「アーツ前橋」グランドオープン。「カゼイロノハナ 未来への対話」スタート

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群馬県前橋市の「アーツ前橋」が10/26にグランドオープン。開館記念展として「クゼイロノハナ 未来への対話」展が開催されている。

「地域にゆかりのある美術作家、文学者、音楽家や科学者など幅広い分野の人たちが歴史的に積み重ねてきたクリエイティブな仕事を、現代の芸術家たちが再解釈して作品をつくりあげます。これらの作品は、時代やジャンルを超えた対話によって私たちの未来を切り拓く新たな価値観を提示するものです。館内の展覧会のほかにも、館外に広がる地域アートプロジェクトなどもぜひお楽しみください。」(アーツ前橋HPより)

会場に足を運んでみたところ、いささか総花的ではあり、会館関係者たちの意図が伝わるかは疑問だが、司修さんのペインティング作品が展示されている等々の見どころは存在する。

■アーツ前橋
〒371-0022 前橋市千代田町5-1-16
TEL027-230-1144

http://artsmaebashi.jp/

司修さんの「本の魔法」から、本と作家と装幀家との濃密な関わりが匂ってくる

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装幀家として名高い司修さんの近著。古井由吉「杳子・妻隠」、島尾敏雄「死の棘」、中上健次「岬」、等々の戦後日本の近代文学を代表する書物の装幀を手掛けた司修さんが、装幀の現場におけるエピソードを綴っている。取り上げられている15の書物のどれも彼もが、作家との厚い交流が基として成り立っており、おざなりの仕事から産まれた本は一冊も無い。

おいらが司修さんの装幀の仕事に対して最初に目を瞠ったのは、大江健三郎氏の書籍たちだった。エッチング等の版画の技法を駆使して描かれた司作品は、大江健三郎作品の挿絵としてではなく、イメージが何倍にも膨らみ弾けて描かれており、司氏の装幀作品の重層性を余すところ無く示してもいたのだった。

だが何故だかこの「本の魔法」という一冊から、大江健三郎作品が省かれているのが、余談になるが、とても不可思議なポイントでもある。

「司修画集 壊す人からの指令」を購入

地元の古書店にて、司修のサイン入り画集「壊す人からの指令」を発見して購入したのです。奥付を見ると「昭和55年5月30日初版発行」とある。今から30年も昔の画集である。実は初版の発行当時においらはこの本にとても関心を持っていて、何度か購入しに書店に向かったという想い出が鮮明である。だがその度に「定価6,800円」という高価な価格に思いを遂げずに居たのであった。

今にして振り返れば、当時のおいらは6,800円の画集を購入する経済的余裕が無かったということなのだろう。懐かしくもあり、またほろ苦くもあるのだ。こんな本はそうはない。生涯をともにしたいという特別な一冊として大切にしていきたいと考えたのである。

司修という画家については、大江健三郎の著書の装丁家として初めて目にしたという記憶がある。当時、新潮社の純文学シリーズとして続々と出版されていた大江健三郎氏の小説本には、司修による自身の版画や絵画作品をモチーフにした丁寧な装丁の仕事が光っていた。クレジットには「司修」の名前が静に輝いて見えていたものである。それから少しして、おいらとは出身が同じであることを知り、より親近感を感じつつ今に至っているという訳なのである。司修さんの著した著書は、「描けなかった風景」をはじめ数冊購入して読んでいる。愛著として大切にコレクションしているのだ。

同著が出版される少し前には、大江健三郎の「同時代ゲーム」が発表されていた時代である。大江氏は司さんのこの本に対して、「ゲームと器用仕事(ブリコラージュ)」という力のこもった一文を寄せている。レヴィ・ストロースの「ブリコラージュ」を「器用仕事」と訳すことには強い違和感を感じるのだが、小説家・大江健三郎が画家・司修に宛てた極私的プライベートな献文ともなっていて興味深いのである。

司修が描いた、朔太郎の「郷土望景詩」幻想

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先日、群馬県前橋に帰郷した際、故郷の書店にて司修という版画家の著した「萩原朔太郎『郷土望景詩』幻想」を購入した。

萩原朔太郎が郷土を謳った詩に、インスピレーションを得た画家の司修が作画化したものとなっている。詩集に添えられた単なる挿絵集ではなく、もっと濃密な司修的世界が、そこには表出されていて、読む者たちを独特な郷愁の世界へと誘って行く。

最も虜とされ、何度もページをめくってしまうのが、朔太郎の「中学の校庭」という詩と司修の画とがコラボレートしたページである。

 中学の校庭 (萩原朔太郎)
  われの中学にありたる日は
  艶めく情熱になやみたり
  いかりて書物をなげすて
  ひとり校庭の草に寝ころび居しが
  なにものの哀愁ぞ
  はるかに青きを飛びさり
  天日直射して熱く帽子に照りぬ。

旧制中学の校舎とその横に不安定に佇む青年。シルエットとして表出された青年は、まだ幼くも見えてしまうが、左ページの建物は校舎という存在そのものを遥かに越えて佇む、青春期の迷宮的世界。永井苛風的表現を借りれば、精神的ラビランスである。そんなラビランスの世界に舞い戻って、過去の時間を歩いてみたい欲望に駆られてしまうのである。

この1冊に出遭ったことから、おいらの見る夢の世界も少々様変わりしてきたことを感じている。朝目覚めたときに記憶している情景は、郷土のこうした校舎をモチーフとしたラビランスではなかったかと、確信を強くしているのである。