レヴィストロースの遺言 [2]

先日当ブログでも紹介したかもめさんのブログ「新平家物語」では、おいらが引用した五十嵐茂さんの「自己テキスト論」について述べられていた。やはり想像したとおりにかもめさんも「自己テキスト」を駆使してネットの世界を闊歩しているようだ。さらに彼の論の後半はといえば、いつもの独自の「言葉は私語につきる論」で占め尽くされていており、おいらの引用は其処でも又前書きに利用されているかのようである。我田引水の力をまざまざ見せ付けられたごとくに天晴れであった。「小林さんもそうなのだろうが、われらには、言葉なしには、一日たりとて過ごせない。」といういささか買い被り的評価もいただいたようである。

自身を振り返ってみれば、おいらは「言葉なしには一日たりとも過ごせない」といった自覚はないのだが、言葉にかかわらずに表現することへの欲求は一日たりとも欠かして過ごしたことはない。ブログによる「自己テキスト」の発信は、その一つであると自覚するものなのである。

さて本題である。先日触れたレヴィストロースの「ブリコラージュ論」では、人間の知的活動をコラージュになぞらえて展開されているのだが、身の回りの素材を駆使して、創造活動を行なっていく様が、まさに人間活動の原点であることを示しているようで興味深いのだ。マスメディアが膨大な量の情報を垂れ流しにし、まさに小市民をマッサージさせつつ魂を奪い去っていくこの現代という時代に抗って、コラージュ=創造活動を継続させていく重要性をレヴィストロース先生は示しているのである。

ところでレヴィストロースによれば、前髪を前面に垂らすことが仮面の第一歩であるという。市橋容疑者が整形逃亡の果てに逮捕されたニュースは真新しいが、その逮捕の報道に取材陣が殺到して写された彼の姿には垂れ下がった前髪が特徴的でもある。この垂らした前髪に胸キュンして熱いラブコールを送っていたのが、いわゆる「市橋ギャル」であることは当ブログでも指摘した。メディアがマッサージとして猛威を振るった結果でもある。その件についての考察は後日にまわすことにしたい。

http://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/e/471a1d100fe4f247e62aaa00ef283d67

レヴィストロースの遺言 [1]

おいらは学者ではないので、いわゆる「構造主義」を詳細に学んだこともなければ、文化人類学の概要についてさえ覚束ない知識しか持ち合わせていない。レヴィストロースの思想的立場が奈辺にあるのかさえ疑わしいのだ。しかしながら彼の著した書物に目を通していると、常に強烈に訴えかけてくるものがある。それは思考のしなやかさである。

私事になるが、かつておいらが美大の4年生であったころ、教育実習とやらで実家に近い母校の高校に2週間ばかり通っていたことがあった。指導教官との打ち合わせでおいらが教育実習のテーマとして主張したのが、「コラージュ」である。このとき、レヴィストロースのコラージュ理論(「ブリコラージュ理論」ともいう)が頭の中にあった。指導教官にはレヴィストロースの「レ」の字も漏らさなかったが、レヴィストロースの影響下にあったことは隠しがたい事実である。2週間という時間は中途半端な時間であり、生徒達によるコラージュ作品はほとんど完成を見なかったと記憶しているが、日常から抽出された素材を彼らがどう扱うかに、おいらの関心はあったのだろう。つまり、おいらが知らない素材を、若い生徒達がどのように持ち寄り組み合わせるか、実験してみたのである。

その後、「コラージュ」という概念はおいらの中で展開されることなく、おいらの関心はジャン・デュビュッフェらによるアンフォルメル絵画に移っていった。美術、音楽に対する造詣も深かった彼のコラージュ理論は、西洋近代主義の垢を払い落とすことにとても役立ったのである。

自己テキストの時代

昼間からレヴィストロース博士の本を読んでいて、帰宅途中の電車の中でも読んでいて、「よし、今日のブログはレヴィストローク先生の高尚なネタでいくぞ。タイトルはずばり、レヴィストロースの遺言だ!」とばかりいささか意気込んでいたのです。決まっただろうと勇躍いさんで駅を出てはみたのがつかの間、けれどもまた悪いくせが出て、駅前の居酒屋でホッピー3杯ばかり引っ掛けたせいなのか、脳味噌ぐらぐら廻って、とても高尚なネタをまとめられる状況ではありませぬ。しかるがゆえ、今宵はまた軽いネタで行きたいと思います。

先ごろよんだ本の中に、かの有田芳生氏の「メディアに心を蝕まれる子どもたち」がありました。(決して有田さんの本が軽いということを云っているのではないので誤解なきように)

その本の中で、有田さんの対談相手の五十嵐茂さんという人が興味深い話をしているので紹介してみます。ちなみに五十嵐茂さんという人とはおいらもメールのやり取りをしたこともあり、とても誠実な人柄をそのメール文のあれこれに滲ませていたことを思い出すのです。

五十嵐さんの指摘によれば、ネットの時代とは「空前の<自己テキストの時代>」が始まった時代だという。リアルなコミュニケーション、ネットワークでは表現できないテキストを、自己テキストとして表現し得ることの可能性を述べているのだろう。おいらがかねてより、ネットの達人(かもめさんやみなみさん達)に対してかんじていた、考えていたキーワードを表しているとも見えた。そこには「日常からの解離」もまた存在し、ネットコミュニケーションを面白くさせている。ネットもまだまだ捨てたものではないのである。

村上由佳の「ダブル・ファンタジー」は必読書なり

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最近読んだ小説の中で、ドキドキワクワク感が最高だったこの小説の帯には、「ほかの男と、した? 俺のかたちじゃなくなってる」と意味深なキャッチがある。実はキャッチではなくて、小説中の会話からピックアップしている言葉である。「読者騒然、『週刊文春』史上最強の官能の物語、ついに刊行!」という、ちゃんとした帯書きもある。

誰が称したか「体で書いた本」というくらいに、詳細な性描写が素晴らしい。あるあるレベルでは描ききれないだろうSEX描写のオンパレードなのである。

それまで余り熱心ではなかった村上由佳作品だが、この一作は経験豊富な名シェフが差し出す料理のごとくに、絶品の味わいである。差し出す料理人の器量によって、評価が左右されてしまうのは、こと恋愛小説否、ポルノ小説、おっと失礼、否いなアダルトな高級恋愛小説において致し方ない。容姿に難のある作家の手によって差し出されたとするならば、このような最大級の評価は(おいらの個人的評価はさて置いても)与えられることが無かったであろう。ファンタジーの中にはリアリズムがぎっしりと詰め込まれてあるところが、ワクワク感を引き出す壷なのである。

「ダブル・ファンタジー」という書名は、「男」と「女」の、体は重ねあうが心は決してまじわうことないファンタジーという意味あいをまとっている。「心」と「体」が決してまじわうことないと捉えてみたら、たしかに哲学的ではあるが、とても残念至極なり。ファンタジーはドキドキ感を裏切らない代物であって欲しいと思う。…たしかに年を取るとそう思いがちになる。

おいらはこの「ダブル・ファンタジー」読了後に、作者、村上由佳の過去作品に接したものだが、甘ったるい青春小説節に辟易してしまった。さてはこのギャップこそ、体を張ったことの成果だったのであろうか? だとすれば、いろいろなる妄想が膨らんでくる。おいらはついつい村上先生の私生活が気になってしょうがないのである。

レヴィストロース逝去の報に接して

ご存知構造主義の大家、レヴィストロース博士が逝去したという報道が目に入ったのは昨日だった。御年百歳。いわゆる大往生であろう。

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2659474/4848350

かつておいらも彼の著書「悲しき熱帯」などを、難しすぎるなと感じながらも熱心に読みこなそうとしていたものである。いわゆる近代主義とは西欧中心主義にほかならず、そこにメスを入れていた思想家の一人として、我が国の吉本隆明は特筆されるが、吉本にも負けず劣らずの思想的営為を世に認めさせた思想家こそは、レヴィストロークさんだったのだろうと思います。彼の残した「構造主義的」な足跡の数々は、人間への根源的な思索がぎゅうぎゅうと詰まっているがゆえに、極東の小国である日本のおいらにも、ずきずきと突き刺さるものがある。世界の巨星が逝ったことをしみじみと感じているのである。

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

今年のノーベル賞受賞者が発表されて、もう数週間が過ぎてしまった今更なんだ! というお叱りもありましょうが、今日は村上春樹のノーベル賞は有りや無しやといった、我が国の文学関係者・マニアたちがもっとも知りたいと思われる話題に、ちょこっと触れておくことにした。何となれば、某未来のIT長者氏から「最近はブログから『1Q84』が消えてしまいましたね」という、痛いところを衝かれてしまったという経緯が有ったからであり、さらにまたこの時期を逃せば、春樹先生とノーベル賞との話題に触れる機会さえ逸してしまいそうな、そんなびくっとする予感に囚われてしまったからなのである。

結論から述べれば、村上春樹のノーベル賞受賞は「有り」である。日本の文学愛好家にとってはもとより、世界文学界の歩みにとって春樹さんの歩みは凸凹なる関係性をとりながらも接点を維持しているから、受賞の可能性は大と見なくてはならない。もとよりノーベル文学賞といえども、西欧中心のイデオロギー依存にとっぷり浸かっている。過去のノーベル文学賞受賞理由の大半はといえば、西欧スタイルのイデオロギーをどう身に纏った作品であるかが、述べられるばかりであり、今年はさらにその傾向が激しかったためおいらも些か呆れたのものである。そんな逆境を乗り越えるパワーは、春樹さんには備わっているのだろう。期待は大きく持っていくべきなのだ。

現在60歳にして、イスラエルに乗り込むパワーは尋常ならざるものがある。「1Q84」の4部作(3部作ではない)が完成するまであと3年以上先になるだろう予感はあるが、4部作完成の時こそ春樹さんのノーベル文学賞受賞のタイミングに相応しいのである。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

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天童荒太の「悼む人」読了

先日、知人から借りていた「悼む人」を読了した。

まずひと言。大衆小説の突破口を開いたともいえる作品ではないか、という印象を抱いた。

先日も書いたが、主人公の静人が、報道や口伝で知った死者を追って、「悼む」ことを続けていくというストーリーがこの小説の基本的な設定である。キャラクター設定の意外性が、その一点とてしてある。ヒーローではない。かといって見下げた存在ではない。しかもキャラクターが立っている。敢えて証明しなければならない過去の事実や、社会的立場を支えるバックボーンも見えてこない。まるでこの世に居そうもない設定ゆえのことから来る、意外性の設定に成功している。

「死」をテーマにした作品としてまず浮かぶのは、写真家・藤原新也が著した「メメントモリ」である。ここでは著者の放つ圧倒的な死の世界観に威圧されたり、近づくことを拒絶される不可知性が存在するが、「悼む人」にはそのようなものはない。ただ近づきたくないから離れている、適度な距離を保って接しているだけである。それが読者に跳ね返ったとき、「悼む人」は鏡のような存在なのかと納得するのだろう。

推理小説仕立ての展開からバックボーンを追っていたら、決してこの読了感は生まれなかっただろう。最後まで、主人公の静人の内面には取り込まれることなく、しかも清々しい読了感は、確かに残っている。

「謝辞」として記された本のあとがきには、7年かけて仕上げた作品とある。終末医療の現場やDVに関する細密な現場取材を経て書かれたことが察せられる、力作である。作者・天童荒太の詳細なプロフィールは目にしていないが、おそらくマスコミ報道の現場で修行したであろう著者の過去が、重なって浮かんでくる。嫌われ者記者・蒔野抗太郎の姿は、作者が接した誰かをモデルにしているはずだが、作家本人の姿と感じ取れないのもまた、意外性の設定の成果だろう。

銀座「ルパン」と、時代の酒

銀座のレポートは昼に偏っていて、夜がなかったことに気付いたのです。そこで、以前おいらが某メディアにて記したレポートをアレンジして、銀座の名店「ルパン」について紹介します。

坂口安吾が愛した「ゴールデンフィズ」

坂口安吾が愛した「ゴールデンフィズ」

先日、銀座にある老舗バー「ルパン」に行ってきました。昭和3年に開設されたこの酒場には、太宰治、坂口安吾といった無頼派作家をはじめ、数多の作家、芸術家たちが足を運んだ社交場としても有名で、今なお彼らの足跡を辿るべく全国からのファンが訪れているそうな。少年の頃から太宰さんや安吾さんを敬愛してきた僕が、今頃になってここを訪れたのは遅きに過ぎたのですが、これも銀座勤めがもたらした巡りあわせなのかも。遅れて叶う出会いというのもまた乙なものでした。

何もわからないまま、安吾さんが好んで飲んだという「ゴールデンフィズ」というカクテルを注文してみました。ジュースに卵黄を入れてシェークしたものらしく、結構甘口系で、辛党の僕としてはとてもお酒を味わった気分にはなりません。銀座では銀座の酒をということなのか。無頼派の旗手こと安吾さんも案外銀座の振る舞いを熟知していて、人生と作品探求にも熱意がこもったのでしょうか。ちなみにこの日、何故太宰さんの愛飲した飲み物を頼まなかったかといえば、太宰さんは一流の道楽者ですから、きっと予算オーバーしてしまうこと必至であり、その点で、危険な香りを振り撒く女豹より、いささか口煩いが安心してつき合える堅実派の安吾さんによりシンパシーを感じていたためなのかもしれません。

よく知られているように、ここには林忠彦が駆け出しの頃に撮影した写真が展示されており、大きく額装された中には、一寸地味目にカウンターにおさまる安吾さんの姿もありました。林忠彦は当時「ルパン」を自分の連絡場所としていて、ここで知り合った安吾さんの住居に押しかけては、ごみだらけの仕事部屋で撮影した写真を発表して、話題をさらったものでした。のちにそれらの写真は「カストリ時代」という写真集にまとめられ、戦後の昭和二十年代を伝える貴重な一冊となっています。

「カストリ」とは粗悪な密造酒のことをいう。林忠彦が出会った当時の安吾さんの自宅では、時々仲間を集めては「カストリを飲む会」が開催されていたそうです。安吾邸にはカストリの入った石油缶がでんと置かれていて、それを仲間に振舞っていたというのだが、自分は「ルパン」でゴールデンフィズを愛飲していたのだから、安吾さんがはたして「カストリ」を好んでいたのかはなはだ疑問です。酒乱で鳴らした太宰さんや織田作と違い、安吾さんが泥酔する姿はあまり想像できません。仲間たちには安物の密造酒を飲ませつつ、こっそり高級酒をちびちびとやりながら推理小説のトリックを練っている。そんな安吾さんの姿を想像してしまうのです。それこそが無頼派の旗手として混沌の時代を駆け抜けた安吾さんの生き様ではなかったのではなかろうか。

それにしても「カストリ時代」とは粋なネーミングである。現代ならばさしずめ「発泡酒の時代」とでもいうのだろう、どうもピンとこないし味気ない。「ハイボール」の人気が上昇中だが、「ホッピー」ほどには人気定着の兆候は見られない。粋で天晴れなネーミングはないものかと悩む毎日である。

考えてみれば時代を表わす酒、あるいは時代のキーワード、ネーミングとはとても難しいものである。現在のマスコミが多用する「ネットの時代」「未曾有の時代」なんて全然駄目である。対抗できるのは一昔前に椎名誠が命名した「かつおぶしの時代」くらいじゃないかなと思うのであります。芸術作品は「時代を映す鏡」ともいわれるが、なかでも写真ほどこれに当て嵌まる媒体はないと云っていい。「現代」「今日」といった時間を写し取っているのだから当然のこととはいえ、時代の息吹を見事に活写した林忠彦や坂口安吾さんの取り組みには、益々畏敬の念を禁じ得ないのである。

天童荒太「悼む人」読書中

職場の知人から「悼む人」(天童荒太著/文藝春秋社刊)を借りて読んでいる。今年1月の直木賞受賞作品であり、そのタイトルから、身近な大切な家族を亡くしたという経験も手伝って、またさらに、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」に、「悼む人」の色濃い影響が見られるとの作品評の記事なども目にし、いつか読むべしとの考えがあったのだが、ひょんなきっかけでその機会が訪れた。

はじめはてっきり、ノンフィクション・ジャンルの作品ではないかなどと勝手に思い込んではいたのだが、違った。「悼む人」の物語(フィクション!)は、主人公が死者を「悼む」為に訪ねて歩くという、いわば奇行を巡って進行していく。奇人か、変人か、病人か、あるいは神聖なる聖者かのごとくに表現されていく主人公に、感情を重ね合わせていくことは難しい。どのような死者に対しても同様な「悼み」の仕草は、大切な身内の死に対するものとは明らかに異なっている。それでもなおその主人公への関心が薄れることもなく、フィクションとしての物語は進んでいくのである。ときに推理小説まがいの進展に、些か戸惑いを覚えつつも、いたるところに新鮮な発見にめぐり合う。読書とは体験でありめぐり合いであるべきという条件も満たしている。ときには極めてエグい展開も散見されるが、それもまた物語の適度な大衆小説臭のスパイスともなっており、興味深くページを進めているところなのです。

閑話休題。

今日の昼、またまた銀座で話題の「フリーカフェ」を訪ねたのだ。きっけかは、先日この場所を熱心に教えてくれた某男性スタッフに、「行きましょう」と誘われたことだった。最初の話題性が収まったことや、昼の12時すぐという時間帯だったこともあり、先日ほどの賑わいはなかった。「一人一皿」とされているおかきに夢中になる小母さん、お婆さんの姿もあまり目に付くことはなかった。ブログ公約(造語である)した写真を撮ってきたので、公開しておきます。

銀座の一等地でこの広さなり。

銀座の一等地でこの広さなり。

青豆と天吾が眺めた二つの月

話題作、村上春樹の「1Q84」を紐解きながらページをめくっていると、改めて幾つかのキーワードに突き当たる。物語の終末期において、青豆と天吾がともに眺めて見えたとされる「二つの月」がこれだ。

河出書房新社による「村上春樹『1Q84』をどう読むか」においても、「二つの月」に関しての文芸評論家なる人々の突っ込みとやらが開陳されていて、それはそれで興味深く読んだのだった。SF小説の基本を踏襲していないだとか、その根拠はどうでもいいたぐいのあれ(!)だが、やはりこう書かれているのを見たりしたら、村上マニアとしては些か内心落ち着かないものがあったので、ちと考え考え、創作してみました。今流行の「フォトショップ」というソフトウェアを使って創作した「二つの月」の出来栄えはいかがでせうか?

青豆と天吾が結び付けられたのが「二つの月」なのです。

青豆と天吾が結び付けられたのが「二つの月」なのです。

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リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

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リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

酒井法子の便乗本がうざい

酒井法子さんの事件から、漸くほとぼりが冷めようとしているとき、彼女をだしにしたたぐいの書籍が数冊発刊されている。

改めてアマゾンにて検索したところ、「碧いうさぎの涙 酒井法子のタブー 」、「酒井法子 孤独なうさぎ 」、「酒井法子隠された素顔 」がリンクに引っかかっていた。そのうち2冊は、書店にて立ち読みしたが、父親がヤクザであったなどの古色蒼然としたネタと今回の騒動とを掛け合わせただけのしょうもない代物である。もう1冊の「酒井法子隠された素顔 」は恐縮おやじこと梨本勝が著したということになっているが、書店では見かけなかった。こんな便乗商売に加担するくらい梨本勝も落ちぶれたのかと想うと、ちと寂しい。

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

村上春樹の「1Q84」について、特にそこで展開されている「リトル・ピープル」に想いをはせるにつれて、彼らに対する拒絶反応とともに、奥深いところではある種のシンパシー、或いは興味深い畏友ではないのか、といった想いを払拭できないでいる。かつて村上春樹さんが著した「アンダーグラウンド」というノンフィクションの最終章を、今宵読み返している。

興味深い一節がこれだ。

「(前略) 私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ――ということになるかもしれない。」

新しい物語のモチーフを、ある意味にてオウム真理教のドラマに求めたのかもしれない春樹先生の、肉声を聴いた気がした。

翻って「1Q84」のト゜ラマツルギーにおける「空気さなぎ」の位置づけはどうだったのだろうか? 芥川賞候補作として売り出す経緯やら、最終章(あくまでBOOK2におけるものとしての)で10歳時の天吾と青豆のファンタジーとやらは、現実としての「オウム真理教」体験を浄化させた、新しい物語として、昇華されたものと、受け止め得るのか否か?

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村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

滑り台に登って周囲を見渡せば、青豆が匿われていたマンションらしき建物が…。

滑り台に登って周囲を見渡せば、青豆が匿われていたマンションらしき建物が…。

少々ネタばらしになってしまうかもしれないがご容赦を。

村上春樹「1Q84」の終末場面での、主人公の二人(青豆と天吾)が、互いに求め合い再会を希求するにもかかわらず、ついに邂逅することの叶わなかったという、重要な舞台設定となった場所である。

杉並区高円寺の南口から歩いて数分、環八通りにも近い場所として設定されているのがここだ。児童公園を見下ろせる六階建てのマンションの一室に、使命を終えた青豆は匿われている。危険を避けるために絶対に外出を禁じられていた青豆だが、同公園の滑り台に居た天吾の姿を見つけるや居ても立てもたまらず飛び出してしまった。だが、非情にも再会はならず……。春樹さんも可哀想なことをしてくれたものである。

この滑り台に登って眺めた天吾の視線を想ってレンズを向けてみた。「1Q84」のキーワードともなり得る「二つの月」。二人が、クライマックスを迎えてどの様に見たのだろうかという興味は、無残にも打ちひしがれた模様。おぼろげに霞んで見えたその月は確実に一つの輪郭を有していた。やはり春樹ワールドを現実的に理解するのは至難である。

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「1Q84」BOOK3の出版が確実となった今、僕たちが期待するのは、単に第3章としてのストーリー展開だけではなく、総合小説としてのこれからの展開である。ノーベル文学賞候補となって久しい彼だが、真に賞に値する作品を発表していくことを、僕たちは見守っていくべきなのだ。

そのために前提となることは、「1Q84」はBOOK4まで展開されねばならないということである。3部作というスタイルは、総合小説というジャンルに相応しくはない。それは4部作でなくてはならないのである。

世界に目を向ければ、真に総合小説として磐石な評価を受けているものの中に、4部作作品がいかに重要な地位を占めているかが判るだろう。「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」と続くロレンス・ダレルのアレキサンドリア四重奏。鬼才といわれたダレルが才能を開花させ、世界にその名を轟かせた記念作だ。20世紀の現代文学を牽引したジェイムズ・ジョイスの代表作「ユリシーズ」もまた四部作。かつて日本人のノーベル文学賞候補の筆頭とされた三島由紀夫はといえば、「春の雪」「奔馬」「天人五衰」「暁の寺」からなる「豊饒の海」四部作を遺して自害したという経緯も見逃せない。

村上春樹の古くからのファンとして、世界に誇れる総合小説にチャレンジして欲しいなどという我儘な願いを書いてはみたが、実はすでに春樹さんにも4部作があるということを最近知った。初期の「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」までを「鼠四部作」と称するのだそうだ。初期の作品のテイストはかなり軟派なトーンで埋め尽くされていたという記憶がある。確か「週刊プレイボーイ」(あるいは「平凡パンチ」だったか)に、「春樹先生に学ぶ女性の口説き方」見たいな特集が組まれていて、少年の一時期のおいらはそれらを読みふけっていたものである。

結論は、やはり春樹さんには軟派作家としてではなく、総合小説家としての四重奏作品を期待する。その延長としてノーベル文学賞があるはずである。

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リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

リトル・ピープルとは?

村上春樹の「1Q84」について、この作品がジョージ・オーウェルの「1984年」をベースにしているとの指摘は、文藝関係者以外からもことあるごとに打ち出されている。どれくらいの比重があるかないかをはいざ知らず、この指摘を否定することはもはやありえないであろう。

たしかに旧ソ連邦に象徴される高度管理社会は、巨大な悪の権化としての「ビッグ・ブラザー」を想定して議論していくことが可能であった。厳然としてある支配層による管理システムが、明瞭な顔を持って行う権力の行使は、顔の見えるものであった。だが現在においてその図式は成り立たないものとなった。村上春樹さんもその辺のところはとっくにわきまえており、新しい時代を体現する人間たちを「リトル・ピープル」と称したかったのではないか?

「オウム心理教」「ヤマギシ会」などの特定のカルト教団が、そのモデルとして設定されているものの、物語が示しているのは、そんな狭小なものにとどまってはいない。「衆愚の民」と新潮文化人だったらそう呼ぶかもしれない、ある条件に限られた一部大衆にも、「リトル・ピープル」たる資格が備わっているのかもしれない。あるいは、ネット社会における「祭り」に参入して煽り立てるネット流民たち、2ちゃんねる掲示板に群がる匿名ユーザーたちも、その例外であるはずがない。

「正義」の御旗を振り回して「ビッグ・ブラザー」を自称するタイプの人間は周囲に見なくなったが、その反面で「リトル・ピープル」の陥穽におちいっていくタイプの現代人は増えつつある。つまり、一般大衆の多くが好むと好まざるにかかわらず「リトル・ピープル」に変容する環境条件は至る所に散らばっており、そのひとつひとつを検証することに、建設的な価値は見出せなくなっているのである。

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村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

過日も記したが、現在村上春樹の「1Q84」を読み直しているところである。再読しているのではなく、ところどころ気になる箇所について、その文面を追っている。追いながら、イメージを追体験しているといったところだろうか。

3名に貸し出していたところ、そのうちの1名は家族がらみで回し読みをしていたこともあり、およそ2ヶ月程度のブランクが有ったから、丁度良い追体験になっている。焦らずじっくり、気の向くままに追体験にいそしんでいるのである。やはり一番気になっていた箇所は、「リトル・ピープル」に関するくだりである。何箇所にも及んでいて、その一つ一つにイメージと表現の確認を行っている。

先日、貸し出ししていた友人からの情報で「BOOK3」の件を知ったのだが、彼が示してくれた情報ソースが以下の毎日JPサイトのインタビュー記事であった。

http://mainichi.jp/enta/book/news/20090917mog00m040001000c.html

いろいろ注目に値するインタビュー内容のなかで、最も強調されているのが作家自らの口でリトル・ピープルを解説するくだりだ。彼は語っている。

「はっきり言えば、原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います。それにはまず『リトル・ピープルとは何か』を見定めなくてはならない。それが僕のやっている作業です」

これほど明瞭な意思表示は珍しいくらいにすがすがしい。世に蔓延る「文芸評論家」なる人種によるたちの悪い妄言をまとめて吹っ飛ばすくらいの意味ある意思表示である。この「リトル・ピープルとは何か」を抜きにした議論ほど不毛な議論はないということを示している。

そしてその序章として示したいのが、数ヶ月来続いてきた、酒井法子へのパッシングに象徴される、無名性の跋扈するパッシングなのである。これについては後日まとめて示していきたいと考えているところである。

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村上春樹「1Q84」BOOK3

村上春樹による話題作品「1Q84」について、この話題作を貸し出ししていた友人から、「BOOK1」「BOOK2」に続く「BOOK3」が進行中との情報が入った。そもそも、「BOOK2」を読み進めていた頃に、そのような嫌な予感があった。あえて「嫌な」と書いたが、僕自身がかつて、「ねじまき鳥クリニクル」の第3巻が出版されたことに愕然として、読み進めたはいいが結局、途中放擲したという経験が、脳裏をよぎっていたからである。

「ねじまき鳥クリニクル」第3巻についての詳細は今や明瞭な詳細が失われており、当時の記憶も不鮮明であるので、後日に回すことにするが、それにしても同様の体験をまたここで踏むことになったということは、些か合点の行かないことでもある。

戻ってきた村上春樹の「1Q84」を、再読しつつ、これから「1Q84 BOOK3」の可能性やら邪道性や羅について論じていきたい。

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