうか…。20代前半の男と30代後半の女の年の差カップルのやり取りが、まるで俎板の上のセックスのごとくに描写されていくのであり、テンポやセンスが光る描写とともに、達観したごとくの人生観が垣間見られていたのであり、憧れにも近い思いに駆られていた。この作家の色々な作品が読みたいと思ったのであった。

以前には同原作のDVDを鑑賞していたのであり、エロビデオの類いにしか感じなかったが、原作は租の様に剃の様にもっと刺激的で関東的な作品であったのであった。

アンチアカデミズムの巨星、吉本隆明さんが逝った(1)

今朝からずっと、吉本隆明さんが亡くなったというニュースにふれて、悲しみにくれている。

高齢ではあるがここ近年においてもなお旺盛な執筆活動を続けていたことと、今日の逝去のニュースとのギャップが中々埋まらなかったのだ。巨星が逝ったことを理解するに相当程度の時間を費やしていた。

こんなことは肉親、身内の人間以外には無かった事だし、恐らく、今後とも考え難い、とても耐え難いことがらであった。

遥か昔になるが、おいらがまだ20歳に届かない思春期の一時期に、吉本隆明さんの詩作に触れていた。

難解且つ晦渋なその詩的世界を理解しようともがきつつ、彼の思想的な著書をむさぼり読んでいた。

多分その関係性は、入れ込んでいたとか好きだったとか云った位相を凌駕しており、関係の絶対性という、吉本さんのキーワードにも繋がるような、強固な関わりがあったのだ。

おいらは所謂団塊の世代よりもずっと後に生を受けており、先輩たちの受け取り方とは異質に、吉本さんと相対していたと云えよう。最も尊敬すべきは、「思想」という代物が、舶来輸入品ではなくて確乎たる人間としての営みからのみ作り上げられるものだとして、吉本さんの思想的営為が受け入れられたということに他ならない。

思想することは生きることの同義であり、産経新聞論壇に代表されるお馬鹿な大衆保守主義や所謂戦後民主主義といった、出来合いの思潮的風潮をけち飛ばすくらいのパワーで、戦後の日本の思潮的一里塚を築き上げたのである。こんな営みを他の誰がなしえたといえよう。

晩年の吉本さんは、小沢一郎に入れ込んだり反原発を批判したりといった、おいらの考えとは異なる発言を発していたのであったが、たとえそれはなかろうぜ、といった言説に触れていても、吉本先生の思索のたまものだと受け取ることができたのである。

本日はそんな日でもあり、おいらも献杯を重ねて思考力が著しく鈍ってしまっているようであり、また日を改めて、吉本隆明先生の偉大さに触れていきたいと思うのである。