味覚と時間の尽きない対話。「文士料理入門」より。

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「文士料理入門」という新書を読んでいる。新書版ながら定価1000円(税抜)という、些か高価な買い物をしてしまった。何故おいらは、あるいは人は、文士料理なるものに惹かれてしまうのだろうか?

「文士料理」と一言で括って語るのは難儀である。肉食系、菜食系、等々と云った共通の趣向性がある訳でもなければ、文士の人生哲学が料理に反映されているという訳でもない。しかしながらどこか懐かしい。たとえ初めての料理であってもひじょうに郷愁をそそるのである。

そんな郷愁を感じるのは、幼少期に過ごしたであろう豊かで無尽蔵な時間というものを、そこに感じ取っているからなのだろう。坂口安吾先生のメニュー「わが工夫せるオジヤ」では、3日以上煮込んだ野菜ぐつぐつスープが無くては始まらないという特性オジヤを開陳している。3日煮込んだスープとはどんな味わいなのかと、創造するだに待ち遠しくなってくる。そんな時間を持てたら嬉しい。最近はそれ以上の贅沢は無いと想えるくらいに。

たとえ物は無くてもあり余るくらいに無尽蔵な時間というものが、そこにはあったのだろうと想うのである。ハンバーガーなどと云ったファーストフードではこのような豊かな時間を味わうことは決してできないのである。

あえて共通の基本点を探れば、インスタント調味料などは使わないということである。味の素ファンであるフルちゃんはこうした意見に反論なのだろうけどなぁ(笑)。

瀬戸内寂聴が金原ひとみに宛てた恋文

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金原ひとみの「ハイドラ」を読了した。読後感はとても爽やかである。そしてまず初めに、もっとも興趣をそそったのが、瀬戸内寂聴さんの巻末の解説文であったことを記しておきたい。

まるで、瀬戸内さんが意中の人、金原さんに宛てて送った恋文のような趣きなのである。金原ひとみは凄い、才能がある、素晴らしい、云々と、まあ臆面も無くといってはなんだが、それくらいに絶賛の雨あられ状態なのである。解説文の役目を遥かに逸脱する個人的な想いを綴った賛辞の数々。人生80年以上を過ぎればこれくらい無邪気に恋文を綴れるようになるのだろうかという文章であり、それこそが男女の性別を超えて「恋文」の名に値するのだ。いぶかるくらいに、天真爛漫な愛情に満ち溢れている。まさしく稀代の名文なのである。けっしておちょくっている訳ではない。「文庫の解説文」というある種の公の媒体にこれくらい堂々として私的な想いを開陳できる瀬戸内寂聴先生は、やはり只者ではなかったのである。

一応は書評というかたちで書いているので、「ハイドラ」についても記しておこう。有名カメラマン新崎と同棲しているモデルの早紀が主人公。カメラマンの専属モデルでありながら、彼に気に入られる為の無理なダイエットなど強いられている。そこへ現れたのが、天真爛漫なボーカリストの松木であった。早紀を取り巻く二人の男とそれ以外の男女たちが、テンポ良く、跳梁していくというストーリーである。

一時期のおいらであったら、こういう小説を風俗小説の一パターンと判断したかも知れない。だがこの作品は瑞々しさ、目を瞠るほどの筆致の小気味良さ、等々によって、判断を一新することになった。確かに風俗描写を超越した世界観が表現されているのである。

時代の寵児「自己テキストの時代」を先取りした川上未映子さんの今昔。

昨日引用した川上未映子さんの処女随筆集の言葉は、書籍として発表された彼女の初の作品ではあるが、それ以前に初出として、川上さん自身のブログ「純粋悲性批判」にて発表されていたものである。そのじつは「発表」などという性質のものでさえなく、「公開」あるいは「エントリー」と云ったほうがしっくりくる。川上未映子さんこそ進取の精神で、自身のブログを自己メディアとして活用した、この道のスペシャリストだと云っても過言ではない。
http://www.mieko.jp/

本日あらためて、川上未映子さんのブログにアクセスしてみたのである。以前にアクセスしたときと比べて更新頻度が減っている。以前にこのブログでも書いたが、時代は「自己テキストの時代」である。時代を先取りしたはずの川上さんだが、その進取の姿が見て取れないのが、いささか寂しい思いなのである。更新頻度ばかりではなく、記述されている日記内容も、何時何処で誰が誰と何々をした云々かんぬん、といったことを記しているので、何時からこんなにフツーになってしまったのだろうかと、甚だ残念にも思うのである。もっともっと初心に戻って記す未映子さんの日記が好きだ、未映子さんの時代を貫くブログをまだまだ読みたいと切に希うのである。

川上未映子さんの言葉に太宰治の天才性を解く鍵があるのです。

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公開中の凡作映画「人間失格」は何故駄目か、ということをしきりに考えている。太宰治さんの原作は天才的に凄いのになんだこの凡作は! しっかりせいっ! ていう意味である。ギャップが大きいほどに叱咤激励したくなるのは世のならい也。

だがなかなかしっくりした言葉が見つからないのだ。足りないものは、センス? 情熱? 思想性? はたまた貴族性? 天才性? 選ばれたることの恍惚と不安の凄さか? う~ん、そんなんじゃないじゃない、駄目だだめじゃ! そんなこんなの今宵、かの美人芥川賞作家こと川上未映子先生の処女作「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」に、大変ヒントとなる言葉が見つかったので紹介しておきます。

「ってまあ、最後は僕すごく幸せ、幸せですっていうことで、思わずこっちが照れますよ。物を作る人間に限らず、力を形にし切ったあと、恋愛でもなんでも、そう思える束の間の幸福、これのみを体験するために生まれたんだよ俺は私は僕は、つって叫び出したい、意味はないがもうとにかく叫び出したい境地が確かに、あるのですよね完成は。」

川上さんが太宰さんについて記した文章の抜粋である。芸術家だろうがなかろうが、物を作る人間っていうのは豪いんですよ、えらいんだっ! その喜びを感じ取ることさえ曖昧な、風俗的世間の姿かたちばかりを描写して、何ぼのもんじゃねん! 監督の荒戸源次郎よ、顔を洗って頭冷やしてやり直しじゃねん! 次第に興奮してきたのではありますが、まことにかの映画には、頭にくること多かりしなのでありました。

苫米地英人著「テレビは見てはいけない」

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昨年9月に初版発行されたphp新書の1冊である。タイトルに興味をそそられ立ち読みしているうちに、そのまま購入してしまった。

著者・苫米地英人と云えば、オウム真理教事件とのからみで何度かTVメディアにも登場していた人物である。「オウム信者に対する脱洗脳を手掛ける脳機能学者」という触れ込みで、ヒーロー扱いだったことを記憶している。当時から関心は深かったのだが、以来彼の著作に向き合う機会などなくここまで来たのだが、つい先日、偶然にもこの新書を手にしていたという訳である。

一読した印象で云えば、「これは自己PRの書なのだな」との一言。表題に掲げている大仰なテーマとは裏腹に、本文中には「サイゾー」「キーホールTV」といった著者が関係しているメディアの固有名詞がちりばめられている。おいらがここでそのような固有名詞を記すことこそ、PRに加担することになるので甚だ心痛いのである。最小限度の記述にとどめたつもりだ。

高邁なテーマを表題に掲げながら、卑近なPR活動に落とし込むといった姑息な目的が透けて見えている。

1978年藤原新也さんが「逍遥游記」で木村伊兵衛賞受賞。

おいらがまだ多感な時代、この1冊に出逢ってまさに震えていたことを想い出す。何か魂を震撼させるに足るオーラが、書籍の後ろから立ち上ってくるのを感じていた。「逍遥游記」(朝日新聞社)から立ち昇るかの巨大な視野から発せられるオーラが、おいらの心の中を射抜くようにして聳え立っていた。

前にも後にもこの体験に勝る写真との邂逅は無かったといってよい。太宰さんの小説文学とはまた異質なものであった。どうしてこんな写真が撮れるのだろう? おいらの疑問は解明されること無く現在も続いているのである。じゃんじゃんっと。

映画「人間失格」は、太宰治の名を借りた風俗映画なり

太宰治原作の映画「人間失格」を鑑賞した。けれども「あれ、こんなんだっけ?」 という印象を、映画が終わるまでずっとぬぐえなかった。名作の名を借りてリメイクされた風俗映画と云わざるを得ないのだ。原作の「人間失格」は太宰治の代表作でありしかも彼の思想性が際立った純文学作品である。この側面が映画では、すっぽりと抜け落ちていて甚だ腑に落ちない。原作に太宰治さんの名前を冠しているのだから、もっと真面目に制作してもらいたいたかった。

主役を演じた生田斗真はじめ石原さとみ、坂井真紀、寺島しのぶ、伊勢谷友介らの俳優たちはそれぞれの持ち味を出していて悪くない。問題があるとすれば、脚本と監督の資質である。酒と女と薬に溺れて堕落していくというストーリーはとてもステレオタイプである。原作には居ない中原中也なる詩人まで登場させて、ストーリーをごちゃごちゃにさせていく。戦前昭和の文壇なりを描いたつもりだろうが、風俗を通り抜けて通俗の極みである。猪瀬直樹原作の太宰治映画「ピカレスク」に出てくる中原中也に比べれば実在感は上回っているのだが、そのぶん太宰先生の存在感が薄くなっていることを、脚本家なりはどう考えているのだろう。

ネガティブなことを書いて筆を(キーボードを)置くのは気がひけるので、吾なりにこの映画の見所を書いておこう。まず、石原さとみさんが主人公を誘う笑顔が可愛い。坂井真紀さんの主人公を惑わす仕草が前時代的である。主人公に誘惑されていく室井滋さんの自堕落な様が哀愁をそそる。主人公に身も心も肩入れしていく三田佳子さんが艶かしい。つまりは太宰さんがモデルの主人公を取り巻く、女性たちの有り様が、この風俗映画の物語を潤わせているのである。女優陣の演技は見て損は無いだろう。

永井荷風さんに見習う日記の奥義(或はブログと日記はどこが違うのか?)

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ブログを続けていくにつれ、果たして日記とどのように違うのか? プロフとは? twitterとは? 掲示板とは? などという思いに駆られることが少なくないのだ。今宵はちょいと振り返って、ブログと日記の違いや共通点などについて、少々真面目に考えてみようなどと思ったのである。

明治から昭和にかけての風俗を独特の筆致で描いた文豪、永井荷風といえば、数々の小説などの文学作品を世の中に発表していくことと同時進行的に、毎日の記録を日記として書き残していくことを、日課として課していたことでも有名である。それらの膨大な日記は「断腸亭日乗」というシリーズ本としてまとめられ、戦後には発刊され評判を呼んでいる。荷風さん研究の貴重な資料ともなっているのだ。彼が37歳の時から始まり79歳で大往生(当時の寿命からしてそういって間違いなかろう)するまでの42年間、1日も欠かすことなく続けていたというのだから恐れ入る。「ほぼ日刊」などと称しているおいらが恥ずかしくなるくらいの凄さなり。

そもそも「断腸亭日乗」というタイトル自体がユニークである。「断腸の思い」という一言を想起させる「断腸亭」とは、その昔荷風さんが住まわれていた一室の別名とか。そして「日乗」とは「日記」の別名である。世に艶福家として名にしおう荷風さんの日記らしく、小説では発表しなかった下寝た日誌なども躊躇うことなくあれこれと記されている。さらには、仲間内での小言なり誹謗中傷なりが散見されていてとても興味をそそるのである。

さてそろそろ結論である。日記もブログも、毎日こつこつと続けていくことに意義がある。気負わず焦らず、ときには気を抜きつつ、出来るだけ長々と続けて行きたいという思いを強くしたのでありました。

綿矢りさの「夢を与える」。創作の背景に何があったのか?

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先日から読み進めていた綿矢りさの「夢を与える」を読了した。世の中の人々に「夢を与える」仕事、つまりタレントという仕事を天職として選んだ、ある一人の女の子を中心に物語が綴られている。彼女の出生前から大学受験後のある時期までを描いた、300ページを超える長編小説である。

初版が2007年2月であるから、刊行されてもう3年が経っている。2004年の「蹴りたい背中」による芥川賞受賞という華々しい経歴から数えれば、6年が経過したことになる。作家というよりアイドルタレントのようなデビューを飾った、綿矢りささんの初々しさは衝撃的であった。おいらも昔主宰していたネット掲示板界隈では、彼女の話題で盛り上がっていたことを想い出す。

今更になってこの本を書店で手に取ったことは、あの当時の懐かしく甘酸っぱい少女小説を期待していなかったといえば嘘になる。あるいは少女から才女へと移り行く成熟の軌跡を覗き見たいというある種の願望が、短くない読書の時間を後押ししていたのかもしれない。だがそうした期待や願望は、見事に打ち砕かれてしまったようだ。

ネタばらしはしないが、「夢を与える」人間となるべく育った主人公は、結局のところ夢を与え得なかったというお話。しかも底が見えそうな、浅薄な展開である。りささんが半分足を突っ込んでいるだろう「芸能界」をテーマにするには、彼女も周囲の雑音に足を引っ張られ過ぎたのかもしれない。誰かによる入れ知恵やら環境的な影響が、物語の創作に薄汚れた添加物を付加していたとすれば、とても残念なことである。大人になるとはこういうものだと断じられるものではない。

吉行淳之介編「酒中日記」にみる懐かしき文豪たちの日々

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吉行淳之介編「酒中日記」には、文豪の酒道の数々が述べられていて興味津々である。初版が1988年、講談社からの発行ということだから、かなりの古豪たちの肉声にも接することが出来る。それがとても稀有な同書の持ち味となっている。ちなみに再録再編集された文庫本が中央公論新社より出版されているのである。

編者、吉行淳之介の前書きにてこの随筆集は始まっている。「某月某日」の日記というスタイルにて、各執筆者たちの酒にまつわるあれこれが展開されていく訳である。読み進めでいて心地よいのは、古豪とも称される筆者の筆致のそれぞれが、決して武勇伝に陥ることがないということである。これはまさに新発見である。文豪、古豪と云えば、おいらにとっても雲の上的存在ではあるが、彼らの多くが「酒」に対して成功談よりも失敗談に終始していたということは、文豪たちの日常を表すある種のシンボルとして注目に値するだろう。

リレー式にバトンタッチされていく同書の編集は軽んじて、おいらは好きだった作家、懐かしさの濃い作家の順にページをめくって行くことにした。吉行さんから始まって、北守夫、そして以下飛び飛びに、五木寛之、笹沢佐保、野坂昭如、渡辺淳一、筒井康隆と読み進んで、生島治郎に戻って、一呼吸置いていたところである。

生島治郎さんと云えば、「片翼だけの天使」という名作で、トルコ嬢(今はこれ、禁句だっけ?)との一途な純愛を描いた先生である。この偉い先生をスルーしてしまったことを反省。改心しつつ文章を追っていると、直木賞受賞前後の記念碑的日々のあれやこれやが、酒中日記ならぬ酒中御見舞いのごとくに丁寧な筆致で記されているではないか! 昭和42年秋の生島先生の晴れの日を思いつつ、改めて心からの乾杯をしたところなのでありました。

司修が描いた、朔太郎の「郷土望景詩」幻想

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先日、群馬県前橋に帰郷した際、故郷の書店にて司修という版画家の著した「萩原朔太郎『郷土望景詩』幻想」を購入した。

萩原朔太郎が郷土を謳った詩に、インスピレーションを得た画家の司修が作画化したものとなっている。詩集に添えられた単なる挿絵集ではなく、もっと濃密な司修的世界が、そこには表出されていて、読む者たちを独特な郷愁の世界へと誘って行く。

最も虜とされ、何度もページをめくってしまうのが、朔太郎の「中学の校庭」という詩と司修の画とがコラボレートしたページである。

 中学の校庭 (萩原朔太郎)
  われの中学にありたる日は
  艶めく情熱になやみたり
  いかりて書物をなげすて
  ひとり校庭の草に寝ころび居しが
  なにものの哀愁ぞ
  はるかに青きを飛びさり
  天日直射して熱く帽子に照りぬ。

旧制中学の校舎とその横に不安定に佇む青年。シルエットとして表出された青年は、まだ幼くも見えてしまうが、左ページの建物は校舎という存在そのものを遥かに越えて佇む、青春期の迷宮的世界。永井苛風的表現を借りれば、精神的ラビランスである。そんなラビランスの世界に舞い戻って、過去の時間を歩いてみたい欲望に駆られてしまうのである。

この1冊に出遭ったことから、おいらの見る夢の世界も少々様変わりしてきたことを感じている。朝目覚めたときに記憶している情景は、郷土のこうした校舎をモチーフとしたラビランスではなかったかと、確信を強くしているのである。

「BRUTUS」の吉本隆明特集は晩年の起死回生のヒットかもしれない

雑誌「BRUTUS」の最新号では吉本隆明特集をやっている。

http://magazineworld.jp/brutus/679/

おいらの中学・高校の先輩でもある糸井重里さんがコーディネイトをしているということから大変期待をもって読み進めていたのであるが、何なんだ、この意想外な感覚は? まるで吉本さんらしくない「ことば」がいろいろ引用されていて、呆気にとられてしまった。まるでゆるいコメントである。ぬるいと云っても良いくらいである。

現代のコギャル(古いか?)ことAKB48の人生相談など、吉本さんの仕事とはとても云えない筈なのになあ。だが少しずつページをめくっていくうちに、糸井さんはじめ特集の作り手たちの云わんとすることはだいぶ理解できていた。こうした日常の言葉遣いのコミュニケーションを大切にして、吉本さんの巨大な思想は成立したんだなあということも、納得できたのである。

吾が国の思想界の巨人と称されて久しい吉本さんだが、少し前には小沢一郎賛美などとも捉えかねない変てこりんな色が付いちゃって残念だったのですが、好々爺吉本先生の姿としては、とても微笑ましいものがあるなと感じたのでした。

本谷有希子の奇書「生きてるだけで、愛。」を読む

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映画「渋谷」つながりで読みかけていた「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を途中で放り出した。ストーリーが判っている本に向かって熱中することができなかったのである。だがその代わりに読み始めていた「生きてるだけで、愛。」にはまったのでした。

いやいや作品としてはこちらの方が断然上である。奇書的傑作とでも呼んだら良いのだろうか? 鬱病持ちで奇行の目立つ女主人公寧子と零細出版社の編集長男性とのドロドロの恋愛絵巻なのだが、ストーリーのはちゃ滅茶ぶりとは裏腹に、妙に訴えてくるリアルが確かに存在する。

例えば太宰治の「ヴィヨンの妻」はといえば、破天荒な夫に振り廻され翻弄される妻の姿を描いた傑作であるが、この男女の関係性を反転してみたらこうなるであろう、不思議に生々しいリアリティがそこにはあるのだ。本谷有希子さんには「女太宰治」の称号を差し上げたいくらいである。

女の身勝手な衝動に振り廻される男の姿は、一面で滑稽であり痛々しい。だが男の何処かには、特別な女に振り廻されたい的願望が巣喰っていることも見逃すことはできない。いつかは壊れてしまうかもしれない、否きっとそのうち、崩壊するであろう、決して甘くはない肥大した、恋愛という対幻想の姿かたちを、この奇書的傑作は写し示してくれるのである。

「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」レビュー 1

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映画化された本谷有希子のこの本、なかなか良い感じですってところです。先日、amazonにて注文した書籍が届いたので、早速読み進めているところであります。

「あたしは特別な人間なのだ。」というコピー、ありそうでいてこれまではなかったように思う。表紙イメージは、文庫本がカラーなのに対して書籍本のほうはモノクロイメージにて統一されている。中味をみてから評価してください的な、いわば高飛車的な匂いも感じさせる表題ではある。

「渋谷」繋がりで、佐津川愛美のDVD鑑賞

藤原新也さん原作の「渋谷」を観て感動したおいらは、綾野剛とともに主役を演じた佐津川愛美さんが過去に出演していた映画のDVD「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」をレンタルして鑑賞していたのでした。

まだまだ初々しかった愛美さんは、東京に憧れる漫画家の卵の役を演じていた。眼鏡が似合うその姿は、萌え系のアイドル予備軍と云っても過言ではなさそうであった。物語は自我が肥大した女主人公の売れない元女優が田舎に帰省してからのはちゃめちゃコメディーを軸にして展開していくのだが、そんな中で主人公の妹役の愛美さんは、凛として漫画作家の王道を歩もうとする姿が、これまた共感を呼ぶのである。漫画家の描く真実は家族の馬鹿げた日常をも素材にしてしまうのかと、見方によっては非難されそうな姿ではあるが、愛美さんの演じたその姿は、はちゃめちゃな物語を凛として通り過ぎるていく。それはまさに一条の光のように敢然として貫くのである。

この映画の原作者本谷有希子は、過去には芥川賞候補になったこともある実力派であり、さらにはかの松尾スズキの弟子であったこともあるという。なんというこの繋がりの密さは! おかげでおいらは、本谷有希子さんの原作本をアマゾンにて注文してしまったという訳なのだ。

新井満著「死んだら風に生まれかわる」を読む

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都内の某TSUTAYAにて新井満氏の「死んだら風に生まれかわる」を購入した。周知のように新井氏は「宣の風になって」という曲の作詞家として一躍脚光を浴びることになった。その著者による初のエッセイ集という触れ込みでTSUTAYAに並んでいたのである。

♪ 私のお墓の前で
  泣かないでください
  そこに私はいません
  眠ってなんかいません

この大ヒット曲となった「千の風になって」を作詞(訳詩)した彼は、2003年に同タイトルの写真詩集を上梓している。それからじわじわと主に口コミで評判を呼んで、2007年の大ヒット曲となったわけである。アメリカインディアンかアポリジニかによってつくられた曲とされているのだが、このプリミティブな曲をわかりやすくしかも力強く訳し切った新井氏の手腕は見事であった。

ほどほどにエスプリの効いたエッセイが、まるで一服の清涼剤のように心地よく心に響いてくる。夫婦として、家族として、或いは他人同士として巡り合った人間との愛。はたまたそれ以上に研ぎ澄まされた熱い葛藤模様などが、よどんだ心を浄化させてくれるような一冊である。

新潟出身の著者は、同郷の名士たち―良寛、坂口安吾、田中角栄ーに対して強烈なシンパシーを抱いているようである。おいらにとっては、萩原朔太郎、福田赳夫、国定忠治といった面々が思い浮かぶが、朔太郎さんを除いてはそれほどに深い思い入れはない。この違いについては後日自己分析とともに解明していきたいと考えているのである。

松尾スズキの芥川賞落選で高まる期待

本日発表された今年上期の芥川賞・直木賞で、芥川賞には「該当作なしとなった。昨年の受賞作「」終の棲家」などといった凡作にうんざりしていたおいらは、芥川賞に対する憧れなどとうに無い。そもそも「天才」太宰治や「世界の」村上春樹を落選させてきたという負の歴史を担うのが芥川賞なのである。望まずにして名を使用された芥川龍之介先生こそはこのような歴史をなげんでいるに相違ない。

今日記しておきたいのは、候補者として名を連ねた中に「松尾スズキ」という名前を発見したこと、そして見事にも落選(2度目だそうだ)を果たしたということなのである。

あらかじめに断っておくが、おいらは今回スズキ氏が候補作となった作品を読んでいない。であるからこれから読むことになるのであるが、それが傑作であろうが駄作であろうが、そのような評価、側面とは関係なしに、考えることがあるのだ。それはいわゆるひとつの「人徳の無さ」ということだろう。

新人作家にとっては文壇に人脈を持たないことは当然であり、それ自体は不利な条件にはならないものだ。だがスズキ氏の場合、おそらくは文壇に「敵」をつくっているのではないかという推論が成り立つのである。

以前のスズキ氏の候補作「クワイエットルームへようこそ」は、精神病院を舞台に展開されるストーリーの切れ味の良さに目を瞠ったものである。そして久々に書物で接した容赦の無い人物描写には、度肝を抜かれたくらいの衝撃があった。確かにスズキ氏は才能豊かである半面で毒ガスを噴射している。この毒ガスに対する拒絶反発の動きがあったとして不思議ではない。

とりあえずは審査員たちがスズキ氏落選の弁をどう述べていたのかが興味津津の的である。「純文学ではない」「新人ではない」などといった古典的な言い草は聞けないのだろうが…。スズキ氏にはこれから、日本の文壇を蹴散らすくらいの活躍を期待するのである。

私はいつも都会をもとめる 3 〔渋谷篇〕

まずはじめに余談だが、今日は若手No.1の某女史に「惣領の人徳ですね」と云われて、何故だか嬉しくなってしまったおいらである。

では本題。週末の日曜日、映画「渋谷」を鑑賞する為に渋谷を訪れていたおいらは、映画が始まるまでの4~5時間、渋谷周辺を逍遥散策していた。上映会場の「ユーロスペー」は道玄坂から一歩入ったところに位置している。そこは歴としたラブホテル街である。かつて友人とともに渋谷を散策していたときその友人は「まるでシンガポールのような街並み」と称していたものである。それくらい綺麗に見えていたのだろう。だが一歩小道を入れば、決して綺麗という形容にはあたらない、雑多でドロドロとした街並みを目にすることになる。

渋谷の魅力については、おいらもまだはっきりと把握できないのだが、映画「渋谷」に出演する一少女は「ずっとこの街にいたい」と語っている。銀座のように敷居が高くなく、自分の手の届くところに、欲しいものが何でも揃っているということなのだろうか? ただしそんな生活を手にする為には、売春やらをも引き受けねばならないということの、表裏一体もまた、渋谷という街が抱えている事実なのだろう。

藤原新也さんの「渋谷」が発表された当時のころのおいらは、その本を購入することを躊躇っていた。いわゆる風俗レポートの一種ではないかと誤解していたようである。その少し前には、家田詔子の風俗本を読んでは辟易していた。また村上龍の小説にも渋谷ギャルなどが登場していたが、どうにも読み進むのに躊躇を感じていた。この違和感が何だったのだろうかは分析途中なのだが、きっと、風俗レポートなるノンフィクションやらフィクションやらが、受け入れ難き風俗の跋扈を助長されていたことへの抵抗だったと思う。だがしかしながら藤原新也さんの「渋谷」のような、素晴らしいドキュメントが、確かに存在していたことを大変嬉しく感じているのである。

藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」がばか売れ

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」を読んでいる。単行本の刊行が2003年11月(鉄人社)で、文庫本化は2006年7月(文藝春秋社)である。この数年間「裁判員制度」導入による動きから、一般の関心が高まって来たのにつれて、本も売れ続けているようだ。ブックオフのお勧め本のコーナーに積み重ねて置かれていたのだ。

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本の中身はと云えば、「裏モノJAPAN」という雑誌の企画で連載されていた記事をまとめたもの。ひょんなことから裁判を傍聴することになってしまった著者が、全くの素人としての目を通して面白可笑しく、ときに不謹慎ととれるあっけらかんとした好奇心を武器にレポートしていくのである。おいらも著者とは面識があり(魚仲間の1人なり)、本人のキャラクターを十全に発揮した切り口がモットーとなっている。そのあまりに軽薄な描写は、事件レポートには相応しかねると思えるのだが、裁判の現場を知るという意味において役に立つものとなっている。

しかもこの本を元にして、同名のコミックが発行され人気なのだとか。映画やTVドラマ化もされていくようで、時代のポジションに乗っかっているかのごとくなり。作家とはどこでどういう売れ方をするのか、とんと判らないものである。

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