小さくても鯛の塩焼き

魚の塩焼きの中で、敢て何が最も美味か? そう問われたならば、おいらはきっと「鯛」と答えるだろう。

白身魚の王者としての知名度、貫禄は他を抜きん出ている。それに加えて見た目外見もオリジナリティ溢れて個性的であり、ファンを惹きつけること甚大である。

相撲取りの優勝祝賀会か、一生に一度の結婚式か、あるいはそれに近い諸々のイベントでしか口にすることが出来ないものかと、幼い頃には思っていたが、どうも近頃では居酒屋メニューとして食することも可能になっていることを発見していた。そしてそんな機会が訪れたのでありました。

そして身を口にすれば、白身魚の王様の評価に相応しくしみじみとした魚のエキスが染み渡ってくる。決して派手な味ではなく、ジーンと身体に染み入ってくるエキスが横溢している。

塩と炭と云うシンプルかつダイナミックな調理方法がこの逸品を支えている。美味い魚の美味い料理の極北と云えよう。

奥多摩の居酒屋で「岩魚の燻製」を喰らう

奥多摩を旅した際にぶらりと立ち寄った居酒屋で「岩魚の燻製」を喰らう機会に浴したのだった。とても珍しい初めて口にする味わいであった。

清流でしか育たない岩魚を、桜のチップでいぶして燻製にする。奥多摩で採れた食材を奥多摩現地で燻製処理しているのだという。

川魚特有の野性的な身に、濃厚な香りが加味されていて、奥多摩ならではの地元食に値する。

生や炭火焼きはもちろんそれで充分に美味しいが、燻製岩魚は特別な食文化の結晶である。

冬が近づくとは「アン肝」が美味い季節になること

秋も深まり日没後の気温の低下も身に染みてくる。こんな季節の訪れは、美味い「アンコウ(鮟鱇)」の季節なのだ。殊にアン肝が夜の食堂、居酒屋にお目見えすることとなる。すなわち冬が近づくとは、「アン肝」か美味い季節になることを意味している。早速今晩は今季初の「アン肝」を頂く機会に遭遇したのだ。

其のものの文字通りに、鮟鱇の肝を蒸したりその他の調理を施して提供される。仏料理に欠かせないフォアグラにも匹敵するくらいに濃厚な味わいが、まさに依存症的虜にさせること請け合いなのだ。

今年は福島原発事故の影響で、魚介類にも放射能の影響が懸念されているところだ。何時に出荷停止になったとしてもおかしくは無いであろう鮟鱇をはじめとする東北海鮮の恵みである。じっくりと丹念に味わってみたのである。

焼きおにぎりに、秋刀魚のなめろうはよく似合う

深刻な原発被害が続いている中、秋のサンマ(秋刀魚とも書く)が大漁だと云うニュースが流れてくる。居酒屋メニューにも「新サンマ」ものが目についてくるこの頃だ。塩焼き、刺身、タタキとある定番メニューに混ざって「なめろう」なるものを発見し、それを注文してみたのだった。

出されてきたものは、三枚に身をそがれて、サンマの頭と骨のとぐろ巻きの上にたっぷりと乗せられているなめろう。ご存知のようになめろうとは、身の部分をタタキにし、味噌や葱などをあわせてなお叩いてつくる、漁師料理である。食べ終わった皿をなめるくらいに美味しいということから「なめろう」と命名されたという説が一般的だ。

そして待つこと十数分、運ばれたサンマのなめろうとやらを口に運んでみたところ…。味噌の濃厚な味にサンマが負けていたのだった。アジのなめろうのイメージを抱いた当初の期待は、最初の一口でうちひしがれていた。サンマの身はアジとは違い、食感も味覚もともに繊細であるが故に、味噌の強靭な味付けには少々力負けしてしまった嫌いがあったのだ。味噌の量を減らしていたらこんな味にはならなかったのかも入れないが、果たして量の問題なのか? あるいはサンマの身の問題なのかは判断がつかぬまま、結論を出しかねていたのであった。

おいらはそのとき、こういう濃い目の味付けの料理こそ、ご飯と一緒に食らうべきだと考えた。そして焼きおにぎりを追加注文し、おにぎりにつけて食べることにしたのだった。そしてその結果は、至極満足のいくものだったのである。焼きおにぎりに、秋刀魚のなめろうはよく似合う。

上にのせた写真が美味そうに写っていたならば、そのことがよく伝えられるのではないかと考えている次第なのである。

身体に悪そうだがついつい注文してしまう鶏のボンジリ

 

鶏のボンジリ(実は「ぼんじり」と書く方が多い)と云えば尻尾のところ、所謂テールである。目立たないがちゃんと軟骨も備わっているという。近頃焼き鳥屋(焼きトンを売るのではなく本物の「鶏」の焼き鳥を売る店のこと)へ行くと必ずと云って良い程このメニューを見つける。最初は興味半分で注文して見ていたが、近頃ではこのボンジリの誘惑についつい注文してしまうといった次第だ。

軟骨はあるとはいえ脂身だらけであり、鶏のジューシーな脂身を食したくなったらこの「ボンジリ」を注文するのが手っ取り早いのである。どんな箇所の鶏肉以上にジューシーでマイルドな食感と味わいが満たされるのだから、一旦の味わいを知ってしまったならば、ある意味の依存症的症状を呈するのである。

人間の身体中の脂身といえば、食物連鎖の結果として食べた食材の脂の種類に多分な影響を受けている。豚肉或は牛肉の脂、鶏肉の脂、魚類の脂、…等々の中では魚類のとりわけ青魚の脂身が「EPA、DHA」という種類の血液サラサラ成分が豊富であり、脳梗塞、心筋梗塞の予防にとってはもうしぶんが無いものだ。だが鶏肉の脂身とくれば血液ドロドロを招来しかねないものなのであり、健康食材とは云い難い。

それでもこうして口にしてしまうのであるから、虜になった味は健康に勝てないということの現れなのだろうな…。

カニの無い「カニクリームコロッケ」など邪道には違いないのだが、時々喰いたくなるメニューなのだ

所謂マイブームの一つで、近頃カニクリームコロッケにのめり込んでいるのだ。

とはいっても、おいらがよく通う大衆居酒屋でのメニューであり、そのほとんどに「カニ」が入っていない。カニ風味、或いはカニ蒲鉾等のなんちゃってカニ風食感、等々にも出くわさないのであり、初めて其れに気付いた頃は、詐欺ではないかと考えていたものであった。

特に「詐欺度」が高いのは形で判るが、通常の「じゃがいもコロッケ」の様な形をしている。洋食系のものはと云えば、楕円形の所謂「俵型」をしており、俵型コロッケには、カニの風味やら食感やらが含まれていたことを記憶している。だがおいらの経験値に依れば、じゃがいも型カニクリームコロッケのほとんどは、カニの風味さえ感じ取ることが出来ないものである。

なのになんでこういうメニューが幅を利かせているのか? と云うのが先ず最初の疑問であった。

コロッケの起源は仏蘭西の「クロケット」であるとされている。此れがまさに「クリームコロッケ」であり、多分は俵型をしていたのであろう。だがカニが含まれていたという歴史的記述は見当たらない。だとすればこの「カニクリームコロッケ」と云うメニューは、日本産洋風コロッケのことを指すのではないか? 恐らくはそういう結論が、導き出せよう。

「洋風コロッケ」のことを「カニクリームコロッケ」と名付ける感覚は分からないでもない。だがしかしながら「カニ」が入ってもいないのにカニの冠を冠するのはやはり詐欺的ネーミングではある。

最後のまとめになったが、何故においらがそのような「カニクリームコロッケ」を注文するのか? と問えば、熱々のクリームがじわっと口に入ったときの刺激が堪らないからだと記しておこう。熱々のクリームシチューが、とても刺激的なシチュエーションで口に入るという、この特別な嗜好性が何ともいえないと云うことなのである。

カツオの喰いおさめは、カツオのまご茶漬けなのだ

秋も深まってきており、今が戻りガツオのまさに旬といえよう。

秋に戻ったカツオはたっぷりと脂が乗っており、初ガツオよりも味わいは何倍も充溢していることは、カツオ好きならば誰もが知っている事実である。

もう旬のカツオを味わえる時間は僅かしかなく、其れならば充分に味わって食べたいと云うことで、「カツオのまご茶漬け」にしたのだった。鮮度の良いカツオの刺身を丼に乗せて、熱いお湯を掛けてお茶漬けにしたもの。

本来のお茶漬けとは緑茶を掛けるものだが、ことまご茶漬けについては緑茶でなくても宜しいとされる。魚舟の上にて取れたての魚を捌いてお湯に掛ければ、魚の出汁が丼中に滲み出て、それ以外に余計な味付けは必要ないと云うことが最大の理由であるからにして、シンプルイズベストの料理法とも云えるくらいだ。

鮮度を示しあらわすピンク色の身が、熱湯を注ぐことにより白く装いを変える。とても澄んだ白色であり、これはまさに魚の脂を示す白色なのだと云うべきなのである。

食べるラー油は中華料理にこそ似合うもの、ご飯にかけるものではない

一時期の異様なブームは去ってほっとしたが、「食べるラー油」なる、調味料とも、食材とも何ともいえない代物には些か参っていたのだった。

中華料理、中国料理の店に行けば、以前から其れらしき調味料は在ったのである。餃子に添える調味料の一つとして、酢や醤油と合わせてみれば、それは絶妙の味のハーモニーを奏でていたものであった。だがそんなものを後生大事にマスコミ報道に載っけてしまったが故に、異様な「食べるラー油」ブームは作り上げられたといってよい。

そもそもラー油の材料となるものは、唐辛子を筆頭にして大蒜、生姜、葱、玉葱、等々をたっぷりの胡麻油等々の食物油に入れてエキスを抽出すると云う行程を経て作られる。

言葉を換えれば胡麻油(あるいはサラダ油等を含む)にエキスや味付け等を施されたものであるからにして、これをご飯にそのまま掛けたりしたらば、ご飯に胡麻油、サラダ油を掛けて口にするのと大差無い悪しき食物摂取の連鎖が生じてしまうことになる。こんな非常識な食物摂取の連鎖は在り得無いと云うのが理性的な判断である。

つまりには、ご飯には胡麻油やサラダ油を掛けたりすることは至極邪道な食文化であると同様に、食べるラー油などというものを簡単にご飯にのせて食べたりしては、食物連鎖の異常を来たしてしまうのであり、そういうのはいけないぞということなのである。

野菜と鶏肉の旨みが凝縮のタジン鍋料理

北アフリカのモロッコが発祥とされる「タジン鍋」。前々から興味があったが購入するのはためらっていたのだが、この程外食にてこのタジン鍋を味わうことが出来た。

上にかぶせる、とんがりハットのような独特の蓋が特徴的だが、これには形のユニークさばかりでなく、トロッコならではの伝統料理の理由がある。細くなった蓋の上部には素材から滲み出た水分が水蒸気となって充満しやがて滴り落ちた水分が容器の隙間をふさぐので、鍋の中が密封状態となる。肉や野菜類の香り、栄養素を閉じ込めるという、とても意義深い鍋なのだ。

出てきた料理は、鶏肉にキャベツ、人参、玉葱等々の野菜を入れて、少量の水を加えて蒸し焼きにすしたものだ。水を使わずに野菜の水分だけで調理する方法もあるようだが、多少の水を加えたほうが、味はマイルドになる。鶏肉と野菜から滲み出た出汁で味付けは充分だが、今回の料理にはここにユズ胡椒が添えられていて、ピリッとアクセントが効いていた。

旬の野菜や新鮮な肉類があればそれだけで立派な料理に仕上がるのだから、タジン鍋料理というのは道理に適った、非常に奥深いものがあるのである。

機会があったら調理器具売り場などで探してみたくなった。先日は書店で「シリコンタジン鍋」なるものを発見。電子レンジ料理専用だと云う。中身が見て触れたので早速手にしたところ、ぐにゃっという感触が何とも頼りなく、いただけなく、違和感の賜物だった。やはり鍋と云うからには硬くてしっかりした素材のものが欲しいものだ。

サザエのつぼ焼きはホッピーに良く合うことを発見

サザエのつぼ焼きを味わった。思い返せば久しぶりだった。何年ぶりだろうか…。

 地元でたまに足を止めて入る居酒屋だったのだが、そこは生きの良い食材が魅力的な店なので、たまにであるが懇意にしている場所である。

 サザエはもとよりおいらの好物である。肝の美味さといつたらこの上ないくらいだ。その昔は伊豆だとか特殊な海浜地方に旅しなければ口にすることさえ出来かねていたという貴重な食材なり。

だが近頃はといえば、ちょっとした料亭だか日本料理店だかに足を運べば簡単に口にすることができるという、だが、おいらはそんな料亭だか日本料理店だかに足を運ぶ軍資金が足りないのであった為、ここ数年来はずっと我慢をし続けていたのであろう。そしてふと、地元の居酒屋にてメニューを目にし、先ずは注文と相成ったのである。

 特に旬の時期と云うものは無いようだ、それにしても大降りで、殻の風体もピカピカしていたのでてっきり今が旬なのかと思いながら、一口ひとくちと口にしていた。海の潮の香りというものを味わうにはこれ以上の食材は無いかと云えるくらいの、ピカピカの香りが鼻を突いたのであった。

 ところで話題は大衆的な方へと向かうのだが、大人気漫画&アニメの「サザエさん」の主人公が「サザエ」だということにはかねてから一抹以上の甚大な違和感を抱いていたものである。

サザエと聞いてピンとくるのは、あの毒々しくしてグロテスク、決して奇麗ではなく美や愛をイメージさせることが無い、云わば悪魔的ネーミングである。如何なる理由にて作者は「サザエさん」をネーミングしたのであろうかと?

女性ホルモン豊富だと云う「コブクロ(子宮)」を味わう

豚や牛の子宮を串焼きにしたのが「コブクロ」である。

人間を含めて女性の哺乳類における生殖器のひとつであり、これを食すると云うことは女性器の一つを身体に含めると云う行為を指しているのであり、これはおいらも含めて男性人にとっての、所謂一つの女性ホルモン摂取の行為ではないかと考えているところなのである。

食感はと云えばおいらが大好きな種類の、適度にもっちりそしてまた、コリコリとして、噛み応え充分ありである。炭火焼にすればもっちりとして中に芯が通って、とても筆舌に尽くし難いと云って良いくらいである。

男子たるべき人間が、簡単に味わってはいかんという構えは持っていたはずだが、ついつい欲に任せて注文してしまうのだ。

ところではてな、女性人はどうなのだろうか? あまり焼肉、焼トン店にて女性が「コブクロ」を突付いている姿は記憶に無いものである。それはもしかして、無きもの欲しさの食欲なのであろうか?

「鯖の漬け」と云う風変わりな料理でフレッシュな鯖を堪能した

先日ふと立ち寄った下町の居酒屋で「鯖の漬け」というメニューを味わった。青森県八戸産だそうであり、その鮮度は申し分ない。通常は鯖の生魚は酢で〆られた「〆鯖」として提供されるものだが、此処では「〆鯖」の他にあるこのメニューで、醤油ベースの漬け汁に漬けて出されるようなのだ。

最初の見た目はと云えば、写真に撮影したとおりであり、ギラギラとした脂ぎった鯖特有の光沢が目に飛び込んでくる。だが意外にマイルドである。とんがった視覚や食感、味覚は感じられなかった。それ以上に云えば実にマイルドな食感だったと云って良い。

鯖はよく知られているように足の速い魚である。だからその味を安定的に保たねばならない。酢で〆れば所謂賞味期限、消費期限といったものが長く設定できるのだから、大体は生の鯖を扱うときには酢で〆るのが常識である。だが今回出逢った下町の居酒屋で「鯖の漬け」を口にして、〆鯖ばかりが鯖料理ではないと云うことを実感したのだった。

また今度、機会があったらその下町の「鯖の漬け」を食べに行きたいと思った。それくらいにインパクトのあるメニューであった。

美味い茄子料理は「焼き茄子」にかぎるのだ

秋茄子が断然に美味い季節である。この時期になると、秋刀魚、茸、等々をおいても何よりも茄子が食べたくなる。夏の茄子よりも秋の茄子が美味いということをいつしか知ってしまった時からの習わしと云っても良い。

 美味い茄子には余計な調理は必要ない。とはいっても簡単な調理で済ませれば良いという訳ではなく、おいらのおすすめは「焼き茄子」、特に炭火で丁寧に焼いて仕上げたものは格別の味わいなのである。

 おいらはこの焼き茄子が食べたくなると訪れる店が在る。ここでは名を伏せるが、そこの焼き茄子の調理法は極めてシンプルかつ大胆だ。

 まずは大降りの茄子を炭火の上にのせる。この炭とは焼き鳥やその他数々の焼き物を調理する、調理場における大変な場所となっているのだが、兎に角もそこにのせていく、皮もへたもそのままに炭の上にのせるのだ。

 そして焼け焦げないように丁寧にひっくり返しながら、実がじゅーじゅーと体液を滲み出していくのを待つのだ。その時間は3〜4分といったところか、決して長い時間ではない。キビキビとした仕事が求められるという年季の入った職人技なのである。

 決して焦がさぬようにしてしかもじゅーじゅーと茄子の体液が溢れ出るくらいになったら、焼き場は終了して奥の調理場へと運ばれる。そこでは熱々の茄子の皮を素手で剥いでいくという、これまた極めて年季の入った職人技が施行されていく。極めて地味な作業ではあるが、へたな機械を使ったりしたら台無しなのだ。あくまでも素手で焼いた茄子の熱々の皮を剥いでいくのである。

 良き素材に職人芸がプラスされたら、余計な味付けは禁物なり。削り節を振り掛けて運ばれる。それにショウガ醤油を控えめにかけたらば完成である。

 ほかほかとして肉厚の茄子の実からはじゅーじゅーとして溢れ出る茄子本来のエキスが充溢している。それを箸でつまんで口に入れる時の、何とも云えない満足感。これこそ秋の恵みの王者ではないかと感じるくらいだ。

希少部位だが適応外「マグロの卵炙り焼き」を味わう

世の中には殊に日本の食事処には、マグロにこだわって提供する類の店が多い。おいらもそんな店にはたまには足を運びたくなり、マグロの希少部位などを味わったりしているのだ。

中央線を途中下車して訪れたその店では、マグロの中落ち、赤身をはじめとして様々な部位を提供している。本来は「カツオ派」のおいらではあるがたまにはライバルの「マグロ」の味を堪能したくなることもあるものなのだ。そんなときに立ち寄る店のひとつがここだった。

本日メニューに載っていたものの中から「本マグロの卵炙り焼き」を注文した。マグロの卵といってもイメージが湧かない。一体どういうものかという好奇心が先に立っていた。少し時間が経つと、店先でバーナーで何かを炙る光景を目にしていた。そして提供されたのが上の写真であった。

出てきた料理は熱い鉄板に乗っていた。店員から「熱いですから気をつけてください」と云われ恐るおそる箸を付けてみたところ、塩漬けする前のタラコのような魚卵を目に焼き付けていた。かといって形よい袋に包まれているのではなくしてドーンと中身が投げ出されているような姿形である。箸を付けて口に含むと、タラコよりも大味だがポクポクとした魚卵の食感が刺激的だ。塩漬けなどもしていないのだろう、淡白であるが甘味がぎゅっと詰まっていて、満足溢れる食べ応えである。

思わずその逸品料理に溺れるくらいになっていた。だがハッと気付いたのは、それが魚卵だと云うこと、すなわちプリン体が沢山含まれた食材であり、通風持ちのおいらにとっての適用外のものであったのだ。だがタラコと同様においらはこの味の魅力を知ってしまったから大変だ。

これから時々はこの「マグロの卵」料理を求めて中央線を途中下車してしまうかもしれない。オーマイガッ!

まるで漬物的魚料理の「赤魚の粕漬け」

「赤魚の粕漬け」という料理を食した。白身魚のうちの何かの魚である「赤魚」を粕むに漬け込んでのちにじっくりと焼き込んだものだ。

白身魚はそのまま焼くと何だが淡白過ぎてしまい、味気ない。そんな欠点を補うのが「粕漬け」という調理法だ。キュウリや茄子や大根を粕で漬け込んだりすると美味い漬物が出来上がってくるのだが、そんな良きスローフードの調理法を魚料理に持ち込んだメニューがこの「赤魚の粕漬け」だった。

美味くないはずが無いのである。

居酒屋で食べる「もつ煮麻婆豆腐」は刺激度満点のニューウエーブ也

時々足を運ぶ中華居酒屋にて「もつ煮麻婆豆腐」という新しいメニューを発見。早速食べてみることにした。

 出てきたその料理は、いかにも辛いげな麻婆料理のギラギラしたアブラぎった風体で現れた。こういう料理はこちらもそれ相応の対処が必要となってくる。まずは胃袋が、襲いかかる辛みでもって悲鳴を上げたりはしないか? 消化の悪いもつなどが後日に胃腸障害などを引き起こさずにいられるか? あるいは折角のダイエット指向が無駄になってメタボ体質に逆戻りはしないか? 等々とチェックしておくべきポイントは多いのだ。

 それでもこのメニューを注文し、実際に食してみたというのにはそれだけの理由があるのだが、その理由とは一言で述べれば、「刺激を求めて」だったと云うべきか…。

 日々の喉と心とその他あれこれを癒してくれる居酒屋のメニューも、ときにはガツンとした刺激が欲しいのである。毎日同じようなメニューを口にしていると、それはとても癒しのメニューとは云い難くあり、ガツンとした刺激を味わってこその晩酌メニューと云って良いのであり、そんなことから求めるのが刺激メニューなのである。

 ギラギラと赤光りする料理の表情に接して、これは相当にダイエットにもその他諸々の身体にとっても良くないだろうな、と確認したところで、口にして喉に、胃袋、小腸、大腸へと流し込むことの欲望に抗うことはできなかった。こうした時々の悪しき食生活を繰り返すから、おいらの健康的食生活はまったくもっての幻でしかなくなってしまったのだ。

 口に含めばピリリとした刺激が心地よい。唐辛子のストレートな辛さの後にじんわりと辛い花椒の刺激が待ち構えている。花椒即ち中国胡椒のじんわりと来る辛さこそが「麻辣味」の醍醐味であるのだ。

 加えて煮込んだ「もつ」が入っている。しかも一般的な内蔵の小腸、大腸に加えて「トリッパ」「ハチノス」等と呼ぶ牛の第二胃袋が存在感を持って主張しているのだ。煮込んだモツだが噛み切るには少々の顎の筋肉を使う必要が生じる。顎や顔面の筋肉体操にもなっており、意外なところで貢献していくのかもしれない。

ぎんなん(銀杏)の串焼きに秋を感じた

銀杏の串焼きを食した。今季初めてであった。

 通い慣れた居酒屋にて、メニューを改めて眺めれば、串焼きに「ぎんなん」の文字を発見。秋はまだ遠いとばかりに感じているが、いつの間にかもう秋の味覚も味わえる季節となっていたという訳である。

 

銀杏とはそもそも、イチョウ木から育てられた果実のことである。イチョウの葉が黄色に色付いてみせるのはまだまだもっと先のことだが、秋に入ればイチョウは実を宿そうとして気合いが入る。

普通の実が熟するにはまだまだ時が早いはずなのだが、銀杏もどこかで静かに実を蓄えている。これから秋全開の実りの季節が非常に待ち遠しいと思えるのだ。

苦くて美味いゴーヤの食べ収め

「ゴーヤのおひたし」という珍しいメニューが目に付いて注文してみたところ、その苦々しさがストレートに舌を刺し、まことに珍しい食事の体験だったのだ。単純にゴーヤをスライスしたものを塩で浅漬けにしたものに、鰹節がまぶされていた。

今年の夏はゴーヤをそれ程食べていないな、それ程特別な付き合いをしてこなかったな、そんな回顧的気分に一瞬とらわれていた。おいらは夏には夏の野菜の中でも最もゴーヤに愛着を持っている。キュウリ、トマト、ナス、ピーマンと、いった夏野菜のどれよりも以上にゴーヤが好きなのだ。

涼しい秋風が吹きかう今の季節になっては、ゴーヤの何とも云えぬ猛暑ならではの味覚体験は難しくなった。猛暑でくたくたになり、汗だくた苦になった身体を、ゴーヤは俊としてくれてことがあって、それこそが食と味覚と季節の相乗作用だったと認識しているおいらにとって、ゴーヤとは特別な味覚を届ける稀有な食材だった。今日が今年の食べ収めかと思うととても切ない思いにとらわれてしまっていた。

夏後半の〆には「鯵の南蛮漬け」が有り難い

夏の終わりに夏バテ解消料理にもってこいなのが、この「鯵の南蛮漬け」である。夏になるとこれが食べたくなるものだが、今季は漸くそれが叶ったのだ。

よくあるサイドメニューの一つにもされてしまいがちだが、相当に手の込んだ料理であり、味わい深い逸品だ。簡単に作ろうとすれば手を抜いて作れるが、それでは本来の「鯵の南蛮漬け」ではなくなつてしまう。手抜き御法度であり、これが美味く調理されている店には常連として通いたくなること必至なり。

小さめの鯵を用意する。まずは鱗を取り、そして鰓を開いて内蔵を取り、小麦粉か片栗粉をまぶして低温でじっくり揚げる。このとき鯵の「頭」は捨てずにそのまま残すのが通の料理と云って良い。

酢、醤油、味醂、砂糖といった日本料理に欠かせない調味料に加えて唐辛子を調合したタレに、薄切りにした玉葱、ピーマン、人参等を加えて漬け込む。漬け込んだ状態で置き、一晩くらい冷蔵庫などで冷凍保存して味をなじませたら漸く完成。手数以上に時間が掛かるが、それだけ完成した時の悦びもひとしおだ。

「南蛮漬け」というからには南アジアが発祥のようであり、異国の料理のようだが、今や日本の暑い夏には欠かせない。日本の、特に夏場のスタミナ料理としては一番にもお勧めしたいレシピなのだ。

今日は外食メニューとして食したが、満足の出来栄えであり、嬉しく感じたのであり、家でも作りたくなったという訳であった。夏バテに効くこと請け合いなり。

今季初だが絶品の「サンマの塩焼き」に遭遇

たぶん今季初だろう「サンマの塩焼き」に遭遇した。大衆居酒屋で「600円」という値段は多少は高くもあったのだが、注文してみたところ、30cmはあろうかという大振りで活きの良いサンマが目の前に並べられていて、その時瞬間的に浮き浮き気分が襲っていた。

顔と目と鰓の部分を注意深く観察したところ、気が漲っているその様をイメージとして認識していた。旬と云うには未だ早いが、これこそがまさに「旬」の顔だろうと感じ取るのに充分なアピールを受け取らざるを得なかったと云うべきだろうか。そんな風に旬のサンマとは向かい合っていた。その目はまん丸でいて、これまた大海を泳ぎ続けてきた逞しさを感じ取らされるに充分な代物だったのである。

そしておいらは、東北大震災による漁場の復旧、復興をこい願いつつ、有り難く旬の味覚を味わっていたのだった。

思うに最初にこんな上物に出遭うの云うのは極めてラッキーだった。過年の記憶には、旬だとばかりに思い込んでいて箸を近づけたらば、目がだらんとたれて死んでいたり、肉をつまんだらかさかさとして冷凍フーズの食感にがっかりしたり、あるいは塩焼きを頼んだはずなのが揚げたサンマに出くわしてがっかりしたりと、この時期は実にさんざんたる経験をも経てきている。であるからに少々のことでは驚かないが、本日のサンマはニュースにしても耐えるくらいに美味であったのでこうして記しているのである。

旬の味覚的便乗商法とも紙一重のものであるが故に、何度となく不条理な場面にも遭遇してきた。今年は幸先好いぞとばかりに、何だかこれからの未来への意欲やら、希望さえもが湧き上がって来たと云えば大袈裟には違いないが、浮き浮きが希望を繋いだ、本日の宵の一齣ではありましたとさ。