禅宗僧侶であり芥川賞作家、玄侑宗久さんの「中陰の花」を読んだ

[エラー: isbn:9784167692018:l というアイテムは見つかりませんでした]

先日は禅宗僧侶であり作家の玄侑宗久さんによる第125回芥川賞受賞作品「中陰の花」を読んでいた。「死とは何か」「魂とは何か」を見つめ追求した作品であり、いわゆる「死後の世界」を主なテーマにおいている。

それより少し前には、瀬戸内寂聴さんとの対談をまとめた「あの世 この世」という文庫を読んでいたのであり、読了後はずっと、「中陰の花」のことが気になって仕方がなかった。「あの世 この世」の中ではときに寂聴さんが聞き役となって、あの世とこの世の超常現象的な事象に関する解釈を玄侑さんに質問するシーンも散見されている。まるであの世の伝道者か死後世界を示し導く教授かのような振舞いをする玄侑さんが、はたして「死後の世界」をどう解釈して作品上で描いているかが甚大な関心を抱いていたのである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=8378

中陰(ちゅういん)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指すとされる。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。小説の「中陰の花」では、禅宗臨済宗の僧侶である玄侑宗久さんが実世界で出会った、死後の魂との交歓が、様々なシチュエーションにて描かれている。そんなエピソードの夫々は、市井の人間の一人としてのおいらにとってはピンと来るものも在るが、現実感のないシチュエーションも多々描かれている。

おがみやのウメさんが自分の死期を言い当てた、つまりは予言が的中したというエピソードには引き込まれていったのだが、それ以降のエピソードに関しては、残念ながら知的な興味関心以上の引付けを感じることができなかった。

美しく装飾されたそれらの光景をそのまま実感として受け付けることは最後まで出来かねていた。そのような意味においては些かがっかりな気分も捨てきれなかったのである。

TV「名もなき毒」を視聴して改めて市井の毒とやらについて思う

[エラー: isbn:9784167549091:l というアイテムは見つかりませんでした]

本日のTBSTVではドラマ「名もなき毒」の最終回が放映されていた。

おいらも以前には宮部みゆきさんのその原作本を読んでインパクトを得ていたことは違いなかったが、そのときから今に続いても何やらもやもやとして割り切れない気分に充溢されていた。

いわゆる小市民生活以上に会社企業的上級な市民生活においてでも、いわゆる毒をそのままの人間の毒として捉えるべきものか? 所謂上級市民が下級的市民の行業に対して捉える認識としてのものとはかけ離れていたからだということが一つの要因でもある。

原作小説を読んだ時には氷解しなかったもやもやを貯めつつ、このドラマを視聴していたのだった。最終回の今夜はといえば、原作の基本的なシチュエーションを踏襲しながら、劇画的なシーンを随所に挿入していた。演出家による演出の一駒ではあり、それなりの効果を演出させていたということが云えよう。

 

瀬戸内寂聴さんと玄侑宗久さんの対談をまとめた「あの世 この世」

[エラー: isbn:9784101144399:l というアイテムは見つかりませんでした]

公開中の映画の原作本「夏の終り」(瀬戸内寂聴著)を探したが、残念なことに地元の書店には置かれていなかった。それでその代わりに購入したのが、作家であり僧侶でもある瀬戸内寂聴さんと玄侑宗久さんの対談をまとめた「あの世 この世」であった。

第1章「あの世はあるのでしょうか」から始まって、仏教と信仰について、お釈迦さまの生涯について、仏門に入るまでのこと、この世の苦と楽について、そしてあの世とこの世…等々のテーマを遡上に載せて、縦横無尽に語り尽くしている。

「極楽への道案内」だと解説にあるが、それほど明快なビジョンが示されているわけではない。ときに寂聴さんが聞き役となって、あの世とこの世の超常現象的な事象に関する解釈を玄侑さんに質問するシーンも散見されている。理知的な玄侑さんの説明に対し質問を加えつつ、人間の驚異の情念を描ききった寂聴さんが自らを納得させるビジョンを求めているようにもみえる。

藤野可織さんの芥川賞受賞作「爪と目」を読んだ

[エラー: isbn:9784103345114:l というアイテムは見つかりませんでした]

遅ればせながら、今年の第149回芥川賞受賞作品である「爪と目」を読んだ。作家の藤野可織さんは、京都出身で同志社大学で美学芸術学を専攻したといい、これまで幾つもの文学賞を受賞したという注目の作家である。彼女の可憐な風貌とあわせて興味をそそられていた。

冒頭の数行を読むだけで、同作品にはユニークな文学的企みが込められていることに気付かされる。「わたし」が「あなた」に対して二人称で語りかけるのだが、その「わたし」とは生まれて間もない幼少の私であり、「あなた」とは父親の愛人から同居することになる義理の母親である。あやゆい関係性のなかでの二人称というスタイルを採用したことが、この小説を際立たせて個性的なものに仕立てている。

一方で、最初の導入からミステリー仕立てで推移する物語が、最終的にはミステリーを捨て去ってしまったかの結末として収束されていくのだ。ミステリーとしての展開を期待して読み進めていた読者を軽く裏切る結末ではある。ミステリーマニアでは無いおいらにとっても些か拍子抜けする結末ではあった。特別な深読みをするのでなければ、この物語のストーリーを評価すべきポイントは見つけることはできない。それでも芥川賞を受賞した作品なのだから、選考委員の面々もいろいろと評価してのことであろうと推察する。

瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡「若き日に薔薇を摘め」は名書の名に相応しい

[エラー: isbn:9784309021904:l というアイテムは見つかりませんでした]

雑誌「the 寂聴」に連載されていた瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡をまとめた「若き日に薔薇を摘め」という書籍が発刊されている。

かつて数年前に「the 寂聴」という隔月の雑誌が発刊されたことは、おいらにとっても特筆される出来事であった。「the 寂聴」の素晴らしさについては、当ブログにても紹介していたことがある。

■瀬戸内寂聴責任編集の「the 寂聴」はとても面白い雑誌です http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1354

雑誌「the 寂聴」にて連載されていた、瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡の文章をまとめて発刊されたのが「若き日に薔薇を摘め」である。

表題に採用されたセンテンスには奥深い意味が込められているようだ。寂聴さんが法話で述べられた一節にこの文があったというようだが、捉えられる意味合いは一様ではない。一つには、真っ赤な薔薇の花を鷲づかみにして、挫折と屈辱という棘に刺されて血だらけに成れ、といった威勢の良い解釈もあるが、こと同書の持つ意味合いはといえば少々異なっているのだ。

バラというのは恋。バラには棘がある。摘めば指を傷つけてしまう。恋をすると人は必ず傷つく。それが怖くて恋に臆病になる。若い時は、傷はすぐに治る。だけど年を取るとなかなか治らない。だから若い時に思う存分バラを摘んでおきなさい。--云々ということを述べられている。恋に生き愛に殉じた寂聴さんならではの見解ではあり、天晴至極なのである。

当往復書簡集を上梓するにあたり、様々な紆余曲折が存在していたこと、或いは、当事者たちの個人的な情意的なあれこれが存在していたこと、等々は、「the 寂聴」という特異な雑誌を実現化させたことにとっては有意な条件であった。そして、そんな条件が同書をとても有意な存在感を獲得することをサポートしていたのである。

 

すなわち以上に述べたようなことなのであり、けだし瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡をまとめた「若き日に薔薇を摘め」はまさしく名書の名に相応しいのである。

女優山口果林さんが著した「安部公房とわたし」を読んだ

[エラー: isbn:9784062184670:l というアイテムは見つかりませんでした]
女優の山口果林さんが著した「安部公房とわたし」で、文豪・安部公房とのかつての愛人生活を赤裸々に綴っている。帯には「君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ――」とある。果林さんが桐朋学園演劇科時代の師匠と生徒という関係を経て、男と女の濃密な関係へと移っていく事実を、極めて淡々と客観的に綴っている、その抑えた筆致が特徴的である。

そんな抑えた記述の中から何よりも、安部公房が愛人関係を持っていた当時の果林さんに、相当に入れあげていた関係を見てとることができる。師であり、伴侶でもあった二人の関係は、所謂不倫関係として継続され、安部公房の生存中にその関係が公にされることはなかったのだ。

本の表紙には、愛人関係を始めた頃に撮影されたと見られる果林さんのコケティッシュな写真が用いられて目を引く。若い当時の相当な美女振りを印象付ける。そしてページを捲ってみるとその口絵には、安部公房に撮影されたと見られる果林さんの若き頃のヘアヌードを拝み鑑賞することができる。

NHKの朝ドラマ「繭子ひとり」に抜擢され全国区的女優の名声を得た果林さんだが、当ドラマ出演中に子供を身篭っておろしたことや、安部公房夫人との葛藤、子供の頃には両親にも打ち明けられなかった性的な悩み事を打ち明けた話等々の驚くべきエピソードも綴られている。

山口果林さんのファン、安部公房の愛読者はもとより、文豪と女優の熱く長い恋物語としても読むことができたのであった。

岩手花巻「大沢温泉」で宮沢賢治ワールドの湯に浸かる

osawaonsen01

osawaonsen02

osawaonsen03

夏休み休暇で岩手花巻の「大沢温泉」を訪れた。ご存知のように宮沢賢治が愛した温泉として有名であり、未だに幅広いファンを持つ名湯である。

新花巻駅で新幹線を降り送迎のバスに乗り込んだところ、都内で「賢治の学校」を運営している鳥山敏子さんが同乗していて、車内で色々と面白い話を聞かせてもらった。在来線の花巻駅からはたくさん乗車してきたのだが、その中には今の教え子だという小学生とその母親がいて、前列に陣取ったグループで話の華を咲かせていたのだ。この日は全国中から「賢治の学校」関係者が大沢温泉に集ってイベントなどが行われるようだ。72歳になるという鳥山さんだが、生徒たちと担任という関係で未だ教育の現場で活動しているエネルギーには感服させられたのだった。

温泉に着きおいらは「菊水館」という別館に投宿。茅葺屋根の木造田舎風建物が旅情をそそる。館内には賢治さんが幼かった頃に家族ら大勢で撮影した記念写真が飾られていて、賢治ワールド満開である。宮沢賢治の文庫本でも用意してくるべきだったと悔やむがいまや遅し。賢治さんが愛した温泉の湯に浸かって空を眺めつつ、賢治ワールドに浴する貴重な時間を愉しんだのだ。

直木賞受賞作、桜木紫乃さんの「ホテルローヤル」に読み耽っていた

[エラー: isbn:9784087714920:l というアイテムは見つかりませんでした]

ご存知、本年149回直木賞を受賞した短編作品集である。直木賞発表の翌日に書店で探したがすでにどの書店でも売切れていた。先日はようやく増版されたのを目にして購入していたのだ。

すでに様々なマスコミ報道で喧伝されているように、この直木賞受賞の作品集は「ホテルローヤル」というラブホテルを舞台にして展開されている。大衆文学賞こと直木賞受賞ということで、エログロ系な物語を期待して購入する読者も少なくないようだが、そんな期待は木っ端微塵に砕き去られており、それぞれに作家の人生体験をもとに練りこまれた掌的小説といった印象なのである。

書き下ろしを含む7編の短編小説集の「ホテルローヤル」は、云わば反時系列的に順序立てられている。つまりは最初の掌編が時系列的には最も新しいのであり、最後の掌編「ギフト」が最も古いときの、「ホテルローヤル」オープンにまつわるエピソードを描いている。

世の不条理に流されつつも自らの生き場所を求める人々が、何組も登場しており、それぞれに人生の機微を表せつつ、なお先の希望を抱き続けているさまが、読後感を爽やかにさせている。報道によれば作家の桜木紫乃さんの元職業が、ラブホテルの経営だったということであり、作家自らの長く蓄積された思いの数々が凝縮されている。

上州前橋が誇る近代詩人の大家を記念する「萩原朔太郎記念館」を散策

sakutaro03

sakutaro01

sakutaro02

sautaro03

上州前橋が誇る我が国の近代詩人の大家こと萩原朔太郎さんの記念館を散策した。

■萩原朔太郎記念館 群馬県前橋市敷島町262 敷島公園ばら園内

前橋市内の北に位置する市民の憩いの場こと敷島公園内の、バラ園と呼ばれる一帯の敷地の中にその「萩原朔太郎記念館」はある。あまり市民には知られていないと見えて、今回訪れたときも訪問客は少なかった。却っておいらはゆっくりと散策できたのでありラッキーこの上なきなのであった。

もともとは朔太郎さんの実家、生家は市街地の北曲輪町(現・千代田町二丁目1番17号)にあり、父は地域の名医として信望厚く、一時期は患者に整理札を出すほどであったという。しかし大正8年にその父が老齢のため開業医をやめたので、萩原家は石川町に移った。このとき北曲輪町の家は津久井夫婦が入り「津久井医院」を開業し、実質的に津久井家が萩原医院の後を受け継いだということである。

記念館はその後に、敷島公園内に移築されたものとなっている。「書斎」「離れ座敷」「土蔵」という3体の建造物がその記念館として立ちつくしている。もともとは数十の部屋を有した萩原御殿の生家と比すれば、3つの部屋ではありとても狭い敷地内に移築された記念館ではある。

おいらを含めてもともとの朔太郎ファンにとっては些か残念な気もするが、それでも代表的な萩原家の造りを今に残していており、萩原朔太郎さんの作品が創作された現場としてとらえればまた、感情移入することの出来る記念館となっている。

朔太郎さんが生家に住んでいた頃は、特に「離れ座敷」とされる部屋には、北原白秋、若山牧水、室生犀星などの詩友が訪れてこの部屋に通されたとされている。群馬県のみならず我が国における近代文学の発祥の場として貴重な記念館ではある。

綿矢りささんの新作集「憤死」を読んだ

[エラー: isbn:9784309021690:l というアイテムは見つかりませんでした]
またまた綿矢りささんの新作集「憤死」が発刊されたことを書店で知り、早速同書を読んでみたのだ。

4つの短編からなる作品集である。帯には「新たな魅力あふれる 著者初の連作短編集」とある。「著者初の」というのはその通りだろうが「連作短編集」というフレーズには合点がいかない。4つの作品はけっして連作的な要素で結びついている訳ではない。こんな曖昧な関係性を「連作集」としてひとくくりにすることはあり得べきなのであり、こんな適当な売り文句を冠して売り出してしまった同書籍編集者の常識を疑わせる。貴重な才能を葬りかねないくらいに酷い扱いであり、怒りさえ感じさせてしまうくらいだ。であるから、と強調する訳ではないが、以下には「連作集」ではない同書の魅力について、いささか述べていきたい。

物語の主人公は幼女だったり、少年だったり、妙齢の少女から大人にかけての女性だったり、少年の思いを引き摺って生きる男だったり、等々と多岐にわたっている。取り立てて企図されたテーマはないのだが、あえて述べるならば、人生のあるいは人間存在の裏舞台を、りささんなりの切り口で物語化させた作品集ではないかということだ。裏舞台は表舞台を眺めては色々と批評もしつつ、ときには恐ろしい結末に導いたりもする。順風満帆の人生にはおそらく裏舞台の存在は邪魔な存在であるのだろう。それでも存在を消されることなくある裏舞台の存在を物語として浮かび上がらせるりささんの筆致は見事である。

肩の力を抜いて、綿矢りささん的物語発想の展開そのままに綴られたと思われる短編集の数々には、少女感覚を過去のものとしてなお、其れらの感覚にこだわり続ける登場人物たちに遭遇する。

たとえば表題にもなった「憤死」という短編作品は、主人公の少女と、自殺未遂をした主人公の友人との関係性が主軸となって物語が進んでいくのだが、「好き」や「嫌い」を凌駕してその先にある女同士の遣り取りの機微に触れつつ、やはりりささん的な世界へと入り浸ってしまうのだ。

芥川賞落選作家島田雅彦さんの「島田雅彦芥川賞落選作全集」は全集制覇すべし

[エラー: isbn:9784309412221:l というアイテムは見つかりませんでした]

「島田雅彦芥川賞落選作全集」を読んでいる。何しろ同文庫を手にしてすぐに、島田雅彦さんによる「芥川賞との因縁」というタイトルの前書きにひきつけられてしまっていたのだ。

今や芥川龍之介賞を選出する権限を手にしている選考委員の島田雅彦さんであるが、若い駆け出しの頃にはさまざまな身の周りの不条理に悩まされていたのだった。人気作家こと島田雅彦さんは、過去の若い頃においては将来の文学界を担うべき作家として嘱望されていたのであり、6つの作品が芥川龍之介賞の候補作になりながらも、ついには芥川賞を受賞することが無かったという、ある種の勲章をいだいている。云わば芥川賞受賞に引けをとらないくらいの勲章にも値するしろものである。

数十年ぶりに読んだ初期の代表作「優しいサヨクのための嬉遊曲」は、島田雅彦さんの原点であるばかりか、既成の文学界といった枠をぶち破る資質を有していたということを思い知らせていた。

6作品をよみおえてはいないが、読み終える価値ある全集であることを納得させられたのである。

坂口安吾著「戦争と一人の女」と映画作品との齟齬についての考察

何度か目になるが、文庫版「白痴」に収録されている坂口安吾さんの「戦争と一人の女」を読んだ。

[エラー: isbn:978-4101024011:l というアイテムは見つかりませんでした]

先日鑑賞した「戦争と一人の女」にこころ踊らされたにもかかわらず、胸の奥深くにとどまって咀嚼できないでいる小骨があり、なんとかその飲み込めずにいる小骨の正体を知りたいと考えたからでもあった。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=7733

もっとも違和感として残っていたのが、安吾さんの分身である作家の野村が、戦後まもなくヒロポン中毒が原因で死んでしまうというくだりである。このストーリーは正しくないばかりか安吾さんの生涯的生き様を無視しスポイルしている。作品中の主人公、江口のりこ演じる飲み屋の女将と同様に、原作者の坂口安吾さんは戦後をしぶとく、逞しく生きたのである。それを脚本家の恣意的な操作でヒロポン死というわい小なストーリーにアレンジさせた事実は、安吾ファンの一人として容認することはできない。

若松孝二監督の弟子に当たる井上淳一が脚本を書きメガホンをとっている。戦後生まれの映画監督が描く「戦争」のビジョンは観念的であり浮ついている。とても安吾さんの達観したリアリズムをうけついでいるとは云い難い。単なる編集、アレンジを逸脱しており、原作者に対する尊敬の念も欠いた恣意的な脚本であると云わざるを得ないのである。

前橋の広瀬川界隈は上州歴史散歩の臍的スポット

hirose03hirose05hirose04

上州こと群馬県の県都前橋の市街地を流れる広瀬川は、遊歩道に沿ってツツジや柳が続く緑花が美しく、「水と緑と詩のまち前橋」を象徴している。広瀬川沿いには前橋出身の天才詩人こと萩原朔太郎の貴重な資料が所蔵される「萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館」が存在するのであり、帰省するたびにしばしば足を運ぶエリアなのだ。

萩原朔太郎さん関連の碑は市内に数多あるが、広瀬川右岸の比刀根橋近くにも朔太郎さんの詩碑があり「広瀬川」の詩が刻まれている。萩原朔太郎さんの「広瀬川」という詩には以下のごとくうたわれているのだ。

――――――
広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちいさき魚は眼(め)にもとまらず。
――――――

■「広瀬川」詩碑
群馬県前橋市千代田町 厩橋下流広瀬川畔

市街地の千代田町五丁目銀座通り端には1981年に建立された「前橋望景の碑」が在している。「萩原朔太郎 前橋望景の碑」と刻まれた隣には、朔太郎さんが趣味で撮影していたかつての前橋市街地の写真の風景が刻まれている。進取の精神で撮影にのぞんでフィルムに刻んだ風景写真は、朔太郎さんが生きた時代とともに貴重な街の歴史的資料として、様々なメディアで公開されている。

■萩原朔太郎 前橋望景の碑
群馬県前橋市千代田町五丁目銀座通り端

つまりは纏めてみれば、前橋の広瀬川界隈は上州歴史散歩の臍的スポット、ということなのである。

「八王子古書まつり」にて埴谷雄高さんの「闇のなかの黒い馬」初版本をゲットした

furuhonn01

furuhonn02

八王子のユーロードでは、6日(月)まで「八王子古書まつり」というイベントが開催されている。

http://blog.hachiojiusedbookfestival.com/

今年第8回の合い言葉は「ふるいのも、あたらしいのも、キラキラできる」というもの。公式サイトにては以下の様な説明がある。

―――――
「八王子古本まつり」の合い言葉(キャッチコピー)は、これ。

古くから代々この町に住んでいるひと。新しく家族で移り住んできたひと。ひとだけじゃありません。文化、環境、年中行事、信仰、価値観などなど、古いものと新しいものがいっしょにある町、それが「八王子市」だと思います。

「八王子古本まつり」は、この町の古いもの・新しいものそれぞれの魅力が、いっしょになって、キラキラとかがやいてくれることを夢見ています。
-――――

そんなイベントに足を運んだところ、思いがけない掘り出し物の1冊に遭遇、購入したのである。その書物は、埴谷雄高さんの 闇のなかの黒い馬」という名著である。埴谷雄高さんと云えばおいらが思春期から青春期のころにかけては、「死霊」という圧倒的な作品群に格闘した思い出が顕著であり、この作品「闇の中の黒い馬」も何時かは知らないが触れていたはずである。埴谷作品の中でも屹立した存在感を備えており、どこかで読んでいたはずだが、然しながらに手元には無いという特別な一冊であった。表紙および挿画には駒井哲郎さんの作品が用いられており、出版された1970年当時の面影を伝えている。

坂口安吾さんの原作映画「戦争と一人の女」を鑑賞

http://www.dogsugar.co.jp/sensou.html

東京都内では、坂口安吾さんの原作を題材にした「戦争と一人の女」という映画が公開されていると聞き、おいらも休日を利用して、都心の公開映画館「テアトル新宿」へと足を運んでいた。新宿駅東口を降りて、数分歩いて行くと、「新宿ぴカデリー」というメジャー映画を公開する映画館があり、其処を超えて行くと「テアトル新宿」に辿り着いた。

戦争によって自堕落に生きる安吾さんを連想させる「先生」とその愛人を演じたのが江口のりこさん。主演女優の江口のりこさんについては、過去にはテレビドラマの「時効警察」や映画「ジョゼと虎と魚たち」等にて覚えていた。

別段に美人でも可愛くも無いが、彼女の存在感がこの映画でも抜群であり、この映画には無くてはのキャストであった。戦時中真っ盛りの時代を背景にして、エロスに生きる作家こと安吾さんを、永瀬正敏が演じている。巨匠の安吾さんを演じるにはいささか役不足の感も無くは無かったが、力深くてけっこう良い味を出していたのであり、役者の評価を見直していた。

自堕落に生きて堕ちた坂口安吾さんには実はこんなに魅力的な愛人が居たのかとも想像していて動していた。そして尚更には、この戦時下という時代の戦争犯罪と、日本という国家の脆さと、更には国家的な不条理とを身に染みて感じさせていたのだった。過去に浴びた数々の虐待から不感症となっていた女主人公をめぐる人間模様の背景で、多くの日本の映画には無くなっていたとても重々しいビートが演奏されている。主演の江口のりこさんはじめとするキャストたちに留まらずに、監督、等々のスタッフたちの息遣いを感じる、大変な力作的映画に遭遇したという思いである。

伊坂幸太郎著の「残り全部バケーション」を読んだ(1)

[エラー: isbn:9784087714890:l というアイテムは見つかりませんでした]

「残り全部バケーション」という著書を先日購入して読了したところなのである。

実はおいらはすでに「残り全部バケーション」の第1章のくだりを読み終えていた。実業之日本社がかつて発刊した「Re-born はじまりの一歩」という書籍に触れてこの一つの章を前もって読み終えていたのだった。だからにして尚更しんに、この「残り全部バケーション」のそれ以降の経緯には深い関心を持っていたのである。

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(2)販売元の売らんかな的戦略はマイナス的要因となる

[エラー: isbn:9784163821108:l というアイテムは見つかりませんでした]

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の先日の発売日には、昼前の午前中に某ターミナル駅近くの書店で予約購入していた。だが翌日には他のターミナル駅近くの書店にてみたところ、店頭に1冊も無い状況であった。超人気作家としての村上春樹さんの人気度、存在感、影響力を改めて思い知らされることとなっていた。

村上春樹作品が売れる理由は一概に述べることはできかねるが、その一つに出版元の特異な販売戦略がプラス的に機能していることは否定できない。今回の出版元となる文芸春秋社も「1Q84」で新潮社が用いた販売戦略をそのまま借用して、図星的奏功を得ているという図式が見て取れる。発売日まで新作の内容を明かさず、潜在的ファンに対して最大限の飢 餓的状況を編み出しているのだ。

先週末の新作販売の熱狂のほとぼりが幾分冷めた今日抱いているのは、出版元による「売らんかな」的戦略は、春樹さんのこの後の展開にとってはマイナスに働くのではないか、という思いである。我が国における特筆される世界的作家の春樹さんだから、近年の間でノーベル賞受賞の期待が高まっている。そのような状況下において、出版元による謂わばごりおし
的販売戦略がもたらすマイナス的要因は決して取るに足らない問題ではないのである。

村上春樹著「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(1)

 

村上春樹さんの3年ぶりの書き下ろし長編小説となる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。書店では発売前から最大級の新刊案内が行なわれており、滅多にすることのない新刊予約というものをしてしまった。万一新刊が購入できないことを考慮しての保険だったが、初版部数や重版も多く、その必要はなかったようだ。部数は発売時点で4刷50万部に達したという。

主人公の多崎つくるは、自分の氏名に色彩が無いことを自覚しながら生活している。高校時代の5人の仲間は、つくるを除いて名前に色彩を持っていた。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里は、それぞれを「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」と呼びあっていたのだが、つくるだけが色がないという奇妙な疎外感を感じていたのだ。グループの5人は高校の同級生だがボランティア活動がきっかけで友達となり親密なグループであり続けていた。強固な絆で結ばれた特別な仲間たちであるはずだったのである。しかし高校卒業後につくる一人が地元の名古屋を離れて大学2年になっていたある時、仲間の4名から突然の拒絶の言葉を云い渡されるのであった。身に覚えのなかったつくるにとってのショックは筆述に尽くしがたいものであり、故郷にとどまることもできずに帰京していた。それ以来のつくしは毎日毎日、死ぬことばかりを考えて日々を送るのだった。

新著の表題にある「色彩を持たない多崎つくる」とは主人公の一面を表しているものだが、それは換言すれば、とりたてて個性や能力を持たないことを自覚している主人公の特性を示しているといえよう。現代人の多くが胸の奥底で抱いているものを、主人公の氏名の設定にて表してしまっているのであり、こんな軽いアイディアを実作品に反映させていく春樹さんの軽妙な感性はなかなか真似できるものではない。小さな「天晴れ」をくりかえしながら、本作品でも軽妙かつ奥深い村上ワールドがつむがれていく。

仲間からの唐突な拒絶から16年ほど経った多崎つくるは、人生で何人目かの彼女こと木元沙羅と付き合うようになったある日に、沙羅からの提案で、人生の岐路となった仲間からの絶交の原因を追究することを決心し、元仲間たちを訪ね歩く旅にでることになった。これらの行為がまた、表題の「巡礼」にかかっているが、実はさらに、フランツ・リストのピアノ曲集「巡礼の年」にかけられていて、新著の通低を流れるメロディーを奏してもいる。「ノルウェイの森」「1Q84」でも使用されたテクニックがここにもまたごくさりげなく用いられている。

仲間の16年後を追究するなかで、つくるは幾つもの謎に遭遇する。作品中のある箇所ではまるで推理小説風の記述で読者の興味を惹いていくが、そこはあくまで春樹流のストーリー仕立てのひとつに過ぎず、けっして推理ねたを追う展開にはならないのであり、謎はあくまで謎としての存在理由を保ち続けているので、奇異に感じさせるかもしれない。逆にみれば、謎解きを拒否してまで村上ワールドをつむぐという独特のスタイルで、読者をひきつけているのだ。

(この稿続く)

70年の封印を解いて刊行された「ルパン、最後の恋」は、シリーズ最後の遺作に相応しい面白さ

[エラー: isbn:978-4150018634:l というアイテムは見つかりませんでした]

作家モーリス・ルブランが没後70年となる昨年に出版された、ルパン・シリーズ最後の作品である。我が国でも昨年9月に翻訳出版され、ルパン・マニアの関心を集めている。ブランが同作品執筆の後、病に倒れたこと等から、作家の息子の意向により長らく封印されてきたといういわくつきの1作であり、それが孫娘による原稿発見による刊行に至ったという。ある種、未完の要素もあるが、マニアにとってのみならず推理もの愛好家にとっての必読の書である。内容的にみても、まさにルパン・シリーズ最後の作品に相応しいと云えるのだ。

設定は、現役引退、隠居したルパンが身分を隠して、最後の冒険に繰り出していくものとなっており、晩年を彩る美女との恋のやりとりもあり、推理ものとは異なるテーマで楽しませてくれる。怪盗紳士ことルパンの晩年の姿が垣間見え、彼の人生観、世界観が吐露されるくだりがある。例えば敵の一人に対峙したとき、ルパンとの間に以下の台詞が交わされている。

―――――(以下引用)
「四つの障害に直面したが、そのうち三つは片付けた」
「四つ目は?」
「あんたさ」
「お気の毒さまだな。苦労するぞ」
「わかってるとも。おれはシャーロック・ホームズと組んだこともある。ホームズがこう言っていたよ。《アルセーヌ・ルパンとやり合う羽目になったら、勝負はあきらめろ。初めから負けは決まっている》ってな」
―――――(引用終了)

コナン・ドイルによって生まれたシャーロック・ホームズの名が唐突に出てきたのに驚いたが、名探偵ホームズ以上の天才がルパンだと、世界中の探偵小説愛好家たちに宣言したという訳である。シャーロックのファンにとっては怒り狂うやも知れぬ台詞を、いとも簡単に述べさせてしまうドイルの自由闊達さが、出版業界のタブーに抵触しているともとれるのであり、長らく「封印」されてきた原因の一つなのではないかとも思えるのだ。

川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、萬鉄五郎氏とのコラボ的傑作だ

[エラー: isbn:9784104412068:l というアイテムは見つかりませんでした]
川上弘美さんの新著「なめらかで熱くて甘苦しくて」を読了した。3月25日初版発行の、5編の短編から成る連作集とでも云うべき体裁の著書であり、あまり話題になったという噂は聞かないが、おいらにとっては実に久々に魂を真底から震わされたという、感動の作品集であった。

書店にて初めて同著を目にしたとき、先ずは萬鉄五郎氏による「かなきり声の風景」という表紙の絵に魅了されていたのである。モチーフはたぶん里山から少し平地に入った場所の畑の風景であろう。深緑に黄土色に、ひと際鮮やかな紅色の、荒々しいタッチの筆にて描かれているその作品世界には、かつて無いくらいの衝撃を受けていた。

萬鉄五郎氏と云えば昭和の初期に活躍した前衛的洋画家として著名であり、かつてはおいらも相当の影響を受けた巨匠ではあるが、「かなきり声の風景」はおそらく初めて目にした作品であった。萬氏の代表作品としての他の作品以上に「かなきり声の風景」に魂を震わされていた事実は、おいら自身にとっても驚嘆に値することなのである。一見するにその作品はエスキース(習作)のようにも見えた。然しながらその作品の完成度は限りなく高くいてあり、こんな作品に遭遇するのは極めて希少な出来事と云ってよいのである。

ここからは確証なきおいらの推論に入るのだが、川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、萬鉄五郎氏による「かなきり声の風景」に触れて触発された川上さんと萬さんとのコラボ的傑作ではないかと思うのである。

文芸誌「新潮」にて連作的に掲載されていた、短編たちの多くは、人間の「性」「sex」がテーマとなっている。だがそれらのテーマはさらに根源的なる「生」や「獣性」や「彼岸」とやらのテーマにも絡めて描かれているのであり、大胆で融通無碍なる筆の息遣いとともに、自由自在的な筆の勢いを累乗されているかのようである。

誤解を恐れずに書くならば、川上弘美さんの「なめらかで熱くて甘苦しくて」は、未完的に仕組まれたエスキース的作品たちである。自由闊達な筆(ペン或いはキーボード)のおもむくままにて描かれたビジョンが荒々しい筆致にて描かれている。あまりにも自由闊達な筆致であるが故に、描かれたビジョンに追いつくことさえ出来ずにいて、読者としてのおいらもまた、途方にくれることもしばしばではあり、読み易い作品ではけっしてなかったのである。それでも自由闊達な筆に魅了されつつ、最終章を読み終えたときの感動は他に得がたいものなのであった。

しゅういつな筆を操る名人がその自らの殻を打ち破るべき脱皮の様相でもある。此れこそはまさに、天才が生まれつつある姿を彷彿とさせていたのである。