秋田のオリジナル駅弁「うめどー まず け!」を味わった

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秋田への旅行中は、地元名物の稲庭うどんばかり食べていた。つるつるとしてのど越しの良い稲庭うどんはさっぱりしていて何杯でもいけそうなくらいであったが、炭水化物ばかりの食ではさすがに飽きが来る。帰りの列車に乗る前に購入した駅弁の「うめどー まず け!」は、そのネーミングの面白さも相まって愉しませてくれた。

そのネーミングの意味はと云えば、標準語では「美味いけど不味い」という連想さえ掻き起こすが、愛知の方言で云うところでは「おいしいので、とにかく食べてみて!」という意味だという。まったく逆の意味をもじったような云わば逆転の発想的なネーミングの駅弁ではある。

そしてその味わいもまたご飯が冷めて食べることが基本としての駅弁の基本的要素を逆手にとって、満足できるものだった。秋田フキの炊き込みご飯や、いぶりがっこのピカタなどの、10品あまりを詰めた素朴なものだ。ご飯はあきたこまちそのものの美味さを味わえる。

この駅弁は、秋田デスティネーションキャンペーンのオリジナル駅弁コンテストで金賞を受賞したということでも注目されている。

秋田の乳頭温泉郷で紅葉三昧

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秋田県「乳頭温泉郷」への旅に出た。長かった夏も終わったはずだというのに、東京都内では一向に秋の気配を感じない。ならば紅葉を追いかけての旅も一興と思い、発作的に新幹線のチケットを手に入れていた。予想は的中して期待以上の紅葉の絶景的風景を堪能することができた。

田沢湖駅から田沢湖湖畔までは黄色に滲んだ樹々が目についたが、田沢湖から山道を進むに連れて赤々とした樹々の群れに迎えられることとなっていた。地元の人の話では今年の紅葉は例年より遅く、色づき始めたのは1周間ほど前からだったといい、今が真っ盛りのピークだということである。

目指したのは乳頭温泉郷の中で最も奥深い場所に位置する「黒湯温泉」。もう少しして11月中旬を過ぎるころになるとこの宿は、雪に閉ざされ休館してしまうのであり、投宿は今ならではのチャンスだった。バスを降りるなり冷たい風に吹かれたが、露天の湯に浸かれば身も心も温まることができた。涼しい風は肌に気持ちよく、秋の季節ならではの温もりである。

銚子の食堂で食べた「イワシ刺し」のボリュームには喫驚なのだった

 

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佐倉市の「DIC川村記念美術館」を訪ねた後、おいらは千葉県の銚子へと向かっていた。銚子駅を降りて銚子港に向かう途中に在る食堂では「イワシ刺し定食」を食したのだが、出てきたそのイワシ刺しのボリューム的インパクトには圧倒されてしまったのであり、ここに記しておきます。

何しろ銚子と云えば、イワシの水揚げ量が断トツの1番なのであり、それかあらぬか豊富な水揚げ高を誇るようにして、新鮮でピチピチのイワシ刺しがこれでもかというくらいに盛られていたのだ。

上の写真に示したのがこれで一人前である。こんなに大量なイワシの刺身があっという間においらの胃袋におさめられてしまっていたことは、何よりもおいら自身が信じ難い思いと感慨に満たされていたと云うべきであろうか。

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その後足を伸ばして、銚子電鉄線に搭乗して終着駅の「外川」へと向かった。外川駅の駅舎は、1923年(大正12年)に開業され、その姿がそのままに引き継がれているのであり、歴史的時間は90年あまりの長きを有している。戦争でも空爆されることなく生き残った歴史的建造物としての評価も高いのだ。

戸川漁港に向かう路地には、心地よくフレッシュな潮風が迎えていたのであり、おいらはその潮風を全身で受け止めつつ、潮騒の街の散策に勤しんでいた。

新花巻の宮沢賢治のテーマパーク的エリアを訪問


昨晩は宮沢賢治さんが愛してやまなかった花巻市郊外の「大沢温泉」に宿泊した。名物の露天風呂ではこの時期矢鱈に発生するアブに襲われ、とてものんびり温泉浴とはいかなかったのであり、しかも起床したときからずっとおいらの顔面は、昨日に刺された影響でおいらの左目の上瞼は腫れ上がってしまっていたので、見開くことの出来ない半開きの不自由な視覚にて一日を過ごさねばならなくなっていた。

あまり気乗りせぬまま、新花巻駅から「宮沢賢治童話村」へと向かった。この地域には他に様々な賢治関連施設が立ち並んでいて、宮沢賢治のテーマパーク的エリアと呼べる一帯である。もう十数年前に「宮沢賢治記念館」を訪れて以来の、久しぶりの訪問となっていた。「宮沢賢治童話村」には「賢治の学校」という施設があるが、子供向けにあしらえた賢治テーマパーク的存在であり、なにかと押し付けがましくあり、おいらは好きではない。賢治ファンとしてはこのような施設が賢治ワールドの普及に役立たないどころか、安直な切り口による賢治さんの思想のガレージセールなのではないかと気が気でないのだ。相当昔に訪れたとき「宮沢賢治記念館」にて遭遇し、強烈なインパクトを受けた賢治さんの「日輪と山」という水彩画に再会するのを楽しみにしていたが、なんと展示されていたのは巨大なパネルの複製画であり、とてもがっかりしたのであった。こんな事象こそをガレージセールと呼ぶのではないだろうか?

復旧復興のシンボルになるだろうの「JR八戸線」に乗車

八戸からJR八戸線に乗って久慈へと向かった。JR八戸線といえば、東日本大震災で埋没し、全面ストップとなっていた路線である。昨年のこのころに旅したときには八戸から鮫駅までの限定的開通であった。其の時の鮫駅周辺はといえば未だ津波の甚大な被害を色濃く残していた。特に八戸港周辺の住居等の建物は其のほとんどが津波の餌食となり、地域の根幹を無くしてしまっていた。津波の猛威に潰されたのは、例えば、ガソリンスタンド店舗であり、漁業関係者のコミュニケーション広場であり、八戸市民との交流の広場であった。これらの修羅場的スポットを巡りつつ、おいらは言葉を失っていたといえるのだろう。

そして再度の乗車となったわけである。2時間あまりの乗車時間のほとんどは、山間谷間を突き進むばかりではあったが、其の中で瞬間的にも写り行く稀有なる光景の其れあれという光景を、おいらはキャッチしていきたいと希っていた。

そんなことからおいらは、穏やかな東海岸の風景を先ずはキャッチしていた。これまでは通常の電車による通過的事象でしかなかったことが、これだけに重大な意味と重みとを担っているのだから、おいらもしゃきっとしていたことは間違いない。これからは、特に南北リアス線をウォッチして近いいつか乗車したいと思う。

古き床しき軽米町の風景

東北新幹線が青森まで伸びて高速化が進んだ反面で、軽米町を取り巻く交通事情は不便となっている。少し前までは盛岡から高速道を使っての高速直行便こと高速バス「ウインディ号」は廃止されてしまって、軽米インターの降車場から町まで、てくてくと歩かねばならない。かつて久慈行き何度も利用した久慈行きのバス便も今は無い。陸中大野というバス停まで行って乗り換えねばならないのであり、そこで待たされる時間を思えば何だか億劫になることこのうえないのだ。

あり余る時間をとにかく歩き回った。東北も猛暑のまっ只中と見え、汗が滲み出している。まるで蒸し風呂の中にいるようだ。後からチェックしたら「16283歩」という堂々の1位のステップ数を記録したのだ。歩くということが日常生活の中での最も大切な健康法であることを再認識したのである。

軽米には古くて床しき景色が残されており、そんな風景に接すると、なんともいえない満たされた気持ちで一杯になる。宿をチェックアウトして、定期バスに乗車するまでの4時間あまりを散策して過ごすことになった訳であるが、古くて懐かしい土地の有難さに満たされていたのだ。

岩手県軽米町のアマランサス畑に見惚れていた

東北への旅に出掛けている。夕刻前には岩手県の軽米町に到着。この町は亡くなった妻の出身地であり、心の故郷である。懐かしい町なかを散策していると、いつもの事だが季節の花々が四季の顔でもって迎えてくれた。丘を登っていると目にしたのは赤々として重量感あるアマランサスの畑であった。この地は「雑穀」の故郷としても有名であり、もう少ししたら収穫のときを迎える。もうすでに刈り取りも始まっている畑もあるという。

軽米のアマランサスは「アマランサスうどん」として商品化もされており、おいらもときに触れてこの地のアマランサスを食してきた。濃赤色のその鶏のトサカにも似た姿から、「ケイトウ(鶏頭)」という名前がある。南米由来の穀物という説があり、さらには軽米町にて江戸時代から栽培されていたという記録もあり、その優れた栄養価等から「仙人穀(センニンコク)」とも呼ばれている。アマランサスは精白米に比べても、カルシウム約30倍、鉄分約50倍、繊維質約8倍を含んだ、いま注目の高栄養価穀物である。

被災地「宮古」で食べた復興の「磯ラーメン」

東日本大震災による甚大な津波被害地の宮古市を訪問した。死者、行方不明者あわせて1000名を超える犠牲者を生んだ、最も過酷な被災地の一つである。

宮古駅を降り、先ずは景勝地として名高い「浄土ヶ浜」へと徒歩で向かった。バスやタクシーを利用すれば10分少々の場所柄であるが、自分の足で歩くことを課していたのだった。そしてその予測的被災風景は、途中の魚市場周辺にて出合うこととなっていた。

宮古市内での最大被災地「田老」地区では、日本一との謂れの防潮堤を易々と津波は乗り越え、その最大潮位は37.9メートルにも及んだとされる。魚市場のある宮古漁港界隈は、巨大な港の津波の猛威に為すすべもなく侵食されてしまったことがうかがえる。

かつてTVニュースで流れた宮古を襲った津波の映像の多くは、宮古市役所庁舎から撮影されたものであり、市役所の1、2階は泥流で押し流されており、死と隣り合わせの建物であったことが推測されるのである。

港の市場にあった「シートピアなあど」という施設は未だに営業再開には至らないのだが、「なあど食堂」という仮店舗の店がオープンしていたので、立ち寄ってみることにした。

地元民に愛された食堂らしく、ラーメンや丼ものメニューが並んでいた。おいらは「磯ラーメン」を注文し、その磯の香り漂うラーメンを満喫したのであった。青海苔、芽昆布、イカ、海老、ホタテなど、磯の香りの食材をふんだんに使って独特の味わいである。中でムール貝ににた貝類がトッピングされていたのでおいらは「この貝は何という名前ですか?」と問うてみたところ、

「この辺りでは『しゅうぎ』と呼んでいます。外国では『ムール貝』と云う名前の貝です」

とのこと。地元名が冠せられていることは取りも直さずポピュラーな食材だということを示している。ムール貝が宮古の周辺で溶け込んでおり、日常的に食されていることは驚きであった。

改めて記す必要もないだろうが、この「磯ラーメン」には満足至極。天晴れの称号を贈呈したいくらいだ。

岩手「夏油温泉」の自然の音楽で癒された

夏油温泉の朝は早かった。川のせせらぎ、鳥の鳴き声、喧しいほどのかえるの合唱、等の自然の音の響きを耳にしながら目を覚ました。未だ時間は5時に至らないときだが、窓外は日の光を帯び、部屋には薄日を運んでいた。前日の豪雨とはうって変わった好天気に恵まれた。

昨日は豪雨でゆっくり入れなかった露天風呂に早朝入浴することにした。ここでもかえるの合唱は喧しく、しかも傍を流れる夏油川は更に活発なる音を立て続けている。自然が醸す物音に諧調は無く恐らくは乱調ばかりなのではあり、それゆえに人間を素にしてくれるのだろう。整った音楽が醸す音色以上に乱調的自然の音色には癒される。

ところで、かつて江戸時代の温泉番付にて「東の正大関」との称号を与えられていたのが岩手北上郊外に位置する「夏油温泉」であった。称号授与された当時は横綱という位は無かったとみえ、温泉番付にて実質的な東のナンバー1と云って良いのである。

先日はつげ義春さんによる「つげ義春の温泉」の夏油温泉の写真を目にして以来、ずっと夏油温泉が恋しくなり、今回は云わば発作的に訪れたと云う訳なのである。つげ義春といえば秘湯温泉、秘湯温泉といえば秘湯のナンバーワンの夏油温泉、夏油温泉といえばつげ義春さんなのである。この鉄板の強固なる連想的トライアングルは、夏油温泉への愛着を一層高めるのであった。

テレビも無く、ネットも繋がらず、余りあるのが時間ばかりの昨晩は、地元産の清酒「鬼剣舞」のワンカップを数杯飲んで健やかな眠りについていた。早朝の目覚めはすこぶる快適な体験であった。こんな秘湯は滅多に無い。

宮沢賢治が愛した花巻の「イギリス海岸」を散策

東北岩手を旅しており、花巻市内の「イギリス海岸」散策した。

花巻は何度訪れても新鮮な出会いや発見に遭遇する古里であり、北上川の流れを前にした通称「イギリス海岸」は、そんな花巻の原風景を象徴している。

決して大河ではない北上の川の流れは人された工化形跡が少ない分に鮮烈であり優雅である。

賢治は遠い異国の風景の憧憬を込めて「イギリス海岸」と命名したが、異国情緒の故意風景が作家の、あるいは日本人の原風景として定着してきた経緯は甚大な関心をさそってやまないのである。

天然かけ流しの秘湯「滑川温泉」に投宿

奥羽線「峠」駅から「滑川温泉」へと向かっていた。と云っても自力で登山したわけではなくて、宿の送迎の車に乗せてもらったのである。

送迎してもらった滑川温泉の「福島屋」は地理的に見ると山形県米沢市内にあるが、秘湯の一軒家と呼ぶに相応しい稀有な温泉宿となっている。自然のままにある山の風景と、天然かけ流しの温泉と、地元由来の料理、そして宿の人たちの人情、それ以外には無駄なものが無い。余計なものが無い。そういった特長を示している。ごてごてと着飾った温泉宿などは過去の遺物ではある。それに引き替え滑川温泉「福島屋」の存在は、あるべき将来像としての日本旅館の姿を示しているとも云ってよいだろう。

温泉は天然温泉100%のかけ流しである。新緑の息吹が香る露天風呂につかっていると日常の雑念は確かに消え去ってしまう。天然自然の力に対して人間の矮小な営みの様相がまるで馬鹿げた雑念の如くに捉えられてくる。自然の持つ力に対して人間存在の脆弱性が浮かび上がってくるのだ。

例えば人間にとっての「死後」という存在は、自然の大いなる営みの一部でしか無いのであり、観念的な雑念を排して死後の姿を捉えるには、此処のような特別な場所に居てしか感じ取ることが出来ないのかもしれない。そんなことを感じ取っていたのである。

この宿では自家発電によって電力供給を行っており、あまり電力を使い過ぎると切れてしまうので、電気を扱う関係者も大変なのであろう。おいらの滞在中も時々は電気が切れて中断となっていた。だが予想外なこととしては、インターネットのWiFi回線が回っていたために、おいらが持ち込んでいたノートパソコンの無線Lanにも対応していたので、滞在中のブログ更新も可能となっていたのだった。

夕食には「鯉の旨煮」が出されていた。川魚の王様こと鯉の旨煮であり、旨いことは申し分がないのだが、些か甘すぎるきらいがあった。こんな甘過ぎる味付けが必要なのだろうかと、訝しくも思っていた。

滑川温泉 福島屋
山形県米沢市大字大沢15番地
TEL.0238-34-2250

奥羽線「峠」駅前茶屋で食べた「ずんだ餅」

奥羽線に乗って「峠」駅にて下車。駅前の「峠の茶屋」にて福島、山形地方に伝わる郷土料理の「ずんだ餅」を食べたのだった。

枝豆をつぶして砂糖などを混ぜて甘く味付けした「ずんだ」を柔らかな餅にまぶして出されていた。枝豆の香りがほのかに香る上品な餡がとても魅力的だ。賞味期限は短く日持ちしないのだが、そこがまた旅行者の人気の要因でもある。全国区にならない理由の一つといえよう。防腐剤入りの力餅など食べたくなるはずも無いのだから。

この「峠の茶屋」は創業明治27年。奥羽線の開業よりも古く、かつて峠を越えていく旅人を相手に、精のつく餅を提供した茶屋として親しまれてきた。「峠」駅構内では電車の発着時になると、駅弁スタイルで「峠の力餅」が売られている。今時珍しいローカル駅での光景である。

■峠の茶屋
〒992-1303
山形県米沢市大沢848

福島の飯坂温泉は寂れていた

福島県を旅行中である。所謂ゴールデンウイークに何も安らぎの時を持てなかった故の、遅れたバケーションのようなものである。福島といえば云うまでもなく昨年の311の大地震被害とそれに伴う原発爆発の被災という累乗された被災地として、もっとも関心の高い地域ではある。いつもは東北旅行と云えば福島はたまには途中下車してみる土地柄ではあった。だが今回は兎に角も行きたい土地だったのである。

夜の街の歓楽街としての福島市街は、想像していたよりも数倍は賑やかであった。市街地の主要道路を占めるのがタクシーの縦列であった。深夜にわたってこの地の呑兵衛たちは酔いの時を過ごし、そして帰りにはタクシーや代行車やらの、決して安くはない業者への支払いを、日常的に行なっている県民市民は、けだし貧乏な被災地というイメージから程遠いものではある。

市街地の夜の居酒屋で注文したのは「餃子」である。この土地のB級グルメであるとのインフォメーションを受けていたことからでは在る。厚めの皮にシンプルな野菜の餡が入っている。消費量を見れば数字的には宇都宮や浜松に劣るのであろうが、ここ福島の餃子は立派にB級グルメの冠に似合うものだと理解していたのではある。グルメの基準が数字でばかり計れること自体がそもそも可笑しいのである。

市街地の喧騒に比べて、立ち寄った福島市内の「飯坂温泉」は、閑散としていた。福島駅から電車で30分弱という好立地、松尾芭蕉が入った「鯖湖湯」という名湯を持ちながらも、観光地の風情は感じられない。逆に目に飛び込んだのは「がんばろう!!福島」「飯坂温泉は負けない!!」というのぼり旗だ。震災とそれ以上に原発爆発事故の影響で、観光客が激減しているのがはっきり見て取れる光景である。市街地の喧騒と名門温泉郷の寂れ振りとのギャップは凄まじいものである。福島に対する所謂風評被害が甚大である。

飛騨高山にて山下清画伯の「放浪の天才画家 山下清原画展」に遭遇

飛騨地方への帰りに立ち寄った高山で偶然、「放浪の天才画家 山下清・原画展」に遭遇した。どうしてこの小都市にてこんな珍しい企画展が開催されたかも判らずに、兎も角も展覧会場に足を踏み入れてみたところ、おいらが初めて目にする山下画伯の原画が、会場を埋め尽くしていたのだった。

ところがここもまた「撮影禁止」の貼り紙がいたるところに貼られてあり些か興醒めではあっのだ。主催者側の勝手な都合で「撮影禁止」にするなどはもっての外の行為では有るが、旅の途中で野暮な抗議などしても仕方がないので撮影は諦めていたのであり、貴重な山下画伯の作品の息遣いを、視覚的にお伝えできないのがいと残念である。

よく知られている花火などの貼り絵のほかに、鯛、金魚、山女魚、鯖などの魚類や蝶々、ふくろう、蟻、かたつむりなどの動物や植物、その他様々な生命体がモチーフにされていて、それが切り絵と云う手法と相俟って、極めて高貴な創作品として展示されていたのである。

中には「タイに花火」という意外な取り合わせの作品も有り、これぞ我国におけるシュールリアリズム作品の極北ではないかとも思わせるものではあった。この傑作もまた「撮影禁止」などと云う馬鹿げた主催者側の意向で紹介できないのがいと残念なり。

非難ばかりでキーボードを置くのも詰まらないのでもう一言。

山下清画伯と高山市との関係性はほとんどないと云うことである。だが、当企画展のオーナーが熱心な収集家であるなどのことからこの展覧会が実現したと云うことであり、行きずりの旅行者としては行幸であったのかもしれないと思った。

地方都市でも益々に、このような熱心な収集家による展示会が開催されていくことを望む也。

■放浪の天才画家 山下清原画展
高山本町美術館
岐阜県高山市本町2-61
0577-36-3124

奥飛騨の「新穂高ロープウェイ」で雲上散策

奥飛騨温泉郷を旅しているおいらは、第1、第2の「新穂高ロープウェイ」で西穂高へと雲上スリップ、まるで雲上散策のような格別なる経験を味わったので紹介しておきます。

奥飛騨温泉から「新穂高ロープウェイ」に乗って、西穂高の眺望を目指していた。第1ロープウェイは新穂高温泉駅から鍋平原駅までの中距離飛行で時間にすると4分程度。そこから数分歩いて第2ロープウェイ駅始発の「しらかば平駅」へ向かう。続けて「西穂高」駅行きの第2ロープウェイに、7分程度の乗車をしたのだ。これが雲上散策の始まり。

雲の中を抜けて標高2156mの終着点駅に到着した。ここ西穂高駅展望台からの眺望は、かの「ミシュラングリーンガイドジャパン」にも2つ星として掲載されており、国際的にも著名な眺望となっている。だが本日は冬日である。宿の主人はおいらがロープウェイに乗ることを告げるや否や「今日は何も見えませんよ…」と、とても事務的な口調で告げたものだった。何度も訊ねて勝手知っている場所へのコメントなのだろうが、遠くからの来客への期待感をも殺ぐような発言には些かむっとしていた。

東洋最大級だというこのロープウェイの、2階建てのロープウェイに乗車する。乗車定員はなんと120名という超ビッグサイズだ。シーズンオフの今日は巨大な社内に1、2階にそれぞれ10名弱程度だったので、右に左に前に後ろへと移動して写真撮影に集中することができた。だが急勾配のロープに引っ張られて上がるときは、些か足元もがくがくとしていたようだ寒気で揺れる車内で、はじめは、特に登りの7分間は足がすくんでしまった。途中では日本カモシカの姿をキャッチし、同乗していた客たちと確認しあっていたときも、カメラを構える姿が遅くしかもがくがくであったので、決定的シャッターチャンスを撮り逃してしまったのだ。残念至極なり。

その後は眼下に北アルプス山脈の足場を俯瞰しながらいた。所謂樹氷の姿がワイルドに視界に突き刺さってきた。もうすこしすると視界は白い雲に覆われてきていた。水蒸気の塊としての雲の中に入り込んでいたのだ。雲上の散策に相応しい光景ではある。

頂上駅付近の気温はマイナス14度とアナウンスされていた。都会暮らしではあり得ない環境ではある。防寒には気を使ったが、それでも不安は残る。実際に頂上駅に降り立ったときから少しずつ寒さが下半身を直撃していたようであり、下山後は下痢を生じてしまっていた。山頂駅近くの歩道を歩いているときにすれ違った家族の3~4歳の少女はしきりに泣きじゃくっていたのであり、それをあやす若き夫婦は必死の形相をしていた。大人は耐えても幼少の子供にはきつかったのであろう。

奥飛騨「新穂高温泉」で雪見露天風呂を満喫


JR中央線の松本駅を降りて奥飛騨へと向かった。

松本には雪景色で迎えられたが、例年に比べて今年の降雪量は少ないという。昨晩久しぶりに降った新雪なのだと云い、バス運転手はしきりに「異常気象だ」とアピールしていた。バスに乗車して1時間半程度を過ぎたころ、岐阜県高山市内の平湯温泉にて乗り換え便を待つ。

やはり飛騨の北、日本の屋根とも称される北アルプスに抱かれる地帯だけあり、ここはもう完全な雪景色の中。バスを乗り換えてそこから約30分、奥飛騨温泉郷の最奥の「新穂高温泉」に到着したのだ。

まずは名物の露天風呂につかる。粉雪の降る景色の中での雪見風呂は格別だ。おそらく氷点下であろう外気はこれ以上ないくらいに肌寒いが、湯の中に沈めた身体はぽかぽかと内側から温かく、清涼な気が身体中を駆けていくようである。

夕食にはこの地の名物、飛騨牛肉を朴葉味噌で陶板焼きにしたものや、「熊汁」という熊の肉を煮込んだ汁物などが並べられ、久しぶりの贅沢な晩餐。寒い季節だからこその信州の旅の醍醐味なのだ。

宿泊した「深山荘」は、蒲田川にかかった吊り橋を歩いて渡ってチェックイン。背景の山々と宿とが織り成すモノトーンの光景は、古の水墨画を想起させるものであり、おいらも吊り橋を渡りながら、何度もカメラのシャッターを押していた。

とにかくここ新穂高温泉郷の湯量は豊富だ。しかも湯熱が極めて高いのである。上に掲載したのは貸切湯であるが、二つの貸切湯のほかもっと広大な共同露天風呂がいくつもある。蒲田川を渡った場所は新穂高温泉の魅力をあますことなくアピールした温泉地であった。

■深山荘
飛騨県高山市奥飛騨温泉郷神坂720-1

奥鬼怒旅のスナップ

慣れない登山で足はよれよれになったが、普段の都会の生活では出遭うことの無い光景に遭遇した。途中、蛇に出遭ってどきつとしたり、道を間違えて歩き続けていたりしていたのだが、道草していたルートの丘陵からの眺めは特別なシーンを幾つか見せてくれ、日頃の気持ちのもやもやなどを晴らしてくれたようである。

奧鬼怒の旅の宿から

ぶらり旅にて奧鬼怒に滞在中。ノートバソコンのネット用ツールは電波の圏外だが、ソフトバンクの携帯はかろうじて使用可。慣れないスマホのキーボードをいじっている。若者みたくスラスラ出来る筈もなく悪戦苦闘中なり。時間に追いたてられることの無いこうした旅の時間をいつしかとても愛おしく感じとることが増えて、携帯電話にも馴染み初めているのかもしれない。ちなみにブログ投稿用のアイフォンアプリまで有ることを知り、更に身近なツールになりつつある。

さて、奧鬼怒温泉郷の中で最も奧には四軒の宿が存在するが、加仁湯、八丁湯に予約していない客が襲ってそこに行くには片道1.5時間もの登山道を歩かねばならない。おいらはこの山道を歩いて目指すことにした。露天風呂に浸かってひと息ついたはずが、慣れないことをしたつけでモモがつって歩行困難となっていた。この地域は月のわグマの生殖地域であり、登山道にも出現するらしい。熊よけの鈴も何も用意していなかったので少々恐くなったのだが、幸いに遭遇することなく悪戦苦闘の時間を終えたのだった。

黒石発祥の名物「つゆ焼きそば」は見習うべきソウルフードなのだ

青森県の青荷温泉からの帰り路、黒石市内の食堂にて「つゆ焼きそば」を食した。

黒石名物の「つゆ焼きそば」は、多くのB級グルメ情報にてその存在は知っていた。だが、こんな味だったとは! その味においてはひたすら吃驚なのだった。

注文すると間も無く調理場からは、麺を「ジュー、ジュー、ジュー」と焼く音が聞こえてきた。古惚けて小さな店内にはひたすら大きく響き渡る。数分の後「ジュージュー」の音は収まり次の工程に入ったことがうかがわれる。だがその行程が、予想以上に長かったのだった。ただ焼いた麺にスープをかけたものではないらしい。

そしてやっと運ばれてきた注文の品には、黒ずんだスープの中に、キャベツ、豚肉、天かす、ネギ、等々の食材が浮いている。箸でスープの中を掬うと、幅広い太目の麺が顔を出した。

まずはスープを一口。この瞬間が予想外の出逢いであった。ラーメンのスープの味でも無ければ、そば、うどん類のつゆの味でも無く、全く新しい。ツーンとしたソースの香りさえもがまろやかに調和している。不思議な味わいなのだ。

多分は中華そば用のスープがベースに、焼きそばのソース、天かす、ネギ、等々の味わいが混ざり合ったスープが、こんなにも調和の取れたものだったのかという発見、思いもつかない発見なのであった。

日本そばにはかつお+昆布出汁、そして中華麺には鶏ガラスープと、云わば固定観念に囚われていた日常の食文化的常識を打ち破るくらいのインパクトが在ったと云うべきだろう。岡本太郎さんではないが「何だ、これは!」と、思わず叫びたくなる。

ジャンクフードだとばかりに思っていたものが、実は素晴らしいソウルフードであったという訳なのだ。地域で食されるソウルフードはこうでなくてはならないという、まさに見本のような素晴らしい料理なのである。

ランプの宿こと青荷温泉に宿泊

昨晩は、ランプの宿こと青荷温泉に泊まった。ネットも携帯も使えない、電気が通っていないからテレビ、ラジオも使えない。その代わり、豊富な時間や自然が満ちていた。

ランプの光は予想以上に微力であり、頼りなくも感じさせるものだった。夜になったら読書をしようと用意した本はランプが暗くて読めなかった。そのぶん余計に豊富な時間を持てた気がする。

電気に頼り過ぎた生活の中では、日の有難さなどは忘れさられてしまう。光と闇の繋がりの中に我々が置かれていることさえもが忘却の彼方へと飛んで行ってしまったということを、痛感していた。

日がくれる時間の只中に居ると、まさに闇が襲ってくるときのドラマを感じ取ることになる。昼の時間から闇の襲来の時間をおいらは露天風呂に浸かりながら過ごしていた。

刻一刻と闇は近づき、まるで舞台が少しずつ変化していくのを肌で感じとることが出来るのだ。さっきよりもまた少し、また少しと、音は立てないが確かに闇は襲いかかってくる。一瞬一瞬がまるでドラマ化された舞台の中でのストーリーと化している。なまった感覚を取り戻す方法としてこれ以上のものはないと云っていいくらいだ。

青葉が芽生えている大自然の息吹と、天然の温泉、素朴だが滋味豊かな大地や川からとられた食材を調理して出された美味しい食事、そして永遠をかんじさせるくらいの豊饒な時間があれば、人生は豊饒を感じ取ることができるのだ。

余談になるが形而下的話題を一つ。夜になってフロントに抗議するおやじ出現。「ランプの宿かどうかしらないが、いったいどうなっているんだ」と、たいへんな剣幕だったのだ。おいらの推察では愛人に愛想を尽かされかかったのを何とか宿のせいにして乗り切ろうかと図ったようなり。温泉に不倫あり、を絵にしたような騒動であった。