神田ガード下の二毛作的大衆割烹「大越」で乾いた喉を潤したのだ

神田という街の風情は一見してサラリーマンが集っているのだが、その人々の生態はといえばサラリーマン風情にとらわれない姿の営みなどが見え隠れしていて面白いのだ。

中でも注目されたいのが神田駅ガード下の飲屋街の風情である。神田駅西口の大衆割烹店「大越」では、昼間はエネルギーの元としての定食メニューを提供しており、その多彩さで一目置かれる存在となっている。例えば「アジのたたき」などというメニューが昼定食にて提供されるのだから有り難いのだ。

そして日が落ちた夜ともなれば、その店は地元のサラリーマンを始めとする人間のるつぼとして異様な活況を呈していく。昼にも味わっていた「アジのたたき」などといった定番メニューはそのまま夜の部へと引き継がれ、なおかつ、様々な居酒屋メニューで賑わうという光景が、そこかしことなく垣間みられていて興趣をそそるのである。

この店の利用者はあまり神田的ではないともみえる。例えば「カツ」「フライ」といったメニュー料理に醤油をどぼどぼとかけている様が見られたときにはぞっとしたのだ。こんなことは一例に過ぎず、好き勝手に醤油やソースやその他の調味料をかけまくっている姿などでは困惑のていではあったのだ。

今日の一押しは「ホタルイカ」であったようで、客の大半はまずはホタルイカを注文していたようである。流石に旬の食材だけのことはあり、ピチピチとした食感やら春らしい香りなどにて満喫したのだ。店員は「大盛りですよ」と一声かけてテーブルに置いたのだが、あながち嘘でもあるまいと感じた次第なのである。

隣の客に目を向ければ、「イカの丸焼き」「マグロの中トロ」「枝豆」「秋刀魚焼き」などを注文していた。どれも居酒屋メニューになくてはならないオーソドックスなものばかりである。オーソドックスなメニューが支持されてお店が賑わっている。これぞ大衆割烹店の基本なのかもしれないな。

こはだ酢の味わいにうっとりなのだ

こはだという魚類はニシン目ニシン科に分類される魚類である。「コノシロ」という名前で出回っていることも多く、これからの季節にはしばしば目にする食材である。

大きくなると体長が25cmにも達するというが、こはだの体長は10cm以下である。それより小さなこはだが味も良く酢飯にも合うとされている。

ほとんどが酢漬けにして味わえられるものであり、しかも体長が小さいということから、マイナーな魚類と見なされてきたようであるが、その味わいは逸品といってよく、特に寿司種としての食材としてはなくてはならないものとなっている。

夏になれば、こはだをはじめとして酢魚の需要性が高まっていくのであり、そんな中でもこはだの人気はこれから益々高まっていくのだろう。

夏の魚はこはだを中心にして回っていくのだと云えるのかもしれない。

鮎が美味しい季節に、鮎の塩焼きを味わったのだ

鮎の塩焼きを食したのです。

鮎の本場といわれているのは四国の四万十川沿いであったりして、味覚的偏見人種はわざわざ四国などに出かけては鮎の塩焼きを食べているということだが、そんなことをする必要もなく、関東で提供されている鮎もまた、引けを取ることなどなく美味である。

今回の鮎の塩焼きもまた、絶品の味わいであった。何よりもまずは食材の鮮やかさが引き立っていた。繊細な食味でありながら、大衆的な人気食材でもあり、この季節には積極的に味わい尽くしていきたいものなり。

鮎という川魚はシンプルに塩焼きにして食するのが最も味わい深い。これは他の川魚である虹鱒、岩魚、等々の川魚においても云えることなのだ。

モツ焼き店の〆にはやはり玉葱などが欲しかった

地元の行きつけのモツ焼き店にて一献傾けていたのであるが、メニューがモツだけではいささか寂しいという話をしていたのだ。

そんなこんなのところ、店長がいきなり、「葱か玉葱ならばできますよ」という威勢の良い掛け声を掛けていた。

早速その店では初となる「玉葱焼き」を味わうこととなったのである。

あまり日常的には提供しないメニューだとみえて、ナイフのカットの仕方なども覚束ない仕草なのである。

通好みの鮭料理こと「鮭のカブト焼き」を食す

鮭という魚は日本人にとってはとても馴染が深い魚の一種であり、様々なる調理法にて食されている。それでも今回食べた「鮭のカブト焼き」というメニューは、そのカブト(頭)素材が珍しいことから、極めてユニークな料理でもあった。

一口二口味わうに、鮭の頭(カブト)は軟骨成分が豊富であるという感じだ。通のあいだでは「氷頭」(ひず、ひゅうず)等と呼ばれて珍重されているものらしい。軟骨のゼラチン質が見た目にも豊富なことをアピールしており、女性の美肌作りにはもってこいだろうと思われる。

マグロやカツオと同様に、この部分には豊富な「DHA」成分が含まれていることから、脳の働きによく効き、若返り効果も期待できる。あまり市場には出回らない部位でもあり、見かけたら注文したくなる料理の一つとして記録しておきたいと思ったのである。

ジャンクフードのメッカ、欧州の英吉利で流行っているという「フィッシュ&チップス」を味わってみたのだ

白身魚のフライにポテトフライを添えて「フィッシュ&チップス」というそーな。そんなメニューが元大英帝国の英吉利国にて人気だという話を聞いて、早速食してみたくなり、先日はそんなメニューにありついていたという訳なのでありました。

白身魚の身はタラやカレイだとされているが、日本で食するそのメニューにそんな高級魚が用いられているわけもなく、いつもの白身魚のようである。そして肝心の調理方法もまた、特別な工夫などというものは見て取ることもできずにいたのだ。これはまるで「マクドナルド」チェーン店の朝食メニューとそうは変わらない代物だった。カロリーも高そうであり、あまり食欲も進まないのだ。

さてそんなネガティブな話題でブログを閉じるわけにもいかないなと、ふと考えてみたのだ。英吉利人とは何故にこのようなジャンクフードを好むのかと。

一つにはカロリーを補給するのには、魚やじゃがいものフライはうってつけであるということ。少ないいわば貧困の食材にて人間生活を全うするのには、この方法は理に適っているのだ。

日本人の食生活とはかなり異なるが、グローバルビジョン的視点においては合理的なメニューであるということが明らかなのである。

英吉利本場の料理では、衣に小麦粉を卵や水またはビールで溶いた衣をつけて油で揚げたものが用いるとされている。そんなに手を加えなくてもよかろうとも考えるのだが、それが英吉利人達の矜持を支えているのかと思えば、一概に否定されるものとは云えないであろう。

おいらは脂っこいものや塩っこいものは敬遠しており、うかつにフライ食品に箸を付けることは少なくなっていたのである。それにもまして今回はそんなフライ食品に箸を付けて食してみたということは、英吉利の食文化を理解したいという願望によるものなのであったのだったのである。

とてもホッピー度が高い荻窪の「加賀屋」

「加賀屋」という名の居酒屋チェーン店は新鮮な素材を用いたモツ焼き始め、モツ煮込み、レバ刺し等々のメニューが人気を集めている。

おいらも時々はその暖簾をくぐって一杯傾けていくのが慣わしとなっている。

ところで先日、ふと新しい発見をしたのだが、荻窪の「加賀屋」という店は、その客層の大半が「ホッピー」を飲んでいたのであり、とても驚きであったのだ。

その「ホッピー度」は過半数の50%を遥かに超えており、6~7割の支持を得ていたのであった。

出世魚こと「ブリ」の少年期の「イナダ」の刺身を食す

ブリという出世魚は冬の味覚を象徴するような魚であるが、本日居酒屋にて食したの刺身はブリの子供の、「イナダ」という名の魚なのであった。季節はまためぐり、ブリの子供たちが回遊する時期となっていたことに気付かされたものである。

一般的な基準として「35-60cm」程度の体長のものを関東地方では「イナダ」と呼んでいる。「ハマチ」と呼ぶ種類の魚もほぼ同様の体型であり、こちらは通常、関西方面で呼ばれているものとなっている。両者は同じものと考えてよいのだろう。

ブリよりも若い分、ピチピチ感はとても勝っている。ブリほどに脂は乗っていないが、甘くもあり弾力性のあるイナダの食感が舌を撫で回すときには、絶品の味わいを感じるのだ。

まだ若いなりに主張をしている。なんとも云い難くはあるが、そのほろ苦さを感じ取るのである。冬のブリは、しゃぶしゃぶで何度も味わったが、イナダはやはり刺身で食べたい。これをお湯につけたりしたらもったいないと思うのだ。

秋刀魚の開きには日本酒の熱燗がよく似合う

富士山には月見草が、カレーにはらっきょうが、そして、秋刀魚の開きものには日本酒の熱燗がよく似合うのである。

本日、地元の小さな居酒屋に立ち寄り、いつもの串焼きを食していたのだが、隣の客が秋刀魚の開きなどを注文して焼いている姿などを目の当たりにして、おいらも思わず同じものを注文していた。

そうして冷凍秋刀魚の開きの焼き物にありついたのであった。秋に収穫される秋刀魚がこの季節に出ているというのは、ほぼ全てが冷凍の開きものであることは明らかであった。だがおいらは無性にそれを食べたくなってしまったという訳なのであった。

こんがりと焼けた冷凍秋刀魚の開きが目の前に出てきたときに、甚大なる食欲とともにふと欲しくなったのが日本酒の熱燗であった。魚の開きに日本酒という、これくらいに相性の良い取り合わせはほとんどないのではないかと思えるくらいに秀逸な関係性を保っている。

魚の開きがあってこその日本酒であり、日本酒の特に熱燗があってこその魚の開きなのである。この強固な関係性は、他のいかなる食文化にも対抗できるほどの強烈無比なものなのである。そう確信しつつ、本日の筆ならぬキーボードを置くことにする。

中華版「レンコンの甘酢漬け」を味わったのです

中華料理店でメニューをめくっていると「レンコンの甘酢漬け」というメニューが目に付いてハッとした。今年の芥川受賞作品「きことわ」にこのメニューが登場したことを想い出したからだ。当ブログでも以前にそのことを記している。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3269

主人公・貴子さんがこのメニューをつくり、父親がその味にいたく感激するというシーンがある。葉山を舞台にしたこの小説世界の中で、重要なシーンを占めるこのメニューこそ、葉山的なセレブ料理であり、日本的なものだと思い込んでいたからだ。だが中華料理店にてこのメニューがあるというのは一体どういうことなのか?

早速注文して食してみた。甘酢の味付けは中華料理にしては珍しいくらいに控えめな味わいだ。繊細でもある。サクサクとしたレンコンの食感と甘酢とのハーモニーが絶妙に似合っている。

中華と繊細という概念はまるで対立するようなイメージだが、こと「レンコンの甘酢漬け」を味わう限りにおいて、対立ではなく調和が支配している。

ただ日本料理との大きな違いは、かつおや昆布の出汁が用いられないことである。日本の酢ものといえば「三杯酢」に象徴されるような、かつお出汁に酢や醤油、味醂をあわせて味付けされるのが基本だ。中華の甘酢漬けというものは、この日本料理の基本を踏襲することはない。そもそも出汁を活用するという食文化が無いのだ。

おいらが以前に調理したものに比べると、小ぶりなレンコンであることと、それが白化粧されているかのごとき見てくれの白さが際立っている。醤油や味醂を使用していないのが大きな違いだろう。

自分の料理が勝っているなどと云うつもりはないし、日本料理と中華料理の甲乙を判断しようなどと云う企みも持ち合わせていない。中華料理が日本料理を真似しようとしたのか? あるいはその逆なのかもしれない。こんな国際交流はあって然るべきであるし、これからもどんどんと増えていくのであろう。

地元居酒屋の「ままかり」で一献傾けたのです

先の週末から今日までにかけて障害となる「計画停電」はほとんど実施されず、関東圏居住者は平常な生活を取り戻した様にも思われる。東北地方で被災した人たちには申し訳ないが、これが復旧、復興の第一歩となることを願うばかりである。

大震災の直後からは店仕舞い、国外逃亡をしたかに思われていた、中国人の経営による中華料理店にも明りが灯り始めている。「節電営業中」等々の貼り紙を貼って通常営業の一歩を始めたというところだろう。

放射能が恐くなって帰国した中国人も多いと聞くが、とりあえずは原発関連ニュースで収束の方向だととの情報を得て、国外逃亡を回避したのかもしれない。

さてこんな今宵は、地元の居酒屋で久々に一献を傾けていた。そして美味しい「ままかり」のつまみなど食していたので報告しておきたい。

「ままかり」というのは小さな青魚を酢漬けにしたものである。ニシン科の魚で「サッパ」と呼ばれる魚が原料とされている。「まま(ごはん)にあやかりたい」ということから命名されたというのが一般的な説だが、定かだとは云えないようだ。

しかしながらに確かにご飯が食べたくなったのである。ご飯を注文、オーダーすることは、通常の居酒屋ではご法度の様でもあり、今回は控えていたのである。

がしかしながら機会があれば自宅ででも何処でもだが、「ままかりご飯」を味わいたい、食したい。そんな思いを強くしたのでありました。

久々に食したバチマグロの握りは美味かった

行きつけの寿司店で、勧めのメニューにあった「バチマグロ」の握りを食した。美味であった。

本マグロや黒マグロほど高価ではないが、マグロの特徴的な味わいを充分に愉しむことが出来る。握り寿司はマグロからというのが代表的な日本人の味覚のようだ。常々「マグロよりカツオが上等」という主張を行なっているおいらなのだが、流石にこの味わいのポピュラリティーは認めざるを得ないものがある。

バチ、メバチ、メバチマグロ、等々、地方によって呼び名はまちまちであるが、おもに日本近海の漁場で収穫されている。体型はずんぐりとしていて2m程度が標準である。

前記とだぶるが決して大型の高級マグロではない。けれども江戸前の食材としては、たぶんこちらのほうがメイン食材であったと想像されるのである。

こんなサムい雪の夜にはサムゲタン(参鶏湯)で決まりだな

本日は朝から雪が降っていたという仰天な気候に振り回された1日であった。ところでこんな日にこそ食べたくなるのがサムゲタン(参鶏湯)なのである。

本日はまたまた途中下車して高円寺の韓国料理の店へと向かっていた。サムゲタン(参鶏湯)は色々と食堂のメニューにも登場していてポピュラーなのだが、あまり満足したことが無いのもまた現実だ。例えば大手ファミリーレストランの「ガスト」でありついたサムゲタンは、何だかピントの外れたサムゲタンもどきだった様な記憶がある。本物のサムゲタンを食べたいと向かっていたのは、高円寺のガード下にある店舗であった。

韓国料理は辛いものだと決め込んでいるのはちょいと非常識のそしりを免れないことになるのだろう。サムゲタン(参鶏湯)という料理は、韓国では一般的な健康料理であり、数多の家庭で食されているものだが、こと「辛さ」という味付けは一切無いのである。

本日ありつけたサムゲタン(参鶏湯)は、鉄板の容器の中でグツグツと沸騰した鍋のようにしてテーブルに差し出された。沸騰した鍋にしばらく気を取られている間に、最後の調理がなされていたのであろう。こんなパフォーマンスも見事である。
そして沸騰した鍋が落ち着いてきたころ、鼻先には馴染みの鶏ガラスープの香りが漂っていた。とてもシンプルでかつ控えめなものであった。

そもそもサムゲタン(参鶏湯)という料理は、若い鶏を丸ごと使い、お腹を裂いて内臓部分に高麗人参、ナツメ、各種の雑穀を詰め込んで、じっくりと煮込むという料理である。とてもシンプルでありながら、中華料理の薬膳の思想にも繋がっているものがあり、それが故に極めて国際的なメニューなのだ。

若鶏のお腹を開いてみると、シンプルであった鶏の香りがとても重厚になるような体験に襲われた。鶏とプラスαの食材が、これほどまでにドラマティックな成り行きを示すとは想像の埒外であったのではあり、正しいサムゲタン(参鶏湯)の理解には、今回漸く辿り着いたと云うべきなのかもしれない。

特に雑穀と呼ばれている穀物の味わいは秀逸であった。鶏のお腹の中から取り出した雑穀たちが、こんなに風味強く味わい深く食することが出来たということが、とても感動的だったということを記しておきたい。

■オムニマッ(母の味)
東京都杉並区高円寺南3-68-1

味が良い「鯵」の骨せんべいを味わったのです

日本で食される青魚の代表でもあるのが鯵である。「あじ」という名の由来は一説によれば「味が良い」からだとされている。たしかに魚の特有なこくが程よくのっている、美味な魚の典型ではある。

余談であるが最近のグルメ系タレントのコメントの中で、

「魚の生臭さがまったくないです…」
「魚ではなくまるで肉のようです…」

等々のコメントが、まるで正当なるグルメ派のものであるような扱い方がされていて、至極憤慨の念を強くしたものであった。魚を食するときに「魚が生臭い」だとか「魚が肉のようだ」とかのコメントはまさに、魚類のアイデンティティーを否定するものでしかないと受け取ってしまったのである。魚の本来持っている良さを何も理解していないものの、邪道なるコメントとしてうっちゃってしまいたいのだ。

鯵の干物にしても、また鯵の丸干しにしても、魚の脂が程よく染みていて、美味しさが一段と増すのだ。身近すぎることからあまり気付かなかったが、この鯵の恵みをこれまでどれだけ享受してきたことだろうか。

今宵はそんな美味なる鯵の刺身に加えて、残りの鯵の骨を脂で揚げて、鯵せんべいにしたものを味わうことが出来たのでした。

まず頭の部分を味わえば、からりと揚げられた骨感とともに、魚介類の青臭さが鼻を突いたのでした。これぞ鯵せんべい! おいらはこの鯵に、おっとまちがいた、この味に魅せられたのでした。

この青臭い風味というのか、あるいは骨臭い食感というのか…、このような魚の個性を認めずに、肉類と比較してコメントするなどとはもってのほかではある。グルメマスコミのワンパターンな放送は、害毒というものをしか発信できないものだと感じた今宵のおいらのコメントなのでした。

今季最後となろう「モツ鍋」を食しつつ考えた、ダイエット鍋の条件

寒さの消えない冬の夜の食事は鍋に手が伸びる。手軽に温まるのが「モツ鍋」だ。たぶん今季最後のモツ鍋になろうかという食事を摂りながら、このメニューの特徴について考えたのです。

具となるのは白モツと呼ばれる牛の小腸、或いはその他の内臓モツ類に、キャベツ、ニラ、玉ネギ、ニンニク、唐辛子が基本となる。スープの味付けは、味噌か醤油の濃い口のもの。キャベツとニラから滲み出る甘味と水分とが、具材に奥行きを加えてゆくのだ。

モツの量はそう大量に入れる必要も無く、そもそもカロリーは低くて、しかも野菜の比重が高いことから一時は「ヘルシー鍋」とも称されていたことがあった。

煮込んだモツは柔らかくなるが、シコシコしたその食感を噛んで味わうのが楽しみの一つだ。牛の霜降り肉などのようにすっと胃袋に下ってしまうものではないが故に、シコシコしたその食感を噛んで味わうのが楽しみの一つだ。顎の運動にもなるからダイエットに適したメニューとして注目に値するのだ。

もう一つの主役が「キャベツ」なのだが、キャベツを使った鍋は多くはなく、大体の鍋には「白菜」が用いられている。カロリーは白菜に比べて若干高いが、やはりこれも顎を使って噛み切る運動にもなり、食べ心地も満足度も高いものがある。

このようにモツ鍋とは、ほかほか温まるのみならず、じっくりと食したときの満足感も高く、ダイエット食メニューとしての条件をクリアーしている。冬の季節だけのメニューとするにはもったいないものがあると思うのである。

早春の「焼き筍」は想像以上に柔らかく滋味芳醇なり

最近の居酒屋は「季節の先取り」がテーマと見えて、春を前にして春の食材を提供するのがならわしと化しつつあるようだ。まだ肌寒い冬だというのに居酒屋のメニューには春のメニューが並んでいく。

昨日の「初カツオ」に続いて近頃味わった春メニューが「筍焼き」であった。まだ地上に姿を現していないであろうほどの小ぶりの筍を皮ごと丸ごと焼いて調理する。とてもシンプルな料理なのだ。

皿に乗せられて出てきたそのメニューには、幾重にも包まれたその皮に焦げ目がつけられており、丁寧に火が通されたあとが生々しい。焦げた香りに導かれるように皮を1枚1枚丁寧に剥ぎ取っていくと、ピチピチとして柔らかな身の部分にたどり着いた。

ふっくらとして香ばしい若筍の味わいはまさしく春の旬というものであった。柔らかな身はさくさくとしていて、その中から漏れ出されるえぐみのような味もまた芳醇だ。

冬の海の恵みを頗る味わった「牡蠣の焼き」

冬の恵みの代表格の「牡蠣」の焼きものを味わった。

近頃のあれこれに比べば頗る満足した体験なのだ。冬を旬とする魚介類の中でも「牡蠣」は特別な存在であろう。

我が国の歴史を紐解くならば縄文時代から食用にされていたという記録さえ残っており、日本文化と牡蠣との接点は極めて巨きいものだと云えている。

居酒屋の厨房では見るからに旬の大ぶりの牡蠣を殻ごと焼いていて、ころ良い焼き加減に達したところでその逸品のメニューはテーブルに運ばれていたのだ。

口に運ぶなり、その磯の香りがプーンと漂いつつ、極めてミルキーであるその磯の土地に特有の風雅な香りにうっとりとした。これだけでも冬の旬の牡蠣を味わう意味があるのだ。

焼いたばかりの熱や香りやらを目の前で感じつつ、おいらは想像していたよりも小ぶりの牡蠣の身を、醤油に付けて味わってみた。

う~む、やはり磯の独特の複雑な香りや味わいは牡蠣ならではのものである。「海のミルク」等とも称されるようであるが、今宵の焼き牡蠣の風味豊かな味わいは、特別にブログ上に記していきたいと思いながら記している。

すなわち美味い牡蠣の焼き物を味わったということを今宵は特別に記したいという気分なのでした。

上州本場の食材「ワカサギ」を使った料理も今が本番なり

ワカサギ料理を食する機会が増えている。おいらの出身地の上州群馬県ではこの時期になると活き活きとしたワカサギ料理が目に付いてくる。上州のみならず東京都内の居酒屋でも、このワカサギ料理がポピュラーになったことは甚だ喜ばしいものではある。

ワカサギ料理の定番と云えばまずは「ワカサギのフライ」「ワカサギ天ぷら」である。衣の使い方により、フライと天ぷらの違いがあるが、どちらかと云えばフライの方がポピュラーなのかもしれない。フライを卵とじにして丼にすれば「ワカサギ丼」の出来上がりである。旬のワカサギを使った「ワカサギ丼」は、想像以上に美味であった。

そしてもう一つの代表的ワカサギメニューが「ワカサギの南蛮漬け」である。所謂ポピュラーな南蛮漬けとしては「鯵の南蛮漬け」が挙げられようが、ワカサギの南蛮漬けは小ぶりではあるが却ってそれに輪をかけて、季節の風味を届けてくれる逸品となっているのだ。

そもそもワカサギとは名水ある所の代表的な淡水魚である。群馬県内には、榛名湖、赤城の大沼、小沼といったワカサギの生育に適した沼湖が存在していることから、冬から春にかけての季節限定、旬なる料理として広まっていたのである。

まだ当分は「ワカサギ料理」の旬の季節は続いていく。これからまた美味なるワカサギ料理に出会えることを希望しているところなのである。

珍しく美味なる「鶏ナンコツ」の串焼きを味わったのです

思えば近頃、美味い鶏のナンコツが見当たらなくなってしまったと感じていたところだったのです。居酒屋、焼き鳥屋にて「ナンコツ」というメニューを見つけて注文すれば、7~8割がたは豚のナンコツだ。至極がっかりである。豚の軟骨が出されてその硬さに辟易したことは少なくない。

あらためて考えるに、鶏ナンコツの串焼きはといえば、その弓なりにしなった姿形が優雅であり、その周りにある種ぞんざいに散らばっている肉類がまた美味いものの大切な要素なのだ。ナンコツのトゲトゲしさを緩和しているとともに、天然のカルシウムの摂取をたやすくするのに役立っている。これこそ串焼きが求める姿なのかとも感じ取らせるのに充分なのだ。

この美味い「鶏ナンコツ」に出くわしたのは、金太郎という店だった。八王子を中心に数店舗を構える地元では有名な居酒屋だ。これまであまりおいらは利用することがなかったが、今回の鶏ナンコツの出逢いをきっかけに、いろいろ他のメニューも味わってみたいものだと感じていたのでした。

鶏のナンコツ焼きは塩味で焼かれるが、金太郎ではそれに特製の梅紫蘇が添えられている。実にこれがまたこの梅味と良く合うのである。

■金太郎
http://www.yakitori-kintarou.jp/index.html

見た目はグロいが味は満足「しゃこ(蝦蛄)」のにぎり

寿司店にてしゃこ(蝦蛄)の握り寿司を味わった。実はしゃこの美味しさに気付いたのはそう遠くない。おいらが子供のころから上京してだいぶ経つまで、寿司屋のネタケースでしゃこを見る度に目を逸らしていたというのが実情だった。

何故か? それはひとえに江戸前の代表的な種であるしゃこが、東京湾のヘドロまみれになっている姿を想像したからである。少年の頃の想像力というものは馬鹿に出来ないものがあり、良きにせよ悪きにせよ、しつこく評価基準を左右する根拠となって記憶の底にこびり付いてしまう。一旦こびり付いてしまったイメージを払拭するのは、決して容易いものではあり得ないのだ。

おいらが子供の頃の東京湾といえば、海底に潜れば真っ先にヘドロに出会うというくらいにヘドロまみれ、公害まみれの海だった。寿司ネタの中でも特にしゃこの姿こそが、一見にしてグロテスクであり、ヘドロの海に棲息する、いわば汚い生き物の象徴として印象的インプットされてしまった。アサリや海苔は大好物で日常的に食してきたのに、しゃこばかりが悪しきイメージを代表して来たのだから、しゃこには罪なことをしたものだと思う。子供の誤ったイメージ形成の見本とも云えよう。

海老と同じ甲殻類だが、しゃこと海老とは別種である。砂地に穴を掘って棲み、全身を覆う殻は分厚く、性格は凶暴だとされている。寿司屋では茹でて甘ダレを塗って出されるのがポピュラーとなっている。香ばしい身を齧ればその筋肉質の身の味わいにうっとりとされてしまうものだ。