自費出版を取り巻く現代人のいびつな姿を描いた百田尚樹氏の「夢を売る男」

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出版という業界の中でも特に「自費出版」と呼ばれる界隈を舞台に、ベストセラー作家を夢見る素人作家たちと出版編集者たちとのやりとりが展開されている。主人公の出版部長、牛河原勘治の周りには、自分の本を出したいという多くの人間が集まってくる。作家志望、市井人のエッセイスト、自意識過剰な大学教授、等々と彼らの肩書きは様々だが、彼らはともに「夢を見る」という共通性を有しているのであり、そのための自著発行を志向している。実質的な自費出版であるため、200万円かそれ以上の費用が必要となるが、夢を見るための費用としての必要経費であるかのようだ。

本離れが云われている状況下ではあるが、相変わらず出版への憧れはまだまだ強いと見え、膨れ上がった自意識や自己主張を行う受け皿となっている。物語としての同著には、それほどうなるべきドラマツルギーを感じ取ることはなく、いびつな欲望を抱く現代人のすがたを示すだけに終始していたのが残念ではあった。

「パン屋を襲う」に掲載されたカット・メンシック氏のイラスト

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昨日記した村上春樹さんの新著「パン屋を襲う」でイラストレーションを描いているのが、カット・メンシックというドイツ人の女性イラストレーターだ。新潮社によるプロフィール紹介には以下のごとくに説明されている。

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1968年、東ドイツ・ルッケンヴァルデ生まれ。ベルリン芸術大学、パリ国立美術大学で学び、「フランクフルター・アルゲマイネ」日曜版やファッション誌「ブリギッテ」ほか、ドイツの代表的メディアに寄稿する人気イラストレーター。2007年、トロースドルフ絵本賞受賞。
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「パン屋を襲う」の前にも「ねむり」のイラストレーションを手掛けている。同二書はと云えば、決して大作ではない小品に、カット・メンシックのイラストを添えた「絵本」という体裁をとっている。村上春樹さん自身があとがきで、「僕は彼女のシュールレアリスティックな絵が個人的にとても好きなので、嬉しく思う。彼女とは一度ベルリンで会って、一緒に食事をしたことがある。旧東ドイツで過ごした少女の話をしてくれた。」とそう説明しているのが印象的である。

正直に記せば、おいらはカット・メンシック氏のイラストがシュールリアリスティックだというよりもポップアート的だと感じとっていた。人体や動物の一部位や近代文明の象徴としての一部位を切り取って再構成する彼女の作風は、春樹つてなかワールドに、かつて無かった彩りをもたらしている。

村上春樹さんのリメイク的新著「パン屋を襲う」

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村上春樹さんの「パン屋を襲う」とは、かつて1981年に発表された作品を元にリメイク的にして先月に出版されたばかりの近著である。

その中味といえば、「パン屋を襲う」という表題そのままに、主人公の「僕」と友人、あるいは「僕」と妻が、パン屋に押し入って襲うというストーリーだ。その理由というのが、「腹が減っていたから」というのであるから、物語はとてもシンプルである。

主人公自らが物語の始まりで解説してくれる。

「神もマルクスもジョン・レノンも、みんな死んだ。とにかく我々は腹を減らしていて、その結果、悪に走ろうとしていた。空腹感が我々をして悪に走らせるのではなく、悪か空腹感をして我々に走らせたのである。なんだかよくわからないけれど実存主義風だ。」

いまやほとんどの日本人にとって「空腹感」を実感することは稀になったが、1981年当時はまだ日常的に感知しえる経験のひとつであった。村上春樹さんの創作の原点のひとつが、空腹感というような極めて形而下的なことで成り立っていたということは、いま改めての発見であったと云うべきだろう。

http://www.shinchosha.co.jp/book/353429/

 

本屋大賞にノミネートされたという話題の「世界から猫が消えたなら」(川村元気著)を読んだ

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本屋大賞にノミネートされたという話題の「世界から猫が消えたなら」(川村元気著)を読んだのだ。

「世界から猫が消えたなら」という著書が本屋大賞にノミネートされたということで、おいらもずっと気になっていたのであり、先日はそれを購入して読み進めていたという次第なのではある。

何に引かれたかといわれれば、帯にあった推薦文の数々。秋元康、角田光代、小山薫堂、中谷美紀、等々の著名人たちがそれぞれの言葉でアピールしている。これは何かあるのではないか? と、期待がたかまっていたことは隠せない。角田光代さんなどは「小説だが、これはむしろ哲学書なのではないかと思えてくる。(中略)なぜ私たちは映画を見てわくわくするのか。なぜ私たちは絵画を見て涙するのか。そうしたことの答えを教わった気がした。」というくらいに絶賛のコメントを寄せている。これはもう読むしかないという気分にさせるに充分だったというしかない。

さてさて実際に読んでからの読後感はといえば、けっして悪いものではなかったのだが、少々の拍子抜けの思いが強かった。その一つは、書中におけるその軽い言葉遣い。例えば女子高生ギャルに対して男子が受け答えする返答の軽々しさにも等しい言葉が羅列されている。登場人物の台詞
といった限定的なシチュエーション以外で、それらが多用されていたのには辟易していた。軽々しい言葉を操る流行作家という評価が値すると思っていた。

哲学的思索と軽々しいギャル言葉がまじわって、多くの文学ファンを惹きつけたという点においては大いに評価に値すべきであろうと思われる。けっして否定したり貶したりする意図はないのであり、今後の執筆活動に大いに期待を抱いているのである。

作家のプロフィールをのぞくと、映画プロデューサーとして著名な映画に関わり、優れた映画製作者に贈られる「藤本賞」を史上最年少で受賞したとある。出版元の飾りつくろったプロフィールの類ではない。やはりこの作家は只者ではなさそうだ。

「ビブリア古書堂の事件手帖」にも登場する太宰治さんの名著「晩年」

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以前に原作本を読んだ縁から、TVドラマの「ビブリア古書堂の事件手帖」を見る羽目に陥っている。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=6896

今晩もまたそんな一夜の時間を過ごしてきた訳ではある。主人公栞子さんを演じる剛力彩芽がしっとりとした演技で良い味を出している。フレッシュさだけが取り柄の若手女優という評価は上向きに更新され、しっとり女性の演技が出来る実力派という評価が生まれつつある。

何よりもまず今回第六話の主役は、登場人物たち以上に太宰治さんの「晩年」であった。1936年(昭和11年)に刊行された文豪の処女作であり、唯一の自費出版作品である。コレクターならずとも必携であり、ファンにとってはぜひとも手元に置きたい一冊であることは確かである。そんな一冊に値する書物こそ太宰治の「晩年」であり、そんな希少なる条件に値する我が国文学作品の最高峰と認められるのだ。

おいらの所有する「晩年」はもちろんレプリカである。「ビブリア古書堂の事件手帖」にも本物ではなく偽者的復刻版の、レプリカが、わき役的配役の登場としての本物以上に重要なる要素を占めているのだ。レプリカと云えどもけっして侮ることなどできないのである。

「となりのクレーマー」は経済至上主義的現代日本が産み落とした鬼子

新書版「となりのクレーマー」を読んだ。著者の関根眞一氏は元西武百貨店にて勤務し、全国3店舗のお客様相談室長および池袋店のお客様相談室を担当。クレーマー処理、苦情処理のプロとしての体験と知見から、同書を記している。消費社会の裏側で蔓延る「クレーマー」たちとの交渉術が述べられ、彼らとのバトルの実例が記されている。全国のショッピングセンター等における講演以来も数多あるといい、クレーマー対策の第一人者として認められている。

少なからずの期待を抱いて読んでいたが、その読後感は決して良いものではなかった。何故だろうか? と考えてみた。そしてその答えとして導き出された一つの理由は、クレーマー処理の達人もまた市場経済、消費社会の申し子だったということだった。同書の副題には「『苦情を言う人』との交渉術」とある。苦情を言う人の人間性を見極めて交渉することが大事だということを、同書の主張の端々にのぞかせている。格差社会から来る人間性の歪みがクレーマー増強の故とされていることや、お客の苦情をきっかけにより大きな販売に結び付けようと主張されているところなどは、同書の著者もまた、経済至上主義的日本国の歪みの一例だと捉えるしかなかったのであり、クレーマー処理の達人も現代的日本社会が産み落とした鬼子であると感じたのである。

「コの字酒場案内」でみる「コの字酒場」の特別な魅力

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「コの字酒場案内」という本を読んだ。呑兵衛向けの酒場、居酒屋案内の書物であり、サブタイトルには「厳選! コの字カウンターのある酒場ガイド」とある。東京都内の「コの字」に設定された酒場、居酒屋を紹介しつつ、その独特の魅力について言及しているのだ。

「コの字」のカウンターと云えば、コの字の外側には酔客が並び、中では店主をはじめ酒場関係者が注文を受け付けていると云った光景が目に浮かび、古き良き酒場の伝統を今に引き継いでいるとも云うべき、象徴的存在である。

酒場のマスターはじめスタッフ達との密接で適度な距離感において向かい合い、客同士のコミュニケーションもとりやすい。そんな酒場のことを「コの字酒場」と命名している。此のカウンターにスポットを当てた同書の切り口には、流石の命名的センスを感じ取っている。

加藤ジャンプと名乗る同書の著者は、「コの字酒場探検家」を自称し、四半世紀にわたってのコの字酒場歴を経験するという猛者である。おいらも翻って考えてみれば、四半世紀以上にわたってコの字酒場には入り浸っていた呑兵衛の一人であることを、改めて思い至ったという、有り難い一冊でもある。

川上弘美さんの傑作長編小説「真鶴」を読んだ

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川上弘美さんの長編小説「真鶴」を読んだ。

東海道線に乗って熱海の2つ手前の駅で降りると、真鶴港に向かう岬道が延びている。この小さな町が物語の舞台となっている。主人公の女性こと京は、夫に失踪されて12年が経つ。そしてあるとき元夫の書き残したメモに「真鶴」とあるのを発見し、真鶴への旅を繰り返すことになる。

「歩いていると、ついてくるものがあった。」「またついてくるものがある。」等々といった記述により、はじめはミステリー仕立ての物語かと思ったら、そのあと簡単に裏切られていた。夢かうつつの主人公に語りかける女の存在は、夫を奪った愛人なのか、或いは彼女自身の分身なのか…曖昧なままに、緩く進んでいくのだが、決してその流れは煩わしさもなく、かえって心地良さに満たされるかのようだ。

主人公の京には、現在進行形の愛人とも呼ぶべき編集者の青磁という男がいる。何回目かの真鶴訪問には、二人で訪れてもいる。過去と現在進行形との愛欲の交わりが、ストーリーに緊張感を生じさせるが、そんな設定も、物語を大部を占める緩やかさにとっての、脇役的な設定でしかない。

ぽつりぽつりと、言葉がこま切れに繋がっていくような、独特な言い回しもまた、物語をいっそう個性的な世界として浮かび上がらせるのだ。

文学評論家としての吉本隆明氏によれば、言語には「指示表出」的要素と「自己表出」的要素が存在しているとされる。当作品「真鶴」はまさに「自己表出」的要素の横溢した文体により創造でされた傑作である。他の作家の誰とも異なり、おそらく川上弘美さんの以前の作品にも無かったであろう、極めて純度の高い文体にまで昇華されている。その結果的に「指示表出」的な部分は影を薄くさせ、曖昧さが立ち上るのであるが、この香りこそが物語独特の風味となっていて、読者を魅了させていくことを感じ取らずにはいないのだ。

田中慎也氏の「共喰い」文庫版が発行。瀬戸内寂聴さんとの対談が面白い(2)

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昨日の、文庫版「共喰い」に関する記述の続きである。田中慎也氏による芥川賞受賞作の「共喰い」は、田中氏の日本語に対する稀有なる扱いの妙というものが見て取れるのであり、これは瀬戸内寂聴先生も認める才能である。然しながらに、小説家には扱うジャンルの向き不向きということが厳然として存在し横たわるのであり、田中慎也氏は、どうも恋愛ものを苦手としているようなのであり、寂聴先生もそんな田中氏に対して、愛情のこもったはっぱをかけているのだと、おいらは感じ取っていたのである。恋愛はもっとしなさいだとかいう寂聴先生が語った語感の端々にに、そのことが見て取れるのである。

芥川賞作家、田中慎也氏の文庫版「共喰い」が発行。瀬戸内寂聴さんとの対談が面白い

芥川賞作家、田中慎也氏の受賞作こと「共喰い」の文庫版が、角川書店の集英社文庫より発行された。

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単行版の書籍で同作品を読んでいたおいらは、この文庫版を購入することはしなかった。けれども後書きにて記されていたところの、瀬戸内寂聴さんとの対談頁にはすこぶる興味をそそられており、立ち読みにて読了したのであった。

当対談の実現は、作家の田中慎也氏が瀬戸内さんとの対談を希望して実現したという流れである。

内容の大部分については、「源氏物語」に関するやり取りでしめられている。天皇になれなかった光源氏が色恋沙汰の恋愛に没頭することかできたという、田中氏による独自の分析が開陳され、それに対して瀬戸内さんが軽く受け流しつつ、芥川賞作家の恋愛観なり女性観なりについて、縦横無尽に突っ込んでいるという箇所がすこぶる面白い。

「爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011」には、本音版的日本映画ファンの思いが凝縮している

「爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011」を読んでいたのである。インパクト強く、編集スタッフの思いれぎっしりの一冊ではあった。

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表紙には若手有望株の浦島ひかり主演映画「愛のむきだし」のスチール写真で構成され、最初の扉ページには、「幻の湖」で疾走する南條玲子さんの写真がアップにて踊っているのだったのであり、このスチール写真にはいささかおいらも興奮の思いを禁じえなかった。これはまさに日本国のメジャー映画界のおきてやしきたりに反している。のみならずに、我が国の映画愛好家たちとは一線を画する評価基準が見えており、非常に面白いのである。

我が国の映画愛好家としてピックアップするならば、例えばネット掲示板界の第一人者として一世を風靡していた「赤煉瓦掲示板」主宰者の今井正幸氏は、たしかおいらとの掲示板上のやり取りの中で、「幻の湖」を観たことがないと語っていたのだった。こんな実験的意欲的作品を、こともあろうに映画マニアを任ずる今井氏が見ていたなかったということはすこぶる驚きではあった。しかも当時、何の興味も示さなかったことは、驚きを通り越して失望の思いを強くしていたものではあった。

南條玲子さんのデビュー作品である「幻の湖」は、それだけ意味のある日本映画界の鬼作的作品なのである。鬼作的逸品な「幻の湖」を再評価することにより、日本の映画界にも新たな光が垣間見えていくことになるだろう。「幻の湖」は日本映画界の名作にあたいする。

「孤独のグルメ」の不思議な魅力

新装版「孤独のグルメ」を読んだ。久住 昌之の原作、谷口ジローの作画というコンビによる作品で、じわじわとファンを増やしたといういわくつきの作品だ。

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漫画を読むという行為はあまりなく、ほとんどの漫画に対しては「見る」あるいは「斜め読みとばす」という程度のものなのだが、「孤独のグルメ」には読むに値するものを感じとっていた。

町のちょっとした食堂、レストランでの料理を食する主人公は、何やらいわくありげな個人の貿易商といった設定だ。仕事で訪れた町をさまよいながら、ぶつぶつと何かを呟きながら、一期一会のグルメとの出会いを目指す。ただ食いしん坊だはからという見方もできるくらいに、強靭な胃袋と食欲を有している。ハードボイルドな仕草や出で立ちはドラマに緊張感を与えるが、主人公の背景が掘り起こされるといった展開がなされる訳ではない。ひたすら町を彷徨い、食欲と胃袋が満たされることを志向する主人公がいるだけのような気もしてくる。けれども何か惹かれるものを、この奇妙な漫画さくひんは持ち合わせている。

食事をする姿は人間の本能にかかわるものであり、恥ずべき要素を含んである。ぶつぶつと独り言を云いながら料理を食する姿は、そんな恥ずべき行為でありつつ、あえてそれを漫画の主人公の姿としてさらすことにより、共感を生み出しているのかもしれない。

村上龍氏を「社会派」と呼ぶには虚しさがつきまとう

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村上龍氏の「55歳からのハローライフ」は、社会派小説と呼ぶべきスタイルの作品である。昨日は同書の読後感について、「その昔の村上龍さんの熱い作品のあれこれに接していたおいらには、ある意味とても残念でもある。」と書いた。もはや前衛作家としての村上龍氏はこの世には居なく、端正な社会派ノベルをつむぐ老成した村上龍が居るのだ。何故に村上龍がこの作品を書いたのか? 社会派スタイルの作品をつむぐ必然性があるのか? といった疑問を払拭することができないのである。

登場人物は50代以降の中年たちだが、会社をリストラされてホームレスになることに怯えていたり、定年退職した後の夫の奇矯な言動に嫌気が指して熟年離婚した元妻が婚活したりするのだが、それらの姿は寂しさを通り越して虚しさに満ちている。中高年の希望などというものを感じ取ることは、最後まで無かったのだ。

「55歳からのハローライフ(村上龍著)」の書評(序編の1)

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自宅と実家との行き帰りを経ていたおいらの年末から新年にかけては、さながら「読書週間」となってしまったようではあった。

大晦日の日に読了した「絶望のにおいらよりは国の幸福な若者たち」に続き、古事記関連の文庫本、温泉関連のMOOKに加えて、本日は村上龍さんの「5歳からのハローライフ」という新著を読了していた。

いつもいつもこのブログでは、無謀にもよみ終わってすぐに関連のあれこれをアップしているので、全然煮詰まっていない生煮えの不味いことこのうえない評価、評論を記述してしまうのであり、今年こそはそんな悪癖を改めようとは考えているところである。だからこれからは、熟する時間を一定時間込めてからの、読書日記、読書コメントにしていきたいところなのである。読書関連のエントリーが、数回にわたって記述されていくだろうことを赦していただきたい。今回のエントリーもその一般的なものではある。

「55歳からのハローライフ(村上龍著)」に関しての基本的要素を記するならば、人生のの折り返し地点を越えた、50代後半からの登場人物の、第何回かは知れぬが再チャレンジをテーマにして描かれている、とても社会性溢れる「連作中篇」の物語である。ちなみにおいらよりは年上だが、所謂「団塊の世代」よりも遅れて生を受け取った世代が主人公となっている。

5つの中篇の物語である。特に云えば、定年退職における社会システムから外れた中高年の疎外感や孤独感がテーマとして設定されている。その昔の村上龍さんの熱い作品のあれこれに接していたおいらには、ある意味とても残念でもある。

「絶望の国の幸福な若者たち(古市憲寿著)」を読みつつ年越し蕎麦をすする

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2012年を回顧しつつ年越し蕎麦をすすりながら、古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」を先ほど読み終わったところだ。生蕎麦を茹でて、具には葱と油揚げとそして、数の子入りの松前漬けをトッピング。いつもは松前漬けに数の子は不要と考えていたおいらだが、本日は特別な正月前の年越し気分も襲ってきていたのであり、数の子入りも年越し蕎麦には相性も良くグッドな感触なのだった。

本の帯には「26歳の社会学者による、大型論考の誕生!」と謳っている。若手の論客による「若者論」として、マスコミ媒体にて紹介されていたのが昨年のことだ。だがおいらはけっして、そんな耳目を集める若者論を読みたかった訳ではない。かえって話題づくりの書物に対しての嫌厭の情にとらわれていたのだ。それが先日は一転して同書を手に取り、読みたいと思う気持ちにおされて購入していた。話題の書としての評価以上なる関心を抱いたからに他ならない。

大手新聞紙上にての書評はいろいろ読んでいたので、内容に関するある程度の予測は有ったのであり、同書の趣旨の確認とともに、意外性の発見を得ながら読み進めていたのだった。一つの評価としての、若者論の終焉が同書によってもたらされるとか、ポスト・ロスジェネ世代による若者論、等々の評価以上に、いまどきの若者の国家観、戦争観に関する新鮮な分析的論考には心驚かされていたものである。

同書に関する詳細についてはこれからの節に続きます。

往年の人気作家こと松浦理英子さんの新作「寄貨」を読んだ

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書店で松浦理英子さんの「寄貨」という新作を目にし、迷うことなく購入していた。おいらの世代の文学愛好家にとってはおそらく、松浦理英子さんという名前には相当な畏敬の情を抱いているであろうと思われる。以前に掲示板上にて、博覧強記な某執筆者との会話などにてそのことを確認したという記憶が存在する。芥川賞も直木賞も受賞していないが、却ってそのことが当作家の経歴に箔を付けているかのごとくである。「ナチュラル・ウーマン」「親指Pの修行時代」等の代表作品により、変態的性癖を抱く登場人物達を独特の筆致で描く彼女の作品は、ファンである読者にとっては純文学の可能性を示唆していたのである。寡作な作家として目に触れなくなって久しかったのだが、本年8月には新作を発表していたということであり、実力派作家の活動再開に拍手を送りたい気分でいっぱいなのではあった。

先ずはこの作品中を流れる語彙の使用法に、おいらも懐かしい時代性を感じさせていた。昨今の流行作家達の使わない、ある種古色蒼然とした類の語彙が随所に散りまぜられている。若手作家のよく使う独りよがりの語彙は消えて、日本人の血脈を受け継いだ言葉によって物語が紡がれている。扱っている素材、テーマが女性の同性愛や変態的男性の関わりであるにせよ、言葉の紡ぎ方が、おいらの世代の文学愛好家達には心地よく響くのだ。

「奇貨」とは珍しい資質を持った人間存在のことを指しており、もとよりこうした希少な人材を手元に置いていくことで戦を有利に進めるべきだという故事の由来に依っている。だがこの作品中における「奇貨」というそんざいは、通常の人間関係においては成り立ちにくい関係性を有する存在であるということ。そんな「奇貨」を相手にしつつ、もう一人の主人公が人間存在の糧、云わば実存をかけて相対している。その関係性はとてもスマートであることが今風物語の限られた証拠の一つであると云えるだろう。

気鋭作家、平野啓一郎さんの最新作「空白を満たしなさい」を読了

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気鋭の若手芥川賞作家こと平野啓一郎さんが著した新作の「空白を満たしなさい」を読了した。最初はみるからに人生訓的な匂いを発する同書の表題に引かれて手に取り、目次等に目をやりつつ、そのまま購入することとなっていた。

家族としての最も近しい身内の死や、関係する身内近親者の死者への対応等がテーマである。そもそも人間の「死」については、おそらくは人間である限りは誰もが考えあぐねる究極的テーマであり、この究極的テーマの設定に加えて、SF的エンターティメント的な設定に、最大限の興趣をそそられていたのであった。

何しろ購入したもう一つの重大な要素は、「復生者」、すなわち一度は死んだ後に生を受けて復活したという人々の集団が、重大なプロットとして設定され、ドラマが織り成されていくことが想定されていたからであった。生き返った男が、ドラマの重大な物語的設定の中で生きて、本来的な生者たちの心を掻き毟っていく、のである。エンターティメント的設定としては、これ以上無いくらいに満タンに整っている。

主人公的登場人物であり、死から生き返った設定の土屋徹生は、自分が自殺によって死んだということに納得できないでいた。事故死でもなく、殺人であるはずだという思いから、自分を殺害した殺人犯を追及していくのが前段である。然しながらその思いは打ち破られていき、自分が自死、自殺を図ったことを確認して唖然とするのだ。残された妻と子供に対する懺悔の気持ちと共に、自らの死について、検証しながら自問する日々が待っていた。

中盤の設定としては、自死した自分自身の葛藤に煩わされつつ、家族との絆を取り戻そうとしてもがく主人公がいる。人生訓的表題に対応する展開ではあるのだが、当該的展開は非現実的要素に満ちてあり、プロットも中だるみのロットも印象がぬぐえない。

終盤に来て物語は最後の盛り上がりに達し、其処でこの物語が示した世界観を、厚い筆致と共に受け入れることとなっていた。前段、中段の物語のプロットが非現実的夢想的であったことを残念に感じたものだが、終段の展開に心躍らせていたのだった。

温泉地で男女の機微が非日常で解け合う吉田修一さんの「初恋温泉」

男女の機微が非日常で解け合う吉田修一さんの「初恋温泉」を読んだ

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吉田修一さんの「初恋温泉」を読んだ。温泉地での男女が紡ぎ合う、掌編の短編ドラマ集といった趣の一冊である。作家は「悪人」の著者として有名な吉田修一氏。「悪人」とはまた異質な、男女の機微を縦横に織り込んで物語が紡がれている。

混浴評論家の宮地めぐみさんが、たしか彼女が著した某書籍にて、温泉混浴の愉しみは異性との出合いや会話だと書いていたが、温泉の旅人には、非日常的な特別な愉しみが付きまとうのであり、それは換言すれば危ない香りと云ってよいかもしれない。男と女が温泉地で展開するドラマは絡み合う日常の結び目をほどき解き放すようなシチュエーションを基盤にして、物語の想像力を十二分に解き放っているようなのだ。

小品連作集といった同書に掲載された作品には、不倫の心情が温泉宿泊の底流に流れているだけであっけなく終わったというがっかりな作品も含まれてはいたが、温泉旅行と絡まった様々なシチュエーションにて紡がれていく男女の機微が、とても興味深くて一気に読み進むことができたのだった。

古書への拘りと執着がテーマの「ビブリア古書堂の事件手帖 ~栞子さんと奇妙な客人たち~」

「ビブリア古書堂の事件手帖 ~栞子さんと奇妙な客人たち~」を読んだ。
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古書に対する異常な拘りや執着を持つ登場人物たちが、おやっ? と思わすくらいに結果的には納得させる事件やそれに対する解決策を展開していくという、そんな稀有なシチュエーションにて展開される事件簿である。

舞台は北鎌倉駅周辺の「ビブリア古書堂」という古書店である。そこの似合わないくらいに、巨乳美人の女性店主こと栞子さんと、同店にはひょんなきっかけからアルバイト店員として働くことになった、俺こと五浦大輔がダブル主人公として物語を紡いでいく。

そして此の物語中にて端役として登場しているのが「漱石全集・新書版(夏目漱石著・岩波書店)」、「晩年(太宰治著・砂子屋書房)」と云った古書たちである。

老夫婦の愛と裏切り的シチュエーションが広がっていくかと思えば、中年夫婦の愛の再認識的展開が、一冊の古書を媒介として惹き起こされていく。たかが古書ながらのされど古書と云うべき作家の思い入れが伝わってくるのは、古書に対する薀蓄が一段落したころの、同書中盤の展開にかけての流れからである。

死者と生者の再会がテーマの、辻村深月さんの「ツナグ」を読んだ

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今年の直木賞受賞作家こと辻村深月さんの「つなぐ」を読んだ。現在公開中の映画「ツナグ」の原作でもあり、社会的関心が高まっているだけにおいらも書店で買い求めてしまったという1冊ではある。

初めは単なる社会的ブームメントに対する一片の関心であったが、死者と生者、死と生、あるいは、死に向かう生、等がテーマであることを理解しつつ、一片以上の興味で読み進めることとなっていた。

登場人物は、主人公の「使者(「ツナグ」と読む)」こと渋谷歩美の他に、アイドル・水城サヲリ、サヲリとの再会を望むうつ病患者の平瀬愛美、演劇女子高生の嵐美砂と親友の御園奈津、癌で亡くなった母・ツルに会うことを希望する畠田、等々と多種多彩である。最終章では、主人公の歩美が死者への対面を望むというシチュエーションから章のスタートだ。物語は当初の短編集の装いを裏切って、連作長編小説の体を成して、読者の関心を引きずっていくのだった。

死者との再会を可能にすると云えば、青森の潮来が連想されるが、小説の初めから「潮来とはまるで違う」という記述がしつこいほど登場する。日本における土着的神話のイメージを峻拒していきたいという作家の志向を読み取ることが可能であろう。

何冊か読んでいる辻村深月さんの作品世界と同様に、同書もプロットがきっちりとしていて、それなりのレベルに達してエンターティメント性が顕著である。そんなエンターティメントを求める読者であるならば、充分に満足できる作品であろう。

然しながら、おいらは大衆小説のエンターティメントにはほとんど興味が無く、更には、死者との再会と云うシチュエーションは眉唾ものだと云う考えを持っている。或いは死者と生者をつなぐ使者(ツナグ)などは、フィクションの中でも出来の悪い代物だと考えているのだから、この力技が走る作品も、テーマとシチュエーションが空回りしている力技作品の一つであるという以上の評価を抱くことは無かった。