中島らもが名付けた「せんべろ居酒屋」考

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千円札1枚ででべろべろになるほど酔っぱられるというのが「せんべろ居酒屋」である。デフレの時代、激安居酒屋ばやりの昨今、こんな店も珍しくは無くなった。作家の中島らも氏が「せんべろ探偵が行く」という著書にて使ったのが始まりだとされている。

だがよくよく考えてみれば、可笑しな話である。中島らもという人は相当な酒豪であったという伝説がまかり通っているのだが、「せんべろ居酒屋」の一件を耳にすれば、些か疑問符も沸いてしまう。例えば千円札を握り締め1杯250円の焼酎を4杯飲んだところで、これだけで酔っ払ってしまうというのは「酒豪」の名前に相応しくは無いものである。

まあそれはそれとしてではあるが、おいらはいわゆる一人の「せんべろマニア」なのではないかと自問自答してしまうことが最近は多くなった。美味しい立ち呑み屋があると聞けば出かけてしまうし、都会を散策していて疲れて立ち寄るのは、こうした「せんべろ」系の居酒屋である。

安ければ良いというものでもない。居酒屋チェーンがこうした激安店舗の出店に力を入れ始めている。安さに誘われて足を踏み入れたは良いが、べろべろに酔うことも無くがっかりして店をあとにしたという経験も少なくないのである。

「村上春樹の秘密」(柘植光彦著)の功と罪

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村上春樹という作家は素顔を晒さない作家である。例えばTV、ラジオ等の媒体でインタビュー取材を受けているのを見たことが無かったし、公の場所での講演会、討論会のたぐいにも顔を出すことがほとんど無い。それ故のことなのだろう、一昨年にイスラエルの「エルサレム賞」という賞を受賞したときの授賞式でのスピーチは、数多の日本人に対して、強烈な印象を与えたのだ。あの村上春樹が? 何故日本ではなくイスラエルで? といった反応が噴出していたことを想い出す。それは今なお強固なイメージとして人々の記憶に刻まれたものとなっている。

そんな作家・村上春樹の素顔をことさら明るみに出して、「秘密」を暴こうとするのが「村上春樹の秘密」のテーマかとも思わせる。確かに春樹さんの父親がお寺の僧侶であり進学高校の国語の教師を退職した後に住職として寺を継いだこと、家では毎日仏壇の前でお経がとなえられていたこと、春樹さん自身は太る体質なので走ることを欠かさないようにしていること、等々の隠されたエピソードの数々を暴いてみせる。当書の構成上は「アメリカ文学の影響」「愛と性行為の意味づけ」などが盛り込まれているが、常識的な分析にとどまっており、あくまで主体は春樹さんの「隠された素顔」を暴いていこうという意図が臆することなく記されていくのだ。

著者の柘植氏は、東大出身で現在は専修大学名誉教授。文芸評論家という肩書きを持つそうだがこれまで彼の評論を読んだ記憶が無い。大学教授という職業柄得た情報もあるのだろうが、これだけ村上さんの私生活を事細かに詳らかにできるのは相当なおたく的情熱を注いだことに依るのだろう。読んだ読後感は悪くは無かったが、当の村上さん本人が読んだらどう思うのだろうか? プライバシーを侵害されたと感じるのではないかと、余計な邪推もしてみたくなるのである。

【村上春樹関連リンク】

村上春樹「1Q84」の「猫の町」千倉を歩く

村上春樹著「1Q84」の重要な舞台、二俣尾を散策

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

安原顯著「奇人・怪人伝 シュルレアリスト群像」を読む 2

書名からもうかがえるように、著者の切り口はおしなべてステレオタイプである。面白可笑しく読者に啓蒙していくことが目的だとすれば、わかり易くもあり興味関心も引くのであり、この方法が駄目だということにはならないしプラスの評価も可能なのだが、ここではあえてマイナス面の要素を拾い出してみることにする。

例えば、ガラ、エリュアール、ダリといった著名人を取り上げた第1章に続く第2章で、アントナン・アルトーを俎上に載せているのだが、神経症、遺伝性梅毒、麻薬中毒、精神病患者、等々の人間的には芳しからぬ評価言葉が並んでいて、「奇人・怪人」を体よく料理しようという魂胆が見え隠れする。ピカソや数多のシュルリアリストたちとの交流を持った岡本太郎ならば、このようなぞんざいな評価を行なったことは決してなかったはずである。

つまり、一見するとシュルリアリストたちの生涯を俎上に載せつつ彼らの存在理由を評価していこうというポーズ、スタンスが取られながらも、その実は安原顯という人間は、シュルリアリズムを道化の遊び道具か何かと同様の捉え方をしている。「奇人・怪人」と持ち上げながらも、読者への読後感を極めて低い評価、全く道化としてのシュルリアリストとして印象付けていくのである。よくある凡庸な啓蒙家としての安原顯は果たして「自動書記」に関する真の理解がなされているのかという疑問さえ沸いてくるのである。案外真実とは簡単なところにあったのかもしれない。

安原顯著「奇人・怪人伝 シュルレアリスト群像」を読む

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安原顯(安原顕という表記もある)の著書「奇(奇の字は田へんで難しいので変換できない)人・怪人伝」を古書店で見つけたので読んでいるのです。※もっと普通に書くならば、安原顯の「奇人・怪人伝」を古書店で見つけたので読んでいるのです。

安原顯と云えば、相当に個性的な編集者だったようである。「個性的な」と書いたのはいわゆるひとつの愛嬌であり、相当に憎まれ嫌われていたと云うのが、もっぱら世間一般の評価だ。そんな安原顕が今頃になって脚光を浴びているのかと云えば、ベストセラー「1Q84」の作者こと村上春樹先生との関係からであろう。「1Q84」に登場する辣腕編集者こと小松は、安原顕がモデルになっているという言説が、村上フリークのみならず幅広い文学愛好家たちによって囁かれているくらいなのである。村上春樹作品の、しかも社会ニュースにも取り上げられているベストセラー小説のモデルとして名前が取り上げているのだから、本人もさぞかし草葉の陰から喜んで見ているのだろうと想像する。

ところで些か前置きが長くなったが、安原顕の著作についても触れておこう。「奇人・怪人伝 シュルレアリスト群像」と云う書を先日は古書店にて目にして購入したのだった。副題に「シュルレアリスト群像」とあるように、そうとう「シュールリアリズム」のアーティストたちに対する尋常ならざる強烈な思い入れを感じ取っているのだろう。早稲田大学文学部仏文科を中退し、大手出版社に入社。その後は輝かしきキャリアに彩られていたようである。だがしかし、晩年はといえば、そう幸福ではなかったようなのである。

飲み屋に行くとたびたび目にする光景。>>「おれは早稲田出て出版やっていたんだ。村上春樹はおれが育てたんだ。知らなかっただろう!」等といったおやじのボヤキなどが聴こえてくるのである。

さてさて今日のブログはここで止まってよしと幕を閉じる訳ではない。安原顕の「奇人・怪人伝」についてももう少し触れていこう。
(以下、この稿続く)

萩原朔太郎の「猫町」はユニークな散文詩なり

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昨晩は少々深酒したせいか終日、頭が重い。目が覚めてだいぶ経ちくらくらしてさえ居た様で千倉の海岸を目指している途中、褐色の猫と遭遇した。ぼおっとした視線を送りつつ手招きしてみると、その褐色猫君はおいらの足元に擦り寄ってきたのだ。とても友好的な態度であったので、その毛並みの良い背中や頭をさすってあげたりしていたのである。そうこうすると褐色猫君はゴロンと体を回転しお腹を見せ、小さな猫の手を回して手招きすではないか。人間に対してお腹を見せて手を回すという行為は友好のしるしなのだという。かまって欲しい、可愛がって欲しいという合図である。可愛い猫にこうされると人間誰しもか弱く軟弱な生き物になってしまう。

ところで、萩原朔太郎が散文形式で著した「猫町」という作品があるが、なかなかユニークである。猫に支配された世界に彷徨い込むという白日夢のような主人公の体験を描いているのだが、このシチュエーションは村上春樹さんの作中作品「猫の町」に似ていなくもない。可愛くて親しみ深くて友好的であったはずの猫が、ある日豹変してしまう。何か知らなかった別種の怖ろしさを有した猫たち。そんな猫の姿を登場させた文学作品は少なくないが、中でも萩原朔太郎の「猫町」は出色である。

パロル舎から出版されている「猫町」を数ヶ月前に購入したのだが、同書は版画家の金井田英津子氏がイラスト、デザインを担当しており、独特の解釈で猫町の世界へと誘っている。文字組みなどの装飾が、まるで関西風のコテコテの味付けでやり過ぎの感もあるのだが、多少の誇張として許容の範囲だ。

村上春樹「1Q84」の「猫の町」千倉を歩く

千葉県の千倉に向かった。村上春樹の「1Q84」の舞台となった土地に、千倉という小さな町がある。館山からさらに南下した房総半島の最南端の町である。天吾と長く離れて生活していた父親が、その地の療養所で闘病していて、父との関係を取り戻そうと決意した天吾は、ある日ぶらりと千倉を訪ねるという設定である。BOOK3では、病状がさらに悪化した父親を看病する為、長く逗留するという設定もある。(あまり詳しく書くとネタバレにも繋がるので千倉の説明はこのくらいにしておこう。)

さてここ千倉の町に、作家村上春樹は「猫の町」のイメージを被せ合わせている。「1Q84」の中で、ドイツの無名な作家の短編とされる物語を展開しているのだ。もしやして実在する文学作品なのかと調べてみた。ロシアのボドリスキイという作家が旧ソ連時代に発表した「猫の町」という作品がみつかったが、ストーリーはまるで違っていた。やはり春樹さんのオリジナルな物語のようだ。洒落た構成である。「空気さなぎ」の物語が綴られているがそれと同様のミニチュア版の物語と捉えればよいのだろう。

作中作品「猫の町」では、そのまちにふらりと立ち寄った旅人が登場する。その町が実は人間が猫によって支配されているという奇妙な土地であることに気づく。そしていつの間にか帰る電車に乗ることが出来なくなり、帰る手段を持たない主人公は、知らぬ間に自分が「失われた」ことを知り呆然とする――というストーリーである。「失われる」とは実世界から消失する、すなわち「死」を意味するともとれるが、あるいは死ではない別の特殊な概念を示しているのかもわからない。謎掛けが得意な春樹さんらしい暗喩である。(以下、この稿続く

瀬戸内寂聴責任編集の「the 寂聴」はとても面白い雑誌です

久しぶりに面白い雑誌を発見した。「the 寂聴」。瀬戸内寂聴さんが責任編集者となって大活躍しているのだ。毎回インタビュアーをこなしたり、写真家の藤原新也さんとの往復書簡を連載したりしている。往復書簡のテーマは「終の栖(ついのすみか)」、ちょいとやそっとでは引き受けられるテーマでは無い。最新号(第9号)の特集テーマは「少女小説の時代」である。寂聴先生が設定したテーマだと思えばさらにその重厚度が増すというものである。

個人的においらが最も関心を持ったのが、ロレンス・ダレル著の「ジュスティーヌ」を若い頃から愛読していたということであった。「ジュスティーヌ」こそ「人間失格」「1Q84」等とも比肩し得る世界文学の最高峰を極めた作品である。たしかに寂聴さんの物語世界には、愛欲混沌としたロレンス・ダレルの物語世界と響き合い高め合う、特別に共鳴しあう波長を感じ取っている。お勧めの一冊。

「the 寂聴」
http://www.kadokawagakugei.com/topics/special/the-jakucho/

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村上春樹著「1Q84」の重要な舞台、二俣尾を散策

「1Q84」を回顧するべく、奥多摩に近い「二俣尾」という場所に向かったのです。青梅線の青梅駅で奥多摩行きに乗り換え、4駅先にその地はあった。天吾が新宿でふかえり(深田絵里子)と初めて会った日に、二人で二俣尾の戎野邸に向かっていた。ふかえりが「せんせい」と呼ぶ元文化人類学者の戎野氏は、子供の頃に宗教団体の一員であり、その団体からも両親からも離れて暮らすふかえりの後見人、保護者でもあった。ふかえりが執筆者とされベストセラーとなった「空気さなぎ」という文学作品が誕生したのも、この場所であったと考えられるのだ。

1984年の世界から「1Q84」の魔界世界へと足を踏み入れた天吾と青豆だが、この地名は、二俣に別れた一方の邪の道に踏み入れてしまったという、基点となる場であることをも暗示させている、特別な意味合いを有した場所なのである。

何も無いような土地柄を想像していたが、自然が豊かな、散策にはもってこいの場所であった。「1Q84」の作品ではこの駅を降り、タクシーで山道を登ったところに戎野邸はあるとされている。眺めると愛宕山がある。その山の方角へと歩くと、多摩川の上流の清涼な流れが眼に飛び込んできた。釣りをしたりボートで川下りをする人の姿もある。奥多摩峡の一部として観光化も進んでいると見える。

実はこの場所へと足を運んだ訳には、一つの推測があった。「1Q84」のBOOK4は、ここが主要なドラマの舞台となるのではないかという思いが離れなかったのである。先日もこのブログ上で述べたが、BOOK4の時間軸は1Q84年の1~3月となるであろう。そしてその主要テーマとは「空気さなぎ」の誕生に関連したものになると推測する。まさにその時間軸こそは、ふかえりが「空気さなぎ」を執筆したときに相当するのではないか? BOOK3の途中で姿を消したふかえりが主人公となって紡がれていくドラマの誕生は、総合小説の設定としてはとても良い。このプロットは春樹さんの頭の中にも存在しているはずである。総合小説の時間軸は直線的に進むものと考えてはならない。時間、空間を、自由に飛びまわって創作される作品こそ、総合小説の名に値するものとなるのである。

この土地には豊かで季節感漂う自然が、当たり前のように存在していた。多摩川にかかる奥多摩橋を渡って少し行くと、吉川英治記念館に遭遇した。大衆小説作家として著名な吉川さんが「新平家物語」等々の名作を執筆した書斎がそのまま残されていた。吉川英治記念館については稿を改めてレポートしたいと考えている。

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

村上春樹さんの新作「1Q84 BOOK3」を読了。600ページにも及ぶ大作章であるが、とどまることを許さないスピード感に乗って一気に読み進めることができた。その筆致はまさに作家をして一気に書き上げたとさえ感じさせる筆遣いである。立ち止まることのできない春樹さんの独特の筆遣いに導かれて、彼の魔界的な物語の世界観に耽ってしまう。そのリズムは懐かしい、「ダンス・ダンス・ダンス」のリズム感である。

ところで、今回の「BOOK3」の読後感を一言で述べるならば、それは純度を上げて蒸留された如くの馥郁たる香りが漂う純愛小説であったと云いたい。純度の高い、国産の純愛小説であり、泡盛や本格焼酎を永年寝かせた「古酒」の如くなりである。

いわゆる読者のニーズに応えるかの如く、ドラマはクライマックスに至るところまでを一気に、それこそ周囲の雑音を排除して突っ走っていく。そしてその行き着く先こそ、読者が求めていたであろうクライマックスの到着点でもある。作家としての村上春樹さんはこの作品で、大きく羽根を拡げているのである。天性のストーリーテラーでもある作家は、まさにここにきて、これまでの全ての「枷」を振り払うかのごとくに、彼の思いをいかんなく存分に解き放って、一気呵成に展開させた物語であると評価するべきである。であるからして前章「BOOK1」「BOOK2」から引き継いでいる物語の、細かな矛盾点や疑問点は、今ここでは論ずるに値しないものとなっている。「BOOK4」の発表をまって氷解していくだろう。

二つの月が浮かんで見える世界を脱出して、天吾と青豆は、月が一つだけ輝いている世界へと辿り着いた。そこはまさに「1984」年の世界であった。「BOOK4」の話題は尽きないが、ここから続いていくであろう「BOOK4」のタイトルを「1Q85」となるだろうと推測する説があるが、けだし邪道である。何となれば月が一つだけ輝いて見えている世界を「1Q85」年と呼ぶことは決してできないからである。しかして来たるべき「BOOK4」は、「1Q84」年の1~3月を時間軸に展開する物語となるはずである。そして物語のテーマとして考えられるのは、次のようなものとなるのだろうか。

・1Q84年の月は何故に二つ見えていたのだろうか?
・新興宗教は、如何にして増長伸長していったのか?
どちらも思いつきで記したに過ぎず、もっと重要であり、必須のテーマが存在するのであろう。

春樹さんの描いた「1Q84」の物語世界は、春樹さんのこれからの「BOOK4」の展開次第では、我が国文学界が誇るべき初めての「総合小説」の姿を指し示すことになっていくだろう。それはまさに作家という特権的な人種にのみ許された、特権的な権利と云えるのかもしれない。

村上春樹「1Q84」の「猫の町」千倉を歩く

村上春樹著「1Q84」の重要な舞台、二俣尾を散策

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村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

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昨日から当ブログへのアクセスが激増している。何があったのかと思い「Google Analytics」をチェックしてみると、村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」の発売と関係していることが判明した。すなわち、BOOK3の後にはBOOK4という続編が出るのではないかという疑問が、ネットを取り巻く書籍ファン、関係者たちの間に巻き起こっているのだ。そしてこの現象が要因となり、おいらがかつて2009年10月4日に投稿(エントリー)しBOOK4について述べていたページへのアクセスが急上昇しているという訳なのである。ちなみに「1Q84 BOOK4」とググッてみれば、3番目にヒットするのだ。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4ADBF_jaJP314JP321&q=1Q84+BOOK4&lr=&aq=f&aqi=g-s1&aql=&oq=&gs_rfai=

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=138

予感は的中したのではなく、すでにはじめから既定の路線であったと考えている。三部作よりも四部作である。四部作こそ歴史に名を刻む世界的名著としての条件なのである。春樹さんはここに来て、世界の文学界を眺望しつつ、本格小説の完成に向けて更なる野望の一歩を踏み出しているところなのである。

さて、昨日は並ぶこともなく新刊本の「1Q84 BOOK3」を購入したのであった。ネタ晴らしにならない程度の感想は述べていきたいと思うのだが、まだ物語を推理したり振り返ったりする余裕は無い。

「青豆」「天吾」の章に加えて「牛河」の章が登場したり、偽春樹さんのツイートみたいな気障な台詞が笑わせたりと、様々な仕掛けが施されているようなので、そんな仕掛けを大いに楽しみながら読み進めていきたいと思うのである。

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

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「ヴィヨンの妻」を鑑賞。「人間失格」とは月とすっぽんの出来栄え。

レンタル解禁となった「ヴィヨンの妻」(太宰治原作・根岸吉太郎監督)のDVDを鑑賞中である。先日観た凡作映画「人間失格」に比べて素直な原作解釈なストーリー展開であり、また主役の松たか子がいい味を出していて好感が持てる。何よりも天才作家に対する畏敬の念に溢れているところが好ましい。映画は娯楽であり、しかも役者の持ち味に依っているところが大の大衆芸術である。変てこな風俗描写などしていた「人間失格」に比べて月とすっぽんの出来栄えなのである。やはり映画はこうでなくっちゃいけないのである。出だしを観れば映画の良し悪しなどの区別はつくものである。今日観た「ヴィヨンの妻」は傑作であったと記しておこう。

湊かなえさんのベストセラー小説「告白」は、プロットが先行した暴走小説か?

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昨年(2009年)の「本屋大賞」に輝いた作品ということで、前々から気になっていた湊かなえさんの「告白」を、遅ればせながら読んでみた。第1章の「聖職者」は立ち読みで大体のところは把握していたが、第2章以降を読み進むにつれ、想像していたストーリーとはかなり異なった展開に些か戸惑いつつも、一気呵成なる読書体験の世界へと足を踏み込まされることになっていたのである。「人間の闇」などとマスコミで称される人間の心理分析等を素材にしながら、若々しくあっけらかんに調理の腕を振るっている。だからよくある推理小説、ミステリー小説の類いとは、ストーリーの展開方法やモノローグによる構成立て等々とは、かなり趣を異にしている。「小説推理新人賞」の受賞者としての肩書きはまるでピンと来ないのである。それぞれの章によってモノローグ(独白)のスタイルが異なっている。この変化するスタイルのことなど、あまり推理小説界には見慣れない手法であるのだろう。多くの評論家が指摘するように、作者の筆力にはとても敬服するのだが、それが緻密な計算ずくなものではなく、おそらくは一気呵成な登場人物へのなり切り、憑依にも似た思い入れの賜物だったとしたら、手放しで賛嘆の言葉を並べることに躊躇を覚えるのだ。推理小説の伝統やら常道やらの壁を突き破って出てきた作品には違いないのだろうが、未だに気にかかるのである。それは見方を換えれば、プロットが優先して物語性が粗末にされた作品に対する、正邪併せた思い入れなのだろうという気がする。若気の至りなどという言葉さえ浮かんでくる。未だに古い殻を突き破れないのが自分なのかもしれないのであるが、どうにもこうにもならないのである…。松たか子が主演する「告白」の映画が制作されたという。観に行くべきかどうか迷っている。原作以上に映画に感動するケースもあるから、おそらくは観に行くことになるのだろう。ベストセラー的作品の別の面を観て楽しむことができるかもしれないと期待しているところなのである。

上州に帰省して眺めた「憂鬱なる桜」(萩原朔太郎より)。

久しぶりに帰省して眺めた春の桜はしみったれていた。朔太郎先生がかつて謳ったとおりの姿であった。

憂鬱なる桜(萩原朔太郎「青猫」より)

憂鬱なる花見(憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた)
夢にみる空家の庭の秘密(その空家の庭に生えこむものは松の木の類)
黒い風琴(おるがんをお弾きなさい 女のひとよ)
憂鬱の川辺(川辺で鳴つてゐる)
仏の見たる幻想の世界(花やかな月夜である)
鶏(しののめきたるまへ)

それだからおいらも、古里上州にて桜見物の良い想い出がなかった訳である。いま東京へ帰り着いて、「仏の見たる幻想の世界」を夢想している。

「アホの壁」にみるエロスとタナトスの二元論のユニークさ。

先日紹介した筒井康隆さんの快作「アホの壁」にみられる共通のキーワードは「エロス」と「タナトス」である。様々なアホの事例を示しつつ、根底に流れる2つのキーワードから現象を紐解いていく。本日はその手法にならいつつ、桜の花見宴会に興ずるアホたちの性癖について分析を試みてみる。

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桜の花には人が集まり、そうした衆人環視の中での宴は特別な意味を持つのである。例えばおいらが花見宴会によく参加していた若き頃には、グループの中の誰かが木登りをしてみせつつ、転げ落ちたり、突拍子のない言葉を叫んでみせたりしていたものである。居酒屋の閉ざされた空間でのバカ騒ぎとは異なり、桜の花びらと観衆たちの目に晒されることにより、劇場的なドラマへとワープさせ展開するのである。その原動力となるのがエロス+タナトスという一見相反するエネルギーの協働作用によるということなのであるから、バカもアホも一筋縄ではいかないのだ。バカをアホを侮ってはいけない根拠はエロス+タナトス論の真実性に基づいているのである。

「バカの壁」を凌駕する「アホの壁」の面白さ

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筒井康隆さんが「アホの壁」(新潮社新書)という書をしたためたと聞き、早速読んでみることにした。ベストセラーにもなった同じく新潮新書版の「バカの壁」に比べて、遜色ないどころか断然にこちらが「上手(うわて)」である。遥かにこちら(アホ)の方が面白いし、考えさせるネタを提供してくれている。「バカ」のほうは一段高い地位に己を置いたりすることからくる視野狭窄的観点が難点である。理科系秀才の嫌味がそこかしこに撒き散らされてあり、とても読めた代物ではない。さらに云えば自ら筆をもとらずゴーストライターの手をわずらっていることなど、とても一流の書物とは云いがたいのである。そもそも養老某のあの独りよがりの喋りは不快感のたまものである。不快文化人の筆頭が勝間和代だがそれに続く不快文化人である。こんなものらがベストセラーになるのだから、日本出版界の現状は情けないと云わざるを得ないのである。筒井さんの「アホ」には、アホに対する愛情さえ感じ取られるものとなっており、彼の筆力との相乗効果もあいまって、出色の新書版となっているのである。

それはそれとして、この「アホの壁」には、ブログ、ネット心中、等々のネット時代ならではの現象に対する考察がとても目に付き、行き届いており、とても考えされるのである。これについては後日にあらためて論ずることにしたい。(この項続く…たぶん)

満開の桜の木の下に立つと、誰でもバカに見える。(i)

タイトルに示したのは村上春樹と糸井重里との共著「夢で会いましょう」の中の、糸井さん担当の章に記された一節である。

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そろそろ東京も桜の見頃かと銀座の桜の咲く公園を散策したが、まだまだであった。幸いなことに満開な桜がなかったため、バカ騒ぎする人々の姿も見当たらなかったのである。春かと思えばみぞれ降る空模様に、桜のつぼみもどうしたらよいのか迷っているに違いない。現在はまだ2分咲きといったところだろうか。周囲を気にし周りに合わせる。周りを気にしてなかなか早咲き桜が後に続かないのは日本の桜だからこその光景である。

廣瀬裕子著「とっておきの気分転換」でリフレッシュ。

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押入れの中に眠っている文庫本「とっておきの気分転換」(廣瀬裕子著)をめくって読んでみる。表題のとおり、気分が落ち込んでいる時、滅入っている時などに効く、気分転換のおすすめ本である。ハウツー本の一種と云っていいかもしれない。内容は一見、とても他愛がない。例えば「クレヨンで絵を描いてみる」「お日さま色の花を生ける」等々。55箇条の項目にわたって、具体的に気分転換のノウハウを伝授しているという訳である。なかなか一人では気分転換が出来ないときなど、この本を取り出して一押ししてもらったという経験は少なくない。

おいらはかつてさる出版関係の会にて廣瀬さんにお会いしていた。当時は出版社で書籍編集を担当されていたと記憶しているが、その穏やかな笑顔が印象的な美人編集者であった。その後独立して何冊もの著書を目にし、活字を追いながら、彼女が編み出す癒しの言葉たち、独特の筆遣いに、幾度と無く「気分転換」させてもらっているのだ。

茂木健一郎×酒井雄哉「幸せはすべて脳の中にある」

朝日新書「幸せはすべて脳の中にある」を読了。天台宗の僧侶で、7年かけて4万キロを歩くという千日回峰行を2度達成した酒井雄哉氏と、著名な脳科学者茂木健一郎氏との対談をまとめたものである。

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茂木がインタビュアー的に質問を投げかけ酒井がそれに答える。そして茂木がポイントで解説、というスタイルで進行する。両者とも肩肘張らずに日常の言葉をぶつけ合うのは近頃の読者層の読書嗜好性に合わせようというものだろうが、ちょいと焦点がまとまらない。書名からして焦点が見えないのだから当然なのか?

成道するために魔境に入る。

そんな感想を持ちつつ読み進めていると、上記の言葉に出逢った。偽者のなかでまがい物ばかり見せ付けられたら本物は見えてこない。魔境を通り抜けてこそ真実が見える。成道が開かれるという。

新興宗教流行りの時期に、関係者に聴かせたかった重い言葉である。学校など教育システムでは教えられない「ビジョン」を見せ付けられることで新興宗教や諸々の唱道者に惹かれてしまう若い精神に、ある種の警鐘を鳴らしている。この言葉は本物である。それにしても84歳という高齢ながら臆することなく自己の歩みを語る酒井氏の語りは、ずんとした重みで響いている。

太宰治流「卵味噌のカヤキ」+ふきのとうの香りは絶品なり。

 

卵味噌の素朴な味付けとふきのとうの独特な苦味が絶妙のハーモニーなのだ。

久々においらも創作料理に励んだのでした。先日ここでも紹介した「文士料理入門」にあった、太宰治さんのとっておきお勧め料理「卵味噌のカヤキ」ことホタテの味噌卵焼きにチャレンジしたのです。青森県の津軽地方においては定番の郷土料理であり、この料理について太宰治さんの「津軽」にはこう記されている。

「(前略)卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ」

よっぽどこの料理に愛着があったと想像するのだが、その調理法にも独自の作法を必要とするのだ。

まずはできるだけ大振りの殻付き帆立貝を用意する。そして帆立貝の殻に味噌と卵に出し汁と葱を乗せて中火で炙るといういたってシンプルな焼き料理である。帆立に葱と卵と味噌というのが基本の取り合わせではあるが、ひと工夫したのが、春の味わいとして最大の味覚でもある「ふきのとう」を取り入れたこと。季節の食材を取り入れて創作料理に活かすことは基本であるからして、ふと思い付いた。そしてそれが的中したというわけなのである。

ふきのとうは味噌とよく調和する。過去のある場所で「ふき味噌」なるものを味わったことの記憶は深く刻まれている。そんな春のふきのとうの苦くて香り高い食材が、太宰さんの地域料理と完璧にマッチしたことこそ、本日最大の発見であった。

極上の53年もの。水上勉の「梅干」は至宝の文士料理なり。

昨日に続いて文士料理に関する話題である。文士料理に欠かせない要素が「時間」であるが、そんな味覚と時間が織り成すストーリーの最たるものが水上勉さんの「梅干」という随筆にあることに想い当たり、蔵書を調べたのです。

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子供の頃から梅干作りに勤しんでいたという水上さんの梅干に対する想いの深さは半端ではない。子供の頃に禅宗寺にて修行の日々を送っていた水上さん。厳しい修行に耐えかねて逃げ出したと語っているのだが、修行の日々に漬けた梅干に特別な愛着を持っている。

テレビ番組の企画で禅宗寺時代の和尚さんの娘さんとの面会を果たしたことがあり、その時にもらった、53年ものという梅干を口にしたときのことを詳細に記している。残念ながら和尚の奥さんは亡くなっていて逢えなかったのだが、奥さんが嫁入りした年に漬けた梅干を、その娘さんが大切に保存し、その貴重な梅干樽の裾分けの中の一粒を、噛み締めつつ泣いていた。

一粒の梅干が生きた53年という時間は、水上さんという作家の人生とも永くまた実に深々とした交いを有していた。そんな食物の歴史を受け止め涙する作家が記しているのは、人生にとってもの食うことの特別な意義について語っているのだ。おいらもまた自身の人生と食と酒とのあれこれを、このブログで記していこうという思いを新たにしたのでありました。