天童荒太の「悼む人」読了

先日、知人から借りていた「悼む人」を読了した。

まずひと言。大衆小説の突破口を開いたともいえる作品ではないか、という印象を抱いた。

先日も書いたが、主人公の静人が、報道や口伝で知った死者を追って、「悼む」ことを続けていくというストーリーがこの小説の基本的な設定である。キャラクター設定の意外性が、その一点とてしてある。ヒーローではない。かといって見下げた存在ではない。しかもキャラクターが立っている。敢えて証明しなければならない過去の事実や、社会的立場を支えるバックボーンも見えてこない。まるでこの世に居そうもない設定ゆえのことから来る、意外性の設定に成功している。

「死」をテーマにした作品としてまず浮かぶのは、写真家・藤原新也が著した「メメントモリ」である。ここでは著者の放つ圧倒的な死の世界観に威圧されたり、近づくことを拒絶される不可知性が存在するが、「悼む人」にはそのようなものはない。ただ近づきたくないから離れている、適度な距離を保って接しているだけである。それが読者に跳ね返ったとき、「悼む人」は鏡のような存在なのかと納得するのだろう。

推理小説仕立ての展開からバックボーンを追っていたら、決してこの読了感は生まれなかっただろう。最後まで、主人公の静人の内面には取り込まれることなく、しかも清々しい読了感は、確かに残っている。

「謝辞」として記された本のあとがきには、7年かけて仕上げた作品とある。終末医療の現場やDVに関する細密な現場取材を経て書かれたことが察せられる、力作である。作者・天童荒太の詳細なプロフィールは目にしていないが、おそらくマスコミ報道の現場で修行したであろう著者の過去が、重なって浮かんでくる。嫌われ者記者・蒔野抗太郎の姿は、作者が接した誰かをモデルにしているはずだが、作家本人の姿と感じ取れないのもまた、意外性の設定の成果だろう。

天童荒太「悼む人」読書中

職場の知人から「悼む人」(天童荒太著/文藝春秋社刊)を借りて読んでいる。今年1月の直木賞受賞作品であり、そのタイトルから、身近な大切な家族を亡くしたという経験も手伝って、またさらに、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」に、「悼む人」の色濃い影響が見られるとの作品評の記事なども目にし、いつか読むべしとの考えがあったのだが、ひょんなきっかけでその機会が訪れた。

はじめはてっきり、ノンフィクション・ジャンルの作品ではないかなどと勝手に思い込んではいたのだが、違った。「悼む人」の物語(フィクション!)は、主人公が死者を「悼む」為に訪ねて歩くという、いわば奇行を巡って進行していく。奇人か、変人か、病人か、あるいは神聖なる聖者かのごとくに表現されていく主人公に、感情を重ね合わせていくことは難しい。どのような死者に対しても同様な「悼み」の仕草は、大切な身内の死に対するものとは明らかに異なっている。それでもなおその主人公への関心が薄れることもなく、フィクションとしての物語は進んでいくのである。ときに推理小説まがいの進展に、些か戸惑いを覚えつつも、いたるところに新鮮な発見にめぐり合う。読書とは体験でありめぐり合いであるべきという条件も満たしている。ときには極めてエグい展開も散見されるが、それもまた物語の適度な大衆小説臭のスパイスともなっており、興味深くページを進めているところなのです。

閑話休題。

今日の昼、またまた銀座で話題の「フリーカフェ」を訪ねたのだ。きっけかは、先日この場所を熱心に教えてくれた某男性スタッフに、「行きましょう」と誘われたことだった。最初の話題性が収まったことや、昼の12時すぐという時間帯だったこともあり、先日ほどの賑わいはなかった。「一人一皿」とされているおかきに夢中になる小母さん、お婆さんの姿もあまり目に付くことはなかった。ブログ公約(造語である)した写真を撮ってきたので、公開しておきます。

銀座の一等地でこの広さなり。

銀座の一等地でこの広さなり。