「アホの壁」にみるエロスとタナトスの二元論のユニークさ。

先日紹介した筒井康隆さんの快作「アホの壁」にみられる共通のキーワードは「エロス」と「タナトス」である。様々なアホの事例を示しつつ、根底に流れる2つのキーワードから現象を紐解いていく。本日はその手法にならいつつ、桜の花見宴会に興ずるアホたちの性癖について分析を試みてみる。

[エラー: isbn:9784106103506 というアイテムは見つかりませんでした]

桜の花には人が集まり、そうした衆人環視の中での宴は特別な意味を持つのである。例えばおいらが花見宴会によく参加していた若き頃には、グループの中の誰かが木登りをしてみせつつ、転げ落ちたり、突拍子のない言葉を叫んでみせたりしていたものである。居酒屋の閉ざされた空間でのバカ騒ぎとは異なり、桜の花びらと観衆たちの目に晒されることにより、劇場的なドラマへとワープさせ展開するのである。その原動力となるのがエロス+タナトスという一見相反するエネルギーの協働作用によるということなのであるから、バカもアホも一筋縄ではいかないのだ。バカをアホを侮ってはいけない根拠はエロス+タナトス論の真実性に基づいているのである。

「バカの壁」を凌駕する「アホの壁」の面白さ

[エラー: isbn:9784106103506 というアイテムは見つかりませんでした]

筒井康隆さんが「アホの壁」(新潮社新書)という書をしたためたと聞き、早速読んでみることにした。ベストセラーにもなった同じく新潮新書版の「バカの壁」に比べて、遜色ないどころか断然にこちらが「上手(うわて)」である。遥かにこちら(アホ)の方が面白いし、考えさせるネタを提供してくれている。「バカ」のほうは一段高い地位に己を置いたりすることからくる視野狭窄的観点が難点である。理科系秀才の嫌味がそこかしこに撒き散らされてあり、とても読めた代物ではない。さらに云えば自ら筆をもとらずゴーストライターの手をわずらっていることなど、とても一流の書物とは云いがたいのである。そもそも養老某のあの独りよがりの喋りは不快感のたまものである。不快文化人の筆頭が勝間和代だがそれに続く不快文化人である。こんなものらがベストセラーになるのだから、日本出版界の現状は情けないと云わざるを得ないのである。筒井さんの「アホ」には、アホに対する愛情さえ感じ取られるものとなっており、彼の筆力との相乗効果もあいまって、出色の新書版となっているのである。

それはそれとして、この「アホの壁」には、ブログ、ネット心中、等々のネット時代ならではの現象に対する考察がとても目に付き、行き届いており、とても考えされるのである。これについては後日にあらためて論ずることにしたい。(この項続く…たぶん)