米国精神科医による古典的名著「平気でうそをつく人たち」を読む(1)

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同書の翻訳単行本が我が国で初版されたのが1996年というから、今から18年も前のこと。以来実売部数50万部という売れ行きを記録し、さらに2011年には文庫本が発行され、読者を増やしている。おいらも初めて同書単行本を書店で目にし、何度か立ち読みを試みたことがあったが、実際に購入して読破したのはつい最近のことであった。身近な人間による頻繁なる虚言に翻弄されたという経験が、同書とあらためて向き合ったきっかけでもある。

著者のM・スコット・ペックは、米国の著名な精神科医として活動し、「愛と心理療法」という著書によりベストセラー作家の仲間入りをしている。同書が米国にて上梓されたのが1983年というから、既に30年以上の年月を経過したことになる。古典的な精神医学書の一冊と云って良いのかも知れない。著者自らの精神科医師としての体験が基本となっているからなのか、詳述されているエピソードの夫々の記述は、とても細かくときに煩わしくもあるくらいだ。特に1章目に展開されるエピソードについては、それが本書のテーマである「虚言」等に関連するものとは思えないままに、ある種の戸惑いとともに読書を進めて行ったという経緯がある。まるで人間心理の闇に対しての考察が不届きなのではないのか? 精神科医といった肩書きは目くらまし的な代物なのではないか? あるいは期待外れの如何様書籍なのでは? 等々と云った疑いが持ち上がっていた。「悪魔と取引した男」という章のくだりである。そんな疑いは実際には2章以降を読み進めて行くことにて氷解されたと云ってよいのである。

前橋文学館で萩原朔太郎さんのユニークなエッセイに触れた

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帰省中の上州「前橋文学館」で開催されていた企画展で、萩原朔太郎さんのとてもユニークで貴重なエッセイに触れることができた。

我が国における屈指の近代詩人として名高い朔太郎さんだが、彼のエッセイや随筆の面白さ、ユニークさに関しては、あまり知られるところが無かった。朔太郎さんの詩の世界においてはとてもユニークで先鋭的な世界観が見て取れるのだが、それらのユニークな世界観を直截的に開陳したエッセイ、随筆の数々は、朔太郎ファンにとってのみならず全国文学関係者にとっての、貴重な資料では在る。本日は偶然ながら、そんな貴重な文学的資料にも接することとなったのである。

中には萩原朔太郎全集にも掲載されることのなかった随筆が、その貴重なる生原稿が、展示されており、朔太郎マニアのおいらにとっても格別な邂逅となっていたのだ。そのひとつが「贅沢・飲酒」と題されたエッセイ生原稿なのである。いわゆる一つの飲酒という贅沢、それらに拘泥した詩人、文学者たちへの共感のメッセージとともに、朔太郎さんが生きた「新しい時代」の芸術家たちへの失望とも捉え得る記述が在る。

―――(以下、引用開始)―――
今日の詩人たちは、あまり酒を飲まなくなった。志士や革命家等も、昔のように酒豪を気取らないのである。「飲酒家」といふ概念が、何となく古風になり、今では「時代遅れ」をさへ感じさせる。現代の新しき青年等は、殆ど飲酒を知らないのである。彼等の観念からは、概ね「酒飲み」という言葉が、旧時代の「オヤヂ」と聯絡するほどである。新しき時代の青年は酒を飲まない。いな飲酒の要求がないのである。
―――(引用終了)―――

新しい詩人や芸術家達が酒を飲まないということは無かったのだろうが、上記したこの朔太郎さんの一節は、苦き芸術家の挟持を表しているのに相違ない。何時の世にも呑兵衛たる詩人は迫害されるものかも知れぬということなのかもしれない。さらに述べれば、生半な市民や青年達からの迫害に対峙する気概こそは、天才詩人のアイデンティティを示しているのかも知れないのである。

■前橋文学館
正式名称:萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館
郵便番号:371-0022
所 在 地:群馬県前橋市千代田町三丁目12番10号
T E L:027-235-8011

■朔太郎のおもしろエッセイガイド
期 間:2月15日(土)~3月30日(日)
会 場:1階企画展示室
時 間:午前9時30分~午後5時(金曜日は午後8時まで)
休館日:水曜日
観覧料:[ 企画展のみ]100円

湊かなえさんの新作「白ゆき姫殺人事件」を読んだ

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かつて「告白」という作品で本屋大賞を受賞するなど、当代きっての人気作家こと湊かなえさんの新作であり、今月29日からは全国ロードショーの映画公開が待たれている。書店にて同作品を目にし手に取って以来、此の作品に対する関心はいやがおうにも高まざるを得なかったと云うべきであった。

だがいざ読み始めてみると、あまり面白味は感じ取れず、かえって違和感を増幅させて行ったのだ。物語はある美人の三木典子さんが殺害されたことをめぐって展開されて行く。「白ゆき姫」とも噂されたというこの世のものとも思えぬ美人殺害の容疑者として、主人公の「城野美姫」が浮上する。此の女性を映画で演じるのが井上真央さんである。

殺害された白ゆき姫に対して容疑者の女性は、取りたてて容貌に特長の無いという女性として描かれている。即ち絶世の美人と容貌に不自由な不美人との関係性がまるでテーマのように進行して行くのだ。まるで小説のテーマが、美人女性を取り巻くその他諸々人物たちの滑稽なる人間模様だと云うのかの如くに物語は進行して行ったのだ。

まるで此の小説は映画の原作でしか無かったのか? そうした疑問でいっぱいにされた読後感なのである。井上真央さんが演じる容姿不自由の女性は、果たして容姿秀麗の美女との対決を望んでいた訳ではなかった。容疑者から物語の犯人が語られるくだりなどは、通常のミステリーマニアたちにとってはとても納得出来かねる結末なのではあるまいか?

才能の安売りは彼女のファンたちをもがっかりさせるに違いない。作家の湊さんは、映画の原作本を書く時は小説本とは称すること無く書いて行ってほしいとせつに願う次第なのである。

村上春樹さんの「独立器官」という不思議な小説(1)

 

「月刊文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの「独立器官」という小説を読んだ。同雑誌における「女のいない男たち」というサブタイトルを冠したシリーズの4作目である。このところ文藝春秋誌を開けば村上春樹さんの連作作品に遭遇するのであり、些か此のパターンも飽きが来ているところである。

今、春樹さんが此処という状況の中で軽い連作を手がけているのかは、ほとんどぴんと来ることが出来ない。ノーベル文学賞候補作家であるならば、今此の状況下において、他にすべきことが大切な事柄が甚大に存在するのだろうと考えているからである。例えば「1Q84」の4章目、BOOK4の執筆である。オーケストラの大作が完結を迎えるには四楽章のスタイルを必要としていた。三楽章ではまだまだ大いなるストーリーを完結させるには不足なのである。これは特に、ノーベル賞関係者が多く棲息する欧州圏にて顕著なのであるからして、村上先生もそのところをじっくりと理解して対策を踏まえるべきであると考えている。

それはともあれ、小説のプロットは「渡会」という名の整形外科医と「僕」という物書きによるやり取りによって進行していく。この作品の冒頭では、渡会という外科医の人格的形容を「内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人々」と説明がされている。女性関係においても極めてクールで計算高く、独身主義を貫いている人物だという設定だ。食うには困らないという形容以上に芳醇な経済力を持ち、女に困ったことが無いという安易な遊び人以上の恵まれた異性関係をものにしている。主に既婚者や決まった恋人のいる女性とのアバンチュール、不倫関係に限った関係を続けていた。

そんなプロットが、途中でひっくり返ってしまうのだ。まるで読者が作者によって裏切られてしまうくらいに、一気にやってくる。そんな作品「独立器官」後半についてのあれこれについては後の稿にゆだねることにする。

第百五十回芥川賞受賞作品、小山田浩子さんの「穴」

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先日発表された第百五十回芥川賞受賞作品、小山田浩子さんの「穴」を読んだ。月刊文藝春秋誌では150回の区切りの受賞作品として大々的にピーアールしているようだが、読了してみたら、いまいちピンとこない印象に捕われてしまった。

物語の出だしは夫に転勤の辞令がくだり夫の実家の隣の借家に引っ越しをするという、若い夫婦の極めて日常的なエピソードから始まる。妻はそれまで勤めていた職場を辞めてフリーになるが、新しい土地での居場所が定まらないままに、いかにもありがちな若夫婦のエピソードを重ねていく。「転勤」「辞令」「異動」「再就職」といったテーマが並ぶのがまるで安っぽい社会派小説のような進行なのである。表題の「穴」とは、若妻が謎の小動物を追っていたら偶然に「穴」に落ちてしまったというエピソードを示している。中段に至って漸く純文学的なエピソードが現れるかの流れとなるのだが、それはまるで典型的な「非日常」「異界」「幻想」等々の修飾を可能にするかのような代物であり、余計な白々しささえ覚えざるを得なかったというべきなのである。

読書中には何度もミステリー作品に対するかのような期待感さえ惹起させたのだが、そんな大衆文学の要素さえ裏切ってしまう。こんな作品が本当に芥川賞なのかという思いさえ抱かせてしまうのである。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(2)

月刊「文藝春秋」に掲載されている村上春樹さんの「木野」を此の数日間じっくりと再読した。同じ小説作品を近い期間を経て再び読むということは珍しい。そんな珍しい体験をこの「木野」が要求していたということなのだう。

村上春樹さんの最新作「木野」では様々な登場人物および人間以外の生物、アイテム等々が登場している。ざっと列挙するならば、先ずはとりあえずの主人公の木野、不倫がばれて別れることになる妻、店舗の引き継ぎで濃く交流することになるが元々長い付き合いの伯母、そして、カミタという不思議な登場人物。「神田」と書くが「カンダ」ではなく「カミタ」と称している、云わば裏世界との関係を仄めかすカミタは此の作品のある意味で主役級の存在感を示しているのであり、そんなこんなからもハードボイルドを担ぐ役者としてのカミタの存在が此の作品上では特段にクローズアップされているのだ。その他、木野が成り行きで情事を交わす女と其の愛人等々が物語を盛り上げている。

ちょいと本筋から離れるが、登場人物の他に重要な生き物としては、「木野」という店舗に愛着を持って来る灰色の野良猫や、猫が店を去っていった後に現れる三匹の蛇たちの存在が特筆される。ともに登場人物たちに負けず劣らずの存在感を付与されており、物語の構成において重要な役割を担っている。

数日前に一読したばかりの時には、「カミタ」の存在が全能の神の申し子のごとくに捉えられたのだが、二度目の読書体験を経て後にその思いは消されていたと云って良い。むしろ全能神の存在が此の世の中から砕かれていく様態が描かれているのかも知れないという思いにビジョンを変化させていったのである。ハードボイルド的登場人物としての全能神は、小説全体の世界観をリードすること、やり遂げることを志向しつつも、その非現実性や無力さに目覚めるのである。作品途中にて主人公こと木野の戸惑いが生じていくのは其の為であると考えられる。主人公が依って頼るべきヒーローの存在が頼れなくなることと同様に、物語のビジョンも破綻をきたすように進んでいく。頼るべき神話を持ち得ない現代の物語のビジョンが示されているのである。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(1)

故郷へ帰省した帰りの各駅停車の電車内で、月刊文藝春秋誌に掲載されている村上春樹さんの書き下ろし的最新作「木野」を読んでいた。二十数頁の掌編作品ですんなりと読了したのだったが、此れがとても不可解極まる印象を抱かせる作品だったのであり、帰宅した後のおいらの脳味噌もそんな不可解感に捕われてしまったのである。

このくらいまではネタバレではないと考えて敢えて記すのだが、「女のいない男たち」というサブタイトルが示すように、表題の「木野」とは主人公の名前そのものであり、妻を寝取られた哀しくも切ない男の離婚劇とその後の姿などが描かれている。物語の設定はかような代物なのだが、読み進めていく中で、日本の小説世界にこれまで無かったごとくの不可解さを感じ取らずにはいなかったのである。

何しろそもそもとして、登場人物の設定が混乱を極めているのだ。主人公の木野の設定はともかくとして、ヤクザ紛いの行動をとる陰のヒーローが登場しつつ、そんな陰のヒーローの去就が詳らかにされないままに、主人公の不可解かつ不明瞭でなおかつ不条理な結末へと進行してしまうのだ。春樹さんの新しい開眼に基づくものなのかは知らぬが、このような日本人による小説に接したのは稀ではあった。本日は毎度ながらおいらの脳味噌がアルコール漬けになっているのでキーボードを畳むが、明日以降にその謎に迫りたいと考えているところなのである。

(この稿は明日以降のブログに続きます)

沼田まほかるさんの「痺れる」を読んだ

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2011年に発表された「ユリゴコロ」では第14回大藪春彦賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされるなど、出版業界関係者に注目された沼田まほかるさんの短編集「痺れる」を読んだ。2013年版「この文庫がすごい!」(宝島社)では第4位にランクされたという。目利きの本読みたちからの熱い支持が寄せられているということでもあり、ミステリーの愛好家にとっては特別に注目の的となった一冊となっているのである。

作家のまほかるさんは主婦、僧侶、実業家、等々の経歴を経て作家となったという異色の成り立ちから注目されることも多いようだが、この短編集「痺れる」では、そんな悠長な判断基準はうっちゃっていて、一人前の作家として認められる以前の作品集の数々の、まさにまほかるさんワールドの真髄に触れるかのごとくの発見がいっぱいなのだった。

日常的にはあまり取り上げたくないような、人間存在の闇の部分を作品上のテーマとして浮かび上がられて行くような作品の数々。病んで、汚れて、膿をもつ精神の禍々しさを摘出していくような短編集の存在は、一般的な読者にとっては禍々しいものと写っているのに違いないのだが、まほかるさんマニアやその他の人々にとっては、拝すべき作品集となっているのかも知れない。

芸術新潮最新刊「つげ義春 マンガ表現の開拓者」号を購入

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最新の「芸術新潮」では、デビューして60周年になる漫画家のつげ義春さんの特集が組まれている。80数頁にもおよぶ大特集で、25年以上の休筆・隠棲状態にある漫画家ことつげさんの4時間にもおよぶロング・インタビューあり、つげさん撮影の秘湯写真あり、代表作品原板の写真頁あり、等々と豊富なコンテンツに満ちていて、買わない理由が見つからなくて当然の如くに購入していた。

4時間にもおよぶロング・インタビューの中でつげさんは、意外な最近の困りごとまで述べている。元人気作家以上に伝説の作家ならではの悩みであり、休筆後もこうしたトラブルに悩まされる巨匠作家の存在感の強さにはおいら個人的に天晴の思いを強くしていたものである。

<a href=”isbn:4910033050148:l”></a>

http://www.shinchosha.co.jp/geishin/2014_01/01.html

KAWADE夢ムック「吉村昭 取材と記録の文学者」で、吉村昭ワールドに耽る

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先日は吉村昭氏の「味を追う旅」を読んだこともあり、吉村昭氏の仕事に特別な関心が高まっている。そんな中でちょうど先日は、河出書房新社の「吉村昭 取材と記録の文学者」というムック本を手に取り、色々と興味深い作家の生き様に説しているところである。云わば吉村昭ワールドに耽っていると云っても過言ではない。

特に巻末に掲載されている「単行本未収録コレクション」の小品にはことの外、のめり込んでしまっていた。家庭内の出来事に題材を得て、恐ろしいくらいのリアリティーで読者を虜にさせていく。歴史小説の大家は、こんな逸品小説をものにしていたことを思い知っていたところなのである。

異才の作家、吉村昭さんの「味を追う旅」を読む

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数々の歴史小説や「記録小説」と称されるノンフィクション作品で知られる吉村昭氏は、全国津々浦々への取材で駆け巡っていた際に、地域の様々な料理やら酒を求めて堪能したらしい。旅と料理と酒をテーマに随筆を著してきたものが、「味を訪ねて」に纏められている。このたび、同書が文庫版「味を追う旅」として刊行されたことを知り、先日購入し、ちょびちょびと読み継ぎながら、本日読了した。

一読して、肩に力が入らない平易な記述で好感を持った。所謂「食通」等と呼び称される類の人間ではなく、毎日の日常の食生活の中における美味の追求というスタンスだ。だから、美味なものに金に糸目はつけないと云った人種とは対極にあり、日常的にありつける程度の料理や酒に対象を限っている。作家のスタンスとしてはなかなか見かけない、天晴れなものではないかと合点した。

吉村氏が旅したのは、沖縄、九州長崎、四国宇和島、その他東北、北海道、等々全国津々浦々に渡っている。おいらの出身地である群馬県前橋で食べた水沢うどんの旨さについても記されており、細かな取材力には敬意を払いたいと思った。さらには東京下町の伝統的食材や料理に対する考察には、現在の下町食文化にもつながる伝統を感じ取ってていたのだ。即ち食文化とは料理の美味のみについてではなく、提供する店舗や料理人や仲買人やらの多種類の人間の営み全てについてが対象の文化なのだということを、あらためて考えさせられる一冊であった。

村上春樹さんの私小説的な最新作「イエスタディ」を読んだ

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月刊「文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの最新作品「イエスタディ」を読んだ。ビートルズの超有名な「イエスタディ」に絡めた物語が、主人公の男性こと「僕」と、彼の友人の木樽とその彼女こと栗谷えりかとの3人によって展開されていく。早稲田大学2年生の「僕」と2浪している浪人生の木樽と上智女子大生の栗谷。主人公の「僕」を春樹さん自身だと見立てれば、まるで私小説的なプロットが出来上がっている。いよいよ春樹先生も私小説的なジャンルで、これまで残せなかった作家的な足跡を刻もうとしているのか? などと云う想像も逞しくさせてしまうのだ。もちろんのこと村上春樹さんが此の小説で私小説的なプライバシーに基づいた物語を紡いでいるのかどうかは定かではない。

物語の冒頭で、「僕」の友人こと木樽がつけた「イエスタディ」の歌詞が開陳されている。共にビートルズ世代として思春期を過ごしていたことを示すのだが、其れ以上に深い三者の世代感を浮き彫りにさせている。事実的なことは判然としないのであり春樹さんの創作かとも思うが、とても力作であるのでここに引用してみる。

ーーー(引用開始)ーーー
昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

昨日は
あさってのさきおとといで
さきおとといのあさってや
それはまあ
しょあないよなあ

あの子はどこかに
消えてしもた
さきおとといのあさってには
ちゃんとおったのにな

昨日は
しあさっての四日前で
四日前のしあさってや
それはまあ
しょあないよなあ
ーーー(引用終了)ーーー

まるでパロディのような歌詞ではある。だが、全く真面目な意味合いがない訳ではない。女と別れて暮らす孤独な男たちの紡ぎ出す歌にも似ていて、孤独な男たちの本音の部分の心情を紡いでいるかのようなのである。ちなみに表題には「女のいない男たち2」とある。独身男性の生態をテーマにしているかのようだ。あらためて春樹さんの思春期の生き様が浮き上がって来る。それこそまるで私小説的なプロットの噴出である。まるで私小説的なプロットの新作を何故に春樹さんは著したのだろうか? 疑問は解けることはないが、一つの仮説がある。それは、過去における浮き世のごときの主人公たちの生態を消すということである。もててもてて仕様がないという一時期の春樹作品の主人公のにおいを消していきたいと図ったのではないのかという仮説である。ただし仮説はあくまでも仮説なので、其れ以上の追求は控えておくことにする。

村上春樹さんの最新掌編「ドライブ・マイ・カー」を読む

現在発売中の月刊文藝春秋誌に掲載されている、村上春樹さんの最新掌編的小説「ドライブ・マイ・カー」という作品を読んだ。

そうは売れていない役者の主人公の男性が、ちょっとした交通事故をきっかけにしてマイ・カーのドライバーを募集して、若い女性ドライバーがひょんな経緯により紹介され採用される。そして役者と女性ドライバーとの、新しい日常が始まっていく。ドライブに関しては非常な才能を持つ女性と役者の男性とがうちとけてきたそんなときのある会話がきっかけとなって、役者男性の過去のエピソードが明らかに、詳らかにされていく、と云ったストーリーである。

ドライブを行ないつつある男と女と過去の恋愛事情が交錯する、男と女の恋愛の苦悩をテーマにした86枚の書き下ろし小説であり、恋愛小説的にみればオーソドックスな筋立てであり、あまり春樹さんらしくはない。それでもやはり一気に読ませる村上春樹ワールドは健在ではあった。

萩原朔太郎の処女作品集「ソライロノハナ」に出会った

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群馬県前橋市の「前橋文学館」では「詩壇登場100年 萩原朔太郎、愛憐詩篇の時代」という企画展が開催されている。

萩原朔太郎さんが詩壇に登場して100年の記念を込めての企画展示だということなのだが、些か無理強いしいの感がぬぐえないものがある。副題では「開館20周年記念」とあるが、実はこの記念展としての企画なのではないかと疑いたくもなる。

展示会場で初めて出会った展示物の中では「ソライロノハナ」という、朔太郎さんの初期作品を集めた自筆の歌集が目に留まった。朔太郎さんが本格的に試作を始めた時期に出版された、云わば処女作品集なのであるからそれなりの注目を浴びて然りではある。

その「ソライロノハナ」という作品集には、詠み捨てた千首の中から忘れがたいものや思い出深いものを集めて編んだという。初期の萩原朔太郎作品を知り理解する上での貴重な資料ともなる一冊である。

内容は序詞「空いろの花」「自叙伝」「二月の海」「午後」「何処へ行く」「うすら日」等々の短歌が書き込まれている。

ところで「ソライロノハナ」という朔太郎さんの詩集のタイトルが引用されて「カゼイロノハナ」という美術館の企画展が同時開催されている。同じ群馬県前橋の企画展ではありあまり批判等したくないのだが、郷土の巨匠の作品集のタイトルを一文一文字変えて別の企画展に援用するのはどう考えても合点がいかない。朔太郎さんへのオマージュ、尊崇を表すには、一文字変えるようなふざけた行為は慎むべきである。

老後本も使いようかと初めて「定年後のリアル」(瀬古浩爾著)を読んでみたのだ

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老後や定年後をテーマにした書物は今や書店に溢れるほど在るが、これまでまともに読もうとする気にさせるものは皆無であった。それは例えば五木寛之先生や今や亡き過去の伊丹十三先生の書物等を含めても読む気にさせなかったのだった。

そして今回、おいらが初めてまともに手に取り読了した本がこの「定年後のリアル」であった。これまでずっとマスコミ関連の雑誌、ムック、等々の内容はたびたび立ち読みにて把握していたのだが、老後の資金がウン千万円、生命保険の使い方、等々と云った内容には些か眉唾的な対応を禁じえなかったのであり、そんな内容に対するアンチ的なものを読み取って同書を手にしていたからなのでもあった。

読了した一読者としての感想を率直に述べるならば、とても薄っぺらい一冊であったというしかないくらいである。何の役にも立たない一冊である。何でこんな本を手にとってしまったのかという後悔さえ生じさせ得る位に役立たない内容がほぼ全編を埋め尽くしているといってよい。

一つの反省として、これからは「老後」「定年後」等々をテーマにしている書物を検証してみようではないかという気持ちにさせていた。やはりこれからおいらをはじめとして誰もが訪れる「老後」「定年後」を無視しては人生が成り立たなくなってしまっている。誰もが理想の人生を送れるわけでもなく、もはや誰もが老後の生き方には注視せざるを得ないのである。

「アーツ前橋」グランドオープン。「カゼイロノハナ 未来への対話」スタート

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群馬県前橋市の「アーツ前橋」が10/26にグランドオープン。開館記念展として「クゼイロノハナ 未来への対話」展が開催されている。

「地域にゆかりのある美術作家、文学者、音楽家や科学者など幅広い分野の人たちが歴史的に積み重ねてきたクリエイティブな仕事を、現代の芸術家たちが再解釈して作品をつくりあげます。これらの作品は、時代やジャンルを超えた対話によって私たちの未来を切り拓く新たな価値観を提示するものです。館内の展覧会のほかにも、館外に広がる地域アートプロジェクトなどもぜひお楽しみください。」(アーツ前橋HPより)

会場に足を運んでみたところ、いささか総花的ではあり、会館関係者たちの意図が伝わるかは疑問だが、司修さんのペインティング作品が展示されている等々の見どころは存在する。

■アーツ前橋
〒371-0022 前橋市千代田町5-1-16
TEL027-230-1144

http://artsmaebashi.jp/

「恋しくて」に収録された村上春樹さんの書き下ろし作品「恋するザムザ」を読む

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先日紹介した「恋しくて」には、村上春樹さんの「恋するザムザ」という作品が収録されている。最新の書き下ろし作品であり、小品的短編ではあるが、何よりも現在時点での春樹さんの立ち位置を示した作品として注目に値する。

「目を覚ましたとき、自分がベッドの上でグレゴール・ザムザに変身していることを彼は発見した。」

という書き出しで始まるこの作品は、改めて解説するまでもなく、フランツ・カフカによる名作「変身」がベースの元ネタになっており、「変身」の続きを連想させるかのように物語がつむがれていく。村上春樹さん自らのあとがきには、

「遥か昔に読んだぼんやりとした記憶を辿って『変身』後日譚(のようなもの)を書いた。シリアスなフランツ・カフカ愛読者に石を投げられそうだが、僕としてはずいぶん楽しく書かせてもらった」

と記されている。「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」といった長編大作をものにした後の息抜き的作品だと捉えたなら春樹マニア失格であろう。

もともと同作品は「恋しくて」という些か甘っちょろいタイトルに依存するかの如くのラブストーリーを網羅して仕上げたアンソロジーである。春樹さんが選者、訳者となって編まれていても、その甘っちょろさはどうしようもないくらいだ。

書き下ろしの春樹作品「恋するザムザ」は、甚大な影響を受けたであろうカフカの作品イメージとは少々異なっていて、シンプルで突破的なものが通底に流れている。相当略して云えば、単純なものの強みとでも云おうか…。

整理して述べてみれば、村上春樹さんはノーベル文学賞受賞に向けて自らの立ち位置を示すために敢えてこの小品的作品を発表したのだ。そしてその立ち位置はノーヘル文学賞受賞者としてマイナスには働かなけれども、決してフラスの要因をも生むことがない。カフカに迎合することが村上春樹の世界にとって有効であるはずがないのである。

この数年間が村上春樹さんの旬だと云われている。旬が過ぎれば春樹さんのノーベル文学賞などは泡と消えるのである。旬を過ぎて老いぼれた村上春樹さんなどおいらは見たくもないし、そんな老いぼれた後の彼の作品などは読みたくもないのである。

今の此の出口無き状況を突破するには、以前からおいらが何度も提言しているように「1Q84」の第4章、即ち「1Q84 BOOK4」の世界を新たに描ききることしかないのである。春樹さんははたしてそれを判っているのだろうか? はなはだしく疑問なのである。

ノーベル文学賞作家、アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」(村上春樹訳)を読んだ

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今年のノーベル文学賞作家、カナダ人アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」を読んだ。翻訳したのは村上春樹さん。本年9月に刊行されたばかりの「恋しくて」中の10作品の中の1作として収録されている短編である。

カナダ人女性作家アリス・マンローは、誰もが認める短編小説の名手だという評価が定着している。「現代のチェーホフ」等という最大級の評価もあるという。カナダ人としては初めての受賞であり、米国の隣の衛星国的な立場のカナダ国民にとっては非常に歓迎すべき受賞であったに違いない。村上春樹さんを差し置いて今年のノーベル文学賞を受賞した政治的背景には、カナダ人作家だと云うことが大きく影響していることが推測可能である。

一読した感想としては、まずは、男女の物語にしてはとてもテンポの良い成り行きや、乾いた表現の中に埋め込められている会話表現のユニークさなのだ。会話には直に顔を直面した音声的なものの他に、手紙の遣り取りとしての会話があり、実は後者が其の重要なポイントとなっている。

「ジャック・ランダ・ホテル」は、読み始めてのところではさっぱりといった遣り取りが続くのだが、実は別れた男と女の会話が、特別な文書の遣り取りの中で展開していくというストーリーである。翻訳者の村上春樹さんをして「まるで壁に鋲がしっかりと打ち込まれるみたいに。こういうのってやはり芸だよなあと感心してしまう。」と云わせたくらいな希有なる名人芸的な描写が活きていた。

前橋文学館にて「書物にみるアートの世界」が開催中

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前橋文学館にては現在「書物にみるアートの世界」という企画展が開催されている。

萩原朔太郎など郷土の文学者にかかわる書籍・雑誌を、表紙、文字組み、製本など、ブックデザイン面から紹介しているという企画展である。朔太郎さんの書籍の多くがブックデザインにおいても観るべきものが多いということであり、そんなブックデザイン、即ち装幀における一流の展示物を観ることが出来て満足であった。

朔太郎自身が描いた猫のイラストが黄色い表紙に印刷された詩集「定本青猫」は出色の出来栄えである。

朔太郎さんの「月に吠える」の復刻版はおいらも所有しており、其の表紙の装幀の素晴らしさには以前から瞠目していた。同書以外にも様々な朔太郎さんの書籍における装幀の見事な仕事ぶりに接すると、当時のアナログ的出版物に関わる装幀家たちの見事な仕事ぶりに脱帽してしまうのである。

http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/
■前橋文学館
群馬県前橋市千代田町三丁目12番10号
027-235-8011

現在上映中映画の原作だという「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」を読んだ

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書店に立ち寄った際に「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」という文庫本が目に付いて購入。何気なくページを捲っているうちにいつの間にか読了していた。現在上映中の映画の原作本だということである。多少だが映画づいているおいらの関心が、この文庫本をとらえるきっかけとなっていたのかもしれない。

さてその文庫版書籍の内容であるが、最終ページの佐藤優氏の「解説」が特段に面白かった。

「資本主義社会においては、すべてをカネに転換することが可能である。保険金殺人犯で人間の命をカネに換える「死の錬金術」が現実に存在するのだ。しかも、その主犯が法の裁きを受けずに市民社会の中で平穏に暮らしていく。このピカレスク小説のような話が現実に存在したのだ。」

以上のような佐藤優氏の解説から、この事件が特別な意味合いを持っているということを認識したのだった。ちなみに佐藤優氏といえば鈴木宗男氏との関係で拘留された経験を持つ人物である。それ故に一段とリアルな拘置所におけるやり取りがビビットに受け取られていくこととなっていた。と

それに伴いおいらもこの原作や上映中の映画に関しては多大な興味関心を惹起されたというべきなのであろう。近いうちにこの映画を視聴してみたいという思いを強くさせていたのであった。

近いうちに映画「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」を鑑賞しようと思っているしだいである。